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第18話 修行へ

 雨の翌日、渋谷の空は妙に高かった。

 昨日あれだけ降ったのに、今日は雲が薄い。ビルの隙間へ抜ける青がやけに遠く見える。濡れたアスファルトはまだ少し光っているが、空気そのものは軽くなっていた。

 地に入ると、換気扇の音がいつもよりよく聞こえた。

 誰も先に来ていなかった。

 弦は鍵を閉め、地下室の真ん中で少しだけ立ち止まる。ここに一人でいるのも、四人でいるのも、もう何度か経験した。だがこれから何かを決めるために先に来るのは、初めてかもしれなかった。

 壁に貼り直されていないスケジュール表の跡が、まだ白く残っている。

 レスポールのケースは、いつもの位置にあった。

 昨日、高架下から戻ってきたあとも、結局開けなかった。だが今日は、その前を通り過ぎても息が止まらない。それだけで少し違う。

 ケースの前にしゃがむ。取っ手に手をかける。深く息を吸って、ゆっくり開けた。

 黒い内張り。チェリーサンバースト。金色のパーツ。見慣れたはずの姿が、少しだけ久しぶりに見えた。

 壊れていない。当たり前だ。虚無の葬列にやられたのは、自分たちの音の届き方であって、ギターそのものではない。なのに弦は、昨日までそれを確かめることすら怖がっていた。

 レスポールを持ち上げる。重い。だが、重さが戻ってきた感じがした。嫌な記憶だけの重さではない。これを背負ってきた時間の重さだ。

 その時、ドアが開いた。

 蓮だった。パーカーのフードを片手で押し下げながら入ってくる。喉はまだ完全ではないらしい。だが昨日より顔色はましだ。弦を見ると、少しだけ眉を上げた。

「開けたんやな」

「今さっき」

「触れた?」

「まだ」

 蓮は小さく頷く。

「俺も、昨日の夜やっと声出した」

 完全に戻ってはいない声だ。だが、言葉として聞こえる。少し掠れているぶんだけ、妙に本音に近く聞こえた。

「どうだった」

 弦が聞く。

 蓮は少し考えてから言う。

「最悪ではなかった」

 それだけで十分だった。

 次に入ってきたのは駆だった。相変わらず帽子を目深にかぶっている。だが今日は、いつもより少しだけ荷物が多い。端末のケースだけでなく、細長い黒い箱まで持っている。

 弦がそれを見る。

「何だ、それ」

「持っていくもの」

 駆は短く答えた。

「どこへ」

「まだ決めてないわけじゃないだろ」

 その返しに、弦は少し黙った。たしかにそうだった。昨日、高架下で言葉にまではしなかったが、四人とも同じことを感じていたはずだ。今のまま一緒にいても、同じ場所をぐるぐる回るだけだと。

 最後に澪が来る。

 今日は私服だった。黒いジャケットではなく、薄いグレーのコート。だが歩き方はいつもと変わらない。地下室へ入ると、まず全員の顔を見た。それから、レスポールが開いているのを見て、少しだけ目を細めた。

