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第5話 ライブハウス・パニック

 渋谷の夜は、地下へ下りるほど空気が濃くなる。

 雑居ビルの階段には、上の階の居酒屋から流れてきた揚げ物の匂いと、地下のライブハウスから漏れる古い機材の熱が混じっていた。八雲弦はその匂いの中を下りながら、背中のギターケースを持ち直した。レスポールの重さが肩へ食い込む。重い。だがその重さに触れると、余計な迷いが少し消える。

 階段の途中で、低い音が一度だけ足元を撫でた。

 スピーカーの低音ではない。もっと鈍く、湿ったものだった。床の下に大きな生き物がいて、ゆっくり寝返りを打ったような感触。

 弦は足を止めた。

 前を歩いていた蓮も、同じところで止まる。後ろの駆は何も言わなかったが、帽子のつばの下で目だけが少し細くなった。

「いるな」

 蓮が言った。

「ああ」

 弦も答えた。

 階段を下りきると、入口前のロビーが妙に静かだった。ライブハウスの開場直後なら、本来はもっと浮ついたざわめきがある。目当てのメンバーの話、物販の話、整理番号の愚痴。そういう細かい熱が空間を埋めるはずだった。

 今そこにあるのは、不安の匂いだけだった。

 スタッフの一人が三人を見るなり、ほっとしたような顔をした。

「高野さんたちですよね。こっちです」

 通された先、フロアの照明は半分だけ落ちていた。客はすでに中へ入っている。だが整列も歓声もなく、みんな薄くざわつきながら、どこか一点を気にしている。ステージ袖では若い女の子が一人、パイプ椅子に座ってうつむいていた。衣装のままだ。アイドルのメンバーなのだろう。横でスタッフが何か話しかけているが、反応が鈍い。

 PA卓の前で、黒いジャケットの女が振り向いた。

「来てくれて助かった。矢代澪です。現場マネージャー」

 声がよく通る。高くはない。落ち着いている。だが、落ち着いているだけではなく、いま何を優先すべきかが頭の中で整理されている声だった。

「蓮でいい。こっちは弦、こっちは駆」

 蓮が手短に言う。

 澪はうなずいた。

「開場後すぐ、後方の客が二人倒れた。そのあと楽屋口でスタッフが一人。耳鳴りと息苦しさが先に来る。機材トラブルかと思って音響も電源も全部当たったけど、原因は不明。しかも一度静かになったあと、また同じことが起きる」

「場所は後方固定?」

 駆が聞く。

「最初はそう見えた。でも二回目は袖でも出た。だから位置というより、別の条件がある」

 そこまで聞いたところで、フロア後方から短い悲鳴が上がった。

 客の肩越し、薄暗がりの中で、空気が歪む。

 最初は影に見えた。だが、ただの影ならあんな粘り方はしない。黒い泥を見えない手で引きずり上げて、人の形へ寄せているみたいな膨らみ方だった。肩らしきものがあり、腕らしきものがある。そのどれもが曖昧なのに、腹だけがやけに大きい。

 いや、大きいのではなく、前へせり出している。膨れた腹の中央が、縦に裂けた。顔には口がない。食うための穴が、腹にだけある。

 弦は喉の奥が冷えるのを感じた。醜い。見た瞬間に分かる類の醜さだった。人間の形を借りているのに、人間のどこにも似ていない。

 怪物の腹が、一度だけ脈打つ。

 その瞬間、会場に残っていた低いハムノイズが途切れた。

 喰った。そう思うより先に、蓮が前へ出ていた。

「行くぞ!」

 弦も駆も迷わない。ここまでの戦いで、三人にはもう一つの流れができていた。相手が現れたら、まず自分たちの音をぶつける。言葉で縛り、ビートで道を作り、ギターで断つ。

 駆がPA卓の脇へ滑り込み、最小限の回線で自分の機材を割り込ませる。蓮は数珠を指に巻き直し、弦はギターケースを開いた。レスポールのネックを握った瞬間、指先の奥が少しだけ熱を持つ。

