第2話 マントラ・ラップの衝撃
深夜一時を回った渋谷は、昼の街とは別の顔をしていた。
ネオンが濡れた舗道に滲み、終電を逃した人間と、これからが本番らしい人間と、どこへ帰ればいいのか自分でも分かっていないような人間が、同じ歩幅で交差していく。夜風はぬるかった。春先にしては少し湿っていて、排気ガスと酒と、古い油の匂いを薄く混ぜて運んでくる。
弦と蓮と、帽子の男は、その夜の端を歩いていた。
誰が言い出したわけでもなかった。ライブハウスを出て、渋谷の夜風に当たって、それで自然に足が同じ方向へ向いた。
話す場所が欲しかったのだと思う。今夜起きたことを、立ち話で済ませられるほど軽くは扱えなかった。
入ったのは二十四時間営業のファミレスだった。窓際の席。蛍光灯が白すぎる。油を拭き切れていないテーブルの表面が鈍く光っていて、その安っぽさがかえって落ち着いた。こういう場所には、深夜の異様さをいったん薄める力がある。だからこそ、三人がまだ少し他人に戻っているのも分かった。
さっきまで一緒に靄を祓った。でも、助け合ったからといって、いきなり仲間になるわけではない。
弦は向かいの二人を見た。ドレッドの男。帽子の男。どちらも、さっき自分と同じ現場にいたはずなのに、こうして座るとまだ輪郭が掴みきれない。
蓮がドリンクバーからコーラを三つ持って戻ってきた。
「改めて」
トレーを置き、どかりと腰を下ろす。
「俺、高野海未。でもラップやってる時は蓮で通してる」
「ラップやってる時は、って」
弦が言う。
「普段と別人なのか」
「ちょっとはな」
蓮は笑った。
「そういうツッコミ入るあたり、ちゃんと現実に戻ってきてるな」
弦は答えなかった。戻ってきているのか、自分でも分からない。
テーブルを挟んで向かいに座り、あらためて蓮の顔を見る。二十代半ばくらいだろうか。肌は浅黒い。ドレッドヘアは乱雑に見えて、根元から先まできちんと手が入っている。首には数珠が三重に巻かれていた。ヒップホップ系のパーカーの下から、白い法衣の端が少しだけ覗いている。
「法衣、着てるんですね」
弦が言うと、蓮は「あー」と自分の胸元を見た。
「脱ぐの忘れてた。今日、実家の手伝い寄ってから来たから」
「寺?」
「寺。坊主の家」
そこで蓮は肩をすくめた。
「似合わんやろ」
「いや」
弦は少し考えた。
「妙に似合ってる」
「褒めてんのか、それ」
軽いやり取りだった。けれど、それ以上深くは入らない。寺がどうとか、家がどうとか、その場で全部言う感じではまだない。
その横で、帽子の男が先に口を開いた。
「霧隠駆。DJやってる」
そこで一度切ってから、
「忍者の家系」
と言った。それだけだった。
弦は思わず駆の顔を見た。帽子のつばが深くて目元は見えにくい。年は弦と同じくらいか、少し上かもしれない。細身だが、手だけが妙に大きい。ターンテーブルを長く触ってきた人間の手だとすぐ分かる。
「……忍者の家系ってのは」
「そのままの意味」
取りつく島もない。
弦はため息をついて、自分のコーラに口をつけた。氷が溶けかけている。炭酸が少し弱い。それが妙に現実的で、助かった。
「じゃあ俺から話す」
弦は言った。
「八雲弦。ギタリスト」
少し迷う。でも、ここで黙っても仕方ない。
「今夜までは、自分のギターが変だって自覚は、正直あんまりなかった」
蓮が顔を上げる。
「今夜までは、ってことは」
「弾いた時、流れ込んできた」
弦は自分の指先を見た。
「古い夜道みたいな感覚。知らないはずの記憶。琵琶を弾くみたいな手の動き」
口にすると、また現実味が増す。それが嫌だった。
「うわ、しんど」
蓮が言う。茶化したみたいな声だが、目は真面目だった。
「それ、無視できへんな」
「できると思うか」
「思わん」
即答だった。そこで、少しだけ沈黙が落ちる。
ファミレスの店内放送。厨房の食器の触れ合う音。遠くの笑い声。どれも普通の深夜の音なのに、三人のテーブルだけがそこから半歩浮いている感じがした。
「俺も似たようなもんや」
蓮が言った。
「昔から言葉は知ってた。でも、今夜みたいに効く時と効かん時がある。さっきは、効いた」
そこで止める。寺の話も、家の話も、飛び出した理由も、今は全部は出さない。
