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第20話 忍びの里と禁機

 最初の失敗は、水の音だった。

 駆は里の水路の横にしゃがみ込み、端末の波形を睨んでいた。細い流れが石に当たり、跳ね、沈み、また細く戻る。その音を録り、切り、別の場所へ置き直す。それ自体はもう何度もやった。理屈の上では間違っていない。周波数も位相も、大きくは外していないはずだった。

 だが、置いた瞬間に嘘になる。

 本来は水路の脇にいるはずの気配が、柱の影へ移る。音だけならたしかにそこにある。けれど場がそれを認めない。ただ貼りついただけの異物として浮く。

「違う」

 叔父の声が背後から落ちた。

 駆は振り返らない。

「どこが」

「全部だ」

 即答だった。

 駆は端末を持ったまま、小さく息を吐いた。昨日から同じやり取りを繰り返している。

 録る。分ける。置く。

 形だけなら成立する。だが、場が変わらない。

 渋谷なら、ここまでは通った。ノイズを拾い、波形を読み、削って返す。そこまでは自分の領分だった。だが里では、それがことごとく浅い方へ落ちる。

 叔父が土間へ降りてくる。

「お前の音は親切すぎる」

 その言葉に、駆は眉を寄せた。

「聞こえるように置いてる」

「だから浅い」

 叔父は水路の方を見たまま言う。

「聞こえるように置くな。そこにいると信じ込ませろ」

 駆は黙った。

 意味は分かる。だが、分かるのとできるのは別だった。

 水路の音は低い。葉擦れは上。戸の軋みは横。位置の理屈なら読める。なのに、場へ馴染ませようとした瞬間に、全部が置いた音になる。

 向いていないとは思わない。

 思わないが、今のままでは足りないことだけは嫌になるほど分かる。

 叔父が短く言う。

「次は禁機を使う」

 その一言で、駆は初めて顔を上げた。

     

 同じ頃。

 本堂の脇で、蓮はまた声を詰まらせていた。

「違う」

 父が言う。

 蓮は苛立ちを喉の奥へ押し込みながら、もう一度短い言葉を置こうとする。飛ばさない。置く。分かっている。分かっているのに、気づけば前へ押してしまう。

「違う」

 また同じ返答。

 兄弟子が横で腕を組む。

「お前、置く前に勝ちに行ってるやろ」

「勝ちに行って何が悪い」

「悪くはない。せやけど今は、それやと浅い」

 蓮は舌打ちしたいのをこらえた。

 喉の違和感はまだ消えていない。焦るほど、昔のやり方へ戻りそうになる。速く、強く、前へ飛ばす。それなら少なくとも自分は気持ちいい。だが、それでは場が変わらない。

 分かっているから、余計に腹が立つ。

     

 同じ頃。

 海の近い町の堂で、弦はレスポールを膝に置いたまま黙っていた。

 老人が「弾け」と言う。

 弦が鳴らす。

 老人は首を振る。

 それをもう何度も繰り返している。

 アンプはない。観客もいない。風と、遠い波の音と、古い堂の軋みだけがある。

 弦はいつものように弾いた。指は動く。音も悪くない。だが、一音目が空へ散る。

「広い」

 老人が言う。

「悪いですか」

「悪くはない。だが、届かん」

 弦は口を閉じる。

 大きく鳴らす。速く切る。前へ飛ばす。

 今まで武器だと思っていたものが、ここでは全部、浅い方へ落ちる。

 ひどくやりにくかった。

     

 同じ頃。

 都内の小さなホールで、澪は客席の中央通路にしゃがみ込んでいた。

 ノートには線が増えている。座席の列、通路、死角、ステージの返り方、照明の落ち方、スピーカーの返り位置。箱の中で、人が息を詰めやすい場所を図として拾おうとしていた。だが、うまくいかない。

 箱は物理だけでは決まらない。人がどう集まり、どう待ち、どこで不安になるかまで入ってくる。座標だけ書いても足りない。

 澪は鉛筆を止めた。

「……静かすぎると、分からない」

 ライブの熱、客のざわめき、演者の緊張、その全部があって初めて箱は本当の顔を見せる。無人のホールだけ読んでも、まだ半分だ。

 前に進んでいないわけではない。でも、進み方が遅い。

 今はそれが歯がゆかった。

     

