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第4話 ユニット名『六弦と錫杖』

 弦が目を覚ました時、視界にあったのは灰色の天井だった。

 むき出しの配管。継ぎ目の黒ずんだコンクリート。節電のせいか、蛍光灯は半分しか点いていない。その白い光が薄く広がっていて、朝だというのに朝らしくない。窓のない地下室では、時間はいつも少しだけ感覚からずれる。

 背中が痛かった。

 弦は眉を寄せて、ゆっくり上半身を起こした。薄いソファで寝たせいだ。いや、寝たというより、ほとんど気絶に近かったのかもしれない。昨夜は三人で音を合わせ、そこからなし崩しに機材の話になり、波形の確認になり、気づけば朝方だった。レスポールを抱えたまま眠らなかっただけ、まだマシだ。

 地下室の空気は少し冷えていた。夜のあいだに人間が出した熱が抜けて、壁の湿気が戻ってきた温度だ。朝日は入らない。けれど、音の残り方が違う。夜通し鳴らしていた部屋には、その時間帯ごとの薄い癖が残る。いまは何も鳴っていないせいで、その癖だけがわずかに空間へ貼りついていた。

 隅のほうを見ると、駆が椅子に座ったまま目を閉じていた。ヘッドフォンを首に掛けたまま、背筋はほとんど崩れていない。起きているのか寝ているのか分からない姿勢だ。床では蓮が横向きに転がっていた。ドレッドヘアが半分顔にかかって、片腕は投げ出されている。昨夜あれだけ喋って、よくそのまま死体みたいに眠れるなと弦は思った。

 弦は立ち上がり、機材ケースの上に置いてあった缶コーヒーを手に取った。ぬるい。開けて一口飲む。まずい。だが、そのまずさでようやく頭が動き始める。

 ギターケースを開き、レスポールを取り出す。アンプは通さない。音にならないくらいの小ささで、弦を一本ずつ弾く。

 昨夜、三人の音が揃った時のことを、指先でもう一度なぞる。

 焦らない。煽らない。呼吸だけを整えて、意識を指へ落とす。そうすると、まだ細いが、あの温かい流れがどこか遠くから触れてくる。自分のものなのに、自分だけのものではない感覚。古い夜道。琵琶の乾いた響き。名も知らない誰かの手つき。

「……うるさい」

 床から声がした。

 蓮だ。目は閉じたままだった。

「ほとんど鳴ってないぞ」

 弦が言うと、蓮は寝返りを打たずに答えた。

「鳴ってなくても分かる。お前が弾いてる時だけ、空気の縫い目が変わる」

 弦は手を止めた。

「何だよ、その言い方」

「そのまんまや。ちょっとだけ空間が張る。音が出る前に」

「お前、それ毎回感じてるのか」

「毎回じゃない。集中してる時だけ。多分、お前、自分で思ってるより顔に出るタイプやで」

 それだけ言って、蓮はまた黙った。

 弦はギターを膝に置いたまま、少しだけ考えた。自分では分からない変化を、蓮は声の側から拾っているのかもしれない。音になる前の、ごく細い気配。まだ名前のついていない感覚だった。

「起きてるなら、朝飯を買ってこい」

 今度は椅子のほうから声がした。駆だった。目はまだ閉じている。

「起きてるのか寝てるのか、どっちだ」

「起きてる」

「じゃあ自分で行けよ」

「昨夜、最後まで機材を調整していたのは俺だ」

 妙にもっともらしいことを言う。弦は少し笑った。

「便利な時だけ理屈立てるな」

「便利じゃない。正当な要求だ」

 駆がそう返すのと、蓮が床から「忍者は朝に弱いんか」と言うのがほぼ同時だった。

 地下室の空気が、そこでようやく人間の部屋みたいになった。

     

 三人がちゃんと起きたのは、それから一時間ほどあとだった。

 コンビニで買ったおにぎり、サンドイッチ、紙コップのコーヒー、野菜が申し訳程度に入ったサラダ。床に新聞を敷き、その上へ適当に並べる。机らしい机はない。機材が優先で、人間の生活はあとからねじ込んでいる。今のところこの地下室は、音楽と仮眠と避難だけのための場所だった。

