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第11話 澪の戦場

 昼の商業施設は、きれいすぎる時ほど不気味だ。

 開店前のモールはまだ人が少ない。だが静かなわけではない。館内放送の試験音、エスカレーターの連続した駆動音、空調のうなり、遠くでシャッターが上がる音。営業中なら人の足音や会話に紛れてしまうものが、開店前の白い床と高い天井の下では妙に細く響く。

 弦は一階の吹き抜けを見上げた。

 三層吹き抜けの中央広場。普段なら期間限定ショップや子ども向けのイベントをやっているらしい。丸いベンチ、観葉植物、ガラスの手すり、上階へ抜けるエスカレーター。整えられた明るさだ。どこにも陰がないように見えて、実際は視線の死角だけがきっちり残る構造になっている。

「こういうとこ、苦手やわ」

 蓮が言った。

「きれいやのに、ずっと見られてる感じする」

「実際、見られる前提の作りだからね」

 澪が答える。

「死角が少ない分、視線が集まりやすい。人の流れも固定される」

「もう始まってる口ぶりやな」

「現場に入る前から始まってることもあるでしょ」

 その返しは、相変わらず澪らしかった。

 今回の案件は、開店前清掃のスタッフから入った。中央広場付近で、作業中のパート従業員が二人、相次いで欄干の向こうへ身を乗り出しかけた。飛び降りようとしたのではない。ただ、「下から呼ばれた気がした」と言うのだ。しかも、吹き抜けの下を見た瞬間、足が止まらなくなる。近づきたくないのに、近づいてしまう。

 施設側はもちろん事故扱いにしたが、同じ時間帯、同じ場所で続いたことでさすがにおかしいとなった。

 商業施設の管理会社は、表向きには「設備点検」として中央広場を封鎖している。開店までに片づけてほしい――それが依頼内容だった。

 案内役の施設管理責任者が、緊張した顔で近づいてくる。

「こちらです。問題が起きたのは二階の吹き抜け沿いで……」

 澪が歩き出す。

「防犯カメラ映像、ありますか」

「あります」

「あと館内放送、照明制御、シャッターの操作権限も欲しいです」

 責任者は一瞬きょとんとした顔になったが、「確認します」とすぐ頷いた。

 弦は横でそれを聞きながら、やはりこの人は最初に場を掴みにいくのだと思った。敵の姿を見る前から、照明、音、動線、その全部を自分の手に引き寄せようとする。

 中央広場に近づくにつれて、空気が変わった。

 冷房のせいではない。温度は同じなのに、肌に触れるものだけが違う。湿っている。いや、水気というより、もっと重い感情の濡れ方だ。長く留まった恨みや執着が、床に薄く染み込んでいるような気配。

 駆が足を止めた。

「下だ」

 短い声だった。弦も吹き抜けの底を見る。

 一階の広場中央。白いタイルの上に、何かがいる。最初は水溜まりかと思った。だが違う。水ならもっと光を返す。そこにあったのは、濡れた髪の束のような黒だった。床に広がっているくせに、時々そこから細い腕のようなものが伸びる。

 蓮が低く言った。

「女やな」

 その言葉とほぼ同時に、黒が持ち上がった。

 髪だ。長く、濡れて、床を引きずるほど長い髪。その奥から、白い顔がゆっくり上がる。目は見えない。髪に半分隠れている。だが口だけがはっきり見えた。笑ってはいない。歯を見せてもいない。ただ、恨みだけで形を保っている口だった。

