第16話 解散前夜
朝になっても、地の空気は冷えたままだった。
換気扇は回っている。冷蔵ケースも唸っている。蛍光灯の白い光もいつも通りだ。でも、誰も先に音を鳴らさない。
蓮は喉のタオルを外して、無理に一度だけ声を出そうとし、すぐにやめた。掠れた息だけが残る。昨日、客席へ置いた言葉が最後まで届かなかった感触が、まだ喉の奥に引っかかっているみたいだった。
駆はまた端末を開いていたが、今日は音を出していない。波形だけを見ている。箱を握られた位置、沈んだ低域、ずらし切れなかった支配。ログを追う目つきが、分析というより、失敗した瞬間へまだ身体が戻っている人間の目だった。
澪は朝のうちに一度外へ出て、昼前に戻ってきた。コンビニ袋を机に置いたが、誰もすぐには手をつけない。図面のない壁を見ている時間が長かった。ライブハウスのどこから死んだか、まだ頭の中で切り直しているのだと分かる。
弦はソファに座ったまま、まだ閉じたままのレスポールケースを見ていた。
ケースはそこにある。だが、それだけだ。
触らなければ、あの感触も戻らない。音が通らず、場に吸われ、勝てなかった夜。その考えが一瞬だけ頭をよぎって、自分でぞっとした。
「……やめた方がいいのかもな」
口に出たのは、それだった。
誰に向けた言葉でもない。でも地下室の中では、それで十分だった。
駆の指が止まる。蓮が顔を上げる。澪も机のところで動きを止めた。
弦は床を見たまま続ける。
「怪異が出るのは分かる。止めなきゃいけないのも分かる。でも、音楽まで壊れるなら続ける意味あるのかって思う」
最初に反応したのは蓮だった。
「それ、今言う?」
声はまだ少し掠れている。
でも、無理やり喉を開いた声だった。
「今だから言ってる」
弦も立つ。
「俺はバンドがやりたくてここにいる。怪異退治のためにギター抱えたんじゃない」
「でも、助かったやつらもおったやろ」
「分かってる」
「じゃあやるしかないやん」
蓮の声が少し上ずる。
「ライブハウスの客、何人かは抜けた。倒れたやつも戻った。あの場で止まらんかったら、もっとひどかったやろ」
「だからって何だよ」
弦の返しは早かった。
「毎回そうやって、救えたとこだけ見て続けるのか? 箱は取られた。場は全部向こうに握られた。俺たちの音は通らなかった」
蓮の顔が険しくなる。
「ほな何や。救えんかったからやめるんか」
「少なくとも、あのまま続けてどうにかなる気はしない」
「そら昨日のままならそうやろ。でも、立たな何も変わらんやん」
蓮は一歩前へ出た。
「俺らはあの場で客を置いて逃げたわけちゃう。最後まで立って、抜けるとこ抜いたやろ」
「でも勝てなかった」
「最初から勝てる相手しかおらん現場なんかあるか!」
その言い方に、弦の中で何かが切れた。
「お前、最近そればっかりだな」
蓮の顔が動く。
「何が」
「救う、って言葉」
言った瞬間、自分でも最悪だと思った。だが止まらない。
「それ、自分の言葉が届いた時だけ気持ちよくなってないか」
蓮の顔色が変わる。怒りより先に、傷ついた顔だった。
「……そう見えてたんや」
「違うのか」
蓮は数秒黙った。それから低く言う。
「俺は、あの場で立たせられへんかった。それが悔しいんや」
その声は静かだった。静かだから余計に痛かった。
「次は立たせる。それだけや」
「それがもう分からないって言ってるんだよ」
地下室の空気が張る。
そこで駆が口を開いた。
「どっちも感情論だ」
静かな声。だが切れ味があった。
弦が振り返る。
「何だよ」
「壊れるのが嫌だからやめる。救えるなら続ける。どっちも再現性がない」
「またそれかよ」
「またそれだ」
駆は一歩も引かなかった。
「次に同じ相手へ当たった時、何を変えるかが出てない。昨日のログを見ても、向こうは最初から箱を握ってた。こっちはその場で熱を上げて賭けた。負けるべくして負けた」
蓮が言い返す。
「賭けちゃうやろ」
「外れたら賭けだ」
「お前な」
「感覚で上振れた成功を、正しさみたいに扱うな」
蓮が一歩、駆の方へ寄る。だが弦の方が先に噛みついた。
「お前はいつもそうだな」
駆が顔を向ける。
「何が」
「自分だけ外から見てるみたいに言う」
「外から見てない。中にいた」
「でもお前、自分が場を取り返せなかったことだけは、言葉の外へ置くだろ」
一瞬だけ、駆の表情が止まった。
それだけで、弦には十分だった。当たっていると分かってしまったからだ。
「箱を握られた。位置を取られた。再配置が足りなかった。全部そうだよ。じゃあお前は何を失敗したんだよ」
駆は数秒黙った。それから低く言った。
「取り返せなかった」
その一言は短かったが、だからこそ重かった。
「向こうの支配を剥がせなかった。支えるだけで終わった」
地下室が少し静かになる。