「そろそろ、ここをちゃんと使う前提で考えた方がよくないか」

 蓮がツナマヨおにぎりを開けながら言った。

「ちゃんとって?」

 弦が聞く。

「練習場じゃなくて、拠点。戻ってくる場所として。今後、こういうのが増えるなら絶対いるやろ」

「増える前提なんだな」

「増えるやろ。増えない理由がない」

 嫌な言い方だったが、たしかにそうだった。三人が揃った。音が揃った。なら、それを必要とするように厄介事も寄ってくる。そういう筋の悪さが、もう自分たちの生活に入り始めている。

 駆がサラダの蓋を開けながら言った。

「防音は足りてる。問題は結界の薄さだ」

 弦は顔を上げた。

「結界?」

「音を探られにくくする膜。完全には隠せないけど、外から聞く気のある相手には反響の乱れにしか聞こえなくなる」

「作れるのか、そんなの」

「作れる」

 駆は特別なことみたいには言わない。

「忍者って便利やな」

 蓮が感心したように言うと、駆は無表情のまま返した。

「便利でなければ残らない」

「一言が全部サバイバル寄りなんよ」

 弦は笑った。

 蓮は床に座ったまま地下室を見回した。壁際のスピーカー。配線の束。機材ケース。ソファ。コンビニ袋。毛布。人が住むには雑然としすぎている。だが、昨夜ここで鳴らした音がまだ空間のどこかに残っている気がした。

「名前、いるな」

 蓮が言った。

「またか」

「いるやろ。ユニット名が決まるなら、場所にも名前が要る」

「必要か?」

 駆が言う。

「必要。気分の問題や」

「気分で決めすぎだろ、お前」

「バンドなんてだいたいそうや」

 それは否定しづらい。

 弦は壁を見た。窓のない、地上から切り離された空間。穴のようでもあり、底のようでもある。だが閉じているだけではない。ここで鳴らすと、外へ出る前の形が少し整う。地中で刃を研ぐみたいな感覚があった。

「……『』とか」

 思いつきで言う。

 蓮が少し考えた。

「シンプルすぎるけど、悪くないな。地下やし、音の根っこって感じもする」

 駆も短くうなずいた。

「覚えやすい」

「採用かよ」

「採用や」

 蓮が笑う。

「今日からここは地や。異論は?」

 ない、と弦は思った。たった一文字なのに、名前がつくと場所に輪郭ができる。ただの地下室だったものが、少しだけ自分たちの側へ寄る。

「じゃあ午後は片付けやな」

 蓮が宣言する。

「ここ、機材多すぎて人間の通る道がない」

「お前が散らかしてる物もあるぞ」

「それは生活感や」

「散らかしの言い換えだな」

 駆が言うと、蓮は「細かい」と返した。

     

 昼すぎからは、音を鳴らすより先に場所を整える時間になった。

 弦は壁にフックを打ち、ギターケースを掛ける位置を作った。床に立てかけたままだと倒れる。倒れればレスポールが傷つく。それは嫌だった。駆は部屋の四隅に小さな端子みたいなものを置き、ケーブルを不思議な通し方で繋いでいく。一直線ではなく、途中でわざと回り込ませる。見ていると気持ちが悪い。音響の配線というより、何か別のものの図形みたいだった。

「それ、何してるんだ」

 弦が聞く。

「漏れる倍音をずらしてる」

 駆が答える。

「外から聞くと、部屋の位置が少しずれて聞こえる」

「ずれて聞こえる?」

「ここだと思った場所に、ここがない」

 さらっと言う。

「言い方だけ聞くと怖いな」

「実際、怖い方がいい」

 蓮は段ボールを潰しながら笑った。

「お前、たまに地味にホラー寄りやな」

「忍びなんだから当然だろ」

 駆が真顔で返したので、弦は少し吹き出した。

 作業は地味だった。掃除。配線。コンセントの整理。ラックの組み立て。余ったケーブルを巻く。だが嫌ではなかった。手を動かしている間に、三人とも無理に会話しなくて済む。無理に会話しなくても、たまに誰かが短いことを言えばそれで空気が繋がる。それが、少しだけ心地よかった。

