第26話 ミストの告白
再戦の夜から三日後、渋谷の空はひどく乾いていた。
風もない。雲も薄い。夜なのに、ビルの光が上に逃げず、街の高さのあたりでずっと停滞している感じがする。こういう日の渋谷は、音まで少し喉に引っかかる。
弦はセンター街の外れで立ち止まり、スマートフォンの地図を見た。
澪から来たメッセージは短かった。
旧クラブ跡。来て。多分、向こうから。それだけで十分だった。
旧クラブ跡は、数年前に閉まったままの雑居ビルの地下だった。イベントスペースに改装する話が何度も出て、そのたびに流れたらしい。立地は悪くない。だが、空いたままになっている箱には、それなりの理由があることが多い。
階段を下りる途中で、もう嫌な気配がした。
音がない。地下の箱には普通、何かしら残響がある。換気扇、遠い車の低音、どこかの配管、壁の向こうの店のBGM。ここはそれが妙に薄い。無音ではないのに、音が奥へ行かない。
蓮が先に来ていた。階段の下、暗がりの中で壁にもたれている。喉はもうほとんど戻っているようだった。以前より低く静かな声で言う。
「お前も来たか」
「澪は」
「中」
短い返事のあとで、蓮は付け足す。
「駆もおる。まだ入ってへんけど、もう気づかれてる感じやな」
弦は頷いた。そういう箱の空気だった。
四人が揃ったのは、その数十秒後だった。澪は階段の一番下、フロアへ入る手前で立っていた。駆はその少し後ろ、端末を見ながら空間の位置を探っている。
「何がいる」
弦が聞く。
澪は暗いフロアの中央を見たまま答えた。
「ミスト」
その名が出た瞬間、空気がさらに一段静かになった。
旧クラブ跡のフロアは、何もないように見えた。ステージは低い。バーカウンターも空。照明は全部落ちている。なのに中央だけが少し明るい。いや、明るいというより、暗さの質が違う。
そこに、ミストがいた。黒いロングコート。白いヘッドフォン。長い脚を組み、古びたスピーカーケースの上に腰をかけている。手にはスマートフォン。まるで、誰かを待っていただけみたいな顔だった。
「遅かったですね」
ミストが言う。その声は、相変わらず熱がない。喜びも怒りもない。ただ、全部を一歩外から見ている人間の平熱だった。
「呼んだのはそっちやろ」
蓮が返す。ミストは肩をすくめる。
「来るかどうかは賭けでした。でも、来ると思ってました」
弦は前へ出そうとして、澪に手で止められる。
「まだ」
小さい声だった。
弦はそこで足を止める。前へ出るのは簡単だ。だが、今日ここで必要なのは、たぶんミストの口を開かせる方だ。
駆がフロアの左右を見ながら言う。
「一人じゃないな」
「でしょうね」
澪が答える。
ミストの背後、フロアの暗がりに薄い影がいくつもある。ONIそのものではない。もっと手前の気配だ。ミストがいる場所そのものが、箱の中心へ細い針みたいに刺さっている。
「何の用」
澪が聞く。
ミストはそこで初めて、少しだけ目を細めた。
「あなたに会いたかったんですよ」
その言葉に、蓮が眉を上げる。
「口説き方が最悪やな」
ミストは無視した。視線は澪から動かない。
「あなた、面白いんです。霊も見えない。血筋もない。なのに、箱を読む」
澪は表情を変えない。
「見えるものしか見てないだけ」
「違う」
ミストの返しは静かだった。
「見えるものの怖さを、ちゃんと知ってる人の目をしてる」
その一言で、弦は少しだけ息を呑んだ。
ミストの声には、初めて他人への関心が乗っていた。嫌悪でも嘲笑でもない。もっと厄介な種類の共感だ。
澪が言う。
「何が言いたいの」
ミストはスマートフォンの画面を切り、膝の上へ置いた。
「あなたも見てきたでしょう。音で壊れる人を。ライト一つ、低音一つ、群衆の流れ一つで、人は簡単に崩れる」
その言葉に、澪の目だけがわずかに動いた。
「それを知ってる人は、二種類しかいない」
