第8話_文化祭を世界征服せよ!
文化祭。
それは、若者たちが青春のすべてを燃やす祭典。
教室は城となり。
廊下は商店街となり。
模擬店は戦場となる。
机と椅子は積み上げられ、段ボールは城壁となり、ガムテープは文明の礎となる。
買い出し班は夕暮れの商店街を駆け、装飾班は色画用紙と格闘し、会計班は一円単位の誤差に震える。
笑いあり。
涙あり。
徹夜はない。高校生なので、ちゃんと帰宅する。
だが、心だけは徹夜する。
そう。
文化祭とは、青春という名の巨大プロジェクトである。
そして今。
その祭典に、一人の仔悪魔が降り立とうとしていた。
彼女の名は、天満アイ。
世界征服を企てた罪でカップラーメンに封印され、人間界に現れ、ドラ焼き百個を対価に真央直樹を契約者にしてしまった、仔悪魔見習い。
悪魔契約。
校則。
申請書。
反省文。
生徒会長の赤ペン。
数々の試練を乗り越えた彼女は、ついに新たなる舞台へ歩み出す。
教室を支配せよ。
廊下を掌握せよ。
模擬店を制覇せよ。
供物を売りさばけ。
そして、学校全体を――。
「文化祭こそ、人間界征服の第一歩!」
アイが、朝日の中で堂々と宣言した。
「青春ドキュメンタリーを世界征服番組にするな!」
真央直樹のツッコミが、真央家のリビングに響いた。
現実。
真央家の朝である。
壮大なナレーションも、巨大プロジェクト感も、世界規模の祭典感もない。
あるのは、食卓。
トースト。
味噌汁。
弁当箱。
そして、テーブルの上いっぱいに広げられた謎の書類だった。
直樹は制服姿のまま、椅子に座っている。
寝不足ではない。
ただし、精神的には昨夜からずっと疲れている。
その原因は、目の前でペンを握っている仔悪魔だった。
アイは真剣な顔で、白紙に大きく文字を書いている。
角は髪でだいたい隠れている。
尻尾は楽しそうに揺れている。
そして目は、文化祭という名の新大陸を見つけた探検家のように輝いていた。
「できた!」
アイは紙を高々と掲げた。
直樹は、嫌な予感しかしない顔でそれを見る。
そこには、黒々とこう書かれていた。
『鏡星学園段階的征服計画・文化祭編』
「朝から提出不可!」
直樹は即座に叫んだ。
アイはきょとんとする。
「え? ちゃんと企画書だよ?」
「企画書のタイトルに“征服計画”って入ってる時点で、企画じゃなくて犯行声明なんだよ!」
「犯行じゃないよ。文化祭だよ」
「文化祭を隠れみのにするな!」
アイは不満そうに頬を膨らませた。
「でも、昨日、鳴海会長が言ってたでしょ? 行事参加には申請が必要って」
「言ってた」
「だから申請する」
「そこだけは偉い」
「タイトルは、鏡星学園段階的征服計画・文化祭編」
「偉さが一秒で消えた!」
直樹は額を押さえた。
昨日の生徒会室。
鳴海真奈。
資料。
赤ペン。
反省文。
条件付き学園滞在許可。
あの空気を、アイはちゃんと覚えている。
覚えているはずだ。
だからこそ、今日は無断で動かず、申請書を書こうとしている。
そこまでは成長である。
問題は、申請書の中身が成長していないことだ。
「ダーリン、目的欄って何を書くところ?」
「文化祭で何をしたいかを書くところだ」
「じゃあ、“学校全体を楽しく征服するため”」
「楽しくしても征服はだめ!」
「じゃあ、“参加者全員の心を掌握するため”」
「もっとだめ!」
「“ドラ焼きを通じて人間界の供物文化を広めるため”」
「文化祭の出し物じゃなくて魔界広報になってる!」
アイはペンを止めた。
「人間界、目的を書くの難しい」
「お前が危険な目的しか持ってないだけだ」
「じゃあ、ダーリンが書いて」
「俺を代表者にする流れを自然に作るな」
アイは、はっとした顔で条件リストを取り出した。
昨日、真奈から渡された紙である。
『真央直樹さんを契約者代表として無断使用しないこと』
アイはそれを読み上げ、こくこくとうなずいた。
「そうだった。ダーリンを契約者代表として無断使用しない」
「よし。覚えてるな」
「じゃあ、相談してから代表にする」
「代表にしない!」
キッチンから、真実がのんびりと声をかけた。
「文化祭の準備、楽しそうね」
「母さん、まだ楽しさの段階じゃない。危機管理の段階」
遊羅が階段から下りてきて、アイの企画書をのぞき込んだ。
「お兄ちゃん、文化祭で悪魔喫茶やるの?」
「やらない!」
アイはぱっと顔を上げる。
「悪魔喫茶!」
「拾うな!」
「契約おみくじ!」
「広げるな!」
「魔界風ドラ焼き屋!」
「ドラ焼きから離れろ!」
遊羅は目を輝かせた。
「魔界風ドラ焼き屋、ちょっと行きたい」
「妹が客層に入った!」
真実も弁当箱におかずを詰めながら微笑む。
「ドラ焼きなら、お母さんも差し入れできるかしら」
「母さんまで仕入れに参加しないで!」
アイはすぐに別の紙を取り出した。
『仕入れ計画』
直樹の顔が引きつる。
「もうあるのか」
「もちろん。ドラ焼き百個」
「契約対価を文化祭在庫にするな!」
「でも百個ならキリがいいよ?」
「キリがいいから危険なんだよ!」
アイは真剣な顔で言う。
「ダーリン、文化祭ってすごいね。学校が公式に“みんなで何かやっていい日”をくれるんだよ?」
直樹は、少しだけ言葉に詰まった。
確かに、その理解だけなら間違っていない。
文化祭は、学校が認めた行事だ。
クラスで出し物を考え、準備して、当日を迎える。
アイにとっては、初めての「みんなで何かを作る」学校イベントになるのかもしれない。
ただし。
「“何かやっていい日”じゃない。“決められた範囲で、申請して、ルールを守って、みんなで準備する日”だ」
「長い!」
「文化祭は長い説明の上に成り立ってるんだよ!」
アイは目を丸くする。
「じゃあ、征服も申請すれば――」
「通らない」
「即答!」
「昨日、生徒会長にも即答されただろ」
「鳴海会長、今日も心の中で赤ペン持ってる気がする」
「たぶん持ってる。俺の心の中でも持ってる」
直樹の脳裏に、真奈の幻影が浮かぶ。
まっすぐな姿勢。
静かな表情。
手には赤ペン。
『征服という表現は、学校行事の目的として不適切です』
「幻影がもう差し戻してる……」
「ダーリン?」
「いや、未来の胃痛が見えただけだ」
アイは首をかしげたあと、企画書のタイトルを見直した。
「じゃあ、“鏡星学園段階的参加計画・文化祭編”?」
「だいぶよくなった」
「副題、“征服の代わりに参加してみた”」
「動画タイトルに寄せるな!」
「“悪魔ちゃん、初めての文化祭”」
「急に普通に可愛い」
「“ダーリンも叫ぶ! 文化祭大作戦”」
「俺を戻すな!」
遊羅が拍手した。
「最後の、ちょっと見たい」
「妹まで俺の叫びをコンテンツにするな!」
真実が弁当を包みながら言った。
「直樹、そろそろ学校に行かないと遅れるわよ」
直樹は時計を見る。
「やばい」
アイは企画書をまとめ、勢いよく立ち上がる。
「よし、学校でみんなに提案する!」
「待て。まず危険文言を消せ」
「危険文言ってどれ?」
「征服、支配、契約、供物、魔王ナオキ、魂、素材、契約者代表」
「ほとんどアタシの企画が消える!」
「だから問題なんだよ!」
アイは企画書を胸に抱えた。
それでも、顔は明るい。
「でも、アタシ、ちゃんと申請するよ」
直樹は靴を履きながら、ため息をつく。
「その一点だけは信じる」
「じゃあ、ダーリンも一緒に――」
「代表じゃない」
「相談役」
「まだまし」
「契約者相談役」
「戻すな」
玄関の扉を開けると、朝の光が差し込んだ。
いつもの通学路。
いつもの学校。
ただし、今日から文化祭準備が始まる。
それだけで、直樹には校門が巨大なイベント会場の入口に見えた。
そして隣には、文化祭を世界征服の第一歩だと思っている仔悪魔がいる。
直樹は空を見上げ、ぼそりとつぶやいた。
「……文化祭、始まる前から終わってる気がする」
アイは元気よく拳を上げた。
「第8話、文化祭を世界征服せよ!」
「だから征服するなって言ってるだろぉぉぉ!」
真央直樹の叫びが、朝の住宅街に響いた。
近所の犬が、慣れたように一度だけ吠えた。
* * *
翌朝。
真央家のリビングには、文化祭前とは思えない緊張感が漂っていた。
いや、正確には文化祭前だからこその緊張感である。
テーブルの上には、白い紙が数枚。
学校から配布された文化祭企画書。
鳴海真奈から渡された条件リスト。
そして、天満アイが夜のうちに勝手に作成した謎の資料。
『鏡星学園段階的征服計画・文化祭編』
『魔界風ドラ焼きカフェ収益予測』
『契約者代表・真央直樹 活用案』
直樹は、それらを前にして、朝からすでに魂を半分ほど持っていかれていた。
「……おはよう、俺の平穏。昨日の夜に別れたばかりなのに、もう会えない気がする」
「ダーリン、朝から詩人みたい」
「お前のせいで現実逃避してるんだよ」
アイは制服姿で、テーブルに向かっている。
片手にペン。
もう片方の手に、真奈から渡された条件リスト。
表情は真剣だった。
真剣ではある。
ただし、真剣な悪魔ほど危ないものはない。
「今回はちゃんと申請するよ!」
アイが胸を張った。
直樹は警戒しながらも、少しだけうなずく。
「その姿勢だけはいい」
「でしょ? アタシ、昨日学んだから。行事参加には申請が必要。真央直樹さんを契約者代表として無断使用しない。校内規模の騒動になったら生徒会預かり」
「ちゃんと覚えてるじゃないか」
「うん!」
アイはにこっと笑って、企画書の目的欄にペンを置いた。
「目的欄は、“学校全体を楽しく征服するため”でいい?」
「姿勢以外が全部だめ!」
直樹は即座に叫んだ。
アイはきょとんとする。
「楽しくって入れたよ?」
「問題はそこじゃない。“征服”がだめなんだ」
「じゃあ、“学校全体を楽しく掌握するため”」
「言い換えが悪化してる!」
「“学園全域に仔悪魔文化を浸透させるため”」
「だいぶ広報戦略になった!」
「“みんなで仲良く、魔界風ドラ焼きを通じて人間界攻略の第一歩を――”」
「途中から攻略になってる!」
アイはペンを止め、むうっと頬を膨らませた。
「人間界の目的欄、厳しい」
「お前の目的が厳しい審査に耐えられないだけだ」
アイは真奈の条件リストをじっと見た。
「鳴海会長なら、何て書くかな」
「たぶん、“文化祭に参加し、来場者に食品を提供するため”とかだろ」
「弱い!」
「弱くていいって言われただろ!」
直樹は昨日の生徒会室を思い出す。
真奈の赤ペン。
光のタブレット。
アリスの見出し案。
ベル先生の危険な補足。
宙のワラ人形。
そして、アイの反省文。
あの長い一日を経て、ようやくアイは「申請する」という概念を覚えた。
だが、覚えた概念をどう使うかまでは、まだかなり怪しい。
キッチンでは、真実が弁当を作っていた。
卵焼きを切りながら、のんびりと言う。
「文化祭なら、お母さんも見に行けるかしら」
直樹はすぐに振り向いた。
「母さん、まだ来場者の段階じゃない。企画が通るかどうかの段階」
「あら、そうなの?」