 蓮が壁へ貼り紙を作り始めたのは、そんな作業の途中だった。

「何書いてるんだ」

 弦が聞くと、蓮は太いマジックを振りながら答えた。

「ルール」

「そんなのあったのか」

「今作るんや」

 紙に書かれた文字は大きかった。

 一、食べたゴミは放置しない。

 二、機材の上に飲み物を置かない。

 三、夜中に勝手に外へ行く時は一言言う。

 四、怪異を見つけたら一人で突っ込まない。

 四つ目を見て、弦は眉を上げた。

「誰に向けて書いてる」

「全員やけど、主にお前」

「主に俺かよ」

「この前、実際一人で突っ込んだやろ」

 たしかに路地ではそうなった。弦は少し黙る。

 駆が紙を見て言った。

「五も足せ」

「何?」

「戦闘中に録れる情報は可能な限り残す」

「お前らしいなあ」

 蓮は笑いながら五つ目を書き足した。

 弦はその雑な貼り紙を見て、少しだけおかしくなった。命に関わるようなものも、コンビニ飯のゴミと同じ紙に並んでいる。だが、そうやって生活と戦いをごちゃまぜにしていかないと、この先たぶん持たないのだとも思う。

     

 午後の終わりに、蓮が急に言い出した。

「ロゴもいるな」

「忙しいな、お前」

「必要や。名前だけあっても顔がないと広がらん」

「誰に広げる気だよ」

「客と世間と、あと敵」

 最後の一言だけ少し低かった。

 駆はパソコンを開き、何も言わずに簡単なデザイン案をいくつか出し始めた。黒地に金。細い線。六本の線と、鈴のついた杖を抽象化したような形。

「お前、できるんだな」

 弦が言うと、駆は画面から目を離さずに答えた。

「見た目は大事だろ」

「それは蓮が言いそうな台詞だ」

「蓮が言うと軽くなる」

「ひどいな」

 蓮は笑っていた。

 弦はその画面を横から眺める。六弦と錫杖。まだ言葉としてはどこか異物っぽいのに、形になると急にそれらしく見える。自分たちが何者なのか、まだ完全には分からない。けれど、名と場所と印だけが先にできていく。その順番も悪くない気がした。

「……ほんとに始まるんだな」

 弦が小さく言うと、蓮がそれを拾った。

「始めるんやろ」

 その言い方に、弦は少しだけ頷く。

 始まってしまった、ではなく、始める。そう言われると、背筋が少し伸びる。

     

 夕方になって、ようやく最低限、人間が息をできる地下室になった。

 蓮は記念だと言って、コンビニで買ってきた炭酸飲料を三本テーブル代わりの機材ケースへ並べた。紙コップではない。缶のままだ。

「乾杯いるか?」

 弦が聞く。

「いるやろ。こういうのは」

「何に対して?」

「知らん。でもこういうのは勢いや」

「勢いで始まること多いな、お前」

「ラップもだいたいそうや」

 缶のプルタブを開ける音が三つ重なる。地下室の静けさに、その炭酸の音だけが妙に明るく響いた。

 音を鳴らさないまま終わるのも変な気がして、三人は短いセッションをした。戦うためではなく、場所へ自分たちの音を馴染ませるための、ほんの数分。駆が乾いた拍を置き、弦がそれにコードを乗せ、蓮がごく短いフレーズを即興で落とす。

 地の壁が、初めて三人の名前を覚えるみたいに鳴った。

 弦はその響きの中で、昨日までここがただの地下室だったことが少し遠く感じられた。

     