「開けられたんだ」

 弦は頷く。

「一応」

「十分」

 澪はそれ以上そこへ触れなかった。

 四人が揃う。久しぶりの感じがした。実際には数日しか経っていないのに、もっと長く離れていたような気がする。

 澪が口を開く。

「昨日の続き、というより確認」

 誰も座らない。立ったまま聞く。

「今のまま戻っても意味がない」

 それは、すでに全員分かっている言葉だった。だから誰も反論しない。

 蓮が先に言う。

「せやな」

 掠れてはいるが、昨日よりずっとまっすぐな声だった。

「戻って、すぐ次の現場行っても、多分また同じになる」

 駆も続く。

「再現性がないまま積み直しても、崩れる」

 弦はレスポールのネックを軽く握った。

「じゃあ、どうする」

 聞きたいというより、確認だった。

 澪が一人ずつ見る。

「離れる」

 短い言葉だった。

「逃げるためじゃない。持ち帰るために」

 地下室の空気が、そこで少しだけ変わる。

 別れる。それは一度壊れたあとには怖い言葉でもある。だが、昨日までの終わりかもしれない別れとは違って聞こえた。

 蓮が壁にもたれながら言う。

「俺は山戻るわ」

 誰より先に言った。

「ちゃんと、声の芯からやり直したい。今の俺、言葉を飛ばしてるだけの時がある」

 そこで少しだけ自嘲気味に笑う。

「真言もラップも、どっちも中途半端に器用になりすぎたかもしれん」

 その自己分析が、蓮らしくなくて逆に本気だった。

 弦は聞く。

「高野山か」

「そこまで本家本元ではないけど、山には行く。親父とも、多分また揉める」

「大丈夫か」

「大丈夫やなくても行くしかないやろ」

 蓮の答えに、弦は小さく頷いた。

 駆が次に言う。

「俺は里に戻る」

 言い方が短いので、一瞬だけ言葉の重さを見失いそうになる。だが駆にとって里がどれだけの意味を持つかは、もう何となく分かる。

「禁機を見直す」

 蓮が顔をしかめる。

「また物騒なこと言い出したな」

「物騒じゃない。必要なものを拾いに行く」

 駆は淡々としている。

「向こうのやり方に対して、今のままじゃ帯域も位相も薄い。根本から組み直す」

 弦は聞く。

「一人で行くのか」

「そういう場所だから」

 それ以上は聞かない方がいい気がした。

 次に視線が澪へ向く。澪は壁際の機材ケースへ指先を置きながら言う。

「私は現場へ戻る」

「戻る?」

 弦が聞く。

「表の方へ。音響、導線、ライブ運営、群衆制御。怪異じゃない方の現場をもう一回掘る」

 蓮が少しだけ笑う。

「十分強そうやけど、まだ足りんのか」

「足りない」

 澪は即答した。

「今の私は、箱を読めるだけ。向こうは箱そのものを儀式にしてきた。なら、そのやり方ごと知らないと追いつけない」

 その目は真剣だった。たぶん澪は、自分のやり方をいちばん甘く見ていない。そこがこの人の怖いところであり、信用できるところでもあった。

 最後に弦へ視線が来る。

「お前は?」

 蓮が聞く。

 弦は少しだけ黙った。

 自分だけ、まだ言葉が遅れている感じがあった。だが、昨日から考えていなかったわけではない。レスポールのボディへ視線を落とす。

「俺は、ルーツの方へ行く」

「ルーツ?」

「琵琶」

 口に出すと、それが少しだけ現実になる。

「今の俺、ギターのつもりで鳴らしてる。でも中に入ってるのは、あの木だろ。なら、そこをちゃんと知った方がいい」

 蓮が小さく頷く。

「京都で何か掴みかけてたもんな」

「ああ」

 弦は認める。

「音量じゃなくて、届き方を変えられる気がした。けど、まだあれは偶然に近い。次もできるものにしたい」

 言葉にしてみると、少しだけ腹が決まる。自分がただ逃げるのではなく、何を取りに行くのかがやっと形になった。

 四人の行き先が、そこでようやく並んだ。同じ場所へ戻るためではない。違う場所へ行って、それぞれが今の足りなさを持ち帰るための別れだった。

 澪が言う。

「期限は切らない」

 それは意外だった。

「決めないのか」

 弦が聞く。

「決めて焦る方が危ない」

 澪の返しは冷静だ。

「揃うために行くんじゃない。変わるために行く。それぞれが変わらなかったら、戻っても意味がない」

 きっぱりした言葉だった。だがその方が、変にやさしい約束より信用できた。

 蓮が喉を軽く押さえながら言う。

「じゃあ、解散ではないんやな」

「違う」

 澪が答える。

「止めるんじゃなくて、持ち帰るために離れるだけ」

 駆がそれに続く。

「中断だな」

「休止って言葉の方がバンドっぽいで」

 蓮が言う。

「軽い」

「重すぎても嫌やろ」

 そのやりとりに、ほんの少しだけ、前の空気が戻る。

 ほんの少しで十分だった。

     

 それからの時間は、妙に静かだった。

 別れの前に大騒ぎをするでもなく、四人はそれぞれ必要なものをまとめた。駆はケースの中身を確認し、壊れたパッドと使える端末を分けていく。蓮は数珠を布へ包み、喉を冷やすための小さな薬缶までバッグへ入れた。澪はメモ帳を机に広げ、現場名を書かないリストだけを作っていた。弦はレスポールの弦を一本ずつ確かめる。

 触れられる。それだけで、昨日までよりずっとましだった。

 ケースへ戻す前に、一度だけ小さく鳴らした。

 アンプは通さない。地下室の空気を震わせるほどでもない、ごく短い一音。乾いた音が部屋の中に落ちる。

 蓮がそれを聞いて、小さく笑った。

「昨日よりええ」

「そうか」

「まだ怖がってる音やけどな」

「うるさい」

 その返しに、蓮は喉を痛めない程度の笑い声を返した。

 澪が壁を見ながら言う。

「地はそのままにしておく」

 弦が顔を上げる。

「閉めないのか」

「閉めたら終わりっぽいから」

 珍しく、少しだけ曖昧な言い方だった。

 それが妙にこの場に合っていた。

 地下室を完全に片づけてしまうと、たしかに終わりに見える。いま必要なのは、閉じることではなく、残しておくことだ。

 駆が最後に端末の電源を切る。

 静かになる。まだ途中だと分かっている静けさだった。

     

 地上へ出ると、夕方の渋谷はいつも通り人が多かった。

 何も知らない顔で信号が変わり、車が走り、看板が光る。誰も、ここから四人が別々の方向へ散ることを知らないし、知る必要もない。

 ビルの前で、四人は一度立ち止まった。

 誰も握手をしない。円陣もない。そういう関係では、まだない。

 蓮が先に言う。

「戻ってきた時、声戻ってなかったら笑ってええで」

「笑わない」

 澪が即答する。

「そこは少しは乗れよ」

「乗る意味がない」

 弦は小さく笑う。

 駆は帽子を少しだけ上げた。

「戻る時は連絡する」

「珍しく丁寧やな」

 蓮が言うと、駆は「必要だからだ」と返す。

 弦は三人を見た。

 ここで何か綺麗なことを言うべきなのかもしれない。だが、そういう言葉はどうしても嘘っぽくなる気がした。いまはまだ、気合いや友情で埋まる段階ではない。

「……じゃあ」

 それでも口に出たのは、それだけだった。

「次、今よりましな音で」

 短い。だが、たぶん今の自分にはそれで十分だった。

 蓮が頷く。

「おう」

 駆も短く、「ああ」と言う。

 澪だけは少し間を置いてから、

「ちゃんと持ち帰ってきて」

 と言った。

 その言葉が、たぶんいちばん重かった。

 四人はそこで別れた。

 蓮は駅の方へ。駆は人混みを避けるように脇道へ。澪は表通りの方へ。弦はギターケースを背負い直し、夕焼けの薄く残る空の下を、渋谷駅と反対方向へ歩き出す。

 離れる。だが、終わるわけではない。そう思えるだけのものが、まだかすかに残っていた。

 地の入口は、やがて人波の中へ埋もれて見えなくなる。

 それでも弦には、地下の空気がまだ少し背中についてくる気がした。



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