でも、それで十分だった。こいつもまた、今夜のことを“たまたま”では済ませられないのだと分かるからだ。
駆が静かにグラスを置いた。
「お前のは、今夜が初めてじゃないかもしれない」
弦が顔を上げる。
「どういう意味だ」
「今夜みたいには出ていなかっただけで、前から混じってた」
「何が」
「鳴り方が」
駆は短く言った。
「街のノイズに、お前のギターだけ別の倍音が混ざってた」
弦の背中に、冷たいものが走った。
「……なんでそんなことが分かる」
「拾ってたから」
駆の声は平板だった。
「渋谷の夜を録ってると、たまに人間じゃない音が混じる。お前のギターは、そのノイズに近い場所で鳴ってた」
前から見られていた。いや、聞かれていたというべきか。
そう思うと、目の前の男が急に現実から半歩ずれた存在に見えてくる。
「盗み聞きみたいだな」
「観測だ」
「言い換えただけだろ」
「違う」
駆はそこで初めて、少しだけ弦の方を真っ直ぐ見た。
「興味があったのは、お前自身じゃない。音の変質のしかただ」
悪意のある言い方ではない。だが、人間への距離の取り方が少しおかしい。
蓮も同じことを感じたのか、「こいつ、たまに人間より波形のほうを信用するからな」と肩をすくめた。
駆は否定しなかった。
「俺は三年前から気づいてた」
駆が続ける。
「夜の街を録ってると、余計な音が混じるようになった。人の声じゃない。感情のノイズみたいな音」
弦は聞き返しかけて、やめた。全部を理解しようとしても、この場では無理だと分かってきたからだ。今必要なのは理屈より、今夜起きたことを三人とも無視できないと確認することだった。
「なあ」
蓮が言った。
「お前ら、これどうする気?」
弦は顔を上げた。問いの意味は分かる。今夜の出来事を、たまたま起きた変な事故として忘れるのか。それとも忘れないで追うのか。
駆は先に答えた。
「俺は追う」
「理由は」
弦が聞く。
「放っておくと被害が広がる」
それから一拍置いて、
「街の音も死ぬ」
と言った。
その言い方はやはり普通ではなかった。だが嘘ではないのだろう、と弦には分かった。こいつは人を救いたいのではなく、壊れた音を許せない種類の人間だ。結果として、同じ方向を向いているだけで。
弦はギターケースを足元で軽く引き寄せた。
「俺もだな」
そう言ってから、言葉を足した。
「正義感とか、大きい話じゃない。さっきみたいに、客席にいる人間があれで倒れるのを見て、何もしないで帰るのは無理だ」
蓮が笑った。
「よかった。俺だけじゃなくて」
「お前はどうなんだよ」
「俺は最初からそのつもり」
蓮は言う。
「寺がどうとか、家がどうとかは別にしても、ああいうの見て放っとくのは無理や」
その言い方で、弦は少しだけ肩の力が抜けた。
三人とも、綺麗な理想で揃っているわけではない。でも、無視できないものを見た、という一点だけは同じだった。
それからもう少し、誰も喋らなかった。
ファミレスの白い光。薄いコーラ。深夜の客のざわめき。普通の夜のはずなのに、今夜から先が少しずつ変わってしまっているのが分かる。
弦は思った。このまま別れても、たぶんもう元には戻れない。
蓮がグラスを指で回しながら言った。
「組まないか?」
直球だった。まっすぐすぎて、かえって少し笑いそうになる。
「いきなりだな」
「今夜やったろ」
蓮は言う。
「俺のラップと、お前のギター。あと駆のビート。あれ、一人じゃ無理だった」
弦は返事をする前に、ライブハウスの光景を思い返した。
自分のギターだけでは押し切れなかった。靄を止めたのは蓮の言葉で、最後に形を崩したのは駆のビートだった。悔しいが、それは事実だ。
「……ミクスチャーも、ラップも、DJも、全部混ぜるってことか」
「面白いやん」
蓮は迷いなく言う。
「相手のほうがもっとカオスなんやし」
弦は少し笑ってから、うなずいた。
「わかった。組もう」
蓮がぱん、と手を打った。
「よし」
駆は短くうなずいた。それだけで充分だった。
三人は、それぞれグラスに手を伸ばした。乾杯の言葉はなかった。ただ、コーラの氷が軽く鳴った。その安っぽい音が、妙に新しい始まりに聞こえた。
ただ、その瞬間だった。