 怪物は客席後方で揺れている。まだ完全に前へ出ていない。なら、先手を取る。

 駆がビートを立ち上げた。

 太すぎない四つ打ち。フロアを支える最低限の土台。その上へ弦がリフを乗せる。蓮のラップが入る。真言と韻のあいだを走る、鋭く短いフレーズ。黄金の文字が空中に浮かび、怪物の肩へ、腕へ、腹へ絡みついた。

 効いていた。蓮の言霊で動きが鈍る。弦の一撃で黒い表皮が裂ける。駆のスクラッチがそこへ角度を与え、三人の音が一点へ集まる。

 怪物の身体がぐらりと揺いだ。

「いける!」

 蓮が叫ぶ。弦もそう思った。

 距離を詰める。次で押し切るつもりだった。駆もそれを読んだのだろう。ビートを一段厚くした。キックの芯が太くなる。床が鳴る。三人が揃った時の、いちばん強い形。

 その瞬間だった。怪物の腹が、大きく開いた。

 裂け目の奥は肉ではなかった。暗い穴だ。底なしのスピーカーみたいに、空間そのものが沈んでいる。その穴へ、駆のキックが丸ごと落ちた。

 音が消える。ただ消えるだけではない。吸い込まれ、消化されるみたいに、跡形もなくなくなる。床を支えていた低音が消えたせいで、会場の空気が一瞬で崩れた。蓮のラップが宙で滑る。弦のギターだけが上に浮いて、行き場を失う。

 そして怪物の身体が、ひと回り膨らんだ。

「……何やそれ」

 蓮の声がかすれる。

 怪物が腹を震わせた。

 次に返ってきたのは、さっき喰ったキックとは別物だった。濁って、腐って、塊になった低音。床下から突き上げるというより、骨の内側を直接叩いてくるような振動だった。

 後方の客が二人、同時に膝をつく。ステージ袖で誰かが吐く音がした。弦の歯が勝手に噛み合い、胸骨の裏がびりびり震える。

「切れ!」

 駆がフェーダーを落とす。だが遅い。怪物は一度喰った低音を腹の中で膨らませ、さらに吸おうとする。さっきまで裂けていた肩口も、ぬめるように塞がっていく。蓮の黄金文字が締め切る前に、ずるりと滑って外れた。

 効いていない。いや、効いた分だけ餌になって強くなっている。

 弦は理解した瞬間に、右から来た腕をギターで受けた。鈍い衝撃が肩まで抜ける。レスポールの重さがなければ、そのまま吹き飛ばされていた。半歩下がったところへ二撃目。今度は蓮が横から割り込み、短い真言を叩きつけて軌道を逸らす。

「駆、何かわかるか!」

「まだ断定できない!」

 珍しく駆の声に焦りがある。分析の途中だ。途中で死ぬわけにはいかない。

 弦はとっさにフレーズを変えた。ローを削る。高めの音に寄せる。手数で押す。怪物の首元、肩口、腹の縁を切り刻むように叩く。蓮も速度を上げ、言葉の鎖を増やした。

 それでも空気がもう味方しなかった。

 恐怖で客の呼吸が浅くなる。その浅くなった呼吸の下にある鈍い帯域だけが、怪物の腹へ吸い込まれていく。人が怯えるほど、会場の底が薄くなる。ライブハウスそのものが、怪物の胃袋に変わっていくみたいだった。

