第15話 折れた弦、枯れた喉、止まった盤
地の朝は、いつもより静かだった。
換気扇は回っている。冷蔵ケースも唸っている。外からは車の遠い音が来る。
音がないわけではない。ただ、人の音が少なかった。
弦はソファの端で目を開けた。
眠っていたのか、起きていたのか、自分でもよく分からない。首が痛い。背中も重い。昨日の敗北が、肉体じゃなく骨の内側に残っている感じだった。
正面の壁に、レスポールのケースが立てかけてある。
黒いケース。いつもの位置。見慣れたはずの形。
弦はしばらくそれを見ていたが、手を伸ばさなかった。
壊れたわけじゃない。なのに、開けた瞬間に昨夜の感触まで戻ってくる気がした。
ライブハウスの右奥へ食い込んでいった黒。通したはずの音が、途中で濁って死ぬ感じ。
呻喰の喉へ当てているのに、箱そのものに吸われて届き切らなかった一音。
ケースを見ているだけで、指先が少し冷えた。
床の方で、小さく咳き込む音がした。
蓮が壁にもたれて座っていた。
ドレッドは少しほどけ、喉に冷やしたタオルを当てている。何か言おうとして、やめる。口を開きかけて、眉をしかめる。声がまだ戻っていない。
「……起きてるか」
弦が言うと、蓮は頷いた。返事の代わりにスマートフォンを引き寄せ、短く打つ。
画面を見せられて、弦は少しだけ口元を動かした。
最悪
「分かってる」
蓮は肩をすくめるみたいに片手を上げる。
椅子の方では、駆がすでに端末を開いていた。たぶん最初から寝ていない。
波形、帯域、位相、タイムライン。
同じ数秒を何度も拡大し、何度も戻し、また止める。
画面の横にはメモが散っていた。
•客席中央 呼吸落ちる
•右奥 返り濁る
•位相取られた
•箱ごと握られた
•再配置 足りない
同じ箇所を掘り返し続けているのが、紙の増え方だけで分かる。
澪は壁のスケジュール表の前に立っていた。
赤ペンを持っている。でも書かない。
空いている予定欄を見て、ペン先を当て、止まり、また見る。その繰り返しだ。
地の中にいる四人は、同じ敗北を別々のやり方で持っていた。
弦は立ち上がり、冷蔵ケースを開けた。
水を一本取る。冷たい。
ひと口飲んでも、頭は少しもはっきりしない。
「……何か食うか」
誰にともなく言う。
蓮は首を振る。駆は画面から目を離さない。
澪だけが「あとで」と言ったが、その声もほとんど現場連絡と変わらなかった。
昼を過ぎても、何も進まなかった。
時計は進む。通知も来る。外の街は動いている。でも地の中だけが、昨夜の最後の一音で止まっている。
弦は何度かレスポールの前まで行った。取っ手に手をかける。止まる。離す。
二回繰り返して、三回目でやめた。
開けたところで何が変わる。いま触ったら、昨夜の「届かなかった感触」だけが先に戻ってきそうだった。
蓮は喉を冷やしたまま、声を出そうとして失敗する。
「あ」
それだけ出て、すぐに喉の奥がひっくり返るみたいな音になる。
顔をしかめて、口を閉じる。
ライブハウスでは最後まで声を置き続けた。でも客席全体は立たせきれなかった。
それが、いまの喉にそのまま残っているみたいだった。
駆はまだ同じログを見ていた。
時々、音を出す。
葬列の低い介入音。呻喰の濁った吸気。こちらの崩れた拍。蓮の途中で擦れた声。弦の、裂け目へ当たる直前で鈍る高音。
「……やめろ」
弦が言う。駆の指が止まる。
「何を」
「その音」
駆は画面を見たまま返す。
「見ないと分からない」
「分かったところで、今すぐどうにかなるわけじゃないだろ」
「どうにかなるかは、見てから決める」
正しい。でも今日は、その正しさが刺さる。
弦は返事をしなかった。
澪は夕方近くになって、ようやくスケジュール表へ何か書いた。
明日、明後日の欄に、短く空けるとだけ。
仮押さえしていた現場を断るメッセージも、無言で打って送る。
「休むのか」
弦が聞く。
「休まないと次で死ぬ」
澪は振り返らずに答えた。
「機材も、人も、喉も、頭も。全部いまは戻ってない」
「でも現場は来るだろ」
「来る」
「じゃあ何で断れる」
「断るのも仕事」
その答え方は、いつもの澪だった。冷たいようで、たぶん正しい。
