第12話 三人の不協和音、四人のズレ
連戦が続くと、疲れは筋肉より先に言葉へ出る。
地の空気は、ここ数日ずっと少しだけ荒れていた。機材は片づいている。配線も前より整っている。コンビニの袋も前ほど床に転がらなくなった。なのに、空気だけが散らかっている。誰かの短い舌打ち、返事の遅れ、言わなくていい一言。そういう細かい棘が、壁のあちこちに刺さったままになっていた。
――ただ、その少し前までは、まだ別の空気もあった。
冷蔵ケースの扉に、小さな付箋が一枚貼ってある。
触るな
それだけ、黒の油性ペンで書いてあった。
蓮がケースの前でしゃがみ込み、付箋を見て笑う。
「雑やな」
壁際のスケジュール表を見ていた澪が振り返る。
「雑じゃない。十分でしょ」
「十分ちゃうやろ。誰の何か分からへん」
「分かるように書いてる」
「触るなで?」
「そう」
蓮は冷蔵ケースを開け、中を覗き込む。プリンが二つ並んでいた。どちらも同じメーカー、同じ味、同じサイズだ。
「名前書いてへんから共有財産やろ」
「違う」
「法的には弱い」
ノートパソコンの前から、駆が余計なことを言う。
弦はソファの端でレスポールを抱えたまま顔を上げる。
「そこ法で処理するなよ」
「共有物の表示が不十分だ」
「お前ほんまそういうとこやぞ」
蓮が言いながら、わざとらしく一つへ手を伸ばす。
澪の声が一段だけ低くなる。
「蓮」
「冗談やん」
「その冗談、三回目」
「数えとったんか」
「数えるでしょ」
そこで弦が少しだけ笑った。駆も口元までは動かないが、キーボードを打つ指が一拍止まる。蓮は「うわ、ガチや」と肩をすくめ、冷蔵ケースを閉じた。
ほんの数秒のやりとりだった。
でも、そのくらいのくだらなさが、ここ数日ではむしろ貴重だった。
弦はソファの端に座り、レスポールを膝に乗せていた。
アンプは通していない。指慣らしのつもりで、細く短く音を置いていく。いつもなら、それだけで少し頭が整う。だが今日は違った。音が整う前に、地下室の空気のざらつきが耳へ入ってくる。
蓮は壁際でスマートフォンを見ていた。何かのコメント欄を追っているらしい。顔が少し険しい。駆はノートパソコンの前でログを見ている。澪は壁に貼ったスケジュール表の前で、明日の入り時間を赤ペンで書き直していた。
誰も喋っていない。喋っていないだけなら、悪い空気とは限らない。だが、いまの沈黙は違う。それぞれがそれぞれの考えに入りすぎて、同じ部屋にいるのに少し離れている感じだった。
最初に口を開いたのは蓮だった。
「また来てるわ」
スマートフォンを見たまま言う。
「何が」
弦が聞く。
「前の配信現場の切り抜き。『現場スタッフの対応が冷たすぎる』とか、『出演者が怯えてたのに放置された』とか」
澪は振り返らなかった。
「放置してない」
「分かってるよ」
蓮はすぐに返した。
「俺が言いたいのは、そう見えるように切られてるってこと」
「ネットはそういう場所でしょ」
澪の声は平坦だった。
「今さら気にする話でもない」
蓮がそこで少し眉を寄せた。
「気にしてるわけじゃなくて、言葉の残り方の話をしてるんやけど」
「残り方を全部拾ってたら、現場は回らない」
澪はそこでようやく振り返る。
「その場で戻す方が先」
正しい。たぶん正しい。だが、正しいことがそのまま丸く収まるわけでもない。蓮はそれ以上言い返さなかったが、顔の奥に少しだけ引っかかりが残った。
弦はそのやりとりを見ながら、ギターの弦を一本だけ鳴らした。
高い音が短く響く。
駆が画面を見たまま言った。
「いまの位置、少しズレてる」
弦が手を止める。
「何が」
「テンポ」
「練習してたわけじゃない」
「癖になる」
駆はそれだけ言って、また画面へ戻った。
弦は少しだけ苛立った。
駆の言うことが間違っているとは思わない。だが、今日はその正しさが少し鼻についた。さっきの蓮と澪のやりとりもそうだ。誰もあからさまに喧嘩しているわけではない。ただ、疲れている時の正しさは、ときどき余計に鋭い。
