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第27話 黄泉のゲート・フェスティバル開幕

 フェス会場の朝は、街の朝と音の立ち方が違った。

 まだ本番前だというのに、空気の密度がもう高い。トラックの搬入音、無線の短い交信、フォークリフトの後退音、仮設ステージを叩く金属音、遠くで鳴るラインチェックのキック。どれも一つずつは現場の普通の音だ。だが、それが数万規模の会場に散って同時に鳴ると、もうそれだけでひとつの巨大な前奏みたいになる。

 弦は会場外周のゲート前で立ち止まり、目の前に広がる景色を見上げた。

 広い。広すぎる。

 海沿いの埋立地を丸ごと使った特設エリア。メインステージ、セカンド、サード、DJブース、物販、飲食、休憩区画、救護導線、入退場ゲート、配信カメラ塔、仮設照明タワー。どこを見てもイベントの顔をしている。巨大で、華やかで、商業的には理想に近い現場だ。だが、弦の背中は最初から少し冷えていた。

 理由は単純だった。広すぎる場所は、それだけで怪異に向く。

 人の熱が溜まる。期待も不安も怒りも歓喜も、全部まとめて音圧に変えられる。

「趣味悪いなあ」

 蓮が隣で言った。

 ドレッドを後ろで束ね、黒いパーカーの上からスタッフパスをぶら下げている。喉はもう戻っている。だが以前みたいな無造作さはない。声を出す前に一拍だけ置く癖が、もう普段から身体に入っていた。

「何が」

 弦が聞く。

「こんだけ楽しい場所を、地獄の入口にしようって発想」

 その言い方が、まさにその通りだった。

 駆は帽子のつばを少しだけ上げ、会場全体を見ていた。視線が忙しい。ステージだけでなく、スピーカー塔、電源車、仮設通路、客の溜まる場所、その全部へ目が走っている。

「音の逃げ場が多い」

 短く言う。

「でも、逆に集めやすい」

 澪はまだ資料を見ていた。朝一番で渡された運営図面。出演順。ステージ配置。搬入経路。避難図。照明回路。配信機材の位置。客席エリアの想定収容。現代の巨大イベントの頭脳が全部その紙に落ちている。

 澪の顔つきが、地やライブハウスの時とも少し違っていた。もう箱を読むではない。今日は街ひとつ分の構造物を読む顔だ。

「これ」

 澪が立ち止まる。指先が図面の上をなぞる。メインステージから客席中央、そこからセカンドステージの外周、さらに物販導線、再入場ゲート、フードエリア、休憩区画、最後にメインへ戻る線。

「どうした」

 弦が聞く。

 澪は少しだけ息を止めるみたいにして言った。

「会場全体が、最後に一か所へ感情を集める形になってる」

 蓮が顔をしかめる。

「一か所って、メインか」

「たぶん」

 澪が頷く。

「メインだけが特別なんじゃない。人の流れそのものが、最後にメインへ戻るようにできてる」

 駆がそこで、ようやく視線を図面へ落とした。

「……ゲートからメインに入って、そのままセカンドへ抜ける動線か」

「そう」

 澪が頷く。

「熱が上がる場所、抜ける場所、また溜まる場所、その順番がきれいすぎる」

 弦は黙って聞いていた。

 フェスの客は、好きな音を追って歩く。休む。飲む。叫ぶ。疲れる。また別のステージへ行く。

 本来はただの回遊だ。だが、もしそれが最初から感情を移動させるために引かれていたらどうなる。

 期待を溜め、解放し、疲弊させ、また煽り、最後に巨大な一点へ集める。それはもうイベントじゃない。儀式だ。

「最悪やな」

 蓮が言う。

「ここ全部が前振りってことか」

「うん」

 澪は今度は迷わず言った。

「ミストが言ってた“ONIを集める”が本当なら、たぶんこれ」

 弦はメインステージを見た。

 巨大なアーチ。吊りスピーカー。LEDの壁。何万人もの視線を受け止めるための顔だ。

 そこに虚無の葬列と、その先にいるアンノウンが立つ。それだけでも最悪なのに、今日はその前から会場全体が敵の装置になっている。

 気が遠くなるような話だった。だが、ここまで来て規模の大きさに怯んでいる暇もない。

     