「そうなの。今のところ、ほぼ差し戻し確定」
アイは椅子から身を乗り出した。
「お母さま、来てくれるの?」
「ええ。直樹の学校行事、楽しみだもの」
「じゃあ、特別席を用意するね!」
「用意するな。普通に来場してもらえ」
「じゃあ、悪魔貴賓席」
「やめろ。文化祭に爵位を持ち込むな」
そこへ、階段から遊羅が下りてきた。
眠そうな顔だったが、テーブルの紙を見た瞬間、目が一気に覚める。
「お兄ちゃん、悪魔喫茶やるの?」
「家族がもう企画に乗ってる!」
遊羅はアイの隣に座り、企画書をのぞき込んだ。
「悪魔喫茶って、角つけるの? 黒い服着るの? お兄ちゃんは魔王役?」
「やらない。着ない。俺を役職にするな」
アイはぱっと顔を上げた。
「魔王役!」
「拾うな!」
「ダーリン、文化祭なら衣装もありだよ?」
「俺は普通の制服で生きたい」
「でも、魔王ナオキ記念撮影って書いたら、人来ると思う」
「書くな!」
遊羅が小さく手を挙げた。
「私、写真撮りたい」
「妹まで客になるな!」
真実が弁当箱にミニトマトを詰めながら言う。
「でも、文化祭って写真を撮るものじゃないの?」
「撮るものだけど、俺を勝手に素材化しないルールが昨日できたんだよ!」
アイは条件リストをもう一度確認する。
「真央直樹さんを契約者代表として無断使用しないこと」
「そう。それ」
「じゃあ、撮影役は無断じゃなくて、相談すればいい?」
「相談されても断る」
「まだ相談してないのに」
「未来の俺が断ってる」
アイは「未来のダーリン、厳しい」と言いながら、別の紙を取り出した。
直樹は嫌な予感しかしなかった。
「今度は何だ」
「仕入れ表」
「仕入れ?」
アイは得意げに紙を広げる。
『魔界風ドラ焼きカフェ 供物仕入れ計画』
直樹はタイトルを読んだ瞬間、目を閉じた。
「もう一回言う。供物って書くな」
「じゃあ食品」
「それならまだいい」
アイはペンで「供物」に二重線を引き、「食品」と書き直した。
「よし。学び」
「そこだけは進歩だな」
直樹は少し安心しかけた。
しかし、次の行を読んで固まる。
『必要ドラ焼き数:百個』
「お前、何個売るつもりだ」
アイは胸を張る。
「百個」
「契約対価を文化祭在庫にするな!」
「でも、百個ってアタシとダーリンの契約の象徴だよ?」
「象徴を仕入れ数量にするな」
「じゃあ九十九個?」
「そういう問題じゃない」
「百一個?」
「増やすな」
「じゃあ、ダーリン用に一個取り置きして、販売分は百個」
「もっと増えた!」
遊羅が笑いながら言う。
「アイちゃん、ドラ焼き屋さん似合いそう」
「でしょ?」
アイは嬉しそうに笑った。
「悪魔喫茶で、魔界風ドラ焼きを出して、お客さんに“魂は取らない安心営業です”って言うの」
「その接客文、最初から不安しかない」
「じゃあ、“契約不要、魂不要、ドラ焼きだけ!”」
「だいぶマシだけど、魂って単語は消せ」
真実が優しく言う。
「普通に“いらっしゃいませ”でいいんじゃない?」
アイは衝撃を受けた顔をした。
「普通すぎる……!」
「文化祭の接客は普通でいいんだよ!」
直樹は企画書を手に取り、ざっと確認する。
目的欄は危険。
代表欄にはなぜか直樹の名前。
仕入れ数は百個。
企画名は『悪魔喫茶・魔界風ドラ焼き屋・契約おみくじ合同支配計画』。
直樹は、そっと紙をテーブルに戻した。
「提出したら、一発で真奈会長に差し戻される」
アイは目を丸くする。
「一発で?」
「一発で」
「赤ペン?」
「赤ペン」
「全部?」
「たぶん紙が赤くなる」
アイは企画書を見下ろし、少しだけ真剣な顔になった。
「じゃあ、直す」
直樹は少し意外そうにアイを見る。
「直すのか」
「うん。アタシ、学校にいていいって言われたから。文化祭も、ちゃんと参加したい」
その声は、いつもより少しだけ素直だった。
世界征服だの供物だの契約者代表だの、危険な言葉は山ほど出てくる。
でも、その奥にあるのは、たぶん単純な気持ちだ。
学校の行事に参加したい。
みんなと何かやってみたい。
直樹はため息をついた。
「……じゃあ、とりあえず“征服”と“支配”と“契約”と“供物”と“魔王ナオキ”を消せ」
「ほとんど消える!」
「消えたあとに残ったものが、たぶん提出できる企画だ」
アイはしばらく考えた。
そして、企画書のタイトルを書き直す。
『魔界風ドラ焼きカフェ』
直樹はそれを見て、少しだけうなずいた。
「……まあ、それならまだ人間界」
アイは目を輝かせる。
「通る?」
「まだ分からない。食品提供、会計、衛生、人数、申請、全部いる」
「多い!」
「文化祭は多いんだよ。青春は書類でできてる」
「青春、書類味」
「嫌な味にするな」
遊羅が笑う。
「でも、お兄ちゃん、ちょっと楽しそう」
「どこがだよ」
直樹は即座に否定した。
だが、自分でも少し分かっていた。
完全に嫌なだけなら、こんなに口を出さない。
差し戻される前に止めたい。
アイがまた騒動を起こすのを防ぎたい。
そして、できれば。
文化祭くらい、叫びすぎずに終わりたい。
それは願望というより、ほとんど祈りだった。
アイは書き直した企画書を大事そうに持つ。
「じゃあ、学校でみんなに相談するね!」
「相談する相手を選べよ。ベル先生と宙に最初に見せるな」
「なんで?」
「危険が増えるから」
「アリスは?」
「盛り上がるから危険」
「美咲は?」
「怒られるけど必要」
「鳴海会長は?」
「最終審査」
「ダーリンは?」
直樹は鞄を持ちながら答えた。
「最初の被害者」
「相談役じゃないの?」
「相談役にしてくれ。被害者よりはマシだ」
アイは満面の笑顔になった。
「じゃあ、ダーリンは文化祭相談役!」
「契約者をつけるなよ」
「文化祭相談役・ダーリン」
「ダーリンもいらない」
「文化祭相談役・真央直樹さん」
「急に書類っぽい!」
真実が弁当を差し出す。
「はい、直樹。アイちゃんの分も」
「ありがとう、お母さま!」
「母さん、完全に二人分作るの慣れたな……」
遊羅が手を振る。
「お兄ちゃん、文化祭がんばってね。悪魔喫茶、楽しみにしてる」
「まだ決まってない!」
アイは玄関で靴を履きながら、企画書を抱えた。
「ダーリン、今日は征服じゃなくて、申請!」
「そうだ。それだけ覚えておけ」
「うん。申請してから征服!」
「何も覚えてなかった!」
直樹の叫びが、朝の真央家に響く。
文化祭準備は、まだ学校に着く前から始まっていた。
そして直樹は、申請書という新たな敵が、悪魔契約アプリに負けないくらい厄介だと知り始めていた。
* * *
鏡星学園高等部。
朝のホームルーム。
黒板には、いつもの連絡事項とは別に、大きくこう書かれていた。
『文化祭 クラス出し物案決め』
その文字を見た瞬間、教室全体が少しだけ浮き立った。
文化祭。
高校生活における、一大イベント。
授業ではない。
テストでもない。
クラス全員で何かを作り、当日は他クラスや保護者や近隣の人たちもやってくる。
青春。
友情。
共同作業。
そして、出し物案を決める段階でだいたい揉める。
直樹は自分の席で、できるだけ存在感を消していた。
今日は静かにしていよう。
出し物案に深く関わらない。
目立たない。
指名されない。
できれば、普通のクラスメイトAとして文化祭準備を乗り切る。
直樹はそう決意していた。
しかし、隣の席には天満アイがいる。
つまり、直樹の決意はすでに半分ほど無効だった。
教壇に立った鈴鳴ベル先生が、白衣の袖をひらりと揺らして言った。
「今日は文化祭の出し物案を決めます」
クラスがざわっとする。
「ついに来た」
「何やる?」
「飲食系がいい」
「お化け屋敷は?」
「予算足りる?」
「真央、何か叫ぶ係やる?」
直樹は即座に顔を上げた。
「最後のやつ誰だ!」
ベル先生は微笑む。
「文化祭は、生徒の自主性と創造性を発揮する大切な行事です。安全管理、食品衛生、予算、申請、動線、そして少しの遊び心を忘れずに」
直樹は少し安心した。
ベル先生がまともなことを言っている。
文化祭という公式行事だから、さすがに教師らしく進めるつもりなのかもしれない。
そう思った直後、ベル先生は続けた。
「なお、魔導工学的な出し物を希望する場合は、事前に私へ相談してください」
「やっぱり危険枠があった!」
直樹のツッコミが飛ぶ。
その瞬間、アイが勢いよく手を挙げた。
「はいっ!」
直樹は嫌な予感で背筋が冷えた。
「待て。まだ何も言うな」
「悪魔喫茶!」
言った。
言ってしまった。
教室が一瞬止まり、その後ざわめきが広がる。
「悪魔ちゃん喫茶?」
「面白そう」
「角カチューシャつける?」
「メニュー黒そう」
「真央、魔王役?」
「ダーリンセットとかある?」
直樹は机に手をついた。
「俺をメニューに入れるな!」
アイは胸を張る。
「悪魔喫茶はね、お客さんに魔界風のおもてなしをするの。魂は取らない安心営業!」
美咲が即座に言う。
「その説明で安心できる人、いないわよ」
「じゃあ、契約不要、魂不要、ドラ焼きだけ!」
アリスが後ろの席から笑った。
「あ、それならちょっと可愛いかも。悪魔ちゃんが接客するドラ焼きカフェなら、人来そうじゃん」
直樹はアリスを見た。
「乗るな。お前が乗ると企画が広がる」
「広がるのが文化祭じゃん」
「広がっていいものと悪いものがあるんだよ!」
アイは黒板の前へ出ていき、チョークを握った。
「じゃあ、出し物案をまとめます!」
「勝手に進行するな!」
黒板に、アイが大きく書く。
『悪魔喫茶』
その下に、さらに書く。
『契約おみくじ』
『魔界風ドラ焼き屋』
『魔王ナオキ記念撮影』
『仔悪魔ちゃん供物レビューコーナー』
直樹は立ち上がった。
「全部却下!」
アイは振り向く。
「全部!?」
「全部だ! 特に後半三つ!」
「契約おみくじは前半だよ?」
「前半でもだめ!」
美咲が腕を組んで黒板を見た。
「悪魔喫茶とドラ焼き屋は、言い方を変えればまだ検討できるかもしれないわね」
「美咲まで!?」
「でも、契約おみくじと魔王ナオキ記念撮影と供物レビューは消しなさい」
「それは完全同意」
直樹はうなずいた。
アイは不満そうに唇を尖らせる。
「契約おみくじ、面白そうなのに」
そのとき、教室の端から小さな声がした。
「契約おみくじ、作れる」
見上宙だった。
いつものように無表情。
いつものようにワラ人形を抱えている。
直樹は振り向いた。
「作れない方向でいてくれ!」
宙はワラ人形を少し持ち上げた。
ワラ人形が低い声で言う。
「大吉。契約成立」
「成立させるな!」
「中吉。契約者が叫ぶ」
「俺をおみくじの結果にするな!」
「凶。提出書類が増える」
「現実的で嫌だ!」
クラスメイトたちが笑い出す。
「それ引きたい」
「凶だけ妙に怖い」
「大凶は?」
「生徒会預かりじゃね?」
直樹は頭を抱えた。
「文化祭の出し物案で俺の未来を予想するな!」
ベル先生は黒板を見ながら、楽しそうに目を細めている。
「悪魔喫茶、魔界風ドラ焼き屋、契約おみくじ……企画としては個性がありますね」
