第28話 亡霊アーティストたち
日が落ちると、フェス会場は別の顔になる。
昼間はまだ、巨大な商業イベントの皮をかぶっていられた。物販列、フード、笑い声、SNS用の撮影、乾いた歓声。全部が普通の楽しい現場として成立していた。
夜は違う。
照明が増える。影が増える。音の抜け道が減る。人の熱は上がるくせに、逃げる場所は少なくなる。
弦はメインステージ袖から客席を見た。
数が多い。前方はもう人の頭しか見えない。後方も、バルーンライトと仮設塔のあいだまで黒い波みたいに埋まっている。歓声は高い。だがその底に、ずっと鈍いものが流れていた。
疲労。興奮。焦燥。期待。
今日一日かけて会場の導線が集めてきた感情が、いま全部ここへ寄っている。
黄泉のゲート・フェスティバル。名前だけなら悪趣味なイベントタイトルで済む。でももう、誰もそうは思っていない。
この会場は、音を鳴らすための場所じゃない。集めた熱を、何かへ捧げるための器だ。
「来るな」
蓮が低く言った。
弦も同じものを感じていた。
メインステージの照明タワー、そのさらに上。夜空の黒に、もっと濃い黒が重なっている。形はまだ見えない。だが、そこに待っているものの数だけは分かる。
駆は端末を見ながら、今日はほとんど瞬きをしていなかった。
「一体や二体じゃない」
「どれくらい」
弦が聞く。
「多い」
珍しく雑な答えだった。それだけ余裕がないのだと分かる。
澪は本部テントから持ち出した簡易図面を、最後にもう一度だけ確認した。
「客の呼吸、メインに寄りすぎてる」
「どう切る」
蓮が聞く。
「切れない」
澪は即答した。
「ここまで来たら、もう逃がすんじゃなくて繋ぎ止めるしかない」
その言い方の直後だった。
メインステージの上空で、音が一回だけ裏返った。
機材トラブルじゃない。ハウリングでもない。もっと嫌な種類の反転だ。歓声が一瞬止まる。客が空を見る。照明がほんの一拍だけ遅れる。
そして夜空の黒から、最初の一体が落ちてきた。
そいつは、声で感情を抜く怪異だった。
能面じみた白い顔。頬骨の位置だけが不自然に高く、目の穴は空洞のまま赤い火を滲ませている。女とも男ともつかない身体に、裂けた衣装のようなものが巻きつき、その裾が黒い煙みたいに揺れていた。
般若。ただし舞台の面ではない。怒りと恨みだけで歌い続けた声が、人の貌に戻れなくなったアーティストの般若だった。そいつがメインステージ脇の照明タワーに逆さに立つ。口が開く。歌ではない。だが音程を持っていた。
その一声で、客席前方から何人かが同時に涙を流した。
「っ、やばい!」
蓮が叫ぶ。同時に、別の影が落ちる。
今度は、低音で地面を奪う怪異だった。
酒呑童子めいた鬼――そう見えたが、弦にはすぐ違うと分かった。赤黒い皮膚。額の角。口元は裂け、歯は濡れた金属みたいに光る。だが胴体の下半分は、巨大なベースアンプと車輪に食われていた。スピーカーのコーンが鬼の眼みたいに脈打ち、回転するたびに低音が地面を叩く。
輪入道だ。そいつが客席後方のバーカウンターをまたいで着地した。
地面が揺れた。続いて、上空から黒い羽が一面に散る。
これは、視線を持っていく怪異だった。
姑獲鳥。白い歌姫の上半身、羽毛に覆われた下半身、長すぎる髪。その髪の中に無数のマイクケーブルが絡んでいる。抱いているのは赤子ではない。壊れたハンドマイクの束だ。胸元に抱えたそれらが、一斉にノイズ混じりの泣き声を漏らす。
客席中央の女たちが、そこで一瞬だけ上を向きすぎた。視線を持っていかれる。
「見るな!」
澪の声が飛ぶ。
さらに上空で、照明トラスの影が突然、糸を引いた。これは、光と上空を支配する怪異だった。
土蜘蛛。何十本ものケーブルを脚に変え、照明トラスそのものへ巣をかける。頭は古い舞台照明のレンズで、そこに赤い目玉みたいな光がいくつも灯る。巣はそのまま会場上空に張られ、光の角度まで歪め始める。
