第1話 売れないギタリストと平安の残響
「平安の琵琶法師の血を引くギタリストが、現代のフェスで暴れる話です。音を言語化することに心血を注ぎました」
煙草と汗と安ビールの混じった匂いが、地下へ続く階段の底から這い上がってきた。
八雲弦は、その匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
嫌いじゃない。むしろ、好きだった。
何百回嗅いでも、ここに来るたびに「始まる」という気がする。綺麗じゃない。上品でもない。けれど、音を鳴らす場所の匂いだった。だから困るのだ、と弦は思う。
まだ始まる気がしてしまう。何度、始まらなかったあとでも。
「弦ちゃーん、今日こそ来てくれてますかね、お客さん」
後ろから能天気な声が飛んできた。ベースの坂本だ。蛍光グリーンのモヒカンだけが無駄に元気で、その下の目は死んでいる。三年続けた地下活動で、楽観主義だけがしぶとく生き残った男だった。
「どうだろうな」
弦は短く返した。
黒いシャツの袖を肘までまくり、レスポールのケースを肩からずらす。坂本より少し背が高い。痩せているというより、余計な肉だけ削いだような体つきだった。頬も首筋も細いのに、ギターを抱える時だけ妙に軸がぶれない。
渋谷の地下、ライブハウス《キャパ五〇》。
名前通り、五十人入ればいっぱいの箱だ。今日はその半分も来ていない。
受付の前を通った時に見えた数字を思い出して、弦は眉を寄せた。
二十三人。ワンドリンク代を払った客が二十三人。バンドメンバーが四人、関係者が三人いるから、実質の一般客は十六人ということになる。
十六人。少ない、では済まない数だった。
最前に二、三人、壁際に数人、後ろは空く。歓声が起きても箱全体は埋まらない。いいライブをしても「今日は入ったね」にはならない。
「……まあ、十六人いればいい」
自分に言い聞かせるように呟く。
千人のどうでもいい客より、一人の本物の客のほうが価値がある。
そう信じてここまでやってきた。そう信じたせいで、前のバンドは壊れた。
もっと分かりやすい曲を書け。もっと客に媚びろ。そう言われて揉めて、最後は「お前の音は独りよがりだ」で終わった。
その言葉は今でも、ときどき指先へ棘みたいに残る。
自分の音が正しいとは、もう言い切れない。ただ、それでも曲げられないだけだ。
「十六人もいれば十分っすよ。前なんか七人でしたし」
「よく覚えてるな」
「ショックだったんで」
坂本はけろっと言って笑った。笑えるのは才能だ、と弦は少しだけ思う。
舞台袖のカーテン脇に陣取り、弦はギターケースを開いた。
レスポール・カスタム。チェリーサンバーストの艶に、金色のパーツ。古臭いと言うやつもいる。重いし、いまどきもっと軽いギターはいくらでもある。けれど弦は、これ以外を本気で抱えたことがない。
ネックを握るだけで、背筋が少し伸びる。
八雲の家は、平安から続く琵琶法師の家系だと、祖父は酒の入った夜によく言っていた。
子どもの頃は与太話だと思っていたし、今でも半分はそう思っている。ただ、このギターを抱える時だけ、その話は少しだけ現実に近づく。このギターのボディには、古い木片が埋め込まれている。曾祖母が残したものだ。詳しい由来までは分からないが、かなり古い琵琶の木材らしい、とだけ聞いた。意味は分からない。だが、このギターを弾くと、ごくまれに、自分の音の奥へ知らない残響が混じることがあった。
疲れてるだけかもしれない。そう思うことにしていた。
「弦、準備できてる?」
ドラムの古川が顔を出す。いつも通り無表情だ。
「できてる」
「じゃ五分後ね」
それだけ言って引っ込む。
弦はピックを指に挟み、アンプを通さない生音でコードを一撃した。
カラン、と乾いた音が舞台袖に響く。
次の瞬間、弦は動きを止めた。
――なんだ。
客席のほうから、奇妙な感触が押し寄せてきた。
音ではない。匂いでもない。強いて言えば、皮膚の奥が粟立つあの不快感に近い。金属のフォークで皿を引っ掻いた時の、背骨をざらりと撫でる寒気。
最近、耳鳴りに似た感覚はたまにあった。
音を出していないのに、どこかで低いハウリングが鳴っているような錯覚。だが今のは、それとは違った。
もっと近い。もっと、生々しい。
弦はカーテンの端をつまみ、そっと隙間から客席を覗いた。