「先生、個性で済ませないでください」
「ただし、食品提供と契約要素と撮影要素は、それぞれ申請が必要ね」
アイの目が輝いた。
「申請すればいいんだ!」
直樹はすぐ叫んだ。
「申請すれば何でも通るわけじゃない!」
アリスが手を挙げる。
「でもさ、悪魔喫茶とドラ焼き屋は普通に人来そう。悪魔ちゃんの見た目もキャラも強いし、クラスで衣装そろえたら映えるし」
「映えで文化祭を動かすな」
「動くよ、文化祭はわりと映えで」
「否定できないのが嫌だ!」
美咲は黒板の「契約おみくじ」にバツをつけた。
「これは消す」
宙が少しだけ首を傾げる。
「安全版なら」
「安全版って何よ」
宙は淡々と答える。
「契約効果を一パーセントに抑える」
「効果を残すな!」
直樹と美咲の声が重なった。
アリスは黒板の「魔王ナオキ記念撮影」を見て、にやっと笑う。
「真央、黒マント着たら似合いそうだけどね」
「着ない」
「椅子に座って、横に悪魔ちゃん立たせて、魔界っぽい背景で」
「撮らない」
「“魔王様と一枚”みたいな」
「俺は文化祭の顔出しパネルじゃない!」
クラスメイトが乗る。
「でも真央、去年の劇でも衣装似合ってたし」
「顔整ってるから、魔王っていうより魔王子?」
「魔王子ナオキ?」
「響きいいな」
直樹は震えた。
「人のあだ名を文化祭仕様にアップデートするな!」
アイは嬉しそうにチョークを握る。
「じゃあ、魔王子ナオキ記念撮影に変更――」
「するな!」
美咲がアイの手からチョークを奪った。
「直樹を出し物にしない。本人が嫌がってるでしょ」
その一言で、アイは少しだけ止まった。
直樹も、美咲を見る。
美咲は黒板の「魔王ナオキ記念撮影」に大きくバツをつけた。
「これは削除」
アイは少し残念そうにする。
「でも、ダーリンの人気が出るかも」
「出なくていい」
「文化祭なのに?」
「文化祭でもだ」
「ダーリン、人気いらないの?」
「平穏のほうがいる」
アイは真剣な顔でうなずいた。
「平穏、文化祭でも必要」
「そうだ。覚えておけ」
アリスが小声で言う。
「でも“平穏のほうがいる”って、コピーとしてちょっといいね」
直樹はすぐに振り向く。
「コピーにするな!」
ベル先生が教卓を軽く叩いた。
「はいはい、いったん整理しましょう。まず、クラスとして実現可能な案を残します」
ベル先生は黒板に新しく線を引いた。
『検討可』
『要修正』
『却下』
直樹は嫌な予感がした。
「この分類、俺の人生にもほしい」
「直樹の場合、だいたい“要修正”じゃない?」
美咲が言う。
「人間として要修正みたいに言うな!」
ベル先生が分類を始める。
「悪魔喫茶は、名称と内容次第で検討可」
アイがぱっと笑う。
「やった!」
「魔界風ドラ焼き屋も、食品提供の申請と衛生管理ができれば検討可」
「ドラ焼き残った!」
直樹は少しだけ肩を落とす。
「残るのか……」
ベル先生は続ける。
「契約おみくじは、契約要素を完全に抜けば要修正」
宙が言う。
「抜くと、おみくじ」
「それでいいんだよ!」
直樹が叫ぶ。
「魔王ナオキ記念撮影は、本人同意がないため却下」
「ありがとうございます!」
直樹は深々と頭を下げた。
「仔悪魔ちゃん供物レビューコーナーは、供物という表現とレビュー撮影が問題なので却下寄りの要修正」
アイは首をかしげる。
「却下寄りの要修正って何?」
「ほぼだめだけど、言い方と内容を変えれば何か残るかもってこと」
アリスが説明した。
直樹はアリスを見る。
「お前、そういう整理はうまいんだな」
「でしょ? 盛るだけじゃないんだよ、アタシ」
美咲がぼそっと言う。
「たまに盛りすぎるけど」
「それは認める」
アイは黒板をじっと見ていた。
消された案。
残った案。
直された案。
いつもなら「全部やる!」と言って押し切ろうとするところだ。
しかし、今日は少しだけ違った。
「じゃあ……悪魔喫茶と魔界風ドラ焼き屋を合体させる?」
直樹は少しだけ目を丸くした。
「合体?」
「うん。契約おみくじは、ただのおみくじ。魔王ナオキはなし。供物レビューもなし」
クラスが少しざわつく。
美咲が警戒しながら聞く。
「それで何をするの?」
「魔界風ドラ焼きカフェ」
アイは黒板に、少し大きめに書いた。
『魔界風ドラ焼きカフェ』
直樹はその文字を見た。
征服も、契約も、供物も、魔王ナオキも入っていない。
いや、魔界風は残っている。
ドラ焼きも残っている。
危険な匂いはする。
でも、さっきまでよりは、かなり文化祭の出し物に近い。
アリスが手を叩いた。
「あ、それいいじゃん。悪魔っぽい内装で、ドラ焼き出すカフェ。普通に映えるし、家族連れも入りやすい」
美咲もうなずく。
「それなら、食品申請と会計をちゃんとすれば検討できるわね」
宙が小さく言う。
「おみくじは?」
「安全なやつなら別コーナーで考えなさい」
美咲が言う。
宙はワラ人形を見た。
ワラ人形が低い声で言う。
「契約しないおみくじ」
「最初からそれにしてくれ」
直樹は疲れた声で言った。
ベル先生は楽しそうに黒板を見上げる。
「では、現時点での有力案は『魔界風ドラ焼きカフェ』ですね」
クラスメイトたちから、ぱらぱらと賛成の声が上がる。
「いいんじゃない?」
「楽しそう」
「衣装どうする?」
「ドラ焼きどこで仕入れる?」
「内装は黒と赤?」
「真央、レジ?」
直樹は即座に言う。
「俺を自然に配置するな!」
アイはにこにこしている。
「ダーリンは相談役」
「それも勝手に決めるな」
「でも、被害者よりはいいでしょ?」
「その比較はやめろ」
美咲がペンを持ち、黒板に小さく書き足した。
『要確認:食品衛生、会計、装飾、役割分担、申請書』
直樹はそれを見て、深いため息をついた。
「文化祭って、夢と書類でできてるんだな……」
アリスが笑う。
「あとノリ」
宙が言う。
「あと契約しないおみくじ」
「それはまだ保留!」
ベル先生が満足そうに手を叩いた。
「では、この案をもとに、次は具体的な企画書を作りましょう」
アイは元気よく返事をした。
「はい!」
直樹は、その元気のよさに嫌な予感を覚えた。
だが、さっきよりは少しだけマシだった。
征服計画ではなく、出し物案。
供物販売ではなく、ドラ焼きカフェ。
魔王ナオキではなく、相談役。
……いや、相談役はまだ認めていない。
直樹は自分に言い聞かせる。
まだ文化祭準備は始まったばかりだ。
ここで油断してはいけない。
そのとき、アイが黒板の端に小さく書き足した。
『目標:来場者の心を楽しく支配』
「消せぇぇぇ!」
直樹の叫びが、ホームルームの教室に響いた。
* * *
ホームルームは、すでに会議というより戦場だった。
黒板には、さっきまでの出し物案が乱立している。
『悪魔喫茶』
『魔界風ドラ焼き屋』
『契約しないおみくじ』
『魔王ナオキ記念撮影』
『仔悪魔ちゃん供物レビューコーナー』
『平穏のほうがいるカフェ』
『叫ばない契約者セット』
「最後の二つ、誰が書いた!」
直樹が叫ぶと、クラスメイト数名がさっと目をそらした。
犯人は多すぎる。
このクラス、もう直樹の叫びを文化祭素材として扱い始めている。
危険だった。
非常に危険だった。
ベル先生は楽しそうに黒板を眺めている。
「では、案を整理しましょう。文化祭の企画として通すには、名称、目的、内容、必要物品、予算、担当、申請区分を明確にする必要があります」
直樹は思わずつぶやいた。
「急に学校行事っぽくなった……」
美咲が腕を組む。
「最初からそういう話でしょ」
「いや、さっきまで俺が記念撮影にされかけてたから、学校行事の実感がなかった」
「それは消すから安心しなさい」
「本当に頼む」
アイは黒板の前に立った。
チョークを握り、やる気に満ちた顔で振り返る。
「分かった。じゃあ、アタシがちゃんと整理する!」
「待て。ちゃんとの意味を確認したい」
直樹の制止は間に合わなかった。
アイは黒板の中央に、堂々と大きく書いた。
『文化祭征服計画』
直樹は無言で立ち上がった。
黒板消しを取り、すぐに消した。
「征服って書くな!」
白い粉がふわっと舞う。
アイはむっとする。
「まだタイトルだけなのに」
「タイトルで終わってるんだよ」
「じゃあ、文化祭参加計画」
アイは書き直した。
直樹は少しだけうなずく。
「それならいい」
「副題、学校全体を段階的に支配」
直樹は再び黒板消しを構えた。
「副題で戻すな!」
「支配じゃなくて、掌握?」
「言い換え問題じゃない!」
「じゃあ、心をつかむ」
「急にまとも寄り!」
アリスが手を叩いた。
「それならいいじゃん。“来場者の心をつかむ文化祭参加計画”」
直樹は黒板を見た。
「……だいぶ普通になったな」
アイは首をかしげる。
「普通って難しい」
「文化祭は普通を積み上げて特別にする行事なんだよ。最初から世界征服にするな」
美咲が黒板の横へ立ち、チョークを手に取った。
「じゃあ、具体的に考えるわよ。食品やるなら衛生管理。お金を扱うなら会計。衣装やるなら準備。おみくじやるなら景品。そこ考えてるの?」
アイは自信満々に答えた。
「魔界では勢いで――」
「人間界では勢いだけで店は出せない」
即答だった。
アイの尻尾が、しゅんと下がる。
「勢い、だめ?」
「勢いはあってもいいけど、それだけじゃだめ」
美咲は黒板に項目を書いていく。
『食品衛生』
『会計』
『仕入れ』
『衣装』
『内装』
『接客』
『申請』
『安全管理』
アイはそれを見て、少しずつ顔を曇らせた。
「多い……」
「文化祭は多いのよ」
「悪魔契約より項目が多い」
直樹は真顔で言う。
「たぶん、それはお前の契約書をちゃんと読んでないからだ」
「ダーリンも読んでないでしょ?」
「だから事故ったんだよ!」
宙がワラ人形を掲げた。
ワラ人形が低く言う。
「申請書は、読む」
「今日は人形が正しいこと言うな……」
直樹は疲れた声でつぶやいた。
ベル先生が教卓に腰を預ける。
「佐藤さんの言う通りね。食品提供をするなら、保健面の確認が必要。会計もクラス単位で管理。魔導装置を使うなら、別途安全確認」
「魔導装置を使わない方向でお願いします」
「まだ何も作っていないわ」
「“まだ”って言いましたね?」
ベル先生はにこっと笑うだけだった。
直樹はそれ以上追及しないことにした。
追及すると、設計図が出てくる気がしたからだ。
アイは黒板を見上げたまま、小さく言う。
「アタシ、文化祭なら学校全体を盛り上げられると思ったのに」
その声は、少しだけ本気でしょんぼりしていた。
征服だの支配だの言ってはいる。
けれど、アイにとってそれは、たぶん「みんなに見てもらいたい」「自分も混ざりたい」の悪魔語訳なのだ。
直樹は何か言おうとして、言葉を探す。
その前に、アリスが軽い調子で手を挙げた。
「じゃあさ、“魔界風ドラ焼きカフェ”に絞れば?」
教室の空気が少し変わる。
アリスは机に肘をつきながら、黒板を指さした。