「お前さ」
弦が言う。
「最近、全部ログみたいに言うよな」
駆が顔を上げる。
「そう聞こえるなら、お前が苛立ってるだけだ」
「言い方だろ」
「中身じゃなくて?」
それで少し空気が変わった。
澪が「やめて」と言う前に、蓮が間へ入る。
「まあまあ。今日まだ何も起きてへんのに空気悪くすんな」
「お前が言うな」
弦は反射で返していた。
蓮が一瞬黙る。たぶん、自分でも言いすぎたと思った。だが口に出したものは戻らない。地下室の空気がさらに少しだけ硬くなる。
その時、澪のスマートフォンが震えた。
全員の視線がそちらへ向く。
澪は画面を見て、短く息を吐いた。
「案件」
「どこ」
駆が聞く。
「ライブハウス。昼イベント。小箱」
蓮が少しだけ笑う。
「ホームやな」
「そうとも限らない」
澪は即答した。
「小さい現場の方が逃げ道が少ない時もある」
そのまま必要事項を読み上げる。
「出演者は地下アイドル二組。開演前に客席で転倒が相次いでる。水気のある音がしたって証言が複数」
弦が眉を寄せる。
「水気」
駆が画面を閉じた。
「河童かもしれない」
その名が出た瞬間、全員が少しだけ現場の顔に戻る。
河童。川辺の妖怪、というだけではない。人を水へ引き込む。足を取る。湿った場所、滑る床、下へ落ちる感覚。ライブハウスで出るなら、たぶんかなり厄介だ。
「出るぞ」
弦が立ち上がる。
蓮もスマートフォンをポケットへしまう。駆は機材をまとめ始める。澪は赤ペンを机に置き、代わりに現場用のメモ帳を取る。
さっきまでの空気が完全に消えたわけではない。だが、現場が来ると身体が先に動く。そこだけは、もう揃ってしまっていた。
ライブハウスは下北沢の裏通りにあった。
階段を下りる前から、湿った匂いがした。酒や汗ではない。もっと生臭い、水気の匂い。コンクリートに長く溜まった水が、夏でもないのに腐りかけているような嫌な匂いだった。
受付前ではスタッフが慌ただしく動いている。客はまだ完全には入れていないらしい。整理番号順に並んでいた何人かが、入口で足を滑らせたように転び、膝を打って座り込んでいる。床は乾いている。なのに、足元だけ妙にぬるつくと言う。
蓮が階段の途中で小さく呟いた。
「おるな」
「ああ」
弦にも分かった。地下へ向かうごとに、音が丸くなる。ライブハウス特有のこもり方とは違う。もっとぬめる。拍が立ちにくい。リズムが滑る感じだった。
中へ入ると、フロアはまだ半分暗い。ステージの照明は落ちたまま。客席には数十人が入りかけていて、ざわつきが広がっている。広くない箱だ。だからこそ、空気が一箇所で崩れると逃げ場がない。
そして、その原因はすぐに見つかった。
客席の床、前方柵の手前、そこに水たまりみたいな黒が広がっている。いや、水たまりではない。表面が時々、内側からぷくりと膨れる。そのたびに皿の縁のようなものが光る。甲羅だ。
次の瞬間、そこから腕が出た。
短いが筋張った腕。指のあいだに薄い膜。続いて頭。皿を持った、ぬめる緑黒い頭部。嘴めいた口の端が裂けていて、目は妙に丸い。河童だった。だが古い愛嬌は一切ない。水場を失って、人の汗や湿気や地下の結露だけで生き延びた、都市型の河童だった。
しかも一体ではない。
ステージ脇の配線の影、ドリンクカウンターの下、モニタースピーカーの裏。小型の河童が何体もいて、床に見えない水膜を作っている。客の足元を取るには、それで十分だ。
「小さいな」
弦が言う。
「数が多い」
駆が返す。
澪はフロアを一周するように視線を走らせた。
「客席が近すぎる。転ばせたところにそのまま引き寄せる気」
蓮が数珠を巻きながら言う。
「じゃあ、いつもの通り押し込むでええやろ」
「ダメ」
澪が即答する。
「床が滑る。いま強く鳴らすと、客も一緒に崩れる」
弦は少しだけ眉をひそめた。
「じゃあどうする」
「先に客を下げる。前方三列を空ける。ドリンクカウンター側の照明だけ落として、河童の影を浮かせる」
