第四話「大バカ野郎」
走った。
足が勝手に動いていた。
授業とか、遅刻とか、そんなものはどうでもよかった。
『英子さん、制服のまま川に入る気ですか?』
(んなこと、クソどうでもいい!)
『ですよねぇ……。』
学校の裏手を抜けて、住宅街の端を走り抜ける。
見覚えのある道だった。
シュウと何度も歩いた道。
あいつはいつも、私の後ろを歩いていた。
のろくて、鈍くて、バカだから。
それでも、いざという時だけ勝手に前へ出る。
——そんなこと、今はどうでもいい。
走れ。
—
川は、記憶より汚かった。
水は濁っていた。
藻みたいなものが浮いていて、底なんか見えない。
護岸のコンクリートは苔だらけで、ゴミが引っかかっている。
こんなところに、あいつの大事なものが沈んでいる。
『英子さん。一応確認ですけど、本当に入ります?』
(何か、問題あんの?)
『寒いですよ?』
(んで?)
『靴、ダメになりますよ?』
(知るか。)
『制服も——』
(しつこい!バカ!)
靴のまま、川に入った。
冷たかった。
思っていたより深くて、すぐに膝まで水が来た。
制服のスカートが水を吸って、重くなる。
足元がぬるぬるして、何度か滑りそうになった。
(……うっわ、最悪。)
『ほら。言わんこっちゃない……。』
(うるせぇ。)
しゃがんで、川底に手を入れた。
泥だった。
冷たくて、ぬめって、何も見えない。
手探りで、底をさらう。
空き缶。
——違う。
ビニール袋。
——違う。
錆びた何か。ゴミ。石。また石。
——どれも、違う。
どれも、あいつのじゃない。
『もう少し、右の方です。』
(は?)
『光を頼りにしてください。微かに引っ張られる感覚があるはずです。』
(最初から、教えろよ。そういうことは。)
『ごめんなさい……。』
言われて、右手に意識を集中した。
確かに、何かが引いている気がする。
右に進む。
膝が石にぶつかった。痛い。
指先が何かの角に触れて、切れた。
血が滲む。
冬の川が、傷口を刺す。
でも、止まらなかった。
—
どれくらい探しただろう。
二十分か。三十分か。
手の感覚がなくなりかけていた。
『英子さん。本当に、これ以上は危ないですよ。』
(うるさい。)
『冗談じゃなくてです。明日にしましょう?』
(うるさいって、言ってんだよ。)
『分からずや!』
(……ない。)
あるわけない。
中学の頃に捨てられたキーホルダーなんて。
何年も前の、安物なんて。
こんな泥の底に残ってるわけが——
『英子さん!』
(……何だよ。)
『光、まだ消えてません。』
(……。)
『……頑張って、ください。』
(らしくないじゃん?)
右手を見た。
泥だらけの手のひらに、微かな光が残っていた。
消えかけているけど、確かにあった。
ぼんやりと、まだ光っていた。
——まだ、ここにある。
立ち上がった。
膝が震えていた。寒さと、疲労と、もう一つ別の何かで。
——もう一度、手を沈めた。
右手の光が、ほんの少しだけ強くなった。
引っ張られる感覚が、はっきりする。
——もう少し、奥。
泥の中に、指先が触れた。
硬い感触。石じゃない。金属でもない。
——何か、小さくて、丸い。
掴んだ。
引っ張る。
泥に食い込んでいて、抜けない。
もう一度、力を込めた。
——ずるっ、と抜けた。
泥まみれの、小さな塊。
手のひらに乗るくらいの大きさ。
何かの形をしている。
泥を、袖で拭った。
——くまの形だった。
安っぽいキーホルダーだった。
片耳が欠けていて、色もほとんど落ちている。
ストラップ部分は千切れて、金具はなかった。
さっき、シュウの箱にあった金具と、繋がっていたものだ。
なぜか、そう分かった。
でも、それだけじゃなかった。
見覚えが、あった。
「……は?」
これ、私が——。
中学に入る前。シュウの誕生日。
何をあげたらいいか分からなくて、商店街の雑貨屋で適当に選んだ。
三百円くらいの、安いくまのキーホルダー。
シュウは、すごく喜んでいた。
「マジで? くれんの? やった!」って、バカみたいに笑っていた。
それから毎日、鞄につけていた。
佐伯に奪われるまで、ずっと。
「——。」
私が、あげたやつだった。
右手の光が、強くなった。
キーホルダーが、同じ色に光っていた。
『……見つけましたね。』
アリアの声が、珍しく静かだった。
—
膝まで水に浸かったまま、動けなかった。
シュウが、この世界で一番大切にしていたもの。
フィギュアでも、ゲームでも、漫画でもなくて。
——私が、三百円で買った、安いキーホルダー。
あいつは、これをずっと持っていた。
金具だけになっても、箱の底にしまっていた。
私が忘れていたものを、あいつは覚えていた。
「マジで、バカ。」
声が出た。
「バカやろう。」
なんで。
なんで、こんなもの。
こんな安物を、ずっと。
こんなボロボロになっても、捨てないで。
私は、あげたことすら忘れてたのに。
「……私は、バカだ。」
川の水より、手の中のキーホルダーの方が冷たかった。
でも、確かにあった。
「う、うわああああぁぁぁ。」
声が、出た。
こんなに寒いのに、顔は熱かった。
「シュウの、バカあぁぁぁぁ。」
キーホルダーを抱きしめた。
力いっぱいに。
もう、二度と、失わないように。
あいつが、この世界で一番大切にしていたものが。
今、私の手の中にある。
第四話、お読みいただきありがとうございます。
シュウが一番大切にしていたもの。
それは、英子が昔あげた三百円のキーホルダーでした。
英子は忘れていた。
でも、シュウはずっと覚えていた。
次回、最終話です。
このあと10分後に更新予定です。
最後までお付き合いいただけると嬉しいです!
ブクマやコメントをいただけると、英子が風邪を引かずに済みます。
よろしくお願いします!




