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第14話 虚無の葬列は箱を奪う

 最初に変わったのは、音量ではなく、距離だった。

 虚無の葬列がフロア奥の暗がりへ現れた瞬間、ライブハウスの奥行きが一段深くなったように弦には感じられた。実際に壁が遠くなったわけではない。天井が上がったわけでもない。なのに、右奥の黒だけが、箱の広さと別の尺度を持ち始める。

 呻喰しんくいの裂けた喉が、さっきよりも暗く開いた。

 剥がれかけていたはずの輪郭が、逆に濃くなる。

 壁。スピーカー。照明の陰。客席の足元。

 そこへ黒い霧の筋が伸び、箱のあちこちへ食い込んでいく。

「下がれ!」

 澪がロビー側に残っていたスタッフへ叫んだ。

「客を外へ! 立ち止まらせないで!」

 その声でようやく、呑まれかけていた現場の時間が少し動き出す。スタッフが逃げ遅れた客を支え、ロビーへ押し出す。だが全員を一気に動かすには狭すぎる。箱そのものが、人の逃げを鈍らせる形へ変わり始めていた。

 駆が低く言う。

「来る」

 その瞬間、葬列側の一人が、ごく短く何かを鳴らした。

 楽器の形をしていたかどうか、弦には分からなかった。ただ、音だけが先に箱へ入った。

 耳を潰すほど大きくはない。

 むしろ小さい。なのに、その一音で右奥の濁りが場の正しさみたいな顔をし始める。

 駆の顔色が変わった。

「位相を取られた」

「何やそれ!」

 蓮が怒鳴る。

「この箱が、向こうの呼吸で動き始めてる」

 言い終わるより早く、呻喰が膨れた。

 巨大化、という言葉では少し違う。

 サイズだけなら人間二人ぶんか三人ぶん程度だ。だが本体の周囲から伸びた黒い帯が、客席の頭上と壁際へ根のように這う。スピーカーの陰へ潜り、照明の落ちる角へ溜まり、ライブハウス全体を一つの器官へ変えていく。

 呻喰がライブハウスに定着する。

 そう見えた。

「……まずいな」

 弦が呟く。

 さっきまでは、本体に当てれば剥がれた。今は違う。本体と箱が繋がっている。

 弦はレスポールを構えた。

「それでもやるしかない!」

 高音を一撃。裂けた喉へ通す。

 当たる。反応もある。だが、前みたいに奥へ届ききらない。

 音が途中で濁る。箱そのものが、通り道を曲げてくる。

「弦、右は切れ!」

 駆が叫ぶ。

「本体じゃない、根を剥がせ!」

 言われるまま弦は照準をずらす。

 呻喰そのものではなく、壁際へ這った黒い筋へ一音を落とす。

 今度は裂けた。だが裂いた端から、別の暗がりがそこを埋める。

「増えてるやん!」

 蓮が吐き捨てる。

 その声自体はまだ強い。でも客席に届く前に、空気がそれを濁しているのが分かった。

 蓮は喉を鳴らし、一語だけ落とした。

「戻れ」

 低く、強く、短い。

 一瞬だけ、ロビー側へ流れかけた客の足が戻る。

 過呼吸になりかけていた女の呼吸が一拍整う。

 効いている。だが、客席全体までは届き切らない。

 蓮が舌打ちした。

「足らん」

「中央が死んでる」

 澪が言う。

「客席の真ん中、もう抜け道がなくなってる!」

 見ると、フロア中央の客たちは出口へ向かって動いているのに、妙に速度が遅い。怖がって固まっているというより、出口が遠いと感じている動きだった。実際には数歩の距離なのに、その数歩が異様に長い。

 葬列の音が、距離感そのものを壊している。

     

