#296 学校祭、始まる #16
それってひょっとして、『こぼれたミルク』のこと?
途端に、マサキと話ができなかった時のことを思い出して、心臓がドキドキして来た。
「英語のさ……『こぼれたミルクを嘆いても無駄だ』っつーやつ、知らねえ?」
マサキは少し意外そうな表情であたしを見た。
手や足が急激に冷えて来るような感覚で、震えそうになった。お茶をこぼしてしまったことと不安な記憶で、追い詰められてしまったような気持ちになる。
もう大丈夫だと思ってたのに――でも今朝もバス停で思い出して不安になってしまったんだった。まだ駄目だったのかも知れない。
「ああ、うん……あったね、そういえば」
それでもどうにか平静を装いながらこたえると、おしのちゃんも「ああ、聞いたことあるー」とうなずいた。
「だろ?」と、マサキはおしのちゃんの方へ向いた。
「えっと……確か、なんとかクライングなんとかミルク、とかって……」
「全然言えてないよマサキくん」
おしのちゃんとマサキの楽しそうな声が聞こえているのはわかるのに、会話に入れないで棒立ちになってしまう。
「まぁ細けえことは気にすんなって。つーかあれって、『こぼれたのを見ていつまでもうじうじしてねーで、また新しく注げばいいじゃん』って意味だよな」
――あれ? そうなの?
「あたし、『覆水盆に返らず』と同じだと思ってたぁ」
おしのちゃんが、お茶のコップを載せたお盆を手にする。
結局あたしは手ぶらなまま、二人の後に続いて教室の後ろへ向かった。まだ動悸は治まらない。
「似てるけどな、やっぱあっちは故事とかあんじゃん? でも英語のはそーゆー話があっての言葉じゃないしよ。そこが違うんだとよ」
「へぇ、マサキくん、意外に物知りなんだぁ」
「意外ってなんだよ」
おしのちゃんの感心したような声に、マサキは顔をくしゃっとさせて笑った。
「あ、ごめん。だってなんか英語のイメージなくってぇ。読むのとかも、ちょっと苦手っぽくない?」
おしのちゃんはお茶をそれぞれの席に配って、最後に自分の席に置いた。
「まぁな……ってか、俺も前に調べモンしてて、たまたまそういう説を知ったんだけどよ」
「へぇ~。何を調べてたの?」
「カラオケで、英語の歌を歌う時に――」
椅子に座ってからも、あたしの頭の中はまだごちゃごちゃと散らかったままのような気がしていた。美晴に「大丈夫?」と言われてようやく、自分がぼおっとしてたことに気付く。
ひょっとしてあたし、ずっと意味を勘違いして覚えてて、その言葉で落ち込んでたの? やだ……なんだかすごく間抜けじゃない。
そう考えると、誰かに話したわけではなかったのに、やたらと恥ずかしくなる。
「まぁ、お茶がもったいないっていう気持ちはわかるわよ」と、美晴がなぐさめるような声を出す。
「二杯飲めたとこ、一杯だけになっちゃったわけだしな?」と、マサキが続けて茶化した。
「えー? あたし、そんなに残念そうな顔してたぁ?」
苦笑しながらようやく言い返すと、おしのちゃんがフォローしてくれる。
「そういうこともあるよねぇ。さ、食べようよ。いただきまぁす」
* * *
智ちん先輩が教室へ戻り高橋先輩が来るまでの間、あたしたち四人が留守番をすることにした。
でもなかなか先輩は現れず、とうとうおしのちゃんがしびれを切らした。美晴とおしのちゃんは漫研の部室へ行ってみるらしい。
「先輩捕まえたらメールするから」と美晴。
「おしのちゃんはそのまま教室に帰るの?」
「うん、ごめんね……すぐ引っ張って来るからさぁ」
おしのちゃんにしては珍しく、少しイライラしている様子。
多分午後に用事があるからなんだと思う。美晴がなんとなく気を遣っている様子なのも、午前中に話を聞いていたからだろうし。
「まぁ、あたしたちは特に用事があるわけじゃないから、のんびり待ってるよ」と言うと、おしのちゃんが一瞬困ったような表情になった。
「ほんとにごめんね」という声も、すごく申し訳なさそう。
きっと、よほど大事な用事なんだろうなぁ。
マサキと二人になってしまった部室は静かで、廊下からブラバンのファンらしき女子のお喋りの声がよく聞こえている。
ロッカーは机で塞がれているので本も読めない。マサキは携帯をいじっているので、あたしはなんとなくその様子を眺めていた。
ふいに、マサキが顔をあげた。
「さぁやさ、さっき、なんであんなに驚いた顔してたんだよ?」
「え? さっきって……なんだっけ」
そう言いつつ、しっかり思い出してしまう。
「ミルクティーこぼした時だよ。やっぱさぁやも間違って覚えてたのか?」
「あ……うん、そうなの」
困ったな。頬が引きつりそう。
「ふぅん……それだけかぁ?」と言いながら、またマサキは携帯に視線を戻す。
「……なんで?」
おそるおそる窺うように訊き返すと、マサキが苦笑した。