澪はスタッフへ指示を飛ばす。確かに正しい。だが、その手際が今日は少しだけ弦の神経に触った。何をするにも、澪が先に決める。自分たちはそれに乗るだけ。さっきから胸の奥に薄く残っていた苛立ちが、その瞬間だけ少し持ち上がる。
蓮もそれを感じているのかもしれない。
「いや、前方空ける前に、俺が一回締めた方が早くないか?」
珍しく、澪の指示へ重ねるように言った。
澪が振り返る。
「早くても、崩れたら意味がない」
「でも毎回それやと、先手取れへんやろ」
「取る場所を選んでるの」
言い方は強くない。だが、譲らない声だった。
そこへ駆が入る。
「二人とも、いま揉めるな」
「揉めてへん」
蓮が即答する。
「もう揉めてる」
駆の返しも早い。
その間に河童が動いた。ぬめるように床を這い、転んだ客の足首へ細い腕を伸ばす。
弦は反射でギターを鳴らした。高い一撃。河童の腕を弾く。だが、その勢いで足元の見えない膜まで揺れ、前にいた客がもう一度よろけた。
「危ない!」
澪が叫ぶ。
弦は歯を食いしばる。
助けたつもりが、床をさらに悪くした。
蓮がすぐに真言を投げるが、河童は小さいぶん動きが速い。駆の拍も、湿った床に吸われて少しずつ輪郭が薄くなる。
連携が噛み合わない。
箱はライブハウスだ。いつもなら一番やりやすいはずの場所なのに、今日は全員の入りが半拍ずつずれている。
「弦、左!」
蓮が叫ぶ。
同時に駆は「右」と言った。
弦が一瞬迷う。
その迷いの間に、モニタースピーカー裏の河童が跳ねる。客席前方の女の子が短く悲鳴を上げる。澪がその子の腕を引いて後ろへ戻す。
「一回止めて!」
澪の声がフロアを切った。
弦も蓮も駆も、そこでようやく手を止めた。
河童たちはすぐには襲ってこない。こちらのズレを面白がるみたいに、水の薄膜の上で小さく跳ねている。
澪が息を一つ整える。
「見えてない場所を、それぞれ勝手に埋めないで」
その言葉は冷たかった。
「弦は音が届くと思ったところにすぐ打つ。蓮は言葉で押し切れると思う。駆は計算を優先しすぎる。全員、自分の見えてない場所を軽く見すぎ」
蓮が言い返す。
「今それ言う?」
「今だから言う」
澪は一歩も引かなかった。
「ズレたまま続けたら、次は客が落ちる」
誰も返せない。事実だったからだ。
弦はレスポールを持ち直しながら、自分の喉が少し熱くなるのを感じた。腹が立つ。だが、その怒りの半分以上は、自分がさっき本当にズレたからだ。
蓮も黙っている。駆は端末を握ったまま、珍しくすぐに何も言わない。
澪が続ける。
「客席前方を空ける。照明を片側だけ切る。駆、湿気のある帯域は捨てる。蓮、短く。弦、一発ずつ区切って」
それは指示というより、再配置だった。
さっきまで散っていた四人を、もう一度並べ直している。
スタッフが動く。客席前方が少し空く。ドリンクカウンター側の灯りが落ちる。湿った床の上に、河童たちの影だけが少し濃く浮いた。
「行くよ」
澪が言う。その声で、弦はようやく余計な力を抜いた。
駆の拍は、今度は高い。乾いている。クリックとカチだけで作られた、滑らないためのリズム。蓮の言葉も短い。
「足、渡すな」
それだけでいい。
弦は高音を一発ずつ置く。連ねない。区切る。河童の影を一体ずつ切る。蓮の言葉がその動きを縛り、駆の拍が湿った床から滑る感じだけを剥がしていく。
今度は合う。いや、完璧ではない。だが少なくとも、さっきみたいに互いの判断がぶつからない。
最後に一番大きい河童が、前方柵の下から飛び出した。甲羅が歪み、皿の中に溜め込んだ黒い水が揺れている。
「そこ」
澪の声。
弦は皿の縁へ、一撃を落とした。乾いた高音が皿を割る。
蓮の短い真言がそこへ入る。
「返せ」
駆の拍が湿り気を断つ。
河童は身体を縮め、溜め込んでいた黒い水を吐き出しながら崩れた。ほかの小型たちも、それを合図みたいに一斉にしぼみ、床の膜ごと消えていく。
ライブハウスの床がようやく乾いた。客席から遅れて、安堵の息がいくつも漏れる。
弦は息を吐いた。勝てた。だが、気持ちのいい勝ち方ではない。最後に立て直しただけで、途中までは完全に崩れていた。