 肩から先は着物のようにも見えるが、布ではない。水に濡れた怨念がそのまま衣になっている。腕は細い。だが指先だけが異様に長く、欄干へ届くように伸びていた。

 橋姫。そう呼ぶしかない姿だった。

 古い川辺ではなく、現代の吹き抜けに棲みついた橋姫。橋の代わりにエスカレーターと渡り廊下を持ち、川の代わりに人の流れを見下ろす女の鬼。

 そいつは、二階の手すり越しにこちらを見上げた。

 見上げた、というより、下から引いた。

 その瞬間、弦の足が一歩、前へ出かけた。

「見るな!」

 澪の声が飛ぶ。はっとして、弦は視線を切った。遅れて、背中に冷たいものが走る。下を見たままなら、そのまま欄干へ寄っていた気がした。

 蓮も小さく舌打ちする。

「目ぇ合わす系か」

 駆はすでに小型端末を立ち上げていたが、少しだけ表情が曇っていた。

「広い。反響が多すぎる」

 中央広場はライブハウスと違い、音の逃げ場が多い。高い天井、ガラス、石、吹き抜け。拍を立てても散る。ライブ前提の箱ではないからこそ、音で場を支配するのが難しい。

 弦はレスポールを構えようとして、少しためらった。

 どこを狙えばいい。

 橋姫は一階にいる。自分たちは二階。距離がある。しかも欄干越しに目を合わせるのが危険だ。蓮の真言も、ここでは聴かせるより先に散ってしまう。

 澪は責任者へ向き直る。

「ここ、開店前でも人の出入りありますよね」

「清掃と店舗スタッフが、少し……」

「全部止めてください。中央広場に面した通路、三階まで封鎖。エスカレーターも一時停止。視線が落ちる場所を減らします」

 責任者は戸惑う。

「ですが、それだと準備が」

「いま事故が起きた方が困るはずです」

 澪の返しは即答だった。

 相手はそこで黙り、「やります」と言って走る。

 蓮が小さく笑った。

「言い切るなあ」

「言い切らないと動かない時があるから」

 澪は一階を見たまま答える。

 橋姫は動かない。いや、髪の先だけが少しずつ広がっている。床を伝い、柱の影を這い、吹き抜けを囲むように伸びてくる。人が多い場所ではなく、人の視線が落ちる場所へ寄っているのが気持ち悪かった。

「弦」

 澪が言う。

「いま弾かないで」

「弾かない?」

 思わず聞き返す。

「音を入れる場所じゃない。まだ」

 その言葉に、弦は少しむっとした。戦う前から止められる感じがしたからだ。蓮も似た顔をする。

「じゃあ何するんや」

「場を変える」

 澪ははっきり言った。

「いまここでいつものやり方で入ったら、音が散る。視線も散る。橋姫の方が得する」

 駆がそれを聞いて、小さく頷いた。

「……確かに。支点がない」

 蓮が眉をひそめる。

「支点?」

 駆は吹き抜け全体を見回した。

「ライブハウスなら、ステージがある。SAなら、路面があった。ここには人をまとめる中心がない」

 澪が続ける。

「だから作る」

 その言い方で、弦は少しだけ息を呑んだ。

 この人は、最初からそういう発想で現場を見ているのだ。

 澪は責任者から受け取った館内図を床に広げた。中央広場を囲む通路、エスカレーター、非常口、照明回路。視線を走らせる速度が速い。

「まず、二階と三階の吹き抜け沿い照明を一段落とす。一階広場だけ白を残して。上を暗くして下を見えにくくする」

「橋姫が強くならないか?」

 弦が聞く。

「ならない。あいつは下から見上げる視線が餌。上から覗き込む数を減らした方がいい」

 次に澪はエスカレーターを指した。

「これも止める。動いてると視線が流れて下へ寄る」

 蓮がそこでようやく口角を上げる。

「なるほどな。観客おらんでも、場の癖はあるわけか」

「会場がなくても場はある」

 澪は一度も笑わずに言った。

「人がどう歩くか、どこを見るか、どこで怖がるか。それがもう演出なの」

 その言葉で、弦の中の引っかかりが少しだけ外れた。

 ライブじゃなくても場はある。

 音を鳴らす前から、すでに誰かが誘導されている。その流れを奪い返すのが先。そういう戦いなのだ。

 館内放送が一度鳴った。

 施設点検のため、一部区域を封鎖します――穏やかな女の声。直後、上階の照明がわずかに落ちる。エスカレーターが止まり、普段なら流れ続ける機械の動きが切れる。

 モールの空気が、そこで少し変わった。

 橋姫の髪がゆっくり揺れる。嫌そうに見えた。

「駆」

 澪が言う。

「一階に中心、作れる?」

「できる。でも広い」

「広くていい。散らさないで、下に沈めて」

 駆は少しだけ目を細め、それから端末を操作し始めた。

 使うのは館内BGMの系統だった。さっきまで無難なポップスが薄く流れていたはずのスピーカーから、今度は低すぎず高すぎない、芯だけを残した拍が落ちる。ショッピングモールで流れるような音ではない。だが違和感は強すぎない。館内放送とBGMの境目にあるような、足を止めさせるための拍。