ミストは続ける。
「それでも人を守ろうとする人。もう守れないと分かった人」
静かなフロアに、その言葉だけが真っ直ぐ落ちた。
蓮が低く言う。
「お前は後者ってことか」
「ええ」
ミストはあっさり認めた。そこにためらいはない。
「昔、私はある現場にいました」
誰も口を挟まない。
ミストの声は感傷的ではない。なのに、そこで起きたことだけは少しずつ形になる。
「小さいホールでした。演者は若くて、運営は雑で、客は熱すぎた。事故になる条件が全部揃ってた。でも、誰も止めなかった」
澪は黙って聞いている。
弦も、蓮も、駆も。
「音が上がった瞬間、前方が崩れた。将棋倒し一歩手前。泣く人、怒鳴る人、押し返す人。ステージの上ではまだ曲が続いてた」
ミストはそこで一度だけ、目を伏せた。
「その時、誰も救ってくれなかった」
シンプルな言葉だった。
「演者は自分の世界にいた。運営は責任の押しつけ合い。箱は最初から壊れてた。客は熱狂してるくせに、隣が潰れても見ない」
その声は少しも震えていない。震えきったものが、もう乾いてしまった声だ。
「だから分かったんです。音は人を導くんじゃない。人の弱いところを増幅するだけだって」
弦はそこで、小さく首を振った。
「それは違う」
ミストの目が、ようやく弦へ向く。
「違いましたか?」
「全部がそうじゃない」
「でも、その時はそうだった」
返す言葉が一瞬詰まる。たしかにそうだ。たった一つの救われなかった現場は、その人間にとって世界の定義になってしまうことがある。でも、それでも。
「だから支配する側へ行ったのか」
今度は澪が聞いた。
ミストはわずかに笑った。笑った、というより、口元の形だけが少し変わった。
「導くなんて曖昧でしょう」
白いヘッドフォンへ指を触れる。
「支配する方が、ずっと正確です。どこで人が崩れるか分かってるなら、先にその崩れをこちらで握る。希望なんて不安定なものに賭けるより、その方がずっと綺麗です」
蓮が吐き捨てるように言う。
「綺麗なわけあるか」
「ありますよ」
ミストは即答した。
「少なくとも、期待して裏切られるよりは」
その一言で、澪の顔から最後の曖昧さが消えた。
澪は前へ一歩出る。
「違う」
声は大きくない。だが硬かった。
「私は、壊れる現場を見てきた。でも、それでだから先に壊した方が正しいにはならない」
ミストの目が細くなる。
「なりますよ。ならないなら、あなたはまだ甘い」
「甘くていい」
澪は即答した。
「人を守るための現場が、最初から人を諦めたら終わりだから」
その言葉は、弦の胸へ真っ直ぐ入った。音は人を導くのか。支配するのか。その問いの答えを、澪は現場の言葉で言ったのだ。
ミストが立ち上がる。
「やはり、あなたは邪魔ですね」
その瞬間、旧クラブ跡のフロアが変わった。スピーカーも照明も動いていない。なのに、壁と壁のあいだがわずかに狭くなる。音が奥へ行かない。呼吸が一瞬だけ戻りにくくなる。
ミストがヘッドフォンを耳へかけた。
「なら、確かめましょう。導く音と、支配する音。どちらが場を握るのか」
最初に来たのは、鏡みたいなノイズだった。
白く細い帯域が、フロアの中央から四方へ広がる。直接痛い音ではない。もっと嫌な種類だ。自分の呼吸の位置だけが少しずつずらされる。立っている位置が、ほんの数センチずつ狂う。
「位置を取られる!」
駆が叫ぶ。端末がすぐ起動する。だが、ミストのノイズは一直線じゃない。
場の中にズレを何層も置いてくる。生きたまま位置を変えるどころか、こちらの立っている足場そのものを疑わせるやり方だった。
駆が一歩目をずらす。そこへ弦が入る前に、澪が言う。
「中央見ないで。左右の壁、先」
その指示で、弦の身体が先に動く。レスポールを構える。深く通す高音を、フロア中央ではなく右壁の黒ずみへ一撃。ノイズの芯ではなく、反射の起点を打つ。するとズレの一枚が剥がれる。