蓮がマイクもないのに喉を押さえる。
「……最悪やな」
「何が」
弦が聞く。
「勝ったのに、全然勝った感じせえへん」
その言葉に、弦は返事ができなかった。自分も同じだったからだ。
駆が端末を閉じる。
「ズレてた」
「分かってる」
弦は少し強く言ってしまう。駆も珍しくすぐには返さなかった。
澪はスタッフへ後処理の指示を出し終えてから、三人の方へ戻ってくる。顔はいつも通りだ。だが、その落ち着きが今日は少しだけ遠く感じた。
「今日はここまで」
澪が言う。
「反省は地でやる」
その言い方に、蓮が少し苛立った顔をした。
「反省会かよ」
「必要でしょ」
「分かってるけど、言い方ってもんがあるやろ」
澪の目が少しだけ鋭くなる。
「言い方で済む段階なら、ここまで崩れてない」
そこで空気が止まった。
弦は黙る。蓮も黙る。駆は視線を落とす。誰も完全に間違っていない。だから余計に始末が悪い。
地へ戻ってからも、空気は戻らなかった。
ドアを閉める音がやけに大きく響く。
弦はレスポールのケースを壁際へ置いたが、すぐには手を離せなかった。まだ指先に、さっき湿った床を弾いた感触が残っている。
蓮は数珠を外し、机の上へ置く。いつもならそのまま何か軽口を叩くのに、今日は喉を一度鳴らしただけだった。
駆はノートパソコンを開く。画面に河童戦のログが出る。同じ波形が並ぶ。再生はしない。ただ、開いているだけで空気が少し悪くなる。
澪はスケジュール表の前まで行き、赤ペンを取った。
誰も喋らない。
換気扇の音だけが、地下室の天井に近く張りついている。
澪は明日の入り時間を書き直した。
一度書いて、少し考え、また書き直す。
その動きが妙に硬い。
弦はソファへ腰を下ろす。
座ったまま、無意識にケースの留め具へ指をかける。開ける。やめる。開ける。やめる。自分でも鬱陶しいと思う。
冷蔵ケースの中で、薄い灯りが点いている。
扉には、朝と同じ付箋がまだ貼ってあった。
触るな
その文字だけが、いまは少し場違いに見えた。
澪がスケジュール表から離れ、冷蔵ケースの前へ行く。
扉を開ける。中を覗く。
プリンが二つ、まだそのまま残っていた。
澪は何も言わずに手を伸ばしかけた。
そこで止まる。数秒、そのまま固まる。
それから何も取らずに扉を閉めた。
その一連の動きを、弦は黙って見ていた。
食べる気分じゃないのだと分かる。それが分かるだけで、今日の空気がどれだけまずいか、逆にはっきりした。
最初に口を開いたのは澪だった。
「今日、何がいちばんまずかったと思う?」
振り返らないままの声だった。問いの形なのに、逃げ道は少ない。
蓮が壁にもたれたまま言う。
「俺が先走った」
弦はケースの留め具から手を離して言う。
「俺も打つのが早かった」
駆は画面を見たまま、
「止めるのが遅かった」と答える。
澪はそこでようやく三人の方を向いた。
「全部そう。でも、それだけじゃない」
赤ペンを机へ置く。転がる。キャップが少し浮いて、また止まる。
「全員、自分の役割を大きく見すぎてる」
蓮の眉が動く。
「どういう意味や」
澪はすぐには答えなかった。代わりに、三人を順番に見た。
まず弦を見る。
「弦」
短い呼び方だった。
「通ると思ったら、すぐ打つ」
弦の喉が少し熱くなる。
「今日もそうだった。届く前提で入った」
次に蓮へ視線が動く。
「蓮は、言葉で押し返せると思いすぎる」
蓮が少しだけ顔をしかめる。
「押し返せた時もあったやろ」
「ある」
澪は認める。
「でも今日は、客ごと崩れる場所だった」
そこで駆を見る。
「駆は、ずれた時に止めるのが遅い」
「……分かってる」
駆が低く言う。
「分かってるならいい、じゃない」
澪の声は大きくない。でも今日は、少しもやわらかくなかった。
「全員、自分の怖いところから目を逸らしてる」
地下室の空気が、その一言でさらに固くなる。
弦が思わず顔を上げる。
澪は続けた。
「弦は、通らなかった時が怖い」