 中央広場の一階に、見えない円ができる感じがした。

「蓮」

 澪の声。

「言葉は上に向けないで。下に落として」

「お前、注文多いな」

「多い方が助かるでしょ」

 蓮は苦笑して、吹き抜けの手すりから半歩下がった。欄干を覗き込む位置ではなく、広場全体へ向けて声を落とせる位置へ。

 マイクはない。だが館内スピーカーが駆の拍を拾っているなら、その上に声を乗せられる。

 蓮が息を吸う。

「寄るな

 覗くな

 引かれても、足を渡すな」

 言葉は短い。韻よりも、命令に近い。しかも橋姫に向けた言葉ではなく、まだ巻き込まれていない誰かに向けている。

 弦はそれでようやく分かった。

 今日は敵を先に殴る回じゃない。人の流れを敵から剥がす回だ。

 橋姫が怒った。髪が一気に逆立つ。吹き抜けの手すりへ向けて、黒い腕が何本も伸びる。その指先が、二階の欄干へ届きかける。

「来る!」

 弦がギターを構えた。

「今」

 澪が言う。その一言で、弦は迷わなかった。

 レスポールの高い音が、欄干から欄干へ横へ走る。橋姫の指先を弾き、二階のラインにこれ以上上がるなという一本を引く。蓮の言葉がその線を太くし、駆の拍が下から支える。だが橋姫はそこで止まらない。

 髪の一部を一階の柱に巻きつけ、そのまま身体を引き上げてくる。人の脚で上がるのではない。恨みだけで縦を這い上がる。視線が集まるところへ、自分から来る。

「っ、気持ち悪……!」

 蓮が言う。

 橋姫は二階の高さまで来ると、初めて顔をはっきり見せた。白い。女の顔だ。だが目がない。あるべき場所が濡れた空洞になっている。口だけが裂け、笑っていないのに、見ている方の胸の奥をざらつかせる。

 欄干の向こうで、その顔が上がる。

 弦の足がまた少し前へ出そうになる。見ちゃいけない。だが視界に入るだけで、身体が引かれる。

「弦!」

 澪の声が鋭く飛ぶ。

「顔じゃない、手すりの影!」

 その指示がなかったら危なかった。

 弦は視線を無理やり下へ落とす。欄干に橋姫の影がかかっている。髪と腕が絡んだ、黒い歪んだ影。その中で一箇所だけ、流れが淀んでいる場所がある。髪の束の結び目みたいな塊。

 あそこか。

 弦は息を吸う。音量は要らない。ここで必要なのは、引かれる線を切る一撃だ。

 高く、硬い音を影へ打つ。

 橋姫の腕が一瞬だけ止まる。

 蓮がすかさず声を落とす。

「渡るな

 お前の橋やない」

 黄金の文字が、橋姫の腕ではなく、欄干と床の間に打ち込まれる。上がるための道そのものを塞ぐ言葉だった。

 駆が拍を変える。

 館内BGMだったはずの音が、いまは完全に中央広場の心拍になっている。下へ下へと落とす拍。橋姫が見上げても、そこに引っ張られる視線がない。場そのものが変わってしまった。

 橋姫が初めて、悲鳴に近い声を出した。

 女の泣き声ではない。濡れた縄を無理やり引きちぎる時のような、きしんだ音だった。

「もう一つ!」

 澪が叫ぶ。弦は同じ影の結び目へ、もう一撃入れる。

 高音が通る。影が裂ける。橋姫の髪がそこから一気にほどけ、床へ落ちる。蓮の言葉が追う。

「返れ」

 短い一言だった。

 橋姫の身体が、そこでようやく崩れた。

 髪が水みたいに広がる。白い顔が最後にこちらを見上げる。目のない空洞のまま、何かを恨みきれない顔だった。それが次の瞬間には黒い滴となって、白いタイルへ散る。

 吹き抜けに風が通った。ただの空調の風だった。だが、さっきまでの下から引く気配はもうない。

 静かになった。

 商業施設の静けさは、ライブハウスの終演後と違う。人が戻る前の空白に近い。エスカレーターの止まった無音。遠くでシャッターを上げる音。館内放送の待機灯。そういう現実の音が、ようやく全部同じ場所へ戻ってくる。

