第17話 雨の再会、澪の本音
雨は、夕方からずっと降っていた。
ビルの壁を叩き、看板の縁を滑り、渋谷の路面を薄く光らせる。山の雨とも海の雨とも違う。街の雨は、落ちる前に何度も形を変える。ネオンを拾い、排気に濁り、人の傘で砕かれる。だから音だけがやけに多い。
矢代澪は、スクランブル交差点の外れで信号待ちをしながら、その音を聞いていた。
傘の縁から落ちる雫。車のタイヤが水を切る音。信号の電子音。ビル風に煽られて、どこかの看板が小さく鳴る音。
現場のない街なんてない。そんなことを、昔よりずっと先に思うようになった。
今日は現場を二つ回った。どちらも怪異案件ではない。普通の意味で揉めるだけの仕事だった。
押しの強い事務所。遅れる搬入。責任の所在を曖昧にする運営。開演前の導線修正。説明のつくトラブルばかりだ。
なのに、説明のつく現場の方が、時々よほど楽だ。澪はそう思う。
怪異は理屈の外から来る。でも、人が壊れる瞬間は、案外いつも理屈の内側にある。
照明が深すぎる。低域が溜まる。押しが起きる。誰も止めない。音が人を持ち上げる前に、別の場所を折る。その折れ方を、澪は前から知っていた。だから地のことを考えると、少しだけ胃が重くなる。
冷蔵ケース。付箋。スケジュール表。レスポールのケース。机の上の数珠。閉じた端末。
最後、あの地下室には全部残っていた。
物だけ残って、意味だけが抜けたみたいに見えた。あそこへ戻るのは、まだ少ししんどい。
スマートフォンが震える。
画面を見る。知らない番号だった。
「はい」
『あ、矢代さんですか』
若い女の声。少しだけ怯えている。
『前に、一回だけ、配信の現場で……』
白いスタジオ。黒いモニター。泣きそうな顔の女の子。
澪はすぐに思い出した。
「うん」
『直接じゃないんですけど、また変で。今日、別の現場の子が、楽屋の鏡の前でずっと動かなくなって』
澪の眉がわずかに動く。
『笑ってるみたいなのに、全然笑ってなくて。見てたら、こっちまで息が苦しくなって』
怪異かどうかはまだ分からない。でも、そういう違和感を、もう気のせいとして切れなくなっている自分がいる。
「場所は?」
聞いたあとで、小さく息を吐く。結局、こうなる。
通話を切る。
場所は原宿寄りの小劇場。今からでも行ける。でも一人で行くのは違う。見には行ける。だが、止めるところまでは届かない。
そう考えた瞬間に、澪は少しだけ疲れた。
四人でなければ足りない場所がある。そう認めること自体が、いまは少し痛い。
信号が変わる。人波が動く。
澪も歩き出す。駅ではなく、渋谷の地下の方へ。
弦はその日、ほとんど何もしていなかった。正確に言えば、何かをしようとしてやめることばかりしていた。
昼に一度、レスポールのケースの前へ行った。
取っ手に触れた。やめた。
冷蔵ケースを開けた。水だけ取った。付箋がまだ貼ったままなのを見て、すぐ閉めた。
地に一人でいると、地下室はただのコンクリートの箱へ戻る。音を鳴らす前提の場所ですらなくなる。そこに自分だけが残っていると、昨日までの戦いが全部、少しずつ嘘みたいになる。
夕方近くになって、ようやく外へ出た。
雨だった。傘を差して歩く人の群れに混じりながら、弦は特に目的もなく渋谷の裏通りを歩いた。家へ帰る気にもなれない。地へ戻りたいわけでもない。歩いていれば、少なくとも止まっているよりは頭が少し空く。でも完全には空かない。
虚無の葬列。自分の途中で死んだリフ。蓮の喉。駆の無表情。スケジュール表を剥がす澪の手。あの音だけが、雨の隙間から何度も戻ってくる。
交差点近くで、弦はふと見覚えのある背中を見つけた。
黒いコート。傘を持つ手の角度。立ち方の無駄のなさ。澪だった。
弦は反射的に足を止める。向こうも、少し遅れて気づいた。
目が合う。数秒、どちらも動かなかった。
先に口を開いたのは澪だった。
「……出てたんだ」
責めるでもない。驚きも薄い。ただ、本当にそう見えたことをそのまま言った感じだった。
「地にいても、息が詰まるから」
弦が答える。
澪は少しだけ頷いた。それ以上、気まずい言葉はなかった。
信号が変わる。人波が動く。二人だけ少し遅れて、横断歩道を渡った。
並んで歩く。雨音が間にあるせいか、沈黙はあるのに切れていない。地下室の沈黙とは違った。
あれは行き場のない沈黙だった。今のこれは、まだ言葉になっていないだけの沈黙だ。
「蓮は」
澪が聞く。
「知らない。連絡してない」
「駆も?」
「してない」
澪はそれきり黙った。
弦は少し迷ってから言う。
「……悪かった」
「何が」
「全部だよ」
澪は歩幅を変えなかった。
「そう」
あっさりした返事だった。許したわけじゃない。でも今ここで、謝罪の質を査定する気もない声だった。
高架下へ入る。雨音がコンクリートへ当たり、白く跳ね返る。
そこで、もう一人いた。
柱にもたれて立っている。黒いフード。ポケットに手を突っ込んだまま、こちらを見ている。
