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第19話 山の言葉、蓮の喉

 山の朝は、渋谷より冷たいのに、音は近かった。

 風が杉を渡る音。谷の底で水が石を打つ音。遠くの堂で戸が開く音。どれも小さい。けれど、ひとつずつが妙にはっきりしている。街の音みたいに重なって濁らない。余計なものがないからだ、と蓮は思った。

 高野山系の山寺へ続く石段の下で、蓮は一度だけ立ち止まった。

 でかいバックパック。喉にはまだ薄い違和感が残っている。潰れかけた声は戻りつつあるが、前みたいに無造作には使えない。少し力を入れると、すぐ奥がひりついた。

 逃げた場所へ戻るのは、体力より気力を使う。

「止まってると余計しんどいぞ」

 後ろから声が飛んだ。

 振り返ると、作務衣姿の男が立っている。三十代後半くらい。髪は短く、体は細いが、立ち方に無駄がない。蓮の兄弟子だった男だ。

「迎えに来るとか、やさしいやん」

 蓮が言うと、男は鼻で笑った。

「師が途中で帰らせるなって言っただけだ」

「相変わらず言い方が雑やな」

「お前にだけは言われたくない」

 兄弟子は背を向けて歩き出した。蓮も仕方なくそのあとを追う。山門をくぐると、空気が一段細くなった。建物も庭も石畳も、全部が少しだけ息を潜めている。

「親父は」

「本堂」

「怒ってる?」

「お前、帰ってくるたびにそこ気にするな」

 兄弟子は振り返らない。

「怒ってるかどうかで言えば怒ってる。でもそれだけなら呼ばん」

 いちばん面倒なやつだな、と蓮は思った。

     

 同じ頃、駆は山の奥へ入っていた。

 雨上がりの匂い。土、杉、濡れた石、遠い水。街では混ざるものが、ここでは一つずつ分かれている。渋谷の音は混ざっている。ここは混ざらない。そこがやりにくかった。

 頭上から「遅い」と声が落ち、枝の間から影が一つ降りてくる。音はしない。着地したあとでようやく落ち葉が一つ鳴った。

 年齢の見えにくい男だった。細い。だが細いだけではない。余計な形がない。

「叔父上」

 駆が言うと、男は鼻で笑った。

「まだそう呼ぶのか」

「他に呼び方を知らない」

「知らなくていい」

 叔父は駆の荷物を一瞥した。

「戻る気はないんだろう」

「ない」

「なら何をしに来た」

 駆は少しだけ間を置いて答えた。

「足りないものを取りに来た」

 叔父はそれ以上、何も言わなかった。

     

 同じ頃、弦は海に近い町を歩いていた。

 潮の匂いがした。錆びた鉄と塩の気配が、風に薄く混じっている。渋谷とも、山寺とも違う空気だった。ここでは風が横へ通る。

 先祖ゆかり、と曾祖母が言っていた土地。琵琶の木片の由来も、そこへ繋がっているかもしれない。確かな資料はない。半分は勘だ。

 でも今の弦には、その勘を笑い飛ばす気になれなかった。

 虚無の葬列の前で、自分のギターは届かなかった。

 大きく鳴らしても、鋭く切っても、途中で絡め取られた。

 どうすれば、音は届くのか。その問いだけを抱えたまま、弦は町外れへ歩いていく。

     

 同じ頃、澪は都内の小さなホールにいた。

 照明の落ちた客席。整然と並ぶ椅子。何も鳴っていないのに、空の箱にはいつも、前に鳴ったものの薄い残り方がある。

 澪は目を閉じた。

 あの夜、奪われたのは音だけじゃなかった。客席の呼吸、視線、怖がるタイミング、その全部だ。演奏だけ強くなっても勝てない。箱ごと持っていかれたら終わる。

「……じゃあ、どこを守ればいい」

 答えはまだない。

 でも、読まなければならない場所があることだけは分かり始めていた。

     