 弦はレスポールを下ろした。

 肩で息をする。だが、それ以上に妙な感覚が残っていた。今回は、自分たちがいつものように戦って勝った感じが薄い。

 違う。澪が場そのものを組み替えて、その上でやっと自分たちの音が機能したのだ。

 蓮もそれを感じたのか、欄干から一歩下がって笑う。

「……今日は完全に、お前の勝ち筋やったな」

 澪が近づいてくる。

「私一人じゃ無理。場を作っても、最後に通す音は要る」

「いや、そういう社交辞令じゃなくて」

 蓮は手を振る。

「ほんまに。いままでの俺ら、出たとこで殴ることしか考えてへんかった」

 弦も黙って頷いた。悔しいわけではない。むしろ、ようやく見えた感じがあった。自分たちが前しか見ていなかったことが、やっと身体で分かった。

 駆が端末を閉じる。

「今日は澪がいなかったら、欄干から落ちてた」

 さらっと言う。

 澪は少しだけ眉を上げた。

「言い方」

「事実」

 駆は短く答える。

 責任者が青い顔で近づいてくる。だが中央広場の空気が戻っているのを見ると、少しだけ肩を落とした。

「もう、大丈夫ですか」

 澪が周囲を見回し、一拍置いて答える。

「開店は少し遅らせてください。中央広場だけ掃除し直して、吹き抜け沿いにスタッフを多めに。今日は下を覗き込ませない動線で」

「分かりました」

「イベント告知のモニターも、一時的に切って。視線を落とす材料を減らしたい」

 責任者はそれにも頷いた。

 全部、怪異の説明ではない。現実の言葉に置き換えられる範囲でしか話していない。なのに、必要なことは全部含まれている。それが澪のやり方なのだと、弦は思った。

 外へ出る頃には、館内の照明も元へ戻り始めていた。

 止まっていたエスカレーターがまた動く。吹き抜けに朝の明るさが戻る。商業施設は、何もなかったみたいに開店の準備へ戻っていく。

 四人は自動ドアを抜けて外へ出た。

 外気に触れた瞬間、澪は一度だけ足を止めた。

 大きな動きではない。ただ、肩から力が抜けるのがほんの少し遅れた。現場の中では最後まで張っていた糸が、外へ出てようやく緩んだみたいだった。

 通路脇には自動販売機が並んでいた。蓮が水を買い、駆は無糖の缶コーヒーを取り、弦は少し迷ってブラックを押す。

 澪は一瞬だけスポーツドリンクの列を見て、そのあと何でもない顔で、端のいちごミルクを押した。

「そこ、甘いの行くんや」

 蓮がすぐ言う。

「糖分補給」

「またそれ」

「事実でしょ」

 澪はキャップを開けてひと口飲む。そこでようやく、ほんの少しだけ表情がゆるんだ。ほんの一瞬で、本人はたぶん気づいていない。

 昼の空気が少しあたたかい。

 蓮が大きく息を吐く。

「ライブ会場じゃなくても、場はある、か」

 澪が先を歩きながら言う。

「人が集まる場所なら、だいたいあるでしょ」

「さらっと言うなあ」

「さらっとじゃない。基本」

 弦はその背中を見る。

 マネージャー。現場屋。監視役。いろいろ言い方はある。けれど、どれも少し足りない気がした。澪はたぶん、四人の中で唯一見えていないものを先に配置できる人間なのだ。

 それはもう、ただの補佐役ではない。戦術家だ。

 蓮がそれを言葉にした。

「なあ澪」

「何」

「お前、ただのマネージャーちゃうな」

 澪は少しだけ振り返る。

「今さら?」

 その返しに、弦は少し笑った。たしかに、今さらだった。

 四人はそのまま歩き出す。昼の光は明るく、街は何も知らない顔で動いている。ついさっきまで人の感情を食う場がそこにあったことなど、もう誰にも分からない。

 けれど弦は、ビルの窓に一瞬だけ白いものが反射した気がして、足を止めかけた。

 ヘッドフォン。そう見えた。だが次の瞬間には、ただの光の跳ね返りにしか見えなくなる。

「どうした」

 蓮が聞く。

「……いや」

 弦は首を振った。気のせいかもしれない。そう思いたかった。

 でも、こちらが少しずつ形になっていくのを、向こうもまたどこかで見ている。

 そんな感じだけが、妙に消えなかった。



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