 本番は昼からだった。

 六弦と錫杖に与えられたのはサブステージの中盤。メインではない。だが完全な脇でもない。客を温め、流れを次へ渡すには十分すぎる位置だ。

「向こう、完全に分かってるな」

 蓮がリストバンドを締めながら言う。

「俺らを主役にはしないけど、流れの中には置く」

「だから面倒なんだよ」

 澪が答える。

「切り捨ててない。ちゃんと儀式の部品に入れてる」

 その言い方で、弦は改めて腹の底が冷えた。敵は、こちらを単なる邪魔者とも見ていない。利用できるなら利用する。そのうえで最後に潰す。そういう設計だ。

 駆はサブステージ裏で配線を確認しながら言った。

「メインの低域、こっちにも来てる」

「もう?」

 弦が聞く。

「ラインチェックの時点で、外周に回してる。普通の設計より深い」

 澪はそれを聞いて、無線メモを開いた。

「サブステージの出番で、後方一回空ける。前に詰めすぎると持っていかれる」

「本部が許すか?」

 弦が聞く。

「許すように言う」

 澪はもう本部スタッフの方へ歩き出していた。その背中を見て、弦は少しだけ口元を緩めた。この人は、こういう時だけ本当に強い。怪異相手ではなく、人間の現場を動かす時の方が、むしろ容赦がない。

     

 客が入り始める。午前の陽射しはまだ高い。フェスの一日目、最初の熱がじわじわ上がる時間だ。

 物販列。フードエリア。乾いた歓声。SNS用の撮影。遠くで始まる他ステージのSE。

 全部が楽しいイベントの顔をしている。でも、弦にはその熱の流れが少しだけ見えた。

 楽しい。そのままで終わらない。疲れる。興奮する。焦る。押す。待つ。また煽られる。

 感情の起伏が、会場を回遊するうちに少しずつ増幅されていく。

 フェスはもともとそういう場所だ。でも今日のこれは、自然発生にしては流れが良すぎた。

 サブステージ袖で待ちながら、弦はメインの方角を見る。音が風に乗って来る。まだ本番前の軽いセットのはずなのに、低域の回り方が妙に綺麗だ。綺麗すぎて気持ちが悪い。

「始まってるな」

 弦が言うと、駆が頷く。

「もう会場全体が鳴ってる」

 蓮は手の中で数珠を一度だけ握り直した。

「じゃあ俺らの出番、普通のライブ一本ってわけにはいかんか」

「最初からそのつもりないでしょ」

 澪が戻ってくる。

「本部押さえた。サブステージの客席前方、開演五分前に一回だけ整理入る」

「通ったんか」

 弦が少し驚く。

「通す」

 澪は短く答えた。

「あと、メインから来る流れの一部を、わざとフード側へ逃がす。全部こっちへ集めると、相手の回路に乗る」

 相手の回路。それがもう、比喩に聞こえなくなっているのが嫌だった。

     

 六弦と錫杖の出番が来る。

 サブステージはメインほど巨大じゃない。だが客は多い。前方はかなり埋まり、後方には流れてくる人波がある。この規模の場で、四人はまだ本気でやったことがない。

 澪が最後に言う。

「ステージ一個の勝負だと思わないで」

 三人が顔を上げる。

「今日の仕事は、ここで勝つことじゃない」

 弦が少し目を細める。

 澪は続けた。

「ここだけ別の呼吸を立てること。向こうの流れに、そのまま乗せないこと」

 それだけで十分だった。

 駆が最初の拍を置く。フェス用に組み直した拍だ。サブステージ単体で完結しない。メインから来る低域、客の足音、遠くの歓声、その全部が少しずつ混ざることを前提にしている。