駆だった。
三人とも、一瞬だけ何も言わなかった。
先に口を開いたのは駆だ。
「……来ると思った」
「誰が」
弦が聞く。
「全員」
それだけ言う。いつもの駆より少しだけ人間くさい言い方だった。たぶん、こいつも一人で別の場所に立っていたのだろう。地へ戻らず、でも完全に離れることもできず、こういう雨の下で止まっていた。
澪が聞く。
「蓮は?」
駆は高架の外を一度見た。通りの向こうから、傘を差した背の高い影が歩いてくる。
歩幅が大きい。少し猫背。ドレッドが雨に濡れて、少し重く見える。
蓮だった。偶然にしては出来すぎている。でも誰も「偶然やな」とは言わなかった。それで済ませる距離ではなかったからだ。
蓮は三人を見ると、一瞬だけ足を止めた。それから近づいてくる。
「お前ら、ベタやな」
声はまだ少し掠れていた。でも、戻りつつある声だった。
弦は少しだけ笑う。
「お前もだろ」
「俺は通りかかっただけや」
「嘘っぽい」
蓮は肩をすくめる。
澪はそこで、少し間を置いてから言った。
「連絡が来た」
三人の視線が集まる。
「また現場?」
弦が聞く。
「たぶん」
澪は頷く。
「でも、今日は行かない」
「行かへんのか」
蓮が聞く。
「今のまま行っても、同じになる」
雨音が高架へ当たり続ける。
誰も反論しなかった。前なら何か言い返したかもしれない。でも今は、その通りだと全員分かっている。
しばらく沈黙が続いた。
それから澪が、珍しく自分のことを話し始めた。
「私、前から知ってた」
「何を」
弦が聞く。
「音で人が壊れる瞬間」
蓮も駆も黙っている。
澪は高架の外を見た。赤信号で止まる車列のライトが、雨粒の中で伸びる。
「怪異とか、そういう意味じゃない。もっと普通に。ライブでも、イベントでも、箱でも。低音ひとつ、照明ひとつ、押しひとつで、人って崩れる」
「泣く。立てなくなる。怒る。何も感じなくなる。そういうのを見てきた」
弦は何も言わない。
「だから最初は、六弦と錫杖も同じだと思ってた」
澪の声は静かだ。
「力のある音なんて、だいたい壊す方へ転ぶって」
蓮が少しだけ目を動かす。
「……でも違った?」
澪は少しだけ考える。
「違う時があった」
その答え方が、かえって本音に近い。
「ライブハウスで、配信スタジオで、オフィスで、商業施設で。壊すだけじゃない時があった」
弦の胸の奥へ、その言葉が少し重く落ちる。
「それ見たから、私は地に入った」
慰めではない。分析でもない。ただの事実だった。
弦は少しだけ息を吐く。
「俺、まだ分からない」
自分でも驚くくらい、素直に出た。
「音楽を守りたいのか、続けたいのか、怪異を止めたいのか。全部本当で、全部半端だ」
蓮が言う。
「俺もや」
喉はまだ少し掠れている。でも、言葉はまっすぐだった。
「救いたいのは本当や。でも、それで自分がどこまで削れるかは、まだよう分からん」
駆も少し遅れて口を開く。
「俺は制御したい」
一度、間を置く。
「でも、全部制御できると思ってたわけじゃない。……思いたかっただけかもしれない」
珍しい言い方だった。駆が自分の弱さを、そのまま出すのは初めてに近い。
澪が三人を見た。
「なら、まだ終われないでしょ」
その一言に、誰もすぐには返せなかった。終われない。たしかにそうだ。
仲直りしたわけじゃない。傷つけた言葉が消えたわけでもない。でも、終わりにしてしまうには全員まだ途中すぎる。
蓮が小さく笑う。
「しんどいな」
「そうね」
澪も否定しない。
「でも、途中で投げる方があと引く」
駆がそこで端末を少し持ち上げる。
「ログ、全部はまだ見れてない」
弦がそちらを見る。
「でも一つだけ分かった。向こう、最初から俺たちを崩すつもりだった」
「そらそうやろ」
蓮が言う。
「でも、崩れたってことは逆に言えば、形にはなってた」
駆の声は低い。
「最初からバラバラなら、ああは壊れない」
慰めではない。事実として言っている。それが、逆に少しだけ効いた。
高架の外でタクシーが水を跳ねる。赤信号の光が雨粒へ滲む。
四人はしばらく、その雨を見ていた。何かが解決したわけじゃない。次にどうするかも、まだ全部は決まっていない。けれど、ばらけたまま終わる感じではなくなっていた。
それで十分だった。
澪がスマートフォンを取り出す。
「明日は動かない」
業務連絡みたいな口調で言う。
「でも明後日、一回集まろう。話すためじゃなくて、見るために」
「何を」
弦が聞く。
「自分たちの、今の音」
蓮が少し口元を緩める。
「怖いこと言うなあ」
「怖いから見るの」
澪はそう返す。
弦は頷いた。
怖い。たぶん全員そうだ。でも、見ないままでは進めない。
雨はまだ降り続いている。
高架下の薄暗がりの中で、四人はようやく同じ場所に立っていた。
肩を組むわけでもない。熱いことを言うわけでもない。ただ、散ったままでは終わらないと分かる距離で。
それだけで、いまは十分だった。