店内BGMの奥で、ほんの一瞬だけ音が濁った。ブツ、と途切れるような、ごく短いノイズ。
弦は反射的に顔を上げた。蓮も一緒だった。二人とも、今の一瞬に反応したのだと分かる。だが周囲の客は誰も気にしていない。駆だけが静かに天井のスピーカーを見ていた。
「今の、聞こえたか」
弦が言う。
「聞こえた」
駆は短く答えた。
「ただの接触不良ではない」
「じゃあ何だよ」
「……見られてる」
その一言で、白すぎる蛍光灯の下のファミレスが、急に別の場所に見えた。
三人が店を出たあともしばらく、窓際のいちばん奥の席には、空になったグラスが一つだけ残っていた。
その席に座っていた女は、さっきまでの会話を全部聞いていたわけではない。けれど、「音が人を縛る」「見られている」という断片だけで十分だった。
あのライブハウスで聞いた音は、気のせいではなかったのだ。
女――澪は、冷めたコーヒーの横で指先を握りしめてから、静かに席を立った。
それから三日後。弦は一人で渋谷の裏通りを歩いていた。蓮に呼ばれたのだ。
練習用に使っている場所があるから来い、とだけ短いメッセージが入っていた。ギターを持って来い、という文面があったので、結局いつも通りケースを背負っている。
渋谷の夜はまだ人が多い。だがメインストリートから一本外れると、急に音の質が変わる。飲み屋の笑い声が遠くなり、代わりに室外機の唸りや、細い路地に反射する足音が目立ち始める。
弦は考えながら歩いていた。三日前のことを、まだ整理できていない。
ギターを弾いた時に流れ込んできた古い感覚。蓮の真言。駆のスクラッチ。全部現実味がないくせに、身体のほうはもう現実だと認めてしまっている。
それに、あのファミレスで聞いたノイズが頭に残っていた。
見られている。駆はそう言った。意味はまだ分からない。だが、あいつがああいう曖昧な言い方をする時は、たいてい良くない。だから気づくのが遅れた。
路地の角を曲がった瞬間、空気が変わっているのに。
人が少なすぎる。いや、人はいる。だが動いていない。
十メートルほど先にいたサラリーマン風の男が、立ったまま止まっていた。スマートフォンを見ていた若い女も、その横で固まっている。さらに奥、壁にもたれていた学生らしい男も、時間だけ置いていかれたみたいに静止していた。
足元に黒いものが絡みついている。
靄だ。細く這い上がり、足首から膝へ、呼吸を奪うみたいにまとわりついている。
「……最悪だな」
弦は小さく呟いた。
蓮に連絡しようとポケットへ手を入れる。その背後から、低い唸り声が響いた。
振り返る。路地の奥から、靄が迫っていた。
三日前のライブハウスで見たものより大きい。人型ではない。獣に寄っている。四つ足のようでもあり、違うようでもある。輪郭が定まらず、目の位置らしき暗い窪みだけが複数ある。どこを見ているのか分からないくせに、確実にこっちを見ている気配だけがある。
その奥、ビルの壁に一瞬だけ、白い何かが反射した。
ヘッドフォンの外殻みたいな、丸い白。
誰かがいる。そう思った瞬間には、もう見えなかった。
アンプはない。路地だ。電源もない。機材もない。
ギターケースを下ろし、弦はレスポールを取り出した。生音では小さい。普通なら戦いようがない。だが、三日前に見た。音量だけが問題じゃない。震え方そのものが届くことはある。
ネックを握る。深く息を吸って、指先へ意識を落とす。
見つかった。温かいもの。古いもの。
自分の中にあるのに、自分だけのものではない感触。
弦を打つ。生音は小さい。
けれど路地の狭さの中で、その一撃はたしかに空気を震わせた。靄の輪郭が一瞬だけ揺らぐ。
効く。だが浅い。もう一撃。さらにもう一撃。
弦はリフではなく、より直線的な音を選んだ。狭い場所で逃がさないための音。派手さよりも芯を優先したフレーズ。
靄の前進は少し遅くなった。だが止まらない。
固まったままの通行人たちの顔色が、じわじわ悪くなる。このままでは押し切れない。
その時だった。
「おっそ!」
聞き覚えのある声が、路地の入口から飛んできた。
蓮だった。コンビニ袋を片手にぶら下げたまま、状況を見て一秒で顔色を変える。
「なんで一人で先に入ってんだよ!」
「好きで入ったわけじゃない!」
「結果、一人で戦ってるやん!」