 父は本堂の脇にいた。

 読経のあとの静けさの中で、座布団に正座している。年は取った。肩も少し落ちた。だが背筋だけは曲がっていない。蓮が一番嫌いで、一番よく知っている背中だ。

 父は振り返らなかった。

「遅かったな」

「呼ばれたから来ただけや」

 父がようやくこちらを見る。表情はほとんど動かない。ただ、目だけは真っ先に蓮の喉を見た。

「潰したか」

「半分だけな」

「半分で済んだなら浅い」

 言い返しかけて、蓮はやめた。ここで噛みついても得るものはない。

「ここへ何をしに来た」

 父が言う。

 蓮は喉を押さえずに返した。

「言葉を作り直しに来た」

 父の眉が、ほんの少しだけ動いた。

「前のままじゃ通らん相手がおる」

「やっと気づいたか」

「嫌な言い方やな」

「お前が遅い」

 父は立ち上がった。

「ついて来い」

 それだけで話は終わった。

     

 修行は、蓮が思っていたものと違っていた。

 もっと直接的に真言を叩き込まれるのかと思っていた。だが最初にやらされたのは、掃除だった。

 本堂の床。回廊。庫裏の奥。鐘楼の下。ひたすら拭く。磨く。落ち葉を集める。水を替える。黙ってやる。

 朝から昼まで、それだけだった。

「……これ、意味ある?」

 我慢しきれずに聞いた時、兄弟子は箒を動かしたまま言った。

「お前、声を武器にしてるつもりやろ」

「実際そうや」

「武器は手入れせんでも使える。でも言葉は場が汚れてるとすぐ濁る」

 最初は意味が分からなかった。

 けれど黙って作業を続けていると、自分の呼吸が雑なのが分かる。足音がうるさい。焦っている時ほど、物音が増える。余計な力を抜くと、箒の擦れる音さえ細くなる。

 その基礎っぽさが嫌だった。

 早口のフロウも、派手な韻も、気合いも関係ない。ただ呼吸と間合いだけに落とされると、自分の雑さが丸見えになる。

     

 三日目、父が初めて蓮の前で声を出した。

「言ってみろ」

「何を」

「何でもいい。お前が今いちばん口にしやすい言葉を」

 蓮は少し考えてから、普段でも乗せやすい短い一行を選んだ。喉を開き、腹を使って、前へ飛ばす。だが父は首を振る。

「速い」

「ラップやぞ」

「知っている」

 父の声は平坦だった。

「だが、それは自分が気持ちよく飛ぶ速さだ」

 蓮は顔をしかめる。

「何が悪い」

「悪くはない。だが、それでは相手の呼吸に触れない」

 父は一歩前へ出た。

「飛ばすだけでは場は変わらん」

 蓮は黙った。図星だったからだ。

「相手の喉が閉じている時、早い言葉は入らん。相手の息が乱れている時、強い言葉は届く前に落ちる」

「じゃあ、どうせえっちゅうねん」

「一音で立たせろ」

 短い言葉だった。蓮は思わず笑いそうになった。

「簡単に言うなや」

「簡単ではない。だから、お前は今ここにいる」

 そのあと、父は自分で真言をひとつだけ唱えた。

 長くない。派手でもない。むしろ静かだ。だが、その一音が出た瞬間、本堂の前の空気が少しだけ張った。

 風の音が近くなる。鳥の声が止まる。蓮の肩が、無意識にまっすぐになる。

「……今のや」

 思わず呟くと、父は頷かないまま言った。

「今のは、ただの入口だ」

     