 ステージ袖の向こうで、出演者たちも息を殺していた。

 スタッフの一人が、震える声で言う。

「警察……呼ぶ、だけでいいのか……?」

「呼んで」

 澪が即答する。

「救急も。意識飛びかけてる人がいる」

 その間にも、呻喰の黒い帯は増えていく。

 壁。天井。床。箱の死にやすい場所を正確に拾って伸びる。

 駆はパッドに指を置いたまま、低く息を吐く。

「……最悪だな」

「何が見えてる」

 弦が聞く。

「本体を支えてる位置が多すぎる」

「切れるか?」

「切れる。でも一本ずつだ」

 その返答に弦は歯噛みした。つまり、もう一匹のONIを相手にしているわけじゃない。

 ライブハウス全体が呻喰の巣になり始めている。

 葬列の一人が、また短く音を入れる。

 今度は客席後方の照明がちらついた。

 それに合わせるように、呻喰の裂け目がもう一段深くなる。

 客の一人が悲鳴を上げた。

 次の瞬間、その悲鳴が他の客の不安へ伝播する。箱が、恐怖の広がり方まで向こうの手にある。

「蓮!」

 弦が叫ぶ。

「中央!」

「分かっとる!」

 蓮は数珠を握り込み、今度は二語重ねた。

「立て。戻れ」

 前へ飛ばすのではなく、場へ落とす。言葉は確かに効いている。

 中央でしゃがみかけていた男が、はっと顔を上げる。

 ロビー側へ行くべきタイミングを失っていた客が、一歩動く。でも、それ以上は続かない。

 言葉を置いた先から、箱そのものがそれを吸う。

 蓮の顔が歪んだ。

「くそ……!」

 勢いで押し切れば、自分の声はもっと前へ飛ぶ。だが飛ばした瞬間、この濁った場では輪郭ごと散る。

 置くしかない。でも今の蓮では、この規模の客席全体を立たせるには足りない。

 駆が位置を変える。

 低音を右奥から左手前へずらす。

 呻喰の帯が一本、そちらへ引かれる。

 その隙に弦が壁際を切る。

 裂ける。だが今度は天井側が濃くなる。

「追いつかん!」

 弦が叫ぶ。

「全部は無理だ!」

「全部やるな!」

 駆が返す。

「客を抜く方を優先しろ!」

 その言葉で、弦はようやく頭を切り替えた。

 倒す。勝つ。祓い切る。それをやりたい。だが今やるべきはそこじゃない。

 澪も同時に叫ぶ。

「ロビー側だけ守って! そこの呼吸が死んだら全員詰まる!」

 箱のどこから死ぬのか。全部はまだ読めない。でも最初に潰れる場所だけは、澪にも見え始めていた。

 客席中央ではない。右奥でもない。出口へ向かう流れの喉元だ。

     

 弦は照準を変えた。

 呻喰本体ではなく、ロビー側の通路へ這い始めた黒い帯へ一音を打ち込む。

 裂ける。

 今度はそこへ蓮の言葉が落ちる。

「開け」

 短い。だがその一語で、ロビー側の空気が一拍だけ戻る。

 スタッフがその隙を逃さなかった。

 客を押し出す。肩を貸す。転びかけた女を二人で引く。

 駆がさらに位置をずらす。

 低音の芯を、出口側の通路ではなく、逆方向へ一歩逃がす。

 呻喰の意識がそちらへずれる。

 その瞬間、澪が叫ぶ。

「今!」

 客が三人、まとめてロビーへ抜ける。だが、その成功と引き換えに、フロア中央の暗がりが一段深くなった。

 呻喰は勝手に怒ったわけではない。葬列側の音が、客の恐怖の流れに合わせて位置を変えたのだ。箱全体が、一つの生き物みたいに呻喰へ餌を送っている。

 弦は奥歯を噛んだ。

 敵はONIだけじゃない。この場の作り方そのものが敵だ。

 葬列は前へ出てこない。派手にも動かない。ただ、箱がいちばん壊れる位置へ、正確に音を落としている。

 それが何より厄介だった。

     

 駆の額に汗が浮く。位置をずらす。支える。でも、向こうの場の支配には届かない。

 いまの駆がやれているのは、あくまで対処だ。敵が作った位置関係そのものを、奪い返せない。

「……足場が足りない」

 駆が低く呟く。

「何」

 蓮が聞く。

「俺たちの音が立つ場所が、向こうに先に取られてる」

 その言葉は、澪にも刺さった。

 箱の死ぬ場所は少し見えた。でも、どの順番で守れば全体が保つのか、まだ読めない。

 場を奪われてからでは遅い。先に読んでいないと間に合わない。

 弦の一音は確かに効いている。蓮の言葉も客を戻せる。駆の支えも崩壊を遅らせている。

 それでも勝てない。現時点のやり方では、この場ごと食う怪異に届かない。

「弦!」

 澪が叫ぶ。

「本体じゃなくて、中央の天井!」

 弦は反射で上を向く。

 見えた。梁と照明のあいだに、呻喰の帯が一番太く絡んでいる。

 あれが客席中央の息を吸っている。

 高音を叩き込む。裂ける。呻喰が一瞬だけ揺らぐ。

「蓮!」

「分かっとる!」

 蓮が一語を落とす。

「立て!」

 今度は中央の数人が一斉に息を吸った。

 戻る。客席の呼吸が、ほんの少しだけ戻る。

 いける、と思った。

 その瞬間だった。

 葬列の奥にいた影が、低く一音を鳴らす。たったそれだけで、裂けたはずの帯が再び繋がる。

 しかも今度は、さっきより太い。

 呻喰の喉が、もう一度深く開く。

 客席中央の男がその場に膝をついた。

 ロビー側へ走りかけていたスタッフが一瞬立ち止まる。

 箱全体が「戻るな」と言っているみたいな圧だった。

「……くそっ!」

 弦が吐き捨てる。

 当てている。効いていないわけじゃない。でも、届き切らない。

 蓮も歯を食いしばる。客を立たせても、場ごと縛られた呼吸までは戻し切れない。

 駆はさらに位置を変える。だが、守るための再配置はできても、向こうの支配を崩せない。

 そして澪は分かってしまった。いま自分たちがやっているのは、撃破ではなく延命だ。

     