「悪魔喫茶っぽい雰囲気は残す。ドラ焼きも出す。でも、危ない契約要素はなし。おみくじもやるなら普通のラッキー占いくらい。写真は撮影スポットだけ作って、真央を置かない」
「最後が重要だ」
直樹は強くうなずいた。
アリスは笑う。
「内装は黒と赤だけだと怖いから、ちょっとポップにしてさ。悪魔ちゃんの角モチーフとか、羽根の飾りとか。メニュー名も“悪魔的にうまいドラ焼き”くらいなら、ギリいけるんじゃない?」
ベル先生がうなずく。
「“悪魔的にうまい”は比喩として処理できそうね」
直樹はベル先生を見る。
「先生、そこだけ真面目に審査しないでください」
美咲も考え込む。
「食品はドラ焼き中心なら、仕入れと提供方法を管理すればまだ現実的ね。調理するよりはリスク低いし」
アイが顔を上げる。
「じゃあ、できる?」
美咲は少しだけ厳しい顔で言う。
「できるかもしれない、でしょ。ちゃんと考えれば」
「ちゃんと……」
アイは黒板の『文化祭参加計画』を見た。
そして、その下にゆっくり書いた。
『魔界風ドラ焼きカフェ』
直樹はその文字を見て、ふっと息を吐いた。
「珍しくまともな折衷案だ」
アリスがすぐに振り向く。
「珍しくって何?」
「いや、普段がほら、素材が強いとか、映えるとか、三秒が大事とか」
「それも大事じゃん」
「大事だけど危険も増える」
「今回は増やしてないでしょ」
「今のところは」
「信用低っ」
アリスは頬を膨らませる。
その横で、アイは何度もタイトルを読み返していた。
「魔界風ドラ焼きカフェ……」
声が少しずつ明るくなる。
「悪魔喫茶っぽくて、ドラ焼きがあって、契約じゃなくて、お客さんが来る……」
直樹が補足する。
「魂は取らない」
「取らない」
「契約もしない」
「しない」
「俺を魔王にしない」
「しない」
「供物って言わない」
「……食品」
「よし」
美咲がすかさず言う。
「あと、会計はちゃんとクラスで管理。勝手にドラ焼き百個仕入れない。衣装も安全な範囲。火を使わない。魔法を使わない」
アイは指折り数えながらうなずく。
「会計、百個だめ、衣装、安全、火だめ、魔法だめ」
宙が手を挙げる。
「呪術は?」
「だめ」
美咲、直樹、ベル先生の声が重なった。
宙は少しだけ残念そうにワラ人形を抱き直す。
「文化祭、制限多い」
直樹はうなずく。
「そうだな。俺も今そう思ってる」
ベル先生が黒板を見て、満足そうに言う。
「では、この案で企画書を作成しましょう。正式には生徒会と文化祭実行委員会の確認が必要です」
アイの尻尾がまた少し揺れた。
「生徒会……鳴海会長の赤ペン」
直樹は遠い目をした。
「避けて通れないな」
アリスがにやっと笑う。
「逆に、会長に通ったら安心感あるよね」
「通るまでに俺の胃が削れるんだよ」
「真央、胃薬持ってる?」
「高校生の文化祭準備で胃薬を勧めるな」
美咲は黒板を見ながら、企画書に必要な項目を読み上げる。
「目的。内容。必要物品。予算。担当。安全対策。食品提供の有無。撮影の有無」
アイは真剣にメモする。
その姿を見て、直樹は少しだけ表情を緩めた。
昨日のアイなら、たぶん「征服できればいい」と言っていた。
今も征服という単語は消えきっていない。
けれど、今は美咲の話を聞いて、アリスの提案を受け入れて、ちゃんとメモを取っている。
それだけでも、かなりの進歩だ。
直樹がそう思った、その瞬間。
アイは企画書の目的欄にさらさらと書いた。
『来場者に魔界風ドラ焼きの魅力を伝え、心を楽しく支配するため』
「支配を消せぇぇぇ!」
直樹は即座に叫んだ。
アイは慌てる。
「でも“楽しく”って入れた!」
「そこじゃない!」
美咲が赤ペンを取り出す。
「“楽しんでもらうため”に直す」
アリスが笑う。
「赤ペン、もう会長っぽい」
美咲は少しだけ照れたように眉を寄せる。
「真奈会長に出す前に、直せるところは直すの」
直樹はしみじみと言った。
「美咲が生徒会長の手前で防波堤になってる……」
宙のワラ人形が低く告げる。
「予備審査」
「やめろ。怖い言葉にするな」
アイは書き直された目的欄を見て、小さくうなずいた。
『来場者に魔界風ドラ焼きの魅力を伝え、楽しんでもらうため』
危険単語は消えた。
かなり普通になった。
アイは少しだけ物足りなそうにする。
「弱い」
直樹、美咲、アリスが同時に言った。
「弱くていい」
アイは目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「人間界、弱い言葉も強いんだね」
直樹は黒板を見上げる。
「たぶんな」
黒板には、もう『文化祭征服計画』の文字はない。
代わりにあるのは、
『魔界風ドラ焼きカフェ』
と、ぎこちないけれど文化祭らしい企画の骨組みだった。
まだ油断はできない。
申請書。
生徒会。
ベル先生の装置。
宙のおみくじ。
アリスの告知。
危険な未来は山ほどある。
けれど、少なくとも今は、征服計画が文化祭企画へ一歩だけ近づいた。
直樹は小さく息を吐く。
「よし。次は企画書だな」
アイは元気よくうなずいた。
「うん! 文化祭参加計画、始動!」
直樹は少し安心する。
その直後、アイが小声でつけ足した。
「裏テーマ、段階的征服」
「裏テーマも消せぇぇぇ!」
教室に、直樹の叫びがまた響いた。
* * *
放課後。
生徒会室の前に、直樹、アイ、美咲、アリスの四人が並んでいた。
アイの手には、文化祭企画書。
美咲の手には、修正版のメモ。
アリスの手には、なぜかカラフルな付箋。
そして直樹の手には、何もない。
何も持たないことで、自分は代表ではないと全身で主張している。
だが、世の中はそれほど甘くない。
「失礼します」
美咲がノックし、扉を開ける。
生徒会室の中では、鳴海真奈が机の向こうに座っていた。
隣には白金光。
前回と同じように、資料、タブレット、赤ペンが整然と並んでいる。
直樹は、その赤ペンを見ただけで胃が少し縮んだ。
「来ましたね」
真奈は静かに言った。
「文化祭企画の事前確認ですね」
アイが元気よく企画書を差し出す。
「はい! 今回はちゃんと申請します!」
真奈はうなずく。
「その姿勢は評価します」
直樹は小声で言う。
「俺もそこだけは評価してます」
光が企画書を受け取り、すっと目を通した。
そして、少しだけ首をかしげる。
「申請書上、代表欄に真央くんの名前があります」
直樹は即座に叫んだ。
「俺は代表じゃない!」
光は穏やかにタブレットを確認する。
「企画代表者欄に、“真央直樹さん”と記載されています」
「誰が書いた!」
アイが手を挙げた。
「アタシ」
「だと思った!」
アイは悪びれない。
「ダーリンが一番ツッコミできるから」
真奈は即座に言った。
「代表理由として不適切です」
直樹は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます!」
ここまで真っ直ぐ救われることがあるのか。
直樹は少しだけ真奈を聖女のように見た。
ただし、聖女の手には赤ペンがある。
つまり、これから裁きが始まる。
真奈は企画書の一ページ目に目を落とした。
「企画名は……」
少しだけ間が空く。
『魔界風ドラ焼きカフェ 附属:文化祭参加型段階的征服体験』
直樹は顔を押さえた。
「消したはずの征服が附属で復活してる!」
アイは慌てて説明する。
「違うの! 征服じゃなくて体験だから!」
「征服体験って何だよ!」
アリスが付箋を持ったまま言う。
「でも“体験”ってつけると文化祭っぽくなるよね」
「危険物に文化祭っぽさを足すな」
真奈は赤ペンを取った。
「修正します」
赤い線が引かれる。
『征服』に二重線。
横に書き込まれる。
『参加』
直樹は感動した。
「征服が参加になった……」
アイは黒板を消されたときよりも衝撃を受けた顔をする。
「アタシの征服が……」
「学校行事としては、参加です」
真奈は静かに言う。
「文化祭は、学校全体を征服する場ではありません。生徒が協力して企画を行う場です」
「協力して征服?」
「参加です」
「即修正された」
光が小さく補足する。
「校内文書上、“征服”は誤解を招きます」
直樹はうなずく。
「誤解じゃなくて本音だけどな」
アイは口を尖らせる。
「本音を申請書に書いちゃだめなの?」
美咲が言う。
「書いていい本音と、書いたら落ちる本音があるのよ」
アリスが小声で笑う。
「それ、人生にも使えるね」
「文化祭申請で人生訓を出すな」
真奈は次のページへ進む。
「内容欄に、“来場者と簡易契約を結び、魔界風ドラ焼きの魅力を体験してもらう”とあります」
直樹は美咲を見た。
「契約、消したよな?」
美咲はアイを見た。
「消したはずよね?」
アイは目をそらした。
「体験って書いたら、ちょっとだけ戻してもいいかなって」
「戻すな!」
真奈は赤ペンを動かす。
『契約』に二重線。
横に、
『体験』
と書かれる。
「契約ではなく、体験です」
アイは企画書を見つめる。
「契約が体験に……」
直樹は腕を組む。
「だいぶ安全になった」
光が続ける。
「ただし、“体験”にする場合も、内容が分かるように説明が必要です。来場者に何をしてもらうのか、何を提供するのか」
アリスが手を挙げた。
「写真撮影スポットと、ドラ焼き提供と、簡単なおみくじくらい?」
真奈はアリスを見る。
「撮影を行う場合は、本人同意と撮影範囲の掲示が必要です」
直樹はすぐに言った。
「俺を撮影スポットに置かないなら、俺は何も言いません」
アイは少し残念そうに言う。
「魔王ナオキ記念撮影……」
真奈の赤ペンが動いた。
『魔王ナオキ記念撮影』に、迷いなく二重線。
さらに横に、
『削除』
と書かれた。
直樹は立ち上がりそうになった。
「ありがとうございます!」
アイは悲しげに叫ぶ。
「ダーリンが削除された!」
「俺は削除されて嬉しい!」
光が丁寧に言う。
「本人の同意がないため、関係者を企画内容に含めることはできません」
美咲がうなずく。
「当然です」
アリスは少しだけ肩をすくめる。
「まあ、真央が嫌がってるならなしだね」
「お前がそこを守るようになっただけで、俺は少し安心する」
「成長してるっしょ」
「成長の比較対象が第6話なのが怖い」
「第6話って言った?」
「気のせいだ」
真奈は企画書の物品欄を見る。
「必要物品。“供物用ドラ焼き百個”」
赤ペンが止まらない。
『供物』に二重線。
『食品』
直樹はうなずく。
「そこはもう、当然ですね」
アイは食い下がる。
「でもドラ焼きは契約の供物で――」
「文化祭では食品です」
真奈の声は静かだが、強い。
アイはしゅんとした。
「食品……」
美咲が横から言う。
「食品だから、ちゃんと衛生管理するの。そこを守れば出せるかもしれないでしょ」
アイはぱっと顔を上げる。
「出せる?」
「守ればね」
「じゃあ食品!」
「切り替え早いな」
直樹は呆れつつ、少しだけ安心した。
ドラ焼きが供物から食品に変わるだけで、世界はかなり平和になる。
真奈は次に、宣伝文案を読んだ。