 禁機は、蔵の一番奥にあった。

 布が何重にもかけられた木箱。蓋には古い留め金。墨で引かれた印。叔父が鍵を外し、蓋を開ける。

 中にあったものを見て、駆はほんの少しだけ息を止めた。

 ターンテーブルだった。

 ただし、街で使うものとは明らかに違う。プラッターの縁には細い金具が埋め込まれ、回転の軸には古い木の芯が通っている。木目が見える。普通の楽器用木材ではない。もっと硬く、もっと古い。側面には細かい刻印が走り、トーンアームの根元には忍具の分銅みたいなものが吊られていた。

 現代機材に古い忍具を縫い込んだみたいな姿だった。

「……まだ残ってたのか」

 駆が小さく言う。

「残していた」

 叔父が答える。

「使い手がいないまましまっておく方が危ない物だが、半端な手に渡すのはもっと危ない」

 駆は箱の中へ手を伸ばしかけて、止めた。

 叔父がそれを見て言う。

「触るな。まだお前のものじゃない」

「借りに来たつもりもない」

「なら見て覚えろ」

 叔父は禁機を持ち上げ、布を敷いた低い机へ置いた。木の芯が入っているせいか、見た目以上に重そうだった。

「これは何をする機械だと思う」

 駆は少し考えた。

「音を切る」

「半分」

 叔父は指でプラッターの縁を軽く叩く。コン、という乾いた音がした。普通の金属の響きではない。木が中にいる音だ。

「奪う」

 駆が言い直す。

「それも半分」

 叔父はそこで初めて、少しだけこちらを見る。

「敵の音を奪うだけなら、今のお前でもやっている。これは、奪った音の置き場まで変える機械だ」

 叔父はそこで、禁機の縁へ指を置いたまま続けた。

「煮えた音は焼き切る。溜まった音は流す。走る音は向きを変える。崩れる場は足元から固める」

 駆は少しだけ眉を寄せる。

「……火、水、風、土みたいな話か」

「名前は何でもいい」

 叔父は言った。

「見分けて、違う手つきで触れろ」

 駆は黙った。それが今の自分に足りないものだと、すぐに分かったからだ。

 虚無の葬列との一戦で痛感したのは、向こうが箱のどこへ何を沈め、どこに客の呼吸を落とすかまで握っていたことだった。こちらは押し返すことはできても、再配置できなかった。だから場が向こうのままだった。

「空間支配、か」

 駆が言うと、叔父は頷きもしない。

「軽い言葉にするな」

 その返しに、駆は少しだけ口を閉じた。

     

 修行は、思った以上に地味だった。

 禁機そのものをすぐ触らせてもらえるわけではない。まずやらされたのは、里の音を拾うことだった。道具小屋、土間、水路、木立、蔵、屋根裏。場所ごとに違う音を録る。ノイズとしてではなく、それぞれの居場所ごと記憶する。

「同じ雨音でも、軒先と葉の上では落ちる場所が違う」

 叔父は言う。

「違う場所から拾ったものを、同じ音として扱うな」

 駆はそれを頭では理解する。

 録る。分ける。波形を比べる。解析する。そこまでは得意だ。だが次で引っかかった。

 叔父は録った音を、何もない土間で再配置しろと言った。水路の気配を柱の影へ。軒先の雨音を床下へ。木の軋みを天井近くへ。つまり、本来そこにないはずの音の居場所を変えて、場の感覚そのものを組み替えろということだ。