「撤収」

 最初に言ったのは駆だった。

 弦が即座に振り向く。

「まだやれる!」

「やれると、勝てるは別だ」

「でもこのまま置いていけるか!」

「置いていかない」

 駆の声は低いままだった。

「客を抜く」

 その一言で、弦はようやく黙った。

 悔しい。腹が立つ。

 今ここで引くのは、負けを認めることに近い。でも、認めなくても現実は変わらない。

 今の自分たちの音では、この場を取り返せない。

 澪が短く言う。

「ロビー側を最後まで生かす。右奥は捨てる」

 その判断は苦かった。

 箱を全部守れないと認めることだからだ。でも今は、それしかない。

 蓮が頷く。

「分かった。中央と出口だけ立たせる」

「俺が右を引く」

 駆が言う。

「弦、通路確保」

「……了解」

 その短いやり取りで、もう次の動きは決まった。

 弦は通路へ這う帯を優先して切る。蓮は出口へ向かう客へ言葉を置く。駆は右奥へ芯をずらし、呻喰の意識をわずかに引く。澪はスタッフと客の流れを捌き、誰が先に出るべきかを瞬時に振り分ける。

 勝てなくても、抜ける。制圧されても、全員は飲ませない。

 その方針に切り替えた瞬間、四人の動きは逆にはっきりした。

     

 呻喰は最後まで消えなかった。むしろ、最後に見た時にはライブハウスそのものへ根を張った主みたいに見えた。

 壁の黒ずみ。照明の落ちる角。スピーカーの返り。その全部が呻喰の一部になっている。

 虚無の葬列は、その奥に立ったまま、一歩も追ってこない。追う必要がないのだ。もうこの箱は向こうのものだから。

 最後の客をロビーへ押し出した時、弦は一度だけ振り返った。

 悔しいほどはっきり分かる。自分たちは負けた。ただ強い相手に押し負けたのではない。場ごと取られた。

 音の通り道ごと、客席の呼吸ごと奪われた。

 蓮が壁に手をつき、低く息を整えている。

 喉はまだ生きている。でも、立たせきれなかった。

 駆は帽子のつばの下で、ほとんど表情を変えない。だがその無表情の奥に、明確な苛立ちがあった。

 位置を変えただけでは、支配は剥がせない。

 澪はロビーの床にへたり込みかけた客を支えながら、まだライブハウスの中を見ていた。

 箱のどこから死んだのか。どの順番で崩れたのか。それを、目に焼きつけるみたいに。

 その時、葬列の影の一つが、遠くから言った。

「未完成だな」

 嘲りでも、怒りでもない。事実を読むみたいな声だった。

 弦は反射で前へ出かけて、止まる。ここで突っ込めば、今度こそ救えない。

 葬列は笑わない。追わない。ただ、勝った場の奥に立っている。

 その静けさが、いちばん腹立たしかった。

     

 外へ出ると、渋谷の夜は何も知らない顔で鳴っていた。

 救急のサイレン。車。話し声。ビル風。

 ライブハウス一つが制圧されたくらいでは、この街の音は止まらない。

 でも四人には分かっていた。

 今夜起きたのは、小さい事件ではない。

 怪異が出た。退治しに行った。それだけの話では済まなかった。

 怪異を勝たせる側がいる。

 場を奪い、箱を殺し、客席ごと飲み込む側がいる。その事実が、いちばん重かった。

 しばらく誰も喋らなかった。

 最初に口を開いたのは蓮だった。

「……立たせられんかった」

 掠れた声だった。

 弦はギターケースの取っ手を握りしめたまま言う。

「届かなかった」

 駆は短く言う。

「場を取られた」

 澪は少し遅れて、ようやく声を出した。

「どこから死ぬか、読み切れなかった」

 誰も慰めなかった。慰めで済む負けではないと分かっていたからだ。でも同時に、この負け方がそれぞれに違う傷を残したことも分かる。

 そして、その傷はたぶん、そのまま次に必要なものの形をしていた。

 弦は一度だけ、ライブハウスの入口を振り返る。

 地下へ続く暗い階段。その下で、呻喰と葬列がまだ箱を握っている。

 今は取り返せない。けれど、このままでは終わらない。

 その悔しさだけが、妙に静かに胸の底へ残った。


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