そして最後に、客席前方の熱狂が一段だけ熱くなった。
熱を奪うのではない。逆だ。熱狂だけを煽って暴走させる。酒呑童子めいた鬼が、今度は本物の顔を見せる。砕けたシンバルの破片を肩に刺し、ドラム缶やモニターを肉へ縫い込んだような異形の巨体が、前方の密集へ寄っていく。
亡霊アーティストたち。ただの怪異じゃない。音に呑まれ、熱狂に焼かれ、恨みや執着だけを残して演者の形に固定されたものたち。しかも、役割がきれいに分かれている。
感情を抜くもの。地面を奪うもの。視線をさらうもの。上空を閉じるもの。熱狂を暴走させるもの。向こうは、この会場で何を降ろそうとしているのかを最初から分かっている。
「趣味悪すぎるやろ……!」
蓮が吐き捨てる。
「でも、まとまりがある」
駆が言う。そうなのだ。ただ怪異が湧いたのではない。これはフェスの熱狂で編成されたバンドみたいな怪異群だった。
客席が崩れ始めた。パニックではない。それより悪い。感情が抜ける。泣く。笑う。立ったまま、呼吸だけが遅れる。歓声を上げていた人間が、自分の声に置いていかれたみたいな顔になる。
「魂抜けるぞ!」
蓮が一歩前へ出た。ここでの役割ははっきりしている。
亡霊アーティストたちは、身体を直接食うより先に、客の熱を抜け殻の熱狂へ変える。それを止めるには、まず言葉で観客を繋ぎ止めるしかない。
蓮はマイクを握る。
高く叫ばない。飛ばしすぎない。場へ置く。
「まだ、ここにおるやろ」
一節。それだけで、最前の何人かが瞬いた。
蓮は続ける。
「上見るな
隣見ろ
足、踏ん張れ
お前の息、まだ抜けてへん」
真言ラップではある。だが呪文というより、客の身体へ直接戻るための言葉だ。
観客を戦わせるんじゃない。まず、ここにいることを思い出させる。
般若の歌が被さってくる。姑獲鳥の泣き声が絡む。それでも蓮の言葉は、前みたいに濁らない。
客席前方の一人が、隣の肩を掴む。後方で座りかけた男が、そこで踏みとどまる。
「効いてる!」
弦が叫ぶ。
「でも長くはもたない!」
澪が返す。
その通りだった。蓮の言葉は客を繋ぎ止める。だが、それだけでは会場全体を覆う亡霊アーティストたちの音までは止められない。
「一体ずつ行く!」
澪が言った。
「全部同時に救わない。場ごと奪い返す!」
その方針が出た瞬間、やることは明確になった。
「般若、上だ」
駆が先に言う。
弦の視線も動く。
般若の声は高い。でも本体は声そのものじゃない。照明タワーの上、赤い目の位置に置かれた悲鳴の残響だ。
駆はそれを一筋だけ奪った。
消すんじゃない。まともに受ければ、客席の頭上へ落ちる。だから向きだけを変える。
怨嗟の帯域が、照明タワーの脇を擦って夜空の外側へ流れた。
般若の声が、一拍だけ細くなる。
「今!」
澪の声。
弦はレスポールを構えた。
狙うのは般若そのものじゃない。照明タワーと空のあいだ、その声が張りついている位置。
見せる音じゃない。深く通す音。
一撃。高音が、照明タワーの影へ通る。
般若の面にひびが入った。悲鳴が変わる。歌から、ただの怨嗟へ落ちる。
その瞬間、蓮の言葉がそこへ刺さる。
「お前の舞台、もうそこちゃう」
般若の影が崩れ、赤い火だけを散らして上空へ消えた。
「一体目!」
蓮が吐き出すように言う。だが終わらない。
輪入道のベースアンプが、今度は客席後方を轢くように回る。
低音が地面から腹へ来る。何人かが膝をつく。
「後方左、抜いて! そこだけ一回空ける!」
澪が叫ぶ。スタッフが動く。客を横へ逃がす。輪入道の通り道から、人の密度を削る。
駆が低く言う。
「低域、全部殺すな。前方の熱も死ぬ」
輪入道の低域を半分だけ奪う。だが今度は、ただずらすだけじゃない。
揺れそのものを客席から引き剥がし、床の奥へ押し込む。逃がさない。暴れさせない。地面の下へ重しを入れるみたいに、鈍いビートを一つ置く。
後方の足元が、そこでようやく戻る。残った重みだけを照明トラス側へずらす。