ステージ前に、まばらな客が立っている。スマートフォンを見ているやつ。友人と話しているやつ。ドリンクを飲んでいるやつ。みんな普通だ。
普通、のはずだった。
その中の一角。人波から少し離れた場所に、それは立っていた。
……人の形をしている。
背丈は高い。コートを羽織っているように見えた。だが輪郭が妙にぼやけていて、隣にいる人間とは質感が違う。蛍光灯の光が当たっているのに、そこだけ影が深い。
周囲の客は誰も気づいていないのか、ごく自然にその横に立っている。
弦の喉が、ひとりでに締まった。
目が合った、と思った。そいつに目はなかった。
顔があるはずの場所が、ただ暗い窪みになっている。なのに確かに、見られているという感覚だけがあった。
次の瞬間、影がほんの少しだけ揺らいだ。いや、揺らいだのは自分の視界かもしれない。
昨夜もほとんど寝ていない。昼はバイト、夜はスタジオ、その合間に曲を書いた。疲れで見えているだけだと言われたら、否定する自信はない。
そうだ。見間違いだ。そういうことにしたかった。
客が十六人しかいない夜に、影まで見えるようになった、なんて。それを認めた瞬間、自分の売れなさまで何か別のものに侵食される気がした。
「弦、行くぞ!」
坂本の声で我に返る。
影はもうそこにいなかった。人込みの中へ溶けるように消えていた。
気のせいか。疲れているのか。
弦は一秒だけ考えて、首を振った。今は関係ない。仕事がある。
ステージに上がると、照明が目に刺さった。この箱のライトは古い。青と白しかまともに出ない。
それでも浴びると、不思議にスイッチが入る感覚がある。
客は少ない。壁も近い。天井も低い。けれど、この狭さが逆に好きだった。音がすぐ返ってくる。
「どうもー、クライシスです!」
マイクに向かって坂本が言う。客席から拍手が上がる。少ないが、ちゃんと熱がある。
弦はギターのボリュームをゆっくり上げた。
一曲目はミドルテンポのロック。ライブの頭として長く使ってきた曲だ。弦が書いたリフが骨格で、坂本のベースが肉をつけ、古川のドラムが心臓を作る。
演奏が始まった瞬間、弦はさっきの不快感を忘れた。
音の中にいる時、弦には余計なことを考える余地がない。指がネックを駆け、ピックが弦を打ち、アンプから歪んだ轟音が迸る。
それだけが世界の全部になる。少なくとも、その瞬間だけは。
三曲やった。四曲目に入る前のMCで、坂本が「来てくれた皆さん、ありがとうございます!」と叫んだ。客席から「いえーい」という声が返る。少ない人数にしては元気がいい。
そのとき、また来た。皮膚の奥を引っ掻く、あの感触。
弦はギターを持ったまま目を細めた。
客席の後ろ、出口の扉の近く。
さっきとは違う。一体ではなかった。二体、三体――いや、もっとだ。
人の形をした「影」が、出口を塞ぐように密集している。轟音が鳴っているはずなのに、その一帯だけ音が吸い込まれているような奇妙な静けさがあった。
客の一人が「あれ?」と振り返る。その瞬間だった。
影の一体が、形を失った。人の形を捨てて、ぐにゃりと広がる。煙のように膨張し、暗い靄が出口から客席へ流れ込んでくる。
一秒後、女の客が悲鳴を上げた。
靄が足元に触れた瞬間、その顔から表情が消えた。目が虚ろになり、立ったまま力を失ったみたいに膝を折る。
「なんだ、何が起きてる!」
坂本が叫ぶ。客席がざわめき始める。
弦には見えていた。靄が人に触れるたび、黒く凝固していく。客席の人間が一人、また一人と倒れる。出口はすでに塞がれていて、逃げ出そうとした男が靄に触れて硬直する。
怨霊だ。そういう言葉が、なぜかすぐ頭に浮かんだ。
論理ではない。説明もできない。ただ弦の血の奥の、何か古い部分が警告していた。
これは人間ではない。怒りと悲しみが澱んで固まったものだ。これは、音で狩るものだと。
「弦ちゃん、逃げよ!」
坂本が腕を掴もうとした。
弦は動かなかった。ステージの上で、靄が自分を見上げているのが分かった。出口の方から這うように流れてきて、ステージ前の客席を埋めていく。もう五人が倒れた。残った客が悲鳴を上げながら壁際へ追い詰められていく。
逃げ道はない。だったら。
弦はギターを構え直した。頭で考えたわけではない。身体が先に動いた。
琵琶の木が埋め込まれたレスポールのネックを、強く握りしめる。