蓮がすぐ続く。
「戻れ」
一語だけ。だが今回は、その一語の置き場が正確だ。
フロアの真ん中ではなく、弦が打って開けた穴の向こうへ落ちる。
駆がそこへ手を入れる。ミストの白いノイズを全部消そうとはしない。
一筋だけ奪う。その一筋を、フロアの天井近くへ持ち上げる。
呼吸が戻る。
ミストの目が初めて少しだけ動いた。
「前より、ずいぶん賢くなった」
「お前が丁寧に潰してくれたからな」
蓮が返す。
ミストは感心したようにも、つまらなそうにも見えた。
次に来たのは、低い笑い声だった。フロアの奥から、複数の女が同時に笑っているみたいな音。橋姫とも鬼女とも違う。もっと人間に近くて、だから嫌だ。
その笑いが広がるたび、壁際の暗がりから細い腕のような影が伸びる。
ONIだ。ミストは自分で前に出るだけじゃない。場に残っている壊れた側の音を拾って、細い怪異へ変える。
「澪!」
弦が叫ぶ。
「左通路、切って!」
澪はすでに動いていた。フロアの照明スイッチを一段だけ上げる。左通路の視線を切る。右奥だけを少し暗くする。
「駆、そっちへ逃がして!」
その指示で、駆がノイズの位置を右奥へ一歩ずらす。
ミストが生んだ腕の影が、左ではなく右へ集まる。
蓮の一節がそこへ落ちる。
「お前らの場所、そこちゃう」
前の蓮なら、もっと強く押していた。今は違う。相手の形ごと否定するのではなく、居場所をずらす。それだけで影が乱れる。
弦はそこへ一撃を入れる。高音。細い。だが深い。
右奥の暗がりへ通った瞬間、腕の影がまとめて裂けた。
ミストが初めて、一歩だけ後ろへ下がる。
「……なるほど」
その声に熱はない。だが、最初の余裕とも少し違っていた。
ミストは強い。強いが、もう前みたいに何をしても上を取られる感じではない。こちらの四人の役割が、ちゃんと一つの場になっている。
勝負を決めたのは、澪だった。
ミストが最後に、フロア全体へ白いノイズを広げた時だ。
壁、床、天井、その全部を同時に細くずらす。向こうの思想そのものみたいな音。導くのではなく、先に立ち位置を奪って支配するやり方。
澪はその瞬間、床に落ちていた古い案内板を蹴り起こした。倒れたままになっていた看板が、フロア中央に斜めの仕切りを作る。
「そこ!」
澪の声。
弦はすぐ意味を理解した。
フロアは広いままだと思わされていた。でもいま、澪は場を二つに切った。
向こうのノイズが一枚で全体を握れない。
駆がその境目へ拍を置く。蓮が一語を落とす。
「こっちや」
弦は最後の一撃を、ミスト本人へではなく、その足元の白いノイズの根へ通した。
深い高音が、場の境目に入る。
ミストのノイズがそこで裂けた。ヘッドフォンの片側が外れる。
ミストがようやく、はっきりと顔を歪める。
怒りではない。思った通りにいかなかった時の、人間くさい歪みだった。
「まだ、そちらを信じるんですね」
声は静かだ。
澪が答える。
「信じるんじゃない。作るの」
それが最後だった。駆が奪った白いノイズを天井へ流し、蓮の一節が場の呼吸を締め直し、弦の高音がミストの足元の位置を完全に切る。
ミストは膝をつかなかった。倒れもしない。ただ、これ以上ここで取れないと悟った目で四人を見る。
中間決着だった。勝った。だが、終わってはいない。そういう勝ち方だ。
ミストはヘッドフォンを耳から外した。白いケーブルが胸元に落ちる。
息は乱れていない。だが声の温度だけが少し変わっていた。
「やっぱり、あなたたちは面倒ですね」
蓮が肩で息をしながら笑う。
「褒め言葉として受け取っとくわ」
ミストはそれには答えず、澪を見る。
「でも、分かってるでしょう」
その声は、最初より少し低い。
「本番はここじゃない」
弦の背中に、また冷たいものが走る。
ミストは続ける。
「フェスです」