「“魂を奪うほどおいしい魔界風ドラ焼き”」
生徒会室が静かになる。
直樹は目を閉じた。
「誰が書いたか聞かなくても分かる」
アイは胸を張る。
「アタシ」
「胸を張るな」
アリスが小さく手を挙げる。
「コピーとしては強い」
美咲が即座に言う。
「強くしなくていい」
光は冷静に言う。
「誇大表現および誤解を招く表現に該当する可能性があります」
アイは目を丸くする。
「本当に魂は奪わないよ?」
「奪わないなら書かないでください」
真奈が赤ペンで修正する。
『魂を奪うほどおいしい』に二重線。
横に、
『おいしい』
と書かれた。
アイは悲鳴を上げた。
「弱くなった!」
真奈は表情を変えない。
「弱くてよいものもあります」
直樹は思わず言った。
「出ました、名言」
光が一瞬タブレットに目を落としかける。
直樹が即座に指さす。
「白金、メモしない!」
「業務上の参考です」
「名言集を作るな!」
真奈は、最後に企画書のキャッチコピー欄を見た。
「“悪魔的にうまい”」
アイが息をのむ。
直樹も、少し身構える。
これはどうなるのか。
真奈は少し考えた。
「これは、表現としては可能です」
アイがぱっと顔を輝かせる。
「悪魔的にうまいは残った!」
直樹は即座に突っ込む。
「そこに喜ぶな!」
真奈は続ける。
「ただし、誤解を招かない範囲で使用してください。実際に悪魔契約が発生する、魂を奪う、対価を要求する、といった意味に見える表現は不可です」
アイは真剣にうなずく。
「悪魔的にうまい。でも契約不要。魂不要。対価不要」
直樹は額を押さえる。
「魂不要は残すなって言いたいけど、方向性は分かってきたな……」
アリスが笑う。
「“契約不要、悪魔的にうまい”なら、ちょっと面白いかも」
光が反応する。
「告知文としては、やや引きがあります」
直樹はすぐに見る。
「白金、引かれなくていい。文化祭のドラ焼きだぞ」
「読まれることも必要です」
「また広報の血が騒いでる!」
美咲が企画書をのぞき込む。
「代表欄はどうするんですか?」
真奈は赤ペンで『真央直樹』を消し、その横に書いた。
『クラス企画代表:後日選出』
『相談者:該当者の同意がある場合のみ記載可』
直樹は両手を合わせる。
「救済措置が完璧」
アイは残念そうに言う。
「ダーリン、代表じゃないの?」
「違う」
「相談者?」
「まだ違う」
「じゃあ何?」
「巻き込まれ予備軍」
美咲が言う。
「それ、申請書には書けないわね」
光が微笑む。
「内部共有用の表現としても避けます」
「内部でも避けてくれ!」
真奈は修正した企画書をそろえ、アイへ返した。
「現時点では、このままでは承認できません」
アイの肩が落ちる。
「だめ?」
「完全却下ではありません」
真奈は静かに言った。
「条件付きで、魔界風ドラ焼きカフェとして再提出してください」
アイは顔を上げる。
「再提出したら、できるかもしれない?」
「安全、食品衛生、会計、撮影範囲、表現、関係者の同意が確認できれば、検討できます」
アイは、赤ペンだらけの企画書を見た。
征服は参加へ。
契約は体験へ。
供物は食品へ。
魔王ナオキは削除。
魂を奪うほどおいしいは、ただのおいしいへ。
弱くなった。
でも、消えなかったものもある。
『魔界風ドラ焼きカフェ』
『悪魔的にうまい』
それだけは残っている。
アイは企画書をぎゅっと握った。
「分かった。アタシ、直してくる」
直樹は少しだけ驚いた。
「文句言わないのか?」
「言うけど、直す」
「言うのか」
「だって赤ペン多いもん」
真奈は少しだけ目元を和らげた。
「赤ペンは、企画を通すためにも使います」
アリスが小声で言う。
「会長、かっこよ」
光がうなずく。
「生徒会長ですので」
直樹は思わず言う。
「そこ、光が言うんだ」
真奈は資料を閉じた。
「再提出は、明日の放課後までにお願いします。なお、ベル先生の機材を使用する場合は、別途安全確認が必要です」
直樹の顔が固まった。
「ベル先生の機材?」
真奈は淡々と言う。
「鈴鳴先生から、文化祭協力に関する実験計画書の事前相談が来ています」
直樹は天井を見上げた。
「もう動いてる……」
アイは目を輝かせる。
「実験計画書?」
「お前は興味を持つな!」
美咲がため息をつく。
「次は理科準備室ね」
アリスが楽しそうに笑う。
「文化祭っぽくなってきたじゃん」
直樹は赤ペンだらけの企画書を見た。
文化祭はまだ始まっていない。
それなのに、申請書は赤く染まり、先生の機材は動き出し、生徒会はすでに警戒している。
直樹は静かに言った。
「……文化祭準備って、こんなに戦略ゲームだったか?」
光が穏やかに答える。
「企画管理としては、近いものがあります」
「答えないでほしかった!」
こうして、『文化祭征服計画』は、真奈の赤ペンによって『魔界風ドラ焼きカフェ』へと修正された。
ただし。
赤ペンで消された言葉が、アイの心から完全に消えたかどうかは、また別の話である。
* * *
生徒会室での事前審査を終えた直樹たちは、赤ペンだらけの企画書を抱えて廊下を歩いていた。
企画名は、どうにかこうにか『魔界風ドラ焼きカフェ』に落ち着いた。
征服は参加へ。
契約は体験へ。
供物は食品へ。
魔王ナオキは削除へ。
直樹としては、これ以上ないくらい平和的な方向へ修正できたつもりだった。
ただし、文化祭はまだ始まっていない。
そして、鏡星学園には鈴鳴ベルがいる。
それだけで、平和はだいたい仮初めである。
「じゃあ、次は教室に戻って、企画書を直せばいいのよね」
美咲が赤ペン修正版を確認しながら言う。
「そうだな。食品衛生、会計、撮影範囲、関係者の同意。やることは多いけど、方向性はだいぶまともになった」
直樹は珍しく前向きだった。
文化祭にしては胃が痛い。
しかし、少なくとも企画は学校行事の範囲内へ近づいている。
その隣で、アイも真剣にうなずく。
「アタシ、ちゃんと直す。征服は書かない」
「本当だな?」
「書かない。小さくも書かない。裏テーマにも書かない」
「そこまで言えるなら、かなり進歩だ」
アリスが笑う。
「悪魔ちゃん、だいぶ人間界の申請に染まってきたじゃん」
「申請悪魔……」
「その新ジャンルは嫌だな」
直樹がそう言った瞬間。
廊下の先、理科準備室の扉が、なぜか内側から光った。
ぴかっ。
次に、何かが小さく回転する音。
そして、甘い匂い。
ドラ焼きのような。
焦げた砂糖のような。
少しだけ理科室の薬品棚のような。
直樹は足を止めた。
「……今、理科準備室からドラ焼きの匂いがしたよな」
美咲も眉をひそめる。
「したわね」
アリスは目を輝かせる。
「え、もう試作?」
アイはぱっと顔を上げる。
「ドラ焼き!」
直樹はすぐにアイの肩をつかんだ。
「待て。ドラ焼きに引き寄せられるな。あそこは理科準備室だ」
「でもドラ焼きの匂い」
「理科準備室からドラ焼きの匂いがする時点で危険なんだよ!」
扉が開いた。
中から、白衣姿のベル先生が顔を出す。
「あら、ちょうどよかったわ」
直樹は悟った。
ちょうどよくない。
この人が「ちょうどよかった」と言うときは、たいてい誰かが実験台になる。
「鈴鳴先生。確認ですが、まだ何もしてませんよね?」
「もちろん」
ベル先生は微笑んだ。
「まだ本番運用はしていないわ」
「本番以外はしてる!」
直樹の叫びを聞き流し、ベル先生は理科準備室の中へ手招きした。
「文化祭用の補助機材を試作していたの。せっかくだから見ていきなさい」
「せっかくじゃないです」
「でも、ドラ焼き関係よ」
アイが一歩踏み出した。
「見る!」
「止まれ、仔悪魔!」
直樹の制止もむなしく、一行は理科準備室へ入ることになった。
そして、そこには。
文化祭準備というより、秘密基地があった。
中央の実験台には、丸い鉄板のような装置。
横には、メーターがずらりと並んだ機械。
天井からは小型のホウキが数本、糸もないのにふわふわ浮いている。
さらに部屋の隅には、黒紫色の煙を出す怪しい筒。
そして、机の上には、なぜかマイクつきの測定器。
直樹は、ゆっくりと息を吸った。
「文化祭に持ち込む機材じゃない!」
ベル先生は心外そうに首をかしげる。
「そう? 文化祭って、準備段階で文明が一段階進むものじゃない?」
「進みません。段ボールとガムテープで戦うものです」
「そこで魔導工学を加えれば、より効率的になるわ」
「効率的に危険になるだけです!」
ベル先生は一つずつ装置を紹介し始めた。
「まず、こちらが自動ドラ焼き焼き機」
丸い鉄板のような装置が、うぃん、と音を立てる。
「生地を入れると、自動で焼き上げ、餡を挟み、悪魔的な焼き印を入れて排出します」
直樹は顔をしかめた。
「焼き印?」
鉄板の横に、小さな魔法陣のような印がある。
アイは感動して目を輝かせた。
「すごい! ドラ焼きに魔界印!」
美咲が即座に言う。
「食品に怪しい印を入れない」
「怪しくないわ。可食インクよ」
ベル先生は穏やかに答える。
直樹はすぐ突っ込む。
「問題はインクより図柄です!」
次にベル先生は、メーターつきの機械を指す。
「これは来場者満足度測定器。表情、声量、滞在時間、ドラ焼き完食率から満足度を算出するわ」
アリスが身を乗り出す。
「それ、アンケートより早くない?」
「反応するな。便利そうに見える危険物だぞ」
ベル先生はさらに、マイクつきの機械を持ち上げた。
「そして、これがツッコミ音量メーター」
直樹は一歩下がった。
「今すぐ捨ててください」
「なぜ?」
「名前で分かるでしょう!」
宙が、いつの間にか部屋の隅にいた。
なぜいるのか。
誰も呼んでいない。
けれど、危険な装置がある場所には、だいたい見上宙がいる。
宙はツッコミ音量メーターをじっと見つめ、ワラ人形を抱えたまま言った。
「ツッコミ音量、事前校正が必要」
直樹は即座に叫ぶ。
「俺で校正するな!」
メーターがぴこんと反応した。
『基準値取得中』
直樹は青ざめる。
「もう取られた!」
ベル先生は嬉しそうにタブレットを見る。
「今の一声で、平均よりかなり高い値が取れたわね」
「人の叫びを平均化するな!」
メーターがまた反応する。
『高精度校正中』
「やめろ! 俺の怒りで精度を上げるな!」
美咲がため息をつきながら、メーターのスイッチを切った。
「先生、これは文化祭にいりません」
「でも、来場者の反応を見るには便利よ?」
「直樹の精神が削れるのでだめです」
直樹は美咲を見た。
「ありがとう。今、普通に助かった」
「この機械に慣れたくないだけよ」
ベル先生は少し残念そうに装置を置く。
次に、部屋の隅の筒を指した。
「こちらは魔界風スモーク発生装置」
黒紫色の煙が、ぽふん、と小さく上がる。
アイが拍手する。
「雰囲気出る!」
直樹は煙を見て言う。
「出していい雰囲気じゃない!」
「大丈夫。今回は爆発しないわ」
ベル先生は自信ありげに言った。
直樹は反射的に叫ぶ。
「“今回は”って言った!」
「過去の反省を活かしているという意味よ」