誰も、昨日の失敗を否定できない。弦は音が通らなかった。蓮は客を立たせきれなかった。駆は場を取り返せなかった。もう、それぞれ自分で分かっている。
「……だったら同じやろ」
蓮が言う。
「お前も、弦も、俺も、失敗したんや」
「だから、次に変えるものだけ話せばいい」
駆が返す。
「そこに感情を混ぜるな」
「無茶言うなや!」
蓮の声が掠れる。喉の奥がまたひっくり返るみたいに途切れ、本人が一瞬顔をしかめる。
その痛みまで、空気を悪くする。
「もうやめて」
澪が言った。今まででいちばん冷たい声だった。
三人とも止まる。
澪は机から離れ、地下室の真ん中へ来る。四人の間に立つ。それから、一人ずつ見る。
「誰か一人を主役にしたいなら、私は抜ける」
静まり返る。
弦は一瞬、意味が分からなかった。でも次の瞬間には分かってしまった。
いまの自分たちは、四人でどうするかを話していない。それぞれが、自分の傷の正しさだけを押しつけていた。
「何だよ、それ」
澪の目は冷たい。でも、その冷たさの奥に疲れも見える。
「弦は音楽が壊れるのが怖い」
弦は言い返せない。さっき自分でそれを言ったばかりだった。
「蓮は救えないのが怖い」
蓮も黙る。喉を押さえた指先が、少しだけ強くなる。
「駆は制御できないのが怖い」
駆の視線だけが少し落ちる。
「怖いのは当たり前」
澪は続ける。
「でもいまの三人、全員そこから一歩も動いてない」
蓮が顔をしかめる。
「動こうとはしてるやろ」
「してない」
澪は言い切る。
「自分の怖さを、自分の正しさに変えて押しつけてるだけ」
誰も返せなかった。
言葉が鋭いからじゃない。もう、それぞれ自分で半分分かっていたことを、澪が全部言葉にしてしまったからだ。
「私は、四人でやるなら付き合う」
澪は続ける。
「誰か一人の正しさを通すための現場なら、いらない」
その言葉のあと、誰もすぐには動かなかった。
沈黙の中で、蓮が先に数珠を取った。机の上から掴み上げ、ポケットに入れる。
「……今日は、もう無理や」
乾いた声だった。
「お前の顔見ながら、まともなこと言える気せえへん」
それだけ言って、ドアの方へ歩く。途中で一度も振り返らない。
ドアが閉まる。音が乾いて響く。
駆は少し遅れて立ち上がった。
端末を閉じる。充電ケーブルを抜く。ケースには入れない。手に持つだけだ。
「俺も少し出る」
それだけ言う。
弦が何か言う前に、駆も出ていく。
残るのは端末の跡だけだ。椅子の上に、さっきまで使っていたメモが一枚だけ残る。
沈み
その単語だけが、やけに目に入る。
地下室には弦と澪だけが残った。
妙に広い。
澪はしばらく黙っていた。それから壁のスケジュール表へ歩く。
弦が気づく。
「おい」
澪は返事をしない。マスキングテープの端を剥がす。
ぺり、と嫌な音がした。
紙を一枚、剥がす。机に置く。次に、赤ペンを拾う。キャップを閉める。
いつも地の空気を現場にしていたものを、一つずつただの物へ戻していくみたいな手つきだった。
「澪」
もう一度呼ぶ。ようやくこちらを見る。
「私は少し距離置く」
それだけ言う。
「抜けるってことか」
「今のままなら、そう」
声は静かだった。
「誰かを悪者にしたいわけじゃない。でも、この状態で次の現場に行くのは無理」
澪はバッグを肩にかける。机の上の資料をまとめる。でも冷蔵ケースの方は見ない。
「私は、壊れたチームを現場へ連れていく役じゃない」
弦は何も言えなかった。止める言葉も、引き留める資格も、いまの自分にはない気がした。
澪はドアの前で一度だけ振り返る。
「地、閉めといて」
最後まで業務連絡みたいな言い方だった。その方が澪らしい。
そう思うのに、それが余計につらい。
ドアが閉まる。音が消える。
その夜、地は初めて本当にただの地下室になった。
換気扇は回っている。蛍光灯も点いている。機材は並んでいる。
レスポールのケースも、数珠も、残されたメモもある。何も失われていないはずなのに、全部の意味だけが抜けたみたいだった。
弦は壁際へ行き、レスポールのケースの前にしゃがむ。
開けない。もう、開けなくてもいいような気がしてしまう。
その考えに、自分でぞっとする。
ふと、冷蔵ケースの付箋が目に入る。
触るな
朝と同じ文字。でもいまは、変に静かだった。
澪のプリンは、まだ中にあるのだろう。取られもしない。食べられもしない。
その事実が、今日の壊れ方をいちばんよく表している気がした。
弦は壁へ背中を預けて座り込む。
喉の奥に、言えなかった言葉がいくつも残っている。謝りたいのか、怒っているのか、自分でも分からない。ただ、取り返しのつかないことを言った感覚だけが、はっきり残っていた。
天井を見上げる。
何も答えはない。ただ、地が初めて本当に冷えた気がした。




