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第13話 ライブハウスに鬼が出る

 最初の異変は、音が鳴っているのに客席が静かすぎることだった。

 渋谷の雑居ビル、その地下二階。

 箱の名前は《DUSK ROOM》。キャパは百五十あるかないか。天井は低く、ステージは狭い。壁際に黒いスピーカーが二本。バーの照明はオレンジ寄りで、フロアの奥は少し暗い。

 金曜の夜にしては客入りがいい。

 若いバンドの対バンイベント。チケットはソールド寸前。フロアの熱も、普通ならちょうどいい頃合いのはずだった。

 なのに、空気がおかしい。

「……変じゃない?」

 澪が言った。入口横の壁に寄りながら、客席全体を見ている。

 蓮がペットボトルの水を片手に眉を上げた。

「何が」

「静かすぎる」

「ライブ中やぞ」

「そういう意味じゃない」

 ステージでは三人組のギターロックバンドが演奏している。音量は十分ある。ドラムも鳴っている。ギターも前へ出ている。ボーカルの声だって潰れていない。

 それなのに、客席の熱が妙に薄い。

 ノッていないわけではない。盛り上がっていないわけでもない。でも、何かが上滑りしている。

 弦も少し遅れて気づいた。

「……客の息が浅いな」

 最前列の男が、一度大きく肩で呼吸する。後方の女がドリンクを持ったまま、出口のほうをちらちら見ている。フロア全体が、はっきり怯えているわけではないのに、どこかいつでも帰れるようにしている感じだった。

 駆は入口から一歩も動かず、箱の中の音を聞いていた。

 帽子のつばを少しだけ上げる。

「低域の返り方が悪い」

 短く言う。

「右奥が濁ってる。自然じゃない」

 澪が小さく頷く。

「私も右奥が気になってた。あそこだけ、客が寄らない」

 蓮が客席の右奥を見る。

 言われてみれば、そこだけ半歩ぶん、人の密度が薄い。誰も意識して避けているわけではないのに、自然と空間が空いている。

「案件か」

 弦が低く言う。駆は答えず、スマートフォンの簡易波形画面を一度確認した。

「たぶん」

 蓮が舌打ち混じりに笑う。

「ほんま、ライブハウス好きやなあいつら」

「人が集まる。音がある。不安が増幅しやすい」

 澪が言う。

「条件としては最悪に近い」

 弦はレスポールのケースを少しだけ握り直した。

 昔なら、ライブハウスで演奏が止まることの方が恐ろしかった。

 今は違う。止めなければならない異変があると知ってしまっている。

 ステージ上の曲が終わる。

 拍手が起こる。だが、その拍手も妙に薄い。フロア奥で、短い悲鳴が上がった。

     

 最初に倒れたのは、壁際にいた女の客だった。

 グラスを落とし、何かに喉を掴まれたみたいな顔で膝をつく。近くにいた連れが慌てて支える。スタッフが飛ぶ。客席のざわめきが一気に増える。

「始まった」

 駆が言った。

 次の瞬間、右奥の暗がりが濃くなる。

 照明が落ちたわけではない。だが、そこだけ黒が沈む。

 スピーカーの影、壁の継ぎ目、客の足元、その全部に同じ種類の暗さが広がる。

 呻喰しんくいは、最初からいた。ただ輪郭が薄すぎて、箱の不安と混ざっていただけだ。

 今、それが形を持つ。黒い霧と濡れた布のあいだみたいな塊。人型に近いのに、肩も腕も安定していない。顔らしいものはない。ただ、胸元から喉にかけてだけが深く裂けていて、その裂け目の奥にもう一つ暗い穴があるように見えた。