弦はそのズレた位置へ高音を打つ。輪入道の外周を回っていたケーブル髪が切れる。
蓮の一節が後ろから客を戻す。
「足、取られるな
まだ、お前の地面や」
輪入道はその場で半回転し、ベースアンプのコーンを歪ませて消えた。
「二体目!」
それでも、会場はまだ地獄だった。土蜘蛛が照明トラスの上に巣を張り、光の筋そのものを歪める。姑獲鳥の泣き声が、特定の客の記憶へ触る。酒呑童子めいた鬼は、熱狂の中心へ寄って人の興奮だけを酒みたいに煽る。
フェス全体が一枚の悪夢みたいになっている。だが、もうやることは見えていた。
「土蜘蛛、どこ切る!」
弦が叫ぶ。
澪は一秒で天井を見上げた。
「中央の巣じゃない、左上の留め!」
その指示で、弦の身体が動く。
レスポールの高音が、照明トラスの左上へ細く通る。駆がその位置のノイズを一歩だけずらす。蓮が短く言う。
「落ちろ」
土蜘蛛の脚が一本、二本と外れた。光が戻る。客席中央の顔が、ようやく少し見えるようになる。
「三体目」
その隙に、姑獲鳥が降りる。今度は蓮が真正面へ言葉を置く。
「お前の泣き場所、そこちゃう」
泣き声が一拍だけ止まる。
駆はその泣き声を消さなかった。まとわりつく帯だけを剥がし、客席の頭上から外して上空へ流す。黒い涙みたいなノイズが、照明の外へ細く引いていく。
弦が髪の束ごと切る。姑獲鳥の上半身がぶれ、抱いていた壊れたマイク束だけを残して霧みたいに散る。
「四体目」
最後に、酒呑童子の鬼が客席前方へ飛び込もうとした時、澪が先に導線を切った。
「前方柵、一時解放! 左右へ抜く!」
スタッフが動く。人の塊が左右へ流れる。鬼の突進先から、熱狂の中心そのものが消える。
だが消えただけでは足りない。暴走しかけた熱は、まだ前方の空気に残っていた。
駆がそこへ、乾いたノイズを一枚かぶせる。火に火を足すんじゃない。燃えすぎた芯だけを焦がして落とす。客席の熱が、一段だけ正気へ戻る。
「そこ!」
澪の声に合わせて、弦が鬼の肩口へ通す。蓮が一節落とす。
「酔うな
返せ」
鬼はそこで膝を折り、砕けたシンバルみたいな音を散らしながら消えた。
「五体目」
最後に残ったのは、会場全体へ薄く漂う亡霊たちの残響だった。
目に見える大物は消えた。だがまだ、フェスの上空には過去に呑まれたアーティストたちの気配が薄く漂っている。
ステージ袖の暗がり。客席の歓声の切れ目。配信カメラの死角。そこに、歌えなかった者、壊れた者、熱狂の中で喰われた者の影が残っている。
蓮が息を整えながら言う。
「これ、全部は祓えんな」
「全部祓う必要ない」
澪が答える。
「今は、本番前に全部持っていかれないことが先」
駆が端末を閉じる。
「メインはまだ生きてる」
それはつまり、アンノウンの儀式はまだ止まっていないということだった。
弦はメインステージの方を見る。遠くで、巨大なスクリーンが赤く明滅している。歓声がまた一段大きくなる。
亡霊アーティストたちは、そのための露払いにすぎなかった。それでも意味はあった。会場全体を埋める地獄絵図の中で、四人はちゃんと持ちこたえた。
客の魂も、会場の呼吸も、まだ全部は奪われていない。
澪が短く言う。
「次で決めにくる」
弦が頷く。
「ああ」
蓮が喉を押さえずに、まっすぐメインを見た。
「こっちもや」
駆も一歩だけ前へ出る。
「もう、サンプリングの域じゃ済まない」
その言い方に、弦は少しだけ口元を上げた。頼もしい、と思った。
フェスはまだ終わらない。亡霊アーティストたちは、向こうが降ろそうとしているものの前奏だ。
本命はその先にいる。けれど、ここまで来たらもう分かる。逃げる段階は終わった。次は、王を引きずり出す番だ。
メインステージから、重いキックが一発だけ響いた。会場全体が、その一打で震える。
弦はレスポールを握り直した。地獄のフェスは、いよいよ心臓へ近づいていた。