 出口のほうで悲鳴が上がった。

 入口が歪んでいる。外の非常灯は見えているのに、そこまでの距離だけが伸びる。手前にあるはずなのに辿りつけない。ノイズ・フェイズ。会場ごと閉じられている。

「くそっ……!」

 蓮が吐き捨てる。

 怪物が跳んだ。

 見た目の重さに反して、その瞬間だけ異様に軽い。弦は半歩遅れて、肩口を掠められた。ジャケットの布が裂ける。蓮が真横から声を叩き込み、黄金文字で一瞬だけ動きを止める。駆が反射的にスクラッチを入れる。雷の印。だが乗せる先の土台がない。音が尖る前に、怪物の腹がまた脈打ち、下の帯域を喰って膨らむ。

「このまま続けたら、会場ごと喰われる!」

 澪の声が、そこで初めて戦闘の真ん中に割って入った。

 弦は半ば反射でそちらを見る。

 澪はPA卓の後ろではなく、フロア中央まで出ていた。客とステージと怪物が一直線に見える位置。逃げ腰ではない。だが前へ出すぎてもいない。現場全体を見る場所だ。

「駆、低音を全部切って! 蓮、詰め込みすぎ! 意味を立てて! 弦、その刻みだと客の呼吸が揃わない!」

 何を言っているのか、最初は弦にも分からなかった。

 蓮も「は?」という顔をする。

 だが駆だけが、先に反応した。

「……そうか」

 フェーダーが走る。次に会場へ流れたのはキックではなかった。乾いたクラップの連打。手拍子のサンプルを、駆が細かく刻んで上へ散らしたのだ。低域を持たない、薄い音。普通ならスカスカになる。けれど今は違った。