言いながら蓮は袋をそのへんに放り投げ、こちらへ駆け込んでくる。無駄にうるさい。だが、そのうるささに妙に助けられるところがある。
「アンプない!」
弦が言う。
「わかってる! 音、出せるだけでいい。合わせる!」
蓮は数珠を指に掛け、深く息を吸った。
弦が再びギターを打つ。その生音に、蓮のラップが乗った。
最初はハミングに近い。だがすぐに言葉へ変わる。日本語のようで、日本語だけではない音の連なり。子音が鋭く立ち、母音が後ろから押してくる。路地の壁に反響して、黄金の文字が一つ、また一つと空中へ浮かぶ。
三日前より速い。三日前より迷いがない。
靄がその文字に触れた瞬間、動きが鈍る。弦はそこへ音を打ち込む。ネックを握ったまま、弦を叩くように鳴らす。琵琶の記憶に近い、乾いた打撃音。
効いた。今度ははっきりそう分かった。
靄の中心が縮む。蓮の黄金文字が輪を作って締まり、弦の音がそこを打つ。だが押し切れない。
「まだ浅い!」
蓮が叫ぶ。言われなくても分かる。
二人でも行ける、ではなかった。二人だと、削れるだけだ。殺し切れない。
そう思った矢先だった。
蓮のラップが、一瞬だけ途切れた。
息だ。ほんの一瞬、呼吸の継ぎ目が遅れた。黄金文字の輝きが、その刹那だけ薄くなる。
靄はそこを逃さなかった。圧縮されていたはずの黒い塊が、針みたいに細く尖って暴れた。一本が蓮の腕を掠める。黒い傷ではない。だが触れた場所から色が引くように白くなる。
「蓮!」
「大丈夫!」
大丈夫な声ではなかった。蓮はそう言い切ったが、動きはさっきより明らかに鈍い。
さらに悪いことに、固まっていた通行人の一人がその場に崩れ落ちた。膝をつき、喉を押さえ、息が浅くなっている。
二人で押し込んでいた形が崩れ始めた。
どうする。駆はいない。ビートの土台がない。三日前はあれがあったから、最後まで押し切れた。今はない。
弦は靄を見ながら、同時に周囲の音へ耳を開いた。
路地の外から幹線道路の交通音が流れてくる。エンジン、タイヤ、信号待ち、歩行者用信号の電子音。ばらばらに聞こえるのに、その中に規則がある。大きな街の音には、意外なほど周期がある。
弦はその周期にギターを合わせた。自分でビートを作れないなら、街のリズムを借りればいい。リフを変える。交通音の間合いに合わせて、音を置き直す。
蓮がそれに気づいた。
弦のギターが急に変わった理由を、一瞬で理解した顔になる。ラップのテンポが外の信号の変化と、遠い車の流れに寄っていく。
ぴたりと、合った。
三日前の駆のビートほど強くはない。だが、確かに芯ができる。
靄が怯む。
黄金文字が再び強くなる。弦の打撃音がその中心を捉え続ける。圧縮。収縮。膨張しかけた靄が、今度は逃げ場を失って内側へ折りたたまれていく。だが、その間にも通行人たちの顔色は悪いままだった。
削れてはいる。だが長引いている。これでは遅い。
最後に弦は、一歩だけ前へ出た。ネックを握り込み、まっすぐ打つ。音の衝撃が靄の中心を貫いた。
蓮の言葉が同時に落ちる。黄金文字が輪を閉じる。
靄は細い悲鳴のような音を立てて、内側から砕けた。黒い粒が一瞬だけ路地の空気に舞い、そのまま夜の湿気へ溶けていく。
静かになった。固まっていた通行人たちが、ゆっくり呼吸を取り戻す。サラリーマンが壁に手をつき、若い女が何が起きたのか分からない顔で周囲を見回す。だが、立ち直るまでに三日前より明らかに時間がかかっていた。
弦はレスポールを少し下げ、ようやく息を吐いた。
「……二人じゃ、遅いな」
蓮が白くなった腕を押さえながら笑った。
「せやろ。なんとかはしたけど、なんとかなってない」
「見ればわかる」
「見えてたら、もっと早く助けろよ」
「もう来てた」
今度の声は、本当に駆だった。
路地の入口から、いつもの帽子のまま静かに入ってくる。まるでコンビニにでも寄ってきた帰りみたいな顔をしている。
「終わったか」
「終わったか、じゃねえよ!」
蓮が叫ぶ。
「遅い!」
「道が混んでた」
「渋谷なめんな!」
駆は反論せず、路地の中央まで来て、消えた靄の残滓があったあたりを見た。耳で確認しているのかもしれない。少しだけ顎を上げ、それから蓮の腕へ視線を落とす。
「掠めたか」
