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第25話 呻喰、再来

 前と似た箱なのに、空気は最初から違っていた。

 都内の中規模会場。キャパ二百五十ほど。天井は低すぎず高すぎず、前方は平土間、後方に一段だけ高くなったスペースがある。ライブハウスより広いが、ホールほど逃げ場はない。音はよく回る。悪く回れば、それだけ人を巻き込みやすい箱でもあった。

 澪は開場前のフロアを歩きながら、照明の落ち方をもう一度見た。

「前方、あと五パー落として」

 照明卓へ向かって言う。

「でも暗転はしない。客の足元は死なせない」

 次にPA卓の方を見る。

「後方の低域、一回逃がして。溜めない。キックが気持ちよくても、箱の底に残ると向こうの餌になる」

 スタッフが迷わず動く。前回とはそこが違った。

 箱へ入る前から、澪は敵の好きな空気を削っている。

 視線の落ち方。息の詰まり方。低域の滞留。暗転の深さ。人の流れ。

 どれも前に一度負けたからこそ、今は先に手を入れられる。

 弦はステージ袖からそれを見ていた。

 レスポールを抱える手は前より静かだ。緊張が消えたわけじゃない。むしろ、相手の怖さを知っているぶんだけ、嫌な汗は早い。だが、その汗が手元を乱さない程度には、芯ができている。

 蓮は喉を一度だけ鳴らし、数珠を巻き直す。

「ええな」

 小さく言う。

「何が」

 弦が聞く。

「まだ始まってへんのに、前より箱が生きてる」

 その言い方がしっくりきた。

 前は会場に入った時点で、もう半分以上向こうの色だった。

 今日は違う。まだどちらのものでもない。だからこそ、取り合える。

 駆は端末の画面を見ながら言った。

「逃げ道がある」

「逃げ道?」

 弦が聞く。

「ノイズの」

 駆はステージの左右と天井を見た。

「前は全部沈んでた。今日は澪が箱を切ってるから、残響も濁りも一か所に溜まりにくい。奪って動かせる」

 弦は短く頷いた。

 全部が噛み合っている。自分だけでも、蓮だけでも、駆だけでも、澪だけでもない。この並びで初めて、前の負け方をしない形ができている。

     

 開場の時間が近づく。客が入ってくる。

 黒い服。静かな熱。目当ての違う連中が混じっている。純粋にイベントを楽しみに来ている顔もあれば、何かを体験しに来たみたいな妙な期待を持った顔もある。

 澪は客席の流れを見ながら言う。

「前三列、少し詰めすぎ。後方へ流して」

 スタッフが動く。

「バーカウンター前、立ち止まりやすいから一回切る」

 また動く。現場が、ちゃんとこちらの速度で回っている。ここまでは順調だった。だからこそ、弦は最初の違和感を見落としかけた。

 開演二十分前。

 後方左の壁際にいた女の客が、急に一度だけ喉へ手を当てた。咳き込んだわけではない。ただ、何かがそこへ触れたみたいな顔をする。

 弦の背中が冷える。

「……澪」

 澪も同時にそちらを見ていた。

「見えた?」

「まだ薄いけどな」

 駆はもう端末を開いている。

「左後方、浅い呼吸が二人分。あと、後ろの返りが急に濁った」

 蓮が低く言う。

「来たか」

 名前を言わなくても、四人とも分かっていた。

     

 最初に出たのは、悲鳴ではなかった。ざわめきだ。

 理由のない落ち着かなさが、客席後方からじわじわ広がっていく。みんなまだ普通に喋っている。普通にスマホを見ている。普通にドリンクを持っている。なのに、少しずつ出口を気にする空気が生まれる。

 弦はステージ袖から後方を見る。

 いた。壁際の暗がり。スピーカーの影。人の肩と肩のあいだの、ちょうど視線が外れやすい位置。黒い滲み。呻喰しんくいだった。

 前と同じように、人型に近いのに輪郭が安定しない。黒い霧と濡れた布のあいだみたいな塊。顔はない。ただ喉だけが深く裂けていて、その奥にもう一つ暗い穴があるように見える。