弦は少し黙ってから言う。
「……お前は平気なのか」
そこで初めて、澪がこちらを見る。
「平気に見える?」
弦は答えなかった。
見えない。でも見せないようにしているのだとも分かる。
澪はまた視線を戻し、赤ペンのキャップを閉めた。
「現場は終わったあとに崩れる暇がないから」
それだけだった。
少し遅れて、蓮のスマートフォンが震えた。
画面を見る。ライブハウスのスタッフからだった。
昨夜の客のうち、何人かは軽い過呼吸と過換気で済んだ。救急搬送された二人も、命に別状はない。箱は今日は営業停止。機材は一部不調。奥のスピーカー一本が死んだらしい。
蓮はその文面を読んだまま、しばらく動かなかった。
弦が聞く。
「どうだった」
蓮は画面をそのまま見せる。
弦は読み終えて、小さく息を吐いた。
最悪ではない。でも、良くもない。
「客は助かったな」
弦が言う。
蓮は少し遅れて頷いた。
それからまた、短く打つ。
箱は取られた
それは慰めにならない現実だった。
助けた。でも守れなかった。その線引きが、いちばん嫌だった。
駆がその会話を聞いて、低く言う。
「箱が死んだ位置が多すぎた」
「分かってる」
弦が返す。
「分かってるけど、それで済むなら苦労しない」
駆は何か言い返しかけて、やめた。珍しく、すぐに言葉を続けなかった。
夕方、澪は机の上へ昨夜の簡単な図を書いた。
ライブハウスの見取り図。
入口。ロビー。ステージ。客席。右奥。中央。天井梁。スピーカー位置。
そこへ赤で線を足していく。
「ここで最初に呼吸が浅くなった」
独り言みたいに言う。
「それから右奥。次に中央。出口の喉が詰まったのはそのあと」
誰に説明しているわけでもない。でも止めると頭の中が散るのだろうと弦には分かった。
「順番が見えてるのか」
弦が聞く。
「全部じゃない」
澪は言う。
「でも少しは」
そこで止まる。悔しさをごまかす言い方じゃなかった。
見えていたのに足りなかった、という言い方だった。
弦はそれ以上訊かなかった。
澪が背負っている敗北は、弦や蓮や駆のものと少し種類が違う。
音を出さない人間なのに、一番場全体の敗北を引き受けている顔をしていた。
夜になっても、誰も眠れなかった。
弦はレスポールの前にしゃがむ。
取っ手へ手を伸ばす。汗ばんだ指先が滑る。それでも留め具を外そうとして、止まる。
昨夜の感触が戻る。
重低音。絡め取られる線。自分の音が、自分の手を離れた瞬間に別のものへ変わる感じ。
手を離す。
「……くそ」
小さく吐き捨てる。
蓮が床からこちらを見る。
何も言わない。代わりにスマートフォンを持ち上げる。
俺も
その二文字で、喉だけじゃないのだと分かった。
駆もそこで初めて画面から目を離す。
「俺も」
小さな声だった。同じログを何度も見ているのに、一歩も先へ進めていない顔だった。
澪が三人の近くまで来る。
「今日はもう何もしない」
短く言う。
「練習もしない。分析もしない。音も出さない」
駆が口を開きかける。
「でも――」
「止める」
澪が遮る。
「今日これ以上やっても、全部悪い方向に行く」
駆は珍しくすぐ引いた。
端末を閉じる。でも机の上には置かない。膝の上で持ったままだ。
澪は続ける。
「食べて、横になる。それだけ」
蓮がスマートフォンに打つ。
寝られへん
「寝られなくても横になる」
それ以上、やさしいことは言わない。でも、そのくらいの言い方の方がいまは助かった。
深夜、地の中にはまだ小さな明かりがいくつか残っていた。
冷蔵ケース。端末のスリープランプ。充電中のスマートフォン。閉じたレスポールケースの金具。
澪は冷蔵ケースの前まで行く。
扉を開ける。中を覗く。プリンが二つ、まだそのままある。
手を伸ばしかける。止める。扉を閉める。
弦はソファからその動きを見ていた。
食べる気分じゃない。それだけで、今日の敗北がどのくらい深いか分かる。
天井を見る。
チームで戦うことは、一人で負けるより重い。そんな当たり前のことを、今日ほど骨で知ったことはなかった。
誰も壊れてはいない。でも、誰もまだ立ち上がれていない。
地の中で止まっているのは時間じゃない。
四人の「次」だった。