旧クラブ跡の暗がりが、そこで少しだけ深くなる。背後に、またあのもっと上の気配が一瞬だけ立つ。
角。面の奥にさらに面があるような暗さ。
アンノウン。名前はまだはっきり出ていない。だが、虚無の葬列やミストより、さらに上の核がそこにいると分かる。
ミストの口元がわずかに動く。
「次は、箱ひとつで済むと思わないでください」
誰も口を挟まない。
「人が集まる。熱が集まる。期待も、恐怖も、全部そこへ集まる」
白いノイズが、ミストの足元で細く揺れる。
「だから、呼べる」
その一言で、地下の空気が一段冷えた。
弦が低く聞く。
「何をだ」
ミストは答える。
「ONIです」
平坦だった。冗談でも、挑発でもない。決まっていることを読む声だった。
「一体や二体じゃない。あの夜みたいな小さな取り合いでもない」
蓮の顔から笑いが消える。駆の目が細くなる。澪は一歩も引かない。
「フェスの客席を、丸ごと呼び水にする」
ミストは続ける。
「逃げ場のない歓声。高揚。密集。暗転。低域。視線の集中。あれだけ条件が揃えば、どこまで集まると思います?」
その問いに、誰もすぐには答えなかった。答えたくない想像が、先に頭へ浮かぶからだ。
ステージ前だけじゃない。フロア全体。通路。ロビー。物販。搬入口。
人の流れそのものが、ONIの通り道になる。
「大惨事にする気か」
澪が言う。声は低い。でも震えてはいない。
ミストは初めて、少しだけ笑った。
「気か、ではありません」
白いノイズが、旧クラブ跡の床を細く這う。
「そうするんです」
その断定が、いちばん重かった。
「あなたたちが音で守ると言うなら、こちらは音で壊す。箱ではなく、群衆ごと。会場ではなく、夜ごと」
蓮が一歩出る。
「やらせるかよ」
「止められるなら、どうぞ」
ミストの声は静かだ。
「でもその時、相手をするのは私たちだけじゃない」
背後の暗がりが、もう一度だけ深くなる。角。面。重なった気配。アンノウンの存在が、言葉より先にそこにある。
弦は歯を食いしばった。虚無の葬列。ミスト。その背後にいるもっと大きな核。そしてフェスという巨大な箱。敵がようやく、ひとつの計画として見えた。
「ええ。だから、楽しみにしています」
ミストはそう言って、ヘッドフォンを肩へかけ直した。
次の瞬間、フロアの暗がりがひとつ揺れる。ミストの姿が薄くなる。白いノイズだけが一度だけ旧クラブ跡の天井を撫で、それから消えた。
静かになる。怪異の気配はもうない。ただ、フロアの中央に斜めに立った案内板だけが、澪の蹴りの勢いで少し傾いていた。
誰もすぐには動かなかった。
弦が最初に息を吐く。
「……フェスで、やるつもりだ」
「ああ」
駆が短く答える。
「箱を取るんじゃない。客ごと落とす気だ」
蓮は喉を軽く押さえたあとで言う。
「しかもONI集めるて……悪趣味にもほどがあるやろ」
澪が案内板を立て直しながら言う。
「でも、形は見えた」
三人がそちらを見る。
「向こうはフェスを災害に変えるつもり。だったら、こっちは最初から災害を止める前提で入る」
その言い方で、弦の中でも整理がついた。次はライブで勝つ話じゃない。フェス会場そのものを守り切る話だ。
虚無の葬列やミストは、そのために越えなければならない壁の一部にすぎない。
「フェスまで、もうそんなに時間ない」
澪が言う。
「分かってる」
弦が答える。
「でも、今なら間に合う」
自分でも、少し驚くくらい自然にそう言えた。前みたいな空元気ではない。ミストとのやり取りで、敵の狙いが具体になったからだ。
旧クラブ跡を出ると、夜の空気は少しだけ軽かった。
渋谷の光は相変わらず多い。だが、その底にある暗さまで、もう前ほど一方的には見えない。
四人は並んで歩き出す。
次はフェスだ。大惨事を起こすつもりなら、その前提ごと潰す。そう思えるだけの形が、今の自分たちにはもうあった。