 だが前と違うのは、四人とも最初からそれを見つけていることだった。

「動く」

 澪が短く言う。

「まだ客は多い。最初に後方を抜く。前方は崩さない」

 弦がレスポールを構える。蓮が低く息を吸う。駆が指をパッドへ置く。

 葬列はまだ見えない。でも、それで安心はできなかった。むしろ逆だ。来る。だからその前に、呻喰を場へ定着させない。

 それが全員の共通認識だった。

     

 六弦と錫杖の出番は二番手だった。

 MCも最小限。煽りも控えめ。

 最初から、客席の呼吸を一つにするための構成へ寄せている。

 ステージへ出る前、澪が三人へ短く言った。

「先に息をそろえる。勝ち急がない」

 蓮が頷く。

「了解」

 駆も短く「ああ」と返す。弦はレスポールのネックへ指を置く。前へ出すな。深く通せ。必要なものだけ置け。

 ステージへ出る。照明が落ちる。だが足元は死なない。客席の顔が、ちゃんと見える。ここからだ。

 最初の一音は、駆だった。派手なキックではない。ごく短い拍。そのあとに空白。また一つ。前へ出るためではなく、客の呼吸を一つにするための拍。

 蓮がそこへ一節だけ置く。

「まだ、ここや」

 短い。だが、それで十分だった。客席前方にいた何人かの顔が、少しだけ上がる。前みたいに歓声で煽るのではない。先に息をそろえる。

 弦はそこで、一音だけ落とした。高い。細い。けれど、前よりずっと深く入る。音量で押し切るのではなく、箱の真ん中へ真っ直ぐ線を通す。

 場が、こちらを向く。ほんの少しだ。だが、前はそれすらできなかった。

 呻喰が後方左で揺れる。輪郭がまだ浅い。

「いい」

 袖の澪が小さく言う。その一言だけで、三人の背中に少し熱が入る。

     

 二曲目の途中、呻喰が育ち始めた。客席後方の数人が、急に喉を押さえる。視線が泳ぐ。立ち位置が半歩ずつ出口へ寄る。

 弦はステージの上から、その流れが前回と同じ形へ入るのを見た。右ではない。今回は左後方。だが崩れ方の質は同じだ。

「駆」

「分かってる」

 駆が低域の位置をずらす。

 真正面から押し返すのではない。左後方の床へ沈みかけた黒い濁りだけを掬う。箱の底へ溜まりきる前に、横へ逃がす。排水みたいに、壁際へ薄く流す。

 後方の重みが、一か所で腐らない。

 呻喰がその分だけ根を張り損ねる。

 蓮が一語だけ置く。

「吸うな」

 短い。前の蓮ならもっと前へ飛ばしていた言葉を、今は客席の息へ合わせて落とす。

 呻喰の喉が一瞬だけ鈍る。

 弦はそこへ高音を差し込んだ。裂け目へ届く。黒い輪郭が、初めてぶれた。

「通った」

 弦が小さく言う。

「追うな」

 すぐに澪が返す。

「今はまだ場を崩さない」

 その判断で、弦は前みたいに勝ち急がずに済んだ。前は「通った」と思った瞬間に押し込み、そこでひっくり返された。

 今は違う。まず客の呼吸を残す。ONIを場へ根づかせない。その順番が共有されている。

     

 そして、三曲目の途中で空気が変わった。

 照明が一段だけ落ちる。低域の返り方が、急に冷たくなる。客席の奥の暗がりが、ただの影ではなく深さを持つ。

 弦の背中に、あの夜と同じ悪寒が走る。

「来るぞ」

 駆が言った。

 呻喰の輪郭が、そこで再び濃くなる。剥がれかけていた黒が、逆に箱へ食い込み始める。

 客席の奥。通路の暗がり。そこに人影が立つ。

 一人ではない。数人。ただそこへ来るだけで、空気の主導権を奪っていく歩き方。

 虚無の葬列。前と同じ。だが、今度は四人とも最初からそれを待っていた。

 蓮が低く笑う。

「やっぱ来たな」

 虚無の葬列はステージへ上がらない。出演者として紹介もされない。ただ客席奥へ立ち、箱へ音を落とす。それだけで十分だった。

 ボーカルの細い男が、マイクもないまま喉を鳴らす。

 死の声。蓮の真言ラップを内側から濁らせたあの響き。

 呻喰が一気に膨れた。単純な巨大化ではない。黒い帯が天井梁と壁際へ伸び、客席頭上に根を張る。箱全体へ食い込もうとする、あの第二段階だ。

 前の敗北パターンそのもの。だが今度は、そこで止まらない。

     