もし本当に、自分の音が誰にも届かないのだとしても。もしずっと、自分が独りよがりなだけだったとしても。それでも今、目の前で倒れていく人間を見て、何も鳴らさずにいることだけは無理だった。
そのとき、指先へ何かが流れ込んできた。
温かいもの。古いもの。まるで、記憶だ。
真っ暗な夜道。松明の炎。三味線ではなく、琵琶を抱えた男が荒れ野の真ん中に立っている。その前にいるのは、今まさに弦の前にあるのと同じ影の群れ。
男は怯えていない。深く息を吸い、弦を打つ。その音が、影を切り裂いた。
「っ――」
弦はギターのボリュームを最大まで押し上げた。
頭の中にあるリフを弾く。理論なんか吹き飛んでいた。指が先祖の記憶に引っ張られるように動く。チョーキング、ハンマリング、スライド――派手なための技法ではない。ただ、真っすぐ靄の中心へ向かっていく音。
アンプから轟音が爆発した。
靄がびくりと止まった。
弦には見えた。音が物理的な衝撃になって靄へぶつかり、その輪郭を乱す瞬間が。
弦が鳴らすたび、靄の形が揺らぎ、客席への侵食が少し止まる。
効いている。弦はコードを切り替え、さらに深く弾き込んだ。だが靄の再生は早かった。
形を乱されても、すぐに集まり直す。切っても切っても戻るゴムみたいに、音の衝撃を受け流してじりじり近づいてくる。
額に汗が浮いた。音だけじゃ足りない。
力はある。だが、実体のないものを完全に焼き切るには、もう一つ、何かが足りない。
靄が大きく広がり、ステージに向けて跳躍した。
弦は反射的にギターを盾にしようとした。
その瞬間。
「Yo、ちょい待ち。今それ、俺の専門や」
場違いなほど軽い声が、客席のど真ん中から飛んだ。
黒いドレッドヘアの男が立ち上がる。背が高く、肩が広い。パーカーの下から白い法衣の襟が少しだけ覗いていて、そのちぐはぐさが妙に様になっていた。壁際へ追い詰められていた客の中から、そいつだけが迷いなく前へ出る。
しかも笑っていた。余裕からではない。極限で逆に口の端が上がる種類の笑いだ、と弦には分かった。
「悪いな、今夜は成仏のほうが先や」
何をする気だ。弦がそう思った次の瞬間、男が口を開いた。
普通の言葉ではなかった。高速の、リズムを持った言葉の連なり。
ラップだとすぐ分かった。だがその言葉はほとんど聞き取れない。日本語のようで、日本語だけではない。半分は古い祈りで、半分は夜の街の韻みたいな音だ。
その言葉が空気を揺らしたとき、目に見えない何かが起きた。
靄の真正面に、黄金の光が浮かんだ。
文字だ。空中に、彫刻刀で刻んだみたいな金色の文字が並ぶ。梵字に似た記号が音符のように連なり、靄を取り囲んでいく。
「っ……」
靄が初めて怯んだように見えた。
蠢いて、黄金の文字を避けようとする。だが文字の連なりはそれごと包み込むように広がり、ゆっくり収縮を始める。
男はラップを続ける。汗に濡れた額、食いしばる歯、喉の奥から搾り出すみたいな声。軽薄そうな第一声から一転して、その祈りだけは凄まじく真剣だった。
黄金の文字は増え、靄を締め付けていく。だが完全には消えない。
男の肩が少しずつ上下し始める。息が上がっている。
靄も苦しそうだが、じわじわと黄金の拘束を押し返し始めていた。
二つの力が拮抗している。
「お前!」
男が弦を見た。鋭い目だった。
「そのギター、まだ弾けるか?!」
弦は一秒も迷わなかった。
「弾ける」
「じゃあ合わせろ。ズレたら殺す、いや死ぬ。どっちも嫌やろ!」
説明は何もない。でも分かった。この男の言葉と、自分の音は、繋がる。
さっきから感じていた足りなさは、これだ。自分の音だけでは靄の実体を掴めない。だが、この男の言葉が靄を縛るなら、自分のギターはその核心を撃ち抜ける。
弦はギターを構えた。
男のラップが続く。
弦はそのリズムへ耳を澄ませた。モニターから返る声。呼吸の位置。言葉の跳ね方。テンポを掴む。
ズレた。もう一度。
また少しズレる。
三度目、弦は目を閉じた。理論はいらない。ただ、この声の温度に自分のギターを重ねる。琵琶の記憶が指を動かす。
合った。電流みたいなものが走る。
ギターの音と男の声が溶け合い、別の何かになる。音楽というより、もっと根っこのほうにある何か。言葉と旋律がひとつの意志みたいになって靄へぶつかっていく。
黄金の文字が爆ぜた。
靄が悲鳴を上げた――少なくとも弦にはそう聞こえた。