 夜になってから、三人は地上へ出た。

 ずっと地下にいたせいか、外気が思ったより冷たかった。渋谷の夜は相変わらず人が多い。光が多い。音が多い。だが今は、その音の多さがただの雑音には聞こえなかった。どこかに規則があり、どこかに歪みがある。そういう聞き方を、もうしてしまう。

「ここに長くおると人間やなくなるな」

 焼き鳥の串を片手に蓮が言う。

「少し分かる」

 弦が答えると、駆まで「同感」と言った。

 三人で夜の街を歩いていると、まだ少し不思議だった。友達とも違う。普通のバンドメンバーとも少し違う。だがその違和感は、居心地の悪さではなく、何かが形になり始めている途中の感触だった。

 蓮が言う。

「SNSどうする?」

「もうそこまで行くのか」

「行くやろ。今どき」

「戦う前に宣伝かよ」

「戦うから宣伝や。客が来なかったらライブハウスで音出せん」

 妙に現実的だ。そこが蓮の嫌いになれないところでもあった。

 駆がスマートフォンを見ながら言う。

「音源はまだ上げるな」

「なんで」

「今の段階で断片を出すと、こちらの癖が読まれる」

「お前、敵目線で考えすぎやろ」

「考えない方が危ない」

 その会話の途中で、駆のスマートフォンが震えた。

 音は鳴らない。だが、ポケットの中の振動を拾った瞬間に、駆の目だけが少し変わった。

「どうした」

 弦が聞く。

 駆は画面を見たまま答える。

「異常波形の報告」

 蓮の歩幅が止まる。

「どこ」

「都内のライブハウス」

 その一言で、三人の空気が少しだけ締まった。

「内容は?」

「開場直後から、客とスタッフが数人ずつ倒れてる。機材トラブルでは説明不能。低域に妙な歪みがある」

 蓮が焼き鳥の串を持ったまま、嫌そうな顔をした。

「嫌な匂いしかしないな」

「依頼か?」

 弦が聞く。

 駆は画面をスクロールする。

「まだ正式ではない。ただ、蓮の知り合い経由で繋げられるらしい」

 蓮がすぐにスマートフォンを取り出した。

「ちょっと待て。俺に来てる」

 画面を確認した顔が、軽口を言っていた時より少し真面目になる。

「来たわ。現場マネージャーから。『普通のトラブルじゃない気がする、客の呼吸が変になる、助けてほしい』」

 夜の渋谷は何も知らない顔で流れている。信号が変わり、酔っ払いが笑い、排気ガスが風に薄まっていく。その中で、自分たちのところへだけ、別の音が届く。

 弦はギターケースのストラップを肩へ掛け直した。

「行くのか」

 聞いたのは確認のためではなかった。ほとんど答えは分かっている。

 蓮はうなずいた。

「行くやろ。ここで見送ったら、今朝決めたことが全部ただのポーズになる」

「同感」

 駆が言う。

 三人はそこで立ち止まり、ほんの一瞬だけ顔を見合わせた。

 地ができた。六弦と錫杖という名前ができた。拠点ができて、ルールができて、少しだけ形になった。その最初の外向きの一歩が、もう来ている。

 弦はレスポールの重さを肩で受けた。

 重い。だが今は、その重さがちゃんと前へ向かうためのものに思えた。

「じゃあ、初仕事だな」

 弦が言う。

 蓮が笑う。

「言い方だけ聞くと、普通のバンドみたいやな」

「普通じゃないけどな」

「そこがええんやろ」

 駆はもう歩き出していた。

「急げ。開場から時間が経つほど被害が増える」

「せっかちやな」

「事実だ」

 三人は夜の街を、別の地下へ向かって歩き出した。

 渋谷の風は少し乾いていた。ビルの隙間を抜けるその風の中で、弦はまだ聞いたことのない現場の音を想像する。客のざわめき。スピーカーの低い唸り。倒れる人間の呼吸。そこへ自分たちの音がどう入るのか。

 初仕事。

 その言葉は軽いのに、足は自然と速くなった。


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