 それからが地獄だった。

 一音を出す。

 父は「違う」と言う。

 もう一度。

 兄弟子が「浮いてる」と言う。

 三度目。

「速い」

 四度目。

「自分の喉だけで鳴らしてる」

 五度目。

「腹で押すな」

 六度目。

「言葉の意味に酔うな」

 七度目。

「まだお前しか聞いてない」

 何度やっても通らない。

 蓮は苛立った。喉も熱を持つ。昔ならここで力で押していた。早く刻み、強く叩き、ねじ伏せれば、ある程度までは持っていけた。だが今回は、それをやるほど空回りした。

 父の前では一番嫌な部分だけが出る。うまく見せたい。分かった顔をしたい。山を出たあとに積んだものを、ここで否定されたくない。その欲が混じるほど、一音が薄くなる。

 夕方、蓮は本堂の裏でついに声を荒げた。

「無理や!」

 喉に悪い出し方だった。案の定、すぐに咳き込む。

「無理ちゃうか、これ! 何やねん一音って! 俺は坊主やなくてラッパーやぞ!」

 兄弟子は少し離れたところで腕を組み、父はもっと向こうでこちらを見てもいない。

 その無関心が余計に腹立たしい。

「何で今さら、こんなとこまで戻らなあかんねん……!」

 吐き捨てたあと、自分の声の濁りに気づく。

 戻る、じゃない。たぶん本当に、そこを飛ばしてきたのだ。

 それが悔しかった。悔しいというより、怖かった。今まで武器だと思っていたものが、勢いに助けられていただけかもしれないと見せつけられるからだ。

 蓮は石段へ座り込んだ。

 その隣へ、誰かが腰を下ろす。兄弟子だった。

「辞めるか?」

 さらっと聞く。

 蓮は顔を上げないまま言った。

「辞めたら楽なんやろな」

「まあな」

 兄弟子はあっさり認めた。

「でも、お前が山出たあとに拾ったもんは、ちゃんと強いぞ」

 意外で、蓮はようやく顔を上げた。

「何や、急に褒めるやん」

「褒めてるわけじゃない」

 兄弟子は苦笑する。

「山の言葉だけやったら、今のお前はおらん。街の言葉だけやったら、ここまで戻ってこん。両方あるのは正しい」

「……だったら何で通らへんねん」

「混ざってへんからやろ」

 あまりに単純で、蓮は言葉を失った。

「お前、山の声出す時はラップじゃない方の自分になろうとするし、ラップやる時は寺から逃げた方の自分で押すやん」

 その通りだった。

「どっちもお前や。分けるから細る」

 兄弟子は立ち上がる。

「一回、飛ばすのやめろ。置け」

「置く?」

「お前、何でも前へ飛ばしすぎや」

 それだけ言って、兄弟子は行ってしまった。

 蓮は石段に座ったまま、しばらく動けなかった。

     

 夜、本堂には誰もいなかった。

 蝋燭の火だけが低く揺れている。外では風が木を鳴らしている。昼間の修行の声も、兄弟子の足音もない。

 蓮は一人で本堂の前に座った。

 マイクはない。ビートもない。観客もない。あるのは喉と息と、座布団の少し硬い感触だけだ。

 飛ばすのをやめる。置く。

 兄弟子の言葉を、半信半疑のまま思い出す。

 蓮は深く息を吸った。

 真言でも、ラップでもない。その中間みたいな言葉を、まず一つだけ置く。

「戻れ」

 小さい声だった。

 誰に向けたのか、自分でも分からない。客席か、自分の喉か、それともここへ戻ってきた自分自身か。

 とにかく、前へ飛ばさずに置く。

 もう一度。

「戻れ」

 今度は、ほんの少しだけ腹の位置が低い。

 風がそこで一瞬だけ近くなった気がした。

 蓮は目を開ける。

 派手なことが起きたわけではない。黄金の文字も出ない。床も震えない。けれど、声が自分の喉だけで終わらなかった感触があった。

 置いた場所から、じわりと場へ染みる。飛ばしていないのに、届いている。

 蓮はもう一度、同じ言葉を言った。

「戻れ」

 今度は、本堂の空気が少しだけ張る。

 蝋燭の火が揺れ、風が止まり、木の鳴る音が一拍だけ遅れる。押しのけるのではない。場の息が、その一言に合わせて細く揃う。

 蓮はそこで、初めて笑った。

 全部を掴んだわけじゃない。

 でも、入口は触れた。それで十分だった。



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