弦の指先が、無意識にケースの角を強く押していた。
「蓮は、届かない相手が怖い」
蓮はそこで、反射みたいに喉へ手をやった。
「駆は、計算の外が怖い」
駆の視線が初めて画面から外れる。
澪はそこで一歩だけ前へ出る。
「その怖さを隠すために、自分の正しさを大きくしてる」
誰も動かない。
「今日ズレたのは、技術じゃない。そこ」
蓮が先に反応した。
「……そら、中心やろ」
声は乾いていた。
「言葉で戻った場面もあった」
弦もそこで止まれなかった。
「ギターが通ったから切れた時もあった」
駆が低く言う。
「だから危ないんだ」
その声はいつもより少し強かった。
「再現できない上振れを、正しさみたいに扱うな」
弦は立ち上がる。
「上振れじゃない」
「外れたら同じだ」
「じゃあお前の計算は全部当たるのかよ」
「外すから残してる」
その返しが、今日はやけに冷たく刺さった。
蓮が間へ入ろうとする。
「おい、待て」
「待てへんやろ、これ」
弦は自分でも驚くくらい早く言い返していた。地下室の空気が一気に細くなる。
澪が強く言う。
「やめて」
その声で、一瞬だけ全部が止まる。
澪は怒鳴らない。でも、いままででいちばん感情が出ていた。
「勝った負けたじゃない。今日、客が落ちるところだった」
その一言に、三人とも何も返せなかった。事実だったからだ。
数秒、換気扇の音だけが続く。
蓮が壁から背を離し、机の方へ歩く。
数珠を取り上げる。握りしめる。また置く。
「……今日は、もうやめようや」
いつもの軽さはなかった。
弦は立ったまま、何も言えない。
駆は端末を閉じる。閉じた画面の黒に、自分の顔が映る。
澪は腕を組んだまま、もう何も言わない。言うべきことは、たぶんもう言い切ったのだ。
その夜、地の中で誰もまともに音を鳴らさなかった。
レスポールはケースに戻されたまま。
数珠は机の上。
ターンテーブルも止まったまま。
赤ペンだけが、キャップを閉められたままスケジュール表の下に転がっている。
弦はソファへ座り込み、暗い天井を見た。
このままではまずい、と分かる。だが、どこから直せばいいのかはまだ見えない。
地下室の隅では、澪がもう一度だけ冷蔵ケースを見た。
開けない。見るだけでやめる。
蓮はスマートフォンの暗い画面を握ったまま、壁にもたれている。
駆は椅子に座り、閉じた端末へ手を置いたまま動かない。
四人いる。
なのに、今日は少し遠い。その距離だけが、はっきり見えた。
地下室の外は、夜になると妙に静かだった。
人通りはある。遠くの車の音もある。だが、地下へ続くあの細い階段の前だけ、夜の湿りが少し深く溜まる。
向かいのビルの影から、その入口を見ている者がいた。
見張っている、というほど大げさでもない。ただ、そこから出てくる人間の歩幅を見るには、ここがちょうどよかった。
先に出てきたのは一人。
次に、少し間を空けてもう一人。
誰も喋らない。地下室から音も漏れてこない。
ミストはスマートフォンの画面を消したまま、その無言の出入りだけを見ていた。
「壊れかけていますね」
小さく言う。
喜んでいるわけではない。むしろ確認に近い。
四人になった。だから前より強くなった。
音、言葉、配置、現場。その四つが揃うと厄介だった。だが同時に、四つになったということは、綻びも四つに増えたということだ。
一人で立つ人間は折り方が単純だ。二人ならまだ読みやすい。三人を越えると、関係の中に壊しどころが生まれる。
ミストは地上へ出てきた最後の影を見送る。
「誰か一人を折ればいいわけではない」
夜気の中で、その声だけが薄く残る。
「少しずつ、自分の正しさを大きくさせればいい」
地下室の入口はもう静かだ。中ではたぶん、誰も音を鳴らしていない。
ミストはそこで、初めてほんの少しだけ口元を動かした。
「四人になったから、壊し方も増えた」
そのまま踵を返し、夜の路地へ消える。
次は、もっと正面から折れる。そう分かるだけの手応えが、今夜はもう十分にあった。