「過去に爆発したことを認めた!」
アリスが煙を見ながら言う。
「でも、ちょっと写真映えしそう」
「映えって言うな。煙に映えを見出すな」
「いや、黒紫って世界観あるし」
「世界観より換気だ!」
美咲が窓を開ける。
「とりあえず換気」
「判断が早い」
最後に、ベル先生は天井近くをふわふわ飛ぶ小さなホウキを指した。
「そして、これが小型ホウキ型配膳ドローン」
アイの目が、今日一番輝いた。
「これ、すごい!」
小さなホウキの先に、丸いトレーがついている。
その上には試作品らしい小さなドラ焼きが一つ乗っていた。
ホウキは空中をゆっくり移動し、アイの前でぴたりと止まった。
アイは感動して両手を合わせる。
「これなら廊下も空中配達できる!」
直樹は、未来を見た。
廊下を飛ぶホウキ。
落ちるドラ焼き。
叫ぶ生徒。
走る直樹。
駆けつける真奈。
赤ペン。
生徒会預かり。
「今すぐ危険な未来が見えた」
直樹は低く言った。
アイはきょとんとする。
「でも、廊下の上空なら邪魔にならないよ?」
「なる。絶対なる。上空って言葉を学校の廊下で使うな」
ベル先生はホウキ型配膳ドローンを手元に呼び戻す。
「もちろん、実際に使うには安全確認が必要ね」
「そこは分かってるんですね」
「ええ。生徒会に実験計画書を提出済みよ」
直樹は顔を覆った。
「文化祭企画書より先に実験計画書が動いてる……」
美咲が真顔で言う。
「先生、文化祭は実験発表会じゃないです」
「教育活動よ」
「便利な言葉みたいに使わないでください」
アリスは試作品のドラ焼きをのぞき込む。
「これ、食べられるやつ?」
ベル先生は微笑む。
「食べられるわ。たぶん」
直樹は即座に言う。
「たぶんの食品を文化祭に出すな!」
アイは小さなドラ焼きを見つめて、ものすごく揺れていた。
ドラ焼き。
でもベル先生製。
食べたい。
でも危険。
食べたい。
かなり危険。
直樹はアイの表情を見て、すぐに止めた。
「食べるなよ」
「まだ何も言ってない」
「目が食べてた」
宙が静かに言う。
「試食、必要」
「お前も乗るな」
ワラ人形が低い声で告げる。
「毒見」
「文化祭の準備で毒見って言葉を出すな!」
ベル先生は笑いながら、試作品をケースに入れた。
「安心して。本番前にはちゃんと安全確認をするわ」
直樹はじとっと見る。
「本当ですか」
「真奈会長に出す書類が増えるから、今回は本当に」
「生徒会長の存在が安全装置になってる……」
美咲がうなずく。
「頼もしいわね」
「頼もしいけど、俺の高校生活って何なんだろうな」
アイはホウキ型配膳ドローンを名残惜しそうに見ている。
「ねえ、ダーリン」
「だめだ」
「まだ何も言ってない」
「廊下で空中配達したいって顔だ」
「一回だけ」
「だめだ」
「低空飛行」
「だめだ」
「申請してから」
「申請してもだめなものはだめ!」
ベル先生は軽く手を打った。
「では、まずはこの機材一覧を企画書の別紙に――」
直樹が叫ぶ。
「載せない!」
美咲も言う。
「載せたら企画が落ちます」
アリスが笑う。
「でも、何個かは使えたら面白そうだよね」
直樹はアリスを指さす。
「そういう“面白そう”が文化祭を危険にする!」
宙はツッコミ音量メーターを見ながら、ぽつりと言った。
「今の音量、記録したかった」
「しなくていい!」
直樹の声が理科準備室に響く。
使われていないはずのメーターが、またぴこんと光った。
『参考値を保存しました』
「切ったのに!?」
ベル先生はにっこり笑った。
「予備電源よ」
「文化祭前に一番切るべきなのは、その予備電源です!」
こうして、『魔界風ドラ焼きカフェ』は、申請段階でようやくまともになりかけたにもかかわらず、理科準備室で再び魔導工学の沼に片足を突っ込んだ。
直樹は強く思った。
文化祭準備に必要なのは、予算でも飾りでもドラ焼きでもない。
まず、ベル先生から企画を守る防壁である。
* * *
理科準備室から、どうにか生還した直樹たちは、教室へ戻ってきた。
ベル先生の自動ドラ焼き焼き機。
来場者満足度測定器。
ツッコミ音量メーター。
魔界風スモーク発生装置。
小型ホウキ型配膳ドローン。
文化祭準備というより、校内防衛計画に出てきそうな装置群だった。
直樹は机に突っ伏す。
「……文化祭って、こんなに命の危険あったか?」
「まだ何も爆発してないじゃない」
美咲が言う。
「“まだ”がつく時点でおかしいんだよ」
アリスは企画書に付箋を貼りながら笑った。
「でも、ドラ焼きカフェとしてはだいぶ形になってきたじゃん。悪魔っぽい内装、ドラ焼き、ちょっとした占いコーナー」
「占いコーナー?」
直樹は顔を上げた。
その瞬間だった。
がたり。
教室の隅から、小さな木箱が机の上に置かれた。
誰が置いたのか。
見上宙である。
いつの間にいたのか。
いた。
宙は無表情で、その箱を両手で支えている。
箱の表面には、筆文字で大きくこう書かれていた。
『契約おみくじ』
直樹は、ほぼ反射で言った。
「その文字をまず消せ」
宙は首を横に振る。
「安全版」
「“契約”って書いてある時点で安全版じゃない」
宙はワラ人形を少し前に出した。
ワラ人形が低い声で読み上げる。
「大吉。今日の願いは叶う。ただし対価としてドラ焼き一個」
アイが身を乗り出した。
「対価ドラ焼き一個、安い」
「そこじゃない!」
直樹は即座に突っ込んだ。
ワラ人形は続ける。
「中吉。契約者が叫ぶ」
「俺を運勢にするな!」
「凶。提出書類が増える」
「嫌なリアリティ!」
「大凶。生徒会預かり」
美咲が思わずつぶやいた。
「大凶が現実的すぎる」
「そこに現実味を出すな!」
直樹はおみくじ箱を見下ろす。
木箱そのものは、意外とちゃんとしていた。
表面はきれいに磨かれている。
穴も開いている。
中には細長い紙が入っているらしい。
文化祭のおみくじ企画として、見た目だけなら成立しそうだ。
見た目だけなら。
「宙、確認するぞ」
「はい」
「これは、ただ紙を引くだけのおみくじだな?」
「基本的には」
「基本以外を言え」
宙は少し考えた。
「願いが叶う確率を、微弱に調整」
「本物じゃねえか!」
アリスが目を輝かせる。
「え、ちょっと面白そうじゃん」
「面白そうで本物が一番危ないんだよ!」
美咲も腕を組んだ。
「文化祭で本物の契約とか願掛けとかやらない。普通のおみくじにしなさい」
宙は不満げには見えない。
無表情なので分からない。
ただ、ワラ人形が不満げに首を傾けた。
「普通は、弱い」
直樹はすぐに言った。
「弱くていいものもある!」
アイが反応する。
「鳴海会長の言葉!」
「そうだ。便利だから使う」
アリスが笑う。
「真央、だいぶ会長語録に染まってきたね」
「染まらないと生き残れないんだよ!」
宙はおみくじ箱のふたを開けた。
中から、細長い紙を一枚取り出す。
直樹は警戒しながら見る。
紙には、こう書いてあった。
『小吉:今日のあなたは、契約書をよく読むと吉』
「これはまとも」
直樹は少しだけ安心した。
宙は次の紙を取り出す。
『末吉:ドラ焼きを分けると関係が進展。ただし同意を確認』
「これも、まあ……同意確認が入ってるなら」
アイが目を輝かせる。
「ダーリン、ドラ焼き分ける?」
「今はおみくじの審査中だ」
宙はさらに紙を取り出す。
『特殊吉:契約者のツッコミ音量が上がる』
「混ぜるな!」
直樹の声が上がった。
教室の後ろに置きっぱなしだったツッコミ音量メーターが、なぜかぴこんと光る。
『参考値を更新しました』
「まだ持ってきてたのかよ!」
ベル先生が教室の入り口から顔を出した。
「予備機よ」
「先生、廊下から自然に会話に入ってこないでください!」
ベル先生はおみくじ箱を見る。
「あら、見上さんのおみくじ。もう形になったのね」
直樹はベル先生を見る。
「先生、関わってます?」
「直接は関わっていないわ」
「直接は?」
「木材の切断と魔力伝導率の測定だけ」
「関わってる!」
美咲が頭を抱える。
「どうして普通のおみくじ箱に魔力伝導率が必要なんですか」
ベル先生は真面目な顔で答える。
「願いが通りやすい素材を選ぶためよ」
「通さないでください!」
直樹と美咲の声が重なる。
宙はおみくじ箱の底を持ち上げた。
「まだ未完成」
直樹は、そこで嫌なものを見た。
箱の底。
薄く鉛筆で下書きされた円形の模様。
星形。
細かな文字。
どう見ても、文化祭の工作ではない。
「宙」
「はい」
「それは何だ」
「装飾」
「嘘だ。装飾はもっと花とか星とかハートとかだ。これは魔法陣だ」
宙は少しだけ考える。
「呪術陣」
「もっと悪かった!」
アイは箱の底をのぞき込んで、感心したように言った。
「人間界にも契約陣あるんだ」
「ない。少なくとも文化祭にはない」
宙は鉛筆を持つ。
「効果は弱める」
「効果を入れるな」
「願いが叶う実感が必要」
「実感は紙に“大吉”って書いてあれば十分なんだよ!」
美咲が鉛筆を取り上げようとした、そのとき。
「見上さん」
静かな声がした。
教室の空気が、すっと正座したように整う。
振り向くと、廊下側の扉のところに鳴海真奈が立っていた。
手には資料。
胸元には生徒会の腕章。
そして、当然のように赤ペン。
直樹は思わず叫んだ。
「真奈会長、どこにでも現れる!」
真奈は落ち着いて言う。
「文化祭関連の事前確認で巡回しています」
「巡回の精度が高すぎる!」
光もその後ろにいた。
タブレットを持っている。
「廊下で“呪術陣”という単語が聞こえましたので」
「聞こえた単語で現場に来るな! いや、来てくれて助かった!」
真奈はおみくじ箱を見た。
そして、箱の底に描かれかけた模様を見た。
表情は変わらない。
だが、赤ペンのキャップが外れた。
「見上さん。文化祭企画に呪術的効果を持たせないでください」
宙は無表情で答えた。
「まだ持たせていない」
「持たせそうなので止めました」
直樹は思わず感動した。
「生徒会長、未然防止が完璧!」
ワラ人形が低く言う。
「未然、防止」
「人形も学ぶな」
真奈はおみくじ箱を指さす。
「企画としてのおみくじ自体は、内容と表現を調整すれば可能です。ただし、契約、対価、呪術、魔法陣、効果発動、運命操作に類する要素は禁止です」
アイが手を挙げる。
「対価ドラ焼き一個もだめ?」
「だめです」
「安いのに」
「価格の問題ではありません」
直樹はアイを見る。
「そこをまだ惜しむな」
光がタブレットに入力する。
「名称は、“契約おみくじ”ではなく“魔界風ラッキーくじ”などが無難です」
アリスがすぐ反応する。
「“魔界風ラッキーくじ”なら可愛いかも。ちょっとポップだし」
宙は首を傾げる。
「契約が消える」
「消すんだよ」
美咲がきっぱり言った。
真奈はおみくじの紙を一枚手に取る。
「内容も修正します」
赤ペンが動く。
『大吉。今日の願いは叶う。ただし対価としてドラ焼き一個』
が、
『大吉。今日はいいことがあるかも。ドラ焼きを食べるとさらに楽しい』