「澪!」

 弦が叫ぶ。

「左後方、動線!」

「切ってる!」

 澪はすでにスタッフへ指示を飛ばしていた。

「左後方、壁際を空けて! 照明一段だけ戻す! 出口側、立ち止まらせない!」

 前は追いつかなかった。今日は違う。箱のどこが死ぬかを、澪は先に読んでいる。

 駆が向こうの低域を待つ。呻喰を定着させるために、葬列側の重い帯域が左後方へ沈む。

「取る」

 駆が言う。

 掬う。消さない。奪って、横へずらす。今度はただ流すだけではない。残しすぎればまた喰われる。だから半分だけを壁沿いへ逃がし、残り半分は薄い拍に変えて床へ置く。

 前方の足元に、見えない杭が一本入る。

 客席の膝が、そこでようやく戻る。

 左後方へ沈みきるはずだった重みが、一段浅くなる。

 後方の数人が、そこで初めて肩を上げた。

「弦!」

「分かってる!」

 弦はそこへ、海風の中で掴んだ一音を通した。

 前へ飛ばさない。細いまま、深く刺す。

 呻喰の喉が揺れる。壁へ伸びた帯の一本が裂ける。

 蓮が一語を落とす。

「立て」

 短い。だが、その一言で後方の呼吸が戻る。前は立たせきれなかった。

 今は違う。まだ全員ではない。でも、戻すべき客を戻せる。

 葬列のボーカルの目が、初めてはっきりこちらを向いた。

     

 ここからは、完全な殴り合いだった。

 葬列が箱を閉じようとする。こちらは穴を開ける。呻喰が根を張ろうとする。こちらは定着の位置を崩す。前みたいに一方的には持っていかれない。その理由ははっきりしていた。