ぐるりと収縮した靄が、四方へ弾け飛ぼうとした、その一瞬。
会場の音響が変わった。
弦もドレッドの男も鳴らしていない。なのに、低く、重いビートが箱全体に立ち上がる。
単純だ。だが正確だった。
靄の動きを封じるように、特定の帯域だけを叩くビート。
弦には、それが意図して組まれたものだと分かった。
PAブース。
そこに、一人の男が立っていた。
目深に帽子をかぶった細身の男だった。黒いパーカの袖口から覗く手だけがやけに大きい。顔はほとんど見えないのに、ターンテーブルへ落ちる指先だけが異様に速い。スクラッチのたび、ビートの角度が変わる。弦の音と、ドレッドの男の声を、そのビートが引き寄せる。
まるで三つの楽器が、最初から出会うことを知っていたみたいに。
ぴたりと嵌った。
靄が動けなくなる。黄金の文字が再び収縮し、ビートが靄の形を固定し、弦のギターが最後の一音を叩き込む。
轟音。白い閃光。次の瞬間、靄は消えていた。
影も形も残さず、空気へ溶けるように。
倒れていた客が、ぽかんとした顔で身を起こし始める。霧のかかったみたいだった表情に、少しずつ意識が戻っていく。
その中で、一人だけ他の客より早く身を起こした女がいた。
長い髪が頬に張りついている。年は弦とそう離れていないように見えた。まだ顔色は悪いのに、その目だけは妙に醒めていて、床でも出口でもなく、まっすぐ弦のギターを見ていた。
それから蓮、駆の順に視線を移し、何かを確かめるみたいに細く息を吐く。だがスタッフに肩を支えられると、女は何も言わず、そのまま人の流れに紛れて消えた。
静寂が落ちた。
弦はギターを抱えたまま、大きく息を吐いた。
指先が熱い。弦を叩きすぎたのか、少し痺れている。
「……なんだったんだ、今の」
坂本の声が遠くから聞こえた。
弦には答えられなかった。言葉がないわけではない。ただ、それを口にした瞬間、今夜起きたことが完全に現実になってしまう気がした。
客席から、ドレッドの男が歩いてくる。PAブースからも、帽子の男がゆっくり降りてくる。
二人は弦の前で止まった。三人は互いに顔を見合わせた。
ドレッドの男が先に口を開く。
「俺、蓮」
汗を手の甲で拭いながら言う。
「高野海未。まあ戸籍よりこっちの方が本体や」
帽子の男は黙って一度うなずいた。
それだけでも自己紹介のつもりらしい。だが、その視線だけは妙に冷静だった。助けに入った直後の人間の目ではない。まだ何かを観測している目だ、と弦は思った。
弦は二人を交互に見た。
音の守護者。そんな言葉が、どこからともなく湧き上がってきた。
「俺は八雲弦」
それだけ言った。
「知ってる」
帽子の男が初めて口を開いた。低い声だった。
「お前のギターは、前から変な鳴り方してた」
弦はその顔を見る。
「……変?」
「普通の歪みじゃない。街のノイズに混じっても、拾える」
言い方に悪意はない。だが気味が悪かった。まるで前から自分を観測していたみたいだった。
「俺たちが会う前からな」
帽子の男は、そこで初めて自分の名を名乗った。
「駆」
それだけだった。意味は分からない。だが今夜の出来事を振り返れば、意味が分からないことの方が正常だった。
「……続きは外で話そう」
蓮が頭の後ろを掻きながら言った。
「どっちにせよ、今夜はもうここでライブは無理やろ。ライブハウス的に」
弦は客席を見た。呆然とした客たちが、スタッフに誘導されながら出口へ向かっている。出口の靄はもう消えていた。みんな無事だ。
「そうだな」
弦はギターのストラップを外し、ケースへ戻した。
琵琶の木が埋め込まれたレスポール。
今夜、それは確かに何かを目覚めさせた。
それは祝福かもしれないし、厄介ごとかもしれない。ただ一つ確かなのは、もう前までの「売れないだけのギタリスト」には戻れない、ということだった。
地上へ出ると、渋谷の夜風が頬を撫でた。三人は誰からともなく歩き始めた。
行き先は決めていない。けれど、同じ方向へ足が向く。
夜の街の向こうで、どこかのビルが明かりを消した。
暗くなった窓の中に、弦は一瞬だけ黒い影が揺れるのを見た。
まだいる。あちこちにいる。そして、誰も気づいていない。
弦はギターケースを背負い直した。
音が届くかどうかなんて、もうどうでもよかった。
少なくとも今夜、自分の音は何かに届いた。
だったら、まだ鳴らせる。まだやることがある。