 叫ばない。吠えない。ただそこにあるだけで、客席の息が浅くなる。

「うわ、趣味悪」

 蓮が吐き捨てる。

 呻喰の周囲では、客たちが無意識に喉を押さえていた。

 咳き込む者。呼吸のタイミングを失う者。理由のない不安に出口を探し始める者。

 弦はケースを開ける。

「澪、動線」

「分かった」

 澪は即座に入口横のスタッフへ寄った。

「右奥に近づかせないで。ロビー側を開けて。過呼吸っぽい人は壁から離して」

 スタッフは混乱していたが、澪の言い方が具体的だったおかげで反射的に動いた。

 こういう時、抽象的な励ましより、短い指示の方が人を救う。

 駆が端末を起動する。小さなパッドに指を置く。

「弦、右奥。蓮、客席中央に響きを置け」

「了解」

 弦が一歩前へ出る。

 最初の一音は高音だった。

 鋭く切る。呻喰そのものではなく、その周囲に張りついた濁りを裂くように。

 黒い塊の輪郭が、わずかにぶれた。

 そこへ蓮の声が乗る。

「立て」

 一語だけ。

 短い。強すぎない。だがその一言が、呼吸を乱した客席中央へまっすぐ落ちる。

 呻喰が揺れた。

「効いてる」

 澪が言う。

 駆のビートが入る。

 低音で押し潰すのではなく、箱の中に足場を作るみたいな音だ。フロアの右奥に寄っていた濁りが、わずかに居場所を失う。

 弦は二撃目を入れた。

 今度は呻喰の喉。裂けた穴へ向けて、細く深い一音を差し込む。黒い塊が初めて明確に反応した。霧の表面がめくれ、濡れ布みたいな腕が客席へ伸びる。

 だが蓮がすぐに二言目を落とす。

「戻れ」

 言葉が空気を打つ。腕がそこで鈍る。

 客席の呼吸が、ほんの少しだけ戻る。

「押せる!」

 弦が言った。これはいける。最初にそう思ったのは弦だった。

 駆も同じだったのか、ビートの配置を一段強くする。澪はロビー側の扉を開けさせ、客の流れを整える。

 呻喰は強い。だが、今のところはライブハウスに湧いた厄介なONIの範囲だ。

 客席の不安を食うタイプなら、逆に言えば客席の呼吸を残してしまえば育ちきらない。

 弦はもう一度ネックを握った。今度は、前へ飛ばすだけではなく、少しだけ奥へ通す。

 音が裂け目へ食い込む。呻喰の輪郭が一段薄くなった。

 蓮が笑う。

「見えてきたな」

「まだ喋るな」

 駆が即座に返す。

「右奥、もう一回濁る」

 たしかに呻喰の本体は揺れているのに、箱そのものの濁りはまだ残っていた。

 右奥。スピーカーの影。低域の返り。

 まるで、呻喰がそこへ根を残しているみたいだった。

 澪がそれを見て眉をひそめる。

「……本体だけじゃない」

「何?」

 弦が聞く。

「この箱、もう少し深いところで噛まれてる」

 意味は分かりきらなかった。だが言っていることは正しい気がした。

 呻喰はただそこに立っているだけではない。客席の不安、照明の暗がり、スピーカーの返り、その全部を薄く繋いでいる。

 それでも、押し切れないほどではない。まだ優勢だった。

     

 ステージ上では演奏が止まり、出演者たちも袖へ下がっている。フロアの客は半分以上がロビー側へ流れた。残っているのは動けない数人と、スタッフと、異変の中心にいる四人だけだ。

 呻喰はもう、最初の不定形ではなかった。腕のようなものが二本、壁と床へ伸びている。だがそれでも輪郭は崩れ続けている。

 あと一押しで剥がせる。弦はそう確信した。

「駆、次で行ける」

「行ける」

 駆も短く返す。

「蓮、合わせろ」

「おう」

 蓮は喉を一度鳴らして、低く息を吸った。

 澪は客席とロビーの境目に立ち、逃げ遅れた客の視線が右奥へ戻らないよう位置を取る。

 四人の形が、そこで一度だけ綺麗に揃った。

 駆がビートを置く。弦が裂け目へ一音を通す。蓮が短い言葉を落とす。

 呻喰の輪郭が、ついに剥がれかける。黒い塊が、初めて軽くなる感触。

「あと少し!」

 弦が踏み込もうとした、その瞬間だった。

 照明が一段だけ落ちた。ブレーカーが落ちたわけではない。音響事故でもない。だが、箱の光り方そのものが変わる。

 右奥の黒が、さっきまでとは質の違う深さを持つ。

 空気が冷える。

 駆の顔色が変わった。

「止まれ」

 低い声だった。

「これ、違う」

 弦がネックを握ったまま振り向く。

「何が」

「呻喰だけじゃない」

 その答えより先に、フロア奥から足音がした。

 舞台袖ではない。ロビーでもない。

 客席の向こう、いちばん暗い通路の奥から、まるで最初からこの箱の一部だったみたいに、人影が現れる。

 黒。細い輪郭。音のない歩き方。

 一人ではなかった。数人。

 ステージに立つでもなく、客席を走るでもなく、ただそこへ来るだけで、箱の空気の主導権を奪っていく。

 虚無の葬列。その名前を、弦はまだ声にできなかった。だが本能で分かった。この場の異様さは、今までのONI案件と違う。

 こいつらがいる。

「……おい」

 蓮の笑いが消える。澪の背筋が凍る。駆だけが、最初から最悪を想定していた人間みたいな目をしていた。

 呻喰が、そこで再び濃くなった。剥がれかけていたはずの輪郭が、逆に箱へ食い込む。

 右奥の黒が、霧ではなく場そのものの深さへ変わる。

 フロアの奥に立った影の一つが、静かに言った。

「それは、まだこちらのものだ」

 ぞっとするほど平坦な声だった。

 次の瞬間、客席全体の息がもう一度浅くなる。

 呻喰の裂けた喉が、大きく開いた。

 弦はそこでようやく悟った。これはただのONI退治じゃない。

 自分たちは今、怪異そのものではなく、怪異を勝たせる側と向き合っている。

 ライブハウスの暗がりの中で、虚無の葬列はまだ一歩も前へ出ていない。

 なのにもう、場は向こうのものになりかけていた。



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