 澪が箱を読んでいる。駆が位置をずらす。蓮が客席を立たせる。弦が深く通す。

 四人の役割が、もう前みたいにバラけていない。

 葬列の二撃目。死の声が前方へ落ちる。

 蓮が先に一語を置く。

「沈むな」

 前より低い。飛ばさない。場へ置く。

 客席前方の数人が、そこで顔を上げる。死の声が一拍だけ遅れる。

 駆がその遅れた帯域を奪う。全部は無理だ。でも半分なら取れる。

 取った半分を、箱の横へ逃がす。流しきれない残りは、床下へ薄く沈めて固定する。暴れる帯域だったものが、そこでただの重みへ変わる。

 弦はそこへ高音を通す。今度は呻喰本体ではなく、天井へ這った帯へ刺す。

 裂ける。そして、そこで終わらない。

 蓮がさらに一語を落とす。

「戻れ」

 客席の息が戻る。呻喰の裂けた喉が、初めて吸えない顔になる。

「今や!」

 蓮が叫ぶ。

「追うな」

 澪が即座に返す。

「本体じゃなくて、根!」

 その判断が勝負を決めた。前なら、通った瞬間に本体へ押し込んでいた。

 今は違う。根を切る。場の定着を剥がす。箱を生かしたまま、本体の居場所をなくす。

 駆が位置をもう一段ずらす。左右の帯へ絡んだ濁りを、今度は客席の端へ引く。排水みたいに外周へ流しながら、中央には短い拍だけを残す。

 生きた箱の骨組みだけが残る。

 弦が左右の帯を切る。蓮が中央を立たせる。澪が出口と客の流れを維持する。

 呻喰はもう、前みたいに箱へ食い込めない。黒い帯が、一本、また一本と裂ける。裂けた場所へ、もう根が戻れない。

 客席の呼吸が、向こうの餌になる前にこちらへ戻る。

 呻喰の輪郭が揺らぐ。今度は本当に、軽くなる。

「弦!」

 駆の声。弦は頷く。

 最後の一音は、前へ飛ばさなかった。深く、まっすぐ、呻喰の裂けた喉の奥へ落とす。

 そこへ蓮の声が重なる。

「消えろ」

 派手ではない。でも、箱の息がその一言に揃う。

 呻喰の喉が閉じる。黒い輪郭が一度膨れ、それから急に薄くなる。壁へ這った帯が、根を失った蔓みたいに落ちる。

 最後に、暗い穴だけが一瞬残り、そこでふっと消えた。

 客席の空気が戻る。完全な静寂ではない。人の息、ざわめき、音の余韻。ちゃんと生きた箱の空気だ。

 勝った。少なくとも、前回負けた形には。

     

 呻喰が消えた瞬間、葬列の音も一拍だけ揺れた。

 客席奥に立っていたボーカルの細い男が、ほんのわずかに口元を歪める。笑ったわけではない。むしろ、面倒な結果を確認した時の顔だった。

 蓮が一歩前へ出る。

「次はお前らや」

 ボーカルは答えない。ただ、あの平坦な声で言った。

「……面倒ですね」

 前みたいな見下しではない。認めたくないものを認める時の、嫌そうな声だった。

 駆が小さく言う。

「引く」

 たしかに、葬列はそれ以上深く箱へ入ってこなかった。場を食わせるためのONIを失った以上、ここで無理にやり合う意味がないのだろう。だが引く前に、ボーカルの背後、通路の奥のさらに暗いところで、何かが一瞬だけ立ち上がった。

 人の形ではない。巨大な角の気配。面の奥にさらに面があるみたいな、深い暗さ。

 虚無の葬列の背後にいる、もっと濃いものの輪郭。

 弦の背中に冷たいものが走る。あれは、葬列より上だ。

 蓮も、駆も、澪も見ていたらしい。誰もすぐには言葉を出さない。

 ボーカルはそれ以上何も言わず、黒い通路の向こうへ消えていく。嫌な静けさだけが残った。でも、それは前みたいな絶望ではない。もっと大きな相手が後ろにいると分かったうえで、それでも追える距離にいる感覚だった。

     

 終演後、楽屋裏の空気は前とは違った。息は上がっている。汗もかいている。だが、地面がない感じはしない。

 蓮が壁にもたれて笑う。

「やっと、ちゃんと勝ったな」

「ONIにはな」

 駆が言う。

「葬列にはまだだ」

「分かっとるわ」

 蓮はそう返したが、前みたいな刺々しさはない。

 澪が楽屋口の外を見ながら言う。

「でも、前ほど箱を取られなかった」

 それが今日の結論だった。

 弦はレスポールをケースへ戻しながら、ようやく一つだけはっきり思えた。

 虚無の葬列は、届かない相手ではない。まだ勝ち切れない。でも、もう前みたいに一方的に奪われる相手でもない。

 その時、スタッフが駆け寄ってくる。

「さっきの後方、怪我人ゼロです! 過呼吸も軽い人だけで、もう落ち着いてます!」

 澪が小さく息を吐く。それは派手な安堵じゃない。でも、いちばん欲しかった結果だった。

 蓮が数珠を指で弾く。

「ようやく、立たせられた」

 その言い方に、弦は少しだけ笑った。

「俺も、ちゃんと届いた」

 駆は端末を閉じながら言う。

「場も、少しは動かせた」

 澪は三人を見てから、短く言った。

「次、行けるね」

 蓮が聞く。

「フェスか」

「ほぼ確定」

 澪は頷く。

「今のは挨拶じゃない。次の場を見せに来た」

 弦はケースの取っ手を握る。怖くないわけではない。でも、もう前みたいな届かない怖さではない。

 届く。だから、次はもっと取り返せる。

 楽屋の外では、イベントの片付けが始まっていた。

 会場はちゃんと生きている。客の呼吸も、スタッフの足音も、箱の余韻も、全部向こうに奪われきらずに残っている。

 それだけで、前回とは決定的に違った。

 完全勝利ではない。けれど、次へ進む資格は取った。それで十分だった。



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