 駆は機材を繋ぎ、波形を調整し、音を置いた。

 形としては成立していた。

 だが叔父は首を振る。

「置いたんじゃない。貼っただけだ」

「何が違う」

「お前にとっては違わないんだろう」

 その言い方が少しだけ癇に障る。

 駆はやり直す。周波数を削る。位置を動かす。奥行きをいじる。だが何度やっても同じだった。

 理屈では合っている。耳でも確認できる。なのに、場が変わった感じがしない。

 ただそう聞こえるだけだ。

 叔父はそこで禁機を動かした。

 レコードの代わりに、薄い金属板みたいなものを載せる。プラッターが回る。指先が触れる。スクラッチとは少し違う、もっと短い切り方。

 次の瞬間、土間の空気が変わった。

 水路の気配が、いつのまにか梁の上にいる。雨の予感が床下に沈む。木の軋みが、人のいないはずの戸口に立つ。

 音は大きくない。だが、そこに何かの気配がいる場所だけが変わる。

「今のは流した」

 叔父が言う。

「水路の気配を、そのまま上へ持ち上げたんじゃない。場の中を流して、梁へ落とした」

 次に、乾いた木の軋みだけを戸口へ残してみせる。

「こっちは固定だ。逃がさず、そこに居着かせる」

 駆は黙って見ていた。

 同じ再配置でも、手つきがまるで違うのが分かった。

 駆はそこでようやく、自分が今までやっていたのが鳴らすことに寄りすぎていたのだと気づいた。

 向こうは、いる場所を変えていた。

「お前の音は親切すぎる」

 叔父が言う。

「全部、聞かせようとしてる」

 駆は眉を寄せる。

「聞かせるために置くんじゃないのか」

「違う。そこにいると信じ込ませるために置く」

 その言葉は、どこか忍びらしかった。

 正面から示すのではなく、そうと思わせる。気づくより先に場へ馴染ませる。

 駆はその夜、ほとんど眠れなかった。

 持ってきた端末で何度も波形を組み直す。だが組み直すほど、正しいだけの配置になる。理屈では詰められる。なのに、その場の空気が一歩も嘘を信じない。

 久しぶりに、自分の得意なところが丸ごと通じていない感じがした。

     

 その頃、蓮は本堂の裏で声を荒げていた。

「無理や!」

 喉に悪い出し方だった。案の定、すぐに咳き込む。

「無理ちゃうか、これ! 何やねん一音って! 俺は坊主やなくてラッパーやぞ!」

 兄弟子が少し離れたところで腕を組んでいる。止めない。父はもっと向こうで、こちらを見てもいない。

 その無関心が余計に腹立たしい。

「何で今さら、こんなとこまで戻らなあかんねん……!」

 吐き捨てたあと、自分の声の濁りに気づく。

 初歩みたい、ではなく、たぶん本当に初歩なのだ。

 そして自分は、そこを飛ばしてきた。

 それが悔しい。悔しいというより、怖かった。今まで武器だと思っていたものが、勢いに助けられていただけかもしれないと見せつけられるからだ。

 蓮は石段へ座り込んだ。

 その時、隣へ誰かが座った。兄弟子だった。

「辞めるか?」

 さらっと聞く。

 蓮は顔を上げないまま言う。

「辞めたら楽なんやろな」

「まあな」

 兄弟子はあっさり認めた。

「でも、お前が山出たあとに拾ったもんは、ちゃんと強いぞ」

 意外で、蓮はようやく顔を上げる。

「何や、急に褒めるやん」

「褒めてるわけじゃない」

 兄弟子は苦笑する。

「山の言葉だけやったら、今のお前はおらん。街の言葉だけやったら、ここまで戻ってこん。だから、両方あるのは正しい」

「……だったら何で通らへんねん」

「混ざってへんからやろ」

 単純な答えだった。

 蓮はそこで言葉を失った。

     

 その頃、海の堂では、弦が夜風の中で黙っていた。

 老人は短くしか言わない。

「深く置け」

「横へ広げるな」

「前へ行くな」

 そのどれも、意味は分かる。分かるのに、身体へ落ちない。

 弦はネックを握る。

 今までなら、迷ったら前へ出していた。もっと強く、もっと速く、もっと響かせる。だが今は、その癖そのものが邪魔だと見せつけられている。

 老人がぽつりと言う。

「お前の音は、前へ行きたがりすぎる」

 弦は反論できなかった。

     

 その頃、澪はホールの舞台袖に立っていた。

 客席の中心だけでは足りない。舞台の脇、照明の死角、袖の狭い通路、スタッフが走るライン。箱は客席だけでできていない。人が動く場所ごと乗っ取られれば、演者は演奏する前に崩れる。

 澪はノートへ線を増やした。だが書けば書くほど、足りないものが分かる。

「現場の熱がないと、読めない……」

 無人の箱には限界がある。

 本当に必要なのは、鳴る直前の空気だ。

 まだ見えていない。でも、見えていない場所の形だけは少し分かり始めていた。

     

 折れたのは、その夜だった。

 里の外れにある古い蔵で、一人で試していた時だ。駆はもう一度、禁機の構造を自分の端末側で近い形に再現しようとしていた。完全に同じにはできない。だが、自分の機材で扱える範囲まで落とし込みたかった。