に変わる。
アイは驚いた。
「対価が楽しさになった!」
直樹はうなずく。
「だいぶ文化祭になった」
次。
『中吉。契約者が叫ぶ』
が、
『中吉。元気な声が聞けるかも』
に変わる。
「俺の要素、まだ残ってません?」
直樹が不安げに言うと、真奈は静かに答えた。
「特定されない表現です」
「特定されなければいいってものでもない!」
次。
『凶。提出書類が増える』
真奈は少しだけ手を止めた。
そして、
『小凶。忘れ物に注意』
へ修正した。
光が横から言う。
「提出書類が増える、は文化祭準備の実感がありますね」
直樹がすぐに言う。
「白金、実感をくじにするな」
最後。
『大凶。生徒会預かり』
真奈は無言で二重線を引いた。
横に、
『大凶は入れない』
と書いた。
直樹は深くうなずいた。
「それが一番平和です」
宙は少しだけワラ人形を抱きしめた。
「大凶、人気出る」
アリスが苦笑する。
「まあ、ちょっと引きたいけどね」
美咲がにらむ。
「引かなくていい」
真奈は、おみくじ箱の表に書かれた『契約おみくじ』を赤ペンで囲んだ。
「名称は再提出してください」
宙は静かにうなずく。
「魔界風ラッキーくじ」
「それなら検討可能です」
アイはぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、ドラ焼きカフェにラッキーくじ置ける?」
真奈はうなずく。
「契約効果がなく、対価を求めず、来場者が楽しめる内容であれば」
アイは嬉しそうに直樹を見る。
「ダーリン、契約なしでも、おみくじできる!」
「そうだ。普通のおみくじは契約なしでできるんだ」
「人間界、便利」
「便利の方向性が違う気もするけど、まあいい」
ベル先生がにこやかに言った。
「では、魔力伝導率の低い素材に変更しましょうか」
真奈が即座に言う。
「鈴鳴先生は関与範囲を申請してください」
「まだ素材相談だけよ」
「相談段階で申請してください」
直樹は小さく拍手した。
「先生を相談段階で止めた……」
美咲も感心している。
「真奈会長、文化祭期間ずっと巡回してほしい」
「本当にそうしてほしい」
直樹が言うと、真奈はほんの少しだけ困ったように言った。
「そのつもりです」
直樹は固まった。
「……文化祭、そんなに危険視されてるんですか?」
光が穏やかに答える。
「本件に関しては、事前に危険要素が複数確認されています」
「言い方が事故報告書!」
真奈はおみくじ箱を宙に返した。
「見上さん。再提出をお願いします」
「はい」
宙はおみくじ箱を抱え、ワラ人形を少し前に出した。
ワラ人形が低い声で言う。
「契約しない。対価なし。大凶なし」
「いい標語みたいになってる」
アリスが笑った。
直樹は深々と息を吐いた。
危なかった。
あと数分遅れていたら、文化祭に本物の契約おみくじが出るところだった。
しかも大凶は生徒会預かり。
高校生活で引きたくない運勢ランキング一位である。
アイは、修正されたおみくじ案を見て、にこにこしている。
「魔界風ドラ焼きカフェに、魔界風ラッキーくじ。楽しそう!」
「契約が抜けただけで、だいぶ健全になったな」
直樹はそう言った。
その瞬間、宙が箱の底をそっと見た。
直樹は見逃さなかった。
「今、まだ魔法陣描けるか考えただろ」
宙は無表情で答える。
「考えただけ」
真奈が赤ペンを構えた。
「考えた段階で止めます」
直樹はもう一度叫んだ。
「真奈会長、やっぱりどこにでも現れるし、心の中にもいる!」
* * *
契約おみくじが、どうにか『魔界風ラッキーくじ』へ修正されたあと。
生徒会室では、文化祭関連の校内告知文作成が始まっていた。
文化祭は、クラスだけで完結する行事ではない。
食品提供。
撮影。
外部アプリ利用。
校内掲示。
学級連絡アプリ。
来場者案内。
つまり、直樹たちの企画が暴走すると、クラスだけでなく学校全体を巻き込む。
前回、案件動画未遂で痛いほど学んだことだ。
そして、その“学校全体へ知らせる文章”を担当するのが、生徒会広報補佐・白金光である。
「では、文化祭準備に関する全体告知文を作成します」
光はタブレットを操作し、モニターに文案を表示した。
『文化祭出し物準備に関するお知らせ』
『食品提供・撮影・外部アプリ利用には事前確認が必要です』
『各企画は、担当教員および生徒会・文化祭実行委員会の確認を受けてください』
直樹は、思わず息を吐いた。
「まともだ……」
この数日で、直樹はまともな文章に弱くなっていた。
契約。
供物。
征服。
魔王ナオキ。
契約者の叫び。
魂を奪うほどおいしい。
それらに比べれば、『食品提供・撮影・外部アプリ利用には事前確認が必要です』など、もはや癒やしである。
しかし、隣でアリスが首をかしげた。
「でも、文化祭感が弱くない?」
直樹は即座に振り向く。
「弱くていいんだよ!」
アリスはモニターを指さす。
「いや、分かるよ? 安全確認とか申請とか大事なのは分かる。でもさ、文化祭のお知らせって、もうちょいワクワク感ほしくない? これだと“注意事項プリント”感が強い」
光は穏やかに答える。
「注意事項を含む告知文ですので」
「正論」
「広報ですので」
「前も聞いたやつ」
直樹は顔を押さえた。
「この二人、また始まった……」
アイは興味津々で身を乗り出す。
「アリスなら、どう書くの?」
アリスは待ってましたと言わんばかりに、光から予備のメモを受け取り、さらさらと書いた。
そして、得意げに見せる。
『悪魔ちゃんカフェ、爆誕? 今年の文化祭、何かが起きる!』
直樹は机を叩きそうになった。
「何かを起こすな!」
アイはぱあっと顔を輝かせる。
「悪魔ちゃんカフェ、爆誕!」
「食いつくな!」
美咲がアリスのメモを見て、ため息をついた。
「文化祭感はあるけど、完全にアイの企画を前面に出してるじゃない」
光もうなずく。
「関係者が特定されるため不可です」
アリスは唇を尖らせる。
「えー、でも読まれるよ?」
「読まれてはいけない形で読まれる可能性があります」
「真面目だ」
「広報ですので」
「それ、便利すぎない?」
直樹は光を見る。
「白金、今の見出し、内部メモにも残すなよ」
「残しません」
「本当だな?」
「参考にはします」
「するな!」
光は少しだけ考え、別案を打ち込んだ。
『文化祭準備における食品提供・撮影・外部アプリ利用の注意点』
直樹はうなずく。
「まとも」
アリスは首を横に振る。
「固い」
光がもう一案。
『楽しい文化祭のために、事前確認をお願いします』
美咲がうなずく。
「それはいいんじゃない?」
アリスは少し悩む。
「悪くないけど、もうちょい掴みがほしい」
アイが手を挙げた。
「アタシ案!」
直樹はすぐ言った。
「嫌な予感しかしない」
アイは元気よく宣言する。
『申請せよ! 文化祭は征服より先に書類から!』
「お前の学び方、癖が強い!」
真奈の赤ペンが、すっと動いた。
『征服』に二重線。
横に『参加』。
アイはびくっとする。
「鳴海会長、速い!」
「条件反射です」
直樹は真奈を見る。
「会長、征服って単語に反応速度が上がってません?」
「必要に応じて」
「必要なんだ……」
アリスは腕を組み、もう一度考える。
「じゃあ、“今年の文化祭、申請が熱い!”」
直樹は即座に突っ込んだ。
「誰が読むんだそれ!」
アリスは笑う。
「申請推しの新機軸」
「文化祭で一番推したくない要素だ!」
光は少しだけ真剣に見ている。
「ただ、“申請が熱い”という表現は、注意喚起をポジティブに見せる効果があります」
「白金、乗るな!」
美咲が言う。
「熱い申請って何よ」
宙のワラ人形が、いつの間にか机の上に乗っていた。
「申請、燃える」
「燃やすな!」
アイが目を輝かせる。
「炎の申請書?」
直樹は頭を抱えた。
「文化祭前に書類を燃やそうとするな!」
ベル先生が楽しそうに言う。
「耐火性の申請用紙なら試作できるわよ」
「先生は紙の材質に介入しないでください!」
会議がまた斜め上へ飛びかけたところで、真奈が赤ペンを置いた。
音は小さい。
だが、生徒会室の空気が一瞬で整う。
「皆さん」
全員が止まった。
真奈は光案、アリス案、アイ案、その他危険案を順番に見た。
そして、淡々と修正を始める。
まず、特定の企画名は削る。
次に、悪魔、征服、爆誕、何かが起きる、申請が熱い、炎の申請書を削る。
直樹は、危険単語が赤ペンで消されていくのを見て、心から安堵した。
「赤ペンって、浄化魔法なのかもしれない……」
美咲が小声で言う。
「魔法少女より先に会長が浄化してるわね」
「今、変な伏線みたいなこと言うな」
真奈は最終案をモニターに表示した。
『文化祭準備が始まります。各企画は安全確認と事前申請をお願いします』
『食品提供・撮影・配信・外部アプリ利用を行う場合は、担当教員または生徒会・文化祭実行委員会へ確認してください』
『来場者と参加者が安心して楽しめる文化祭を目指しましょう』
直樹は深くうなずいた。
「無難だ……」
光も納得したように頷く。
「必要事項は入っています」
美咲も言う。
「これなら誰かを巻き込まないし、ちゃんとしたお知らせね」
アリスは少しだけ不満そうにモニターを見た。
「弱い」
真奈は静かに言った。
「弱くてよいものもあります」
直樹は思わず叫んだ。
「前回も聞いたやつ!」
アイは目を丸くする。
「鳴海会長、それお気に入り?」
「お気に入りではありません。必要な判断です」
アリスはしばらく文面を見つめていた。
それから、少しだけ肩をすくめる。
「まあ、これはこれでいいか。全体告知だもんね。悪魔ちゃんカフェの告知じゃないし」
光がうなずく。
「個別企画の紹介文は、承認後に別途作成できます」
アリスの目が光る。
「じゃあ、そのときはもうちょい盛っていい?」
「関係者が特定されすぎず、誤解を招かず、申請内容と一致する範囲であれば」
「条件多いなー」
「文化祭広報ですので」
直樹は苦笑した。
「その“広報ですので”、もう決め台詞だろ」
光は穏やかに微笑む。
「業務姿勢です」
アイはモニターの文面をじっと見ていた。
「文化祭準備が始まります……安全確認と事前申請……安心して楽しめる文化祭……」
そして、ぽつりと言う。
「征服って書かなくても、楽しそうにできるんだね」
直樹は少しだけ驚いた。
真奈は静かにうなずく。
「できます」
美咲も言った。
「むしろ、書かないほうが通るわよ」
「うん。分かってきた」
アイはにこっと笑った。
「じゃあ、アタシたちのカフェも、弱くて楽しい言葉で出す」
直樹は半眼で見る。
「本当だな?」
「たぶん」
「たぶんをやめろ」
アリスが笑う。
「悪魔ちゃん、そこは“申請します”って言っとけば?」
アイは胸を張る。
「申請します!」
直樹は一瞬安心した。
だが、アイはすぐ続けた。
「弱くて楽しい征服を!」
赤ペンが、再び構えられた。
直樹は叫ぶ。
「だから征服を最後に戻すなぁぁぁ!」