 閉じた箱ではない。開いた場の中で、こちらの芯だけを立てる。

 蓮が一節置く。

「まだ、流されるな」

 フェスの空気に対して、それは思った以上に効いた。広いからこそ、短い言葉が必要だ。

 全部へ届かなくても、届いた場所から呼吸が変わる。

 弦は高音を一本通す。箱の真ん中ではなく、ひらけた場の芯へ。前へ押し出すのではなく、広がりの中に線を立てる。

 客席前方だけではなく、少し離れた位置にいた客まで顔を上げる。サブステージの空気が、フェス全体の流れからほんの少しだけ独立する。

 澪はその瞬間、後方導線を見ていた。

「今、左流して」

 スタッフへ指示。客が詰まる前に抜ける。熱が一点で腐るのを防ぐ。

 ただ演奏しているだけではない。ステージ上の音と、会場の動線が同時に一つの戦いになっている。

 弦はその時、ようやくはっきり分かった。

 今日の自分たちはサブステージでいい演奏をするバンドじゃない。フェス全体へ打つ最初の杭だ。

 そのつもりで二曲目へ入る。

 遠くのメインステージから、妙な歓声が一度だけ上がった。まだ虚無の葬列の出番ではない。なのに、会場全体の温度がほんの少しだけ揺れる。

 儀式はもう動いている。

「急げへん」

 蓮が小さく言う。

「でも止まれへん」

 弦が返す。それが今の正直な気分だった。

     

 演奏を終えたあと、サブステージの客席は前よりずっと生きたまま残っていた。

 熱狂している。だが、持っていかれてはいない。

 言葉も音も、ちゃんと戻る場所を残している。それだけで今日の意味はあった。だが、休む暇はない。

 澪がすぐに四人を呼ぶ。

「本部テント」

「何や」

 蓮が汗を拭きながら聞く。

 澪は手にした図面を机へ広げた。

「確定した」

 指先がメインステージと、その周辺の客導線を結ぶ。

「これ、完全に夜のメインへ集める設計になってる」

 弦が黙る。澪はさらに続ける。

「メイン前方で熱を最大化して、左右の導線で一回吐かせる。セカンドとDJで別のテンポを入れて、また戻す。最後に、夜のメインで全部集める」

 駆がそこで小さく息を吐いた。

「巨大なシーケンサーだな」

「そう」

 澪が頷く。

「ステージが別々にあるように見えて、実際は全部でひとつの曲になってる」

 弦は図面を見る。気持ち悪いくらい美しい。

 導線の線が、ただの運営効率ではなく感情の流れまで考えて引かれている。数万人の期待、疲労、熱、怒り、解放感、その全部を最後に一点へ落とすための構造。

「黄泉のゲート、か」

 蓮が呟く。

「趣味悪い通り越して芸術やな」

「芸術じゃない」

 澪は冷たく言った。

「儀式」

 その言葉で、本部テントの空気が一段だけ冷えた。

 弦はメインステージの方角を見る。巨大なLED壁。スピーカー塔。風に揺れる旗。数万人の熱。その全部が、ONIの王を降ろすための楽器になる。

「いつ来る」

 弦が聞く。

 澪はメインステージのタイムテーブルを指で叩いた。

「夜。虚無の葬列の時間に合わせて、全部が閉じる」

 駆が低く言う。

「その前に、もう流れは回ってる。今のサブステージで少しずらせた。でも全体はまだ向こうの曲の中だ」

「じゃあ止め方は一つやな」

 蓮が言う。

「最後のメインで、回路そのものを壊す」

 澪が頷く。

「そう。ONIが出てから対処じゃ遅い。降ろすための形になる前に、会場全体のリズムを断つ」

 弦はそこで、ようやくこの日の本当の重さを理解した。

 次はライブ一本の勝負じゃない。ONI一体の討伐でもない。フェスそのものを災害へ変える儀式を、完成前に潰す戦いだ。

 メインステージの向こうで、遠い歓声がまた一度上がる。明るいはずの昼の光の下で、その歓声だけが妙に深く聞こえた。

 もう後戻りはない。

 四人は顔を上げた。会場全体を相手にする戦いが、いま始まっている。




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