 ノイズを奪う。置き換える。場をずらす。

 理屈の上ではできる。できるはずなのに、最後の一線だけが越えられない。

 焦りが出た。

 駆は珍しく、強引に行った。

 里の水路の音を一気に抜き、蔵の天井へ置く。ついでに外の風の細い擦れも取る。二つまとめて再配置する。

 次の瞬間、蔵の中の空気が裏返った。

 天井の上で水が流れる。床下で風が鳴る。場所の感覚がねじれ、駆は一瞬だけ立っている位置を失った。耳は情報を拾うのに、身体がそれを危険としてしか受け取れない。

 吐き気が来る。

 駆は膝をつき、端末を落とした。

 喉の奥まで上がってくる嫌な感覚を、どうにか飲み込む。自分で作った場に、自分が酔っている。最悪だった。

 蔵の戸が開く。

 叔父が無言で入ってきた。

「失敗だな」

「……分かってる」

「分かってない」

 即答だった。

 駆は反射で顔を上げる。

 叔父は蔵の中の歪んだ空気を一度だけ見回してから、静かに言った。

「お前、支配しようとしただろ」

 駆は言葉に詰まった。

「置き換えるんじゃない。上から覆った」

 図星だった。

 向こうのやり方に届きたい、その焦りが出た。奪う。配置する。その先で、気づかないうちに全部こちらの思った通りに並べたいへ寄っていた。

「制御は要る」

 叔父の声は低い。

「だが、お前は時々、場を生き物として見ていない」

 駆は黙る。

「音は切れる。位相も読める。だが人も風も床も、それぞれ勝手に呼吸してる。そこを殺して並べ替えたら、壊れるだけだ」

 壊れるだけ。その言葉が鈍く刺さる。

 虚無の葬列は、それをやっていた。客席も床も呼吸ごと沈めていた。だから強かった。でも同時に、あれは壊すためのやり方だ。

 自分は、あれを真似しようとしたのか。

「……俺は」

 駆はそこで初めて、自分の言葉に少し迷った。

「向こうと同じになりたいわけじゃない」

「なら、制御の仕方を変えろ」

 叔父はそれだけ言う。

「奪った音は、殺して置くな。生きたまま位置を変えろ」

 難しすぎる言葉だった。だが、たぶんそこが核心なのだと分かる。

     

 同じ夜、本堂の石段で、蓮はまだ座ったままだった。

「どっちもお前や。分けるから細る」

 兄弟子の言葉が、何度も頭の中を回る。

 山の声。街の声。

 坊主の家の息子。寺を飛び出したラッパー。

 どっちかだけで鳴らそうとするから、細る。

 それは分かる。だが、分かったからできるほど簡単でもない。

 蓮は喉を押さえた。痛みはまだある。

 それでも、前に飛ばすだけではもう足りないことだけは認めざるを得なかった。

     

 同じ夜、海の堂の外で、弦はギターケースにもたれて座っていた。

 潮の匂いが濃い。風が横へ抜ける。

 老人の言葉は短い。だが短いほど、逃げ道がない。

 大きく鳴らすな。速く切るな。横へ広げるな。

 じゃあ何を残すのか。

 弦は目を閉じた。削られるのは怖い。今まで積んできたものの一部を否定される感じがするからだ。それでも、届かなかった事実の前では、守りたい癖の方を疑うしかなかった。

     

 同じ夜、ホールの舞台袖で、澪はノートを閉じた。

 箱は読める。少しずつ分かる。でも、読めるだけでは守れない。

 人が息を詰める位置。視線が逸れる角度。恐怖が広がる導線。

 それを知った先で、自分は何をするのか。

 澪はしばらく動かなかった。

 やるべきことはある。だがまだ、名前がついていない。

 その不明瞭さが、もどかしかった。

     

 翌朝、里の水路の横に座った駆は、流れを聞いていた。

 奪わない。まず、聞く。

 置き換えない。先に、どこへ行きたがっているかを見る。

 まだ何も掴めていない。だが、少なくとも昨夜、自分が間違った方向へ焦ったことだけははっきり分かった。

 山の空気は冷たい。でもその冷たさの中で、駆は初めて、自分の強みがそのままでは届かない相手がいることを、ちゃんと認めた気がした。

 そしてたぶん、それは自分だけではない。

 別の場所で、あいつらも同じように、今までの武器を壊されている。

 そう思うと、少しだけ息が深くなった。


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