 客の手が、つられて動く。

 一人。二人。三人。

 恐怖で固まっていた観客が、無意識にその拍へ乗る。小さな手拍子がフロアの上のほうで繋がり始める。床ではなく、人の胸より高いところで拍が回る。

「そう、それ!」

 澪が叫ぶ。

「下を使わないで! 床に乗せるな! 人で揃えて!」

 弦の中で、何かが噛み合った。

 この女は戦っていない。だが見えている。会場全体の呼吸が。客の恐怖がどこでばらけ、どこで束ねられるかが。

 弦はリフを変えた。

 刻みを減らす。一音一音の輪郭を立てる。低音で押すのではなく、耳を同じ場所へ引っ張る音にする。歌えるギターに寄せる。客がその音を追えるように。

 蓮も合わせた。高速ラップを捨て、言葉を立てる。

「耳を貸せ。まだ終わりじゃない。息を合わせろ。そこで止まるな」

 黄金の文字が今度は怪物だけでなく、客席の上にも浮かんだ。細い鎖ではない。目印みたいに、言葉が拍の位置を示していく。

 怪物が初めて動きを止めた。

 餌が消えたのだ。床を這う低音がなくなった。会場の底が薄くなり、人の胸より上でだけ音が回る。怪物の腹は喰う対象を見失い、わずかに収縮した。

「今!」

 駆が叫ぶ。

 澪がさらに前へ出た。

「弦、肩じゃない! 腹の継ぎ目! そこだけ返りが遅い!」

 弦は疑う暇もなく、言われた場所を見た。

 たしかにそこだけ、音が遅れて返っている。目ではなく、皮膚で分かる。膨れた腹と上半身を繋ぐ、その縁。肉の継ぎ目みたいな場所だけが、会場の拍から半拍遅れていた。

 核だ。弦はピックを握り直した。

 高ぶらせるのではなく、静める。指先の感覚だけを細く研ぎ澄ます。余計な音を切る。会場の手拍子、蓮の言葉、駆の刻み、その真ん中を一本だけ通す。

 温かいものが指先へ流れた。

 来た。暗い野の中で、琵琶を抱えた誰かがたった一度だけ弦を打つ。激しくではない。まっすぐに。逃がさないための音。

 弦はレスポールを振り抜いた。

 高い。だが薄くない。尖った光みたいな音だった。その一撃が、怪物の腹の継ぎ目へ突き刺さる。

 同時に蓮の言葉が落ちた。

「喰うな。ここは、お前の底じゃない」

 黄金の文字が楔になった。

 駆のクラップがそこへ三連で噛む。人の手の音。生きている側の拍。その連打で、怪物の腹の裂け目が内側からずれた。

 怪物が悲鳴を上げた。初めて、はっきり聞こえる声だった。低くない。擦れた、高い叫び。喰った低音が中で壊れ、逆流している。

「押し切れ!」

 澪の声。

 弦はもう一撃、同じ場所へ入れた。

 今度はギターの芯に、乾いた琵琶のような音が混じった。怪物の腹が大きく裂け、内側に溜め込んでいた黒い振動が天井へ噴き上がる。駆が即座に卓を切り替え、蓮が真言を叩き込む。黄金の鎖が黒い振動を包み、そのまま圧縮し、砕いた。

 黒が細かい塵になって舞う。

 次の瞬間、入口を塞いでいた歪みが消えた。

 空気が戻る。

 誰かが大きく息を吸い、その音をきっかけにしてフロア全体が一斉に呼吸した。さっきまで奪われていたものが、ようやく身体へ戻ってくる感じがした。

 静かになった。今度の静けさは死んだ静けさではない。終わったあとに残る静けさだった。

 弦はギターを下ろし、荒い息を整えた。肩が熱い。腕は痺れている。蓮は壁に手をつきながら笑っていた。駆は無言のままログを保存している。

 澪だけが、少し遅れて息を吐いた。

 スタッフが一斉に動き出す。倒れた客の確認、誘導、楽屋の対応。泣きそうな顔で頭を下げにきた男へ、澪は「あとで聞きます、今は客を優先して」とだけ言った。それから三人の方へ来る。

「助かった」

 澪が言う。

「いや」

 弦は首を振った。

「助けられたのはこっちだ」

 蓮が大きくうなずく。

「完全に負け筋やった。あんた、何者?」

 澪は少しだけ考えてから答えた。

「音の流れを見る仕事をしてる。誰が歌うか、どこで客が死ぬか、どこで戻せるか。それを外すと現場が終わるから」

「物騒やな」

「ライブって、わりとそういう場所でしょ」

 さらっと言う。

 駆が初めて正面から澪を見た。

「さっき、どうして継ぎ目が分かった」

「会場の返りがそこだけ遅かった。喰ってる中心があるなら、継ぎ目は出る」

 淡々としている。自慢でも説明でもない。ただ、見えたものをそのまま言っている口調だった。

 蓮が笑う。

「いいね。話が早い」

 澪は三人を順番に見た。

「今後もこういうのをやるの?」

 弦はレスポールのネックを軽く握った。

「やる」

「音楽も、こっちも」

 蓮が言う。

 澪は短くうなずいた。

「なら、会場を見る人が要る。三人とも戦ってる最中は前しか見てない。客の呼吸も、逃がすタイミングも、曲順の組み替えも、誰かが持たないとそのうち死ぬ」

 反論しにくいことを、容赦なく言う。弦は思わず笑ってしまった。

「嫌いじゃないな、その言い方」

「褒め言葉として受け取る」

 澪の口元がほんの少しだけ緩む。

 駆が小さく言った。

「悪くない」

 それが駆なりの歓迎だと、もう弦にも分かる。

 澪はスタッフパスを外してポケットにしまった。

「今日はもう一件、渋谷の別の箱から変な報告が上がってる。すぐ行くかは任せる。でも、同じ匂いがする」

 蓮が肩を回す。

「ブラックやな」

「現場はたいていそう」

 澪が返す。弦は笑いながら、ギターケースへレスポールを戻した。笑えるということは、まだ立てるということだ。

 四人は連れ立って、地下から地上へ上がった。

 夜風が頬に当たる。

 その風の中に、弦は新しい音を聞いていた。ギターでも、ラップでも、スクラッチでもない。人の流れを束ねる音。会場全体の呼吸を揃える音。

 それもまた、戦うための音なのだと、今夜はっきり知った。


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