「見たらわかるやろ」
「跡は残らないはずだ」
「優しさの温度が低いな、お前」
蓮が文句を言う。そのやり取りに、弦は少しだけ笑いそうになったが、すぐに笑えなくなった。駆は路地の外へ一度視線をやった。
「まだいた」
「何が」
「観測者」
弦の背筋が張る。
「やっぱり見えてたのか」
「白いヘッドフォン。女。ビル影にいた。逃した」
ファミレスのノイズと繋がる。見られていた、というあの言葉が、一気に現実味を帯びた。
「……途中から見てたのか」
弦が言うと、駆はうなずいた。
「途中から」
「だったらもっと早く入れ」
「二人でどこまでやれるか、確認したかった」
蓮が心底嫌そうな顔をする。
「忍者って性格悪いな」
「今さら気づいたのか」
駆が言うと、蓮は一瞬だけ言葉を失ってから吹き出した。だが弦は笑えなかった。
「確認って、お前」
弦は低く言った。
「通行人が巻き込まれてるのも見えてただろ」
「見えてた」
「じゃあ――」
「だから限界も分かった」
駆の声は冷静だった。
「二人だけだと勝てても遅い。被害が残る。あいつらは、そこを突いてくる」
正論だった。正論であることが、なおさら腹立たしかった。
蓮が間に入るように息を吐く。
「まあ待て。こいつの言い方が終わってるのはいつものことや。でも、今のは事実やろ」
弦は黙った。悔しいが、その通りだった。
ライブハウスでも、今の路地でも、二人では足りない。今夜の路地戦がそれをはっきり証明してしまった。
駆がスマートフォンを取り出す。
「今からスタジオへ来い。今の感覚が消える前に、合わせておいたほうがいい」
「休ませろや」
蓮が言う。
「腕、痺れてんぞ」
「一時間だけでいい」
「お前の一時間は信用できん」
そんなやり取りを聞きながら、弦はレスポールをケースへ戻した。ネックを離す時、指先にまだあの温かい流れが残っている。古いもの。だが、もう前みたいに知らないものではなくなりつつある。
それに、もう一つ。敵もまた、自分たちを見ている。
その感覚が、さっきからずっと胸の奥に棘みたいに残っていた。
路地を出ると、渋谷の夜は何も変わっていない顔をしていた。
人が歩き、車が流れ、光が点滅する。さっきまであの路地に靄がいたことなど、誰も知らないし、知らなくて済むならその方がいいのだろう。でも、消えたわけではない。
弦にはそれが分かった。
まだ、いる。あちこちに。
その夜、渋谷の別の路地で。
黒いロングコートの女が一人、壁にもたれて立っていた。白いヘッドフォンが耳を覆っている。その耳元に、通話の小さな光が点っていた。
「確認できました」
女は言った。
「三人とも、揃いつつあります」
少し間を置く。
「はい。虚無の葬列の意向も理解しています。あの三人は、まだ音を救いの側で使っている。なら、壊し方もまだ素直です」
声は冷たい。抑えているというより、もともと熱の少ない声だった。
「ええ。ギタリスト、ラッパー、DJ。揃って出てくれたほうが、むしろ都合がいい。まとめて見込めますから」
また、向こうで低いノイズが鳴る。人の声ではない。だが女は、それを会話として受け取っているらしかった。
「分かっています。三人が完全に噛み合う前に崩す。チームになる前に、土台を壊す」
通話が切れた。
女――ミストは、ヘッドフォンを外した。
その耳に、夜の街の音が入ってくる。車の走行音。遠い笑い声。ビル風。普通の人間にはただの雑音にしか聞こえないそれらの底で、もっと低く、もっと歪んだノイズが鳴っている。
ミストはその音に耳を澄ませた。心地よかった。渋谷の夜に満ちる不協和音は、醜いのではない。むしろ、昼の顔で取り繕われた調和より、よほど誠実だった。
人の怒りも欠落も痛みも、綺麗に整えられた瞬間に嘘になる。崩れた音のほうが、本音に近い。
渋谷の夜に、まだ誰も気づいていない不協和音が満ちている。その音は確実に広がっている。今は小さくても、育てれば街ひとつ覆うことくらいできる。だが今夜、確信したことが一つある。
あの三人は、偶然ではない。だからこそ、完成させる前に折る必要がある。
ミストは静かに歩き出した。
黒いコートが夜の影へ溶ける。
足音はしなかった。溶けるように、渋谷の暗がりへ消えていく。