真奈は静かに、しかし確実に赤ペンを入れた。
文化祭の告知文は、無事に完成した。
なお、アイの語彙は、まだ再提出が必要である。
* * *
文化祭準備期間の校内は、普段とは少し違う。
放課後の廊下には、段ボールを抱えた生徒が行き交い、教室からはガムテープを引き出す音が響き、どこかのクラスでは、まだ企画も固まっていないのに巨大な看板だけが完成しかけている。
青春。
混沌。
そして、締め切り前の謎の熱量。
直樹たちのクラスも例外ではなかった。
『魔界風ドラ焼きカフェ』
ひとまずこの企画名で進むことになり、教室では内装班、食品班、衣装班、告知班に分かれて作業が始まっていた。
ただし、普通の文化祭準備と違う点がある。
廊下に、小型ホウキ型配膳ドローンが浮いていた。
「だから、それを廊下に出すなって言っただろ!」
直樹の叫びが、放課後の廊下に響く。
アイはホウキ型配膳ドローンの横で、目を輝かせていた。
小型のホウキは、丸いトレーを乗せたまま、ふわふわと空中で静止している。
トレーの上には、試作品の紙皿。
その上には、ドラ焼きの模型。
文化祭のサンプルとしては可愛い。
飛んでいなければ。
「ダーリン、見て! 安定してる!」
「廊下で浮いてる時点で安定してない!」
「でも、これならお客さんに席までドラ焼きを運べるよ?」
「席って教室内だろ。廊下で試すな!」
アリスがスマホを取り出しかけて、すぐに自分で止めた。
「……撮らない。今のは撮らないやつ」
「成長してるけど、構える前提が怖い」
美咲は段ボールを抱えながら、鋭い目でアイを見た。
「アイ、真奈会長に言われたでしょ。外部アプリ、撮影、機材、全部確認が必要って」
「これは外部アプリじゃないよ。ベル先生のホウキ」
「もっと悪い可能性があるわね」
直樹は大きくうなずいた。
「美咲、正解」
ベル先生は廊下の端で、機材用ワゴンを押しながら微笑んでいる。
「大丈夫よ。ホウキ型配膳ドローンは、まだ自律飛行モードを切っているから」
直樹は振り向いた。
「“まだ”と“自律飛行”を同じ文に入れないでください!」
「現時点では手動操作よ」
「誰が操作してるんですか」
ベル先生はにこっと笑い、アイを指した。
直樹はアイを見る。
アイは小さなリモコンを握っていた。
「お前か!」
「アタシ、悪魔だからホウキ操作得意だよ?」
「悪魔だから学校の廊下で飛行許可が出るわけじゃない!」
アイは少し考えた。
そして、廊下の上を見上げる。
「でも、廊下の上空なら邪魔にならないよね?」
「なる!」
直樹は即答した。
「人間界の廊下に“上空”って概念を持ち込むな!」
「低空なら?」
「もっと邪魔!」
「天井すれすれなら?」
「別の意味で危険!」
アイはむうっと頬を膨らませた。
「じゃあ、アタシが乗って安定性を確かめる」
「なぜそうなる!」
言うが早いか、アイは壁に立てかけてあった試作用の少し大きなホウキにまたがった。
ホウキの柄には、ベル先生特製らしい小さな魔導回路が取り付けられている。
直樹は青ざめる。
「待て。降りろ。今すぐ降りろ」
「大丈夫。ちょっと浮くだけ」
「その“ちょっと”で過去に何度俺が叫んだと思ってる!」
宙が、いつの間にか廊下の反対側に立っていた。
ワラ人形を抱えて、淡々と言う。
「叫び、蓄積中」
「統計にするな!」
アイのホウキが、ふわりと浮いた。
床から、ほんの数センチ。
たしかに低い。
低いが、学校の廊下で生徒がホウキにまたがって浮いている時点で、完全にアウトである。
直樹が止めようと踏み出した、その瞬間。
「そこぉぉぉぉぉっ!」
廊下の空気が震えた。
地鳴りのような声。
段ボールを運んでいた生徒が一斉に止まり、ホウキ型配膳ドローンが空中でびくっと揺れ、直樹の背筋が伸びる。
廊下の角から、体育教師・伊原先生が現れた。
通称、ベルバラ先生。
ジャージ姿。
腕組み。
姿勢が無駄に美しい。
声は体育館の端まで届きそうで、立ち姿はなぜか舞台の主役のようだった。
ベルバラ先生は、浮いているアイを指さした。
「廊下を飛ぶな! 走るな! 飛ぶならグラウンドで準備運動をしてからにしろ!」
直樹は思わず叫んだ。
「飛ぶこと自体は止めないんですか!?」
ベルバラ先生は直樹を見た。
「真央! 物事には順序がある!」
「飛行許可より準備運動が先なんですか!?」
「着地に必要なのは下半身の安定だ!」
「体育理論で悪魔飛行を受け止めないでください!」
アイはホウキの上で目を丸くしている。
「グラウンドなら飛んでいいの?」
「よくない!」
直樹が叫ぶ。
しかしベルバラ先生は真顔で言った。
「使用目的、周囲の安全、着地場所、監督者、準備運動、これらが確認できれば検討はする!」
「検討しないでください!」
美咲が小さくつぶやく。
「でも言ってることは安全管理ね」
「安全管理の入口が飛行前提なのが怖いんだよ!」
ベルバラ先生はアイへ歩み寄り、手を差し出した。
「天満。まず降りろ。廊下は歩く場所だ」
「はい……」
アイはしゅんとして、ホウキから降りた。
ベルバラ先生は、ホウキを持ち上げて点検する。
「それから、飛ぶなら体幹を鍛えろ。空中で姿勢が崩れると危ない」
直樹は両手で頭を抱えた。
「だから飛ぶ前提で技術指導をしないでください!」
ベルバラ先生は胸を張る。
「危険な行為ほど、まず身体の使い方を教える。生活指導とは、事故を未然に防ぐことだ!」
「言ってることが正しそうで、やっぱり何かおかしい!」
そこへ、廊下の向こうからベル先生が機材ワゴンを押して通りかかった。
ワゴンの上には、魔界風スモーク発生装置、ツッコミ音量メーター、そしてなぜか予備の小型ホウキが三本。
ベルバラ先生の目が光った。
「鈴鳴先生!」
ベル先生はにこやかに手を振る。
「あら、伊原先生。文化祭準備の巡回?」
「廊下に実験器具を置かない!」
ベル先生は穏やかに答えた。
「まだ起動していないわ」
「起動前に片づける!」
直樹は感動した。
「生活指導、強い!」
ベル先生は少し困ったように笑う。
「これは文化祭用の補助機材で――」
「補助機材でも、廊下に置けば障害物だ!」
「でも、移動中で」
「移動中でも、廊下の中央を塞ぐな!」
「まだ煙は出していないわ」
「煙が出る時点で別件だ!」
美咲が小声で言う。
「ベルバラ先生、真奈会長とは別方向で強いわね」
直樹はうなずく。
「書類で止める真奈会長、声量で止めるベルバラ先生……鏡星学園の秩序、二枚看板が強すぎる」
アリスは楽しそうに笑う。
「しかも絵面が濃い」
「撮るなよ」
「撮らないって。今は心のアルバム」
「それも微妙に不安だ」
ベルバラ先生は、今度は直樹を見る。
「真央!」
「はい!?」
「お前も叫ぶときに腰が浮いている。腹から声を出せ。喉を痛めるぞ」
「俺のツッコミに発声指導が入った!」
宙がワラ人形を持ち上げる。
「ツッコミ音量、姿勢改善で上昇」
「上昇させなくていい!」
ベルバラ先生は宙のワラ人形も見る。
「見上! 廊下で立ち止まるなら端に寄れ!」
宙はすっと端に寄った。
「はい」
直樹は驚いた。
「宙が素直に動いた……」
ワラ人形が低く言う。
「生活指導、強い」
アイはホウキを抱えながら、小さく手を挙げた。
「先生」
「何だ、天満」
「文化祭で飛ばない悪魔は、悪魔として弱くない?」
ベルバラ先生は少し考えた。
そして力強く答えた。
「イベント前にケガをしない悪魔は強い!」
アイは目を見開いた。
「ケガをしない悪魔……強い」
直樹は思わず突っ込む。
「納得するのかよ!」
ベルバラ先生は続ける。
「文化祭は当日だけではない。準備も本番の一部だ。準備でケガをする者は、文化祭に負けている!」
美咲がうなずいた。
「それは分かる」
直樹も認めざるを得なかった。
「そこだけは普通にいい話だ……」
アイは真剣な顔でホウキを見た。
「じゃあ、アタシ、廊下では飛ばない」
「よし」
直樹は胸を撫で下ろす。
アイは続けた。
「グラウンドで準備運動してから――」
「だから飛ばない!」
ベルバラ先生はベル先生のワゴンを壁際へ寄せさせ、ホウキ型配膳ドローンを一時回収した。
「小型機材も、人の動線をふさぐな。試験運用は空き教室かグラウンド。食品を乗せるなら衛生面の確認。煙を出すなら換気と避難経路。分かったか!」
ベル先生は微笑む。
「はい。安全確認の項目が増えたわね」
「増やすな。減らせ」
直樹は即座に言った。
アイはしょんぼりしながらも、ホウキを壁に立てかけた。
「廊下飛行、禁止」
「そう。禁止」
「廊下空中配達、禁止」
「それも禁止」
「廊下低空悪魔パレード、禁止?」
「何その新しい案!」
ベルバラ先生が言う。
「パレードなら、実施場所と隊列と安全管理を提出しろ!」
「だから検討しないでください!」
直樹の叫びに、廊下の生徒たちが笑う。
文化祭準備の熱気の中、危険なホウキ飛行は未遂で終わった。
ベル先生の機材も、ひとまず壁際に避難した。
アイは少し残念そうだったが、少なくとも廊下では飛ばないと約束した。
直樹は深く息を吐く。
「……今日、何回“未然に防いだ”んだろう」
美咲が言う。
「防げてるだけマシじゃない?」
「たしかに」
アリスが笑いながら言う。
「文化祭、始まる前から伝説になりそうだね」
「ならなくていい!」
宙のワラ人形が、ぽつりと言った。
「伝説、準備中」
「準備するなぁぁぁ!」
直樹の叫びが、廊下に響く。
その声に、ベルバラ先生がすかさず指導を入れた。
「真央! 腹から!」
「そこを指導しないでください!」
* * *
数々の赤ペン、生活指導、未然防止を経て。
直樹たちのクラス企画は、ようやくひとつの名前に落ち着いた。
『魔界風ドラ焼きカフェ』
黒板の中央に、その文字が書かれている。
征服ではない。
契約でもない。
供物でもない。
魔王ナオキ記念撮影でもない。
直樹はその事実だけで、少し泣きそうだった。
「……ここまで来るのに、なんでこんなに疲れてるんだろうな」
放課後の教室では、文化祭準備が本格的に始まっていた。
机を寄せ、段ボールを広げ、色画用紙を切り、メニュー案を書く。
黒と赤を基調にした飾りつけ。
小さな羽根のモチーフ。
角つきの手描きドラ焼きキャラ。
アリスの提案で、怖すぎない“ポップな悪魔風”に寄せることになった。
「ほら、悪魔っぽくても可愛い方向ならありじゃん? 真っ黒すぎると入りづらいし」
アリスは赤い画用紙を星形に切りながら言う。
直樹はうなずいた。
「珍しく安心できる意見だ」
「だから珍しくって何?」
「過去の実績」
「根に持ってるー」
アイは、壁飾り用の黒いリボンを持って、目を輝かせていた。
「じゃあ、店内BGMは魔界召喚儀式風!」
「食欲が消える」
直樹は即答した。
「えー。雰囲気出るよ?」
「出しちゃいけない雰囲気がある。客がドラ焼き食べる前に帰る」
「じゃあ、低音でずーんって鳴るやつ」
「胃に悪い」
「鐘の音」
「葬式になる」
「悪魔の笑い声」
「店じゃなくてお化け屋敷だ!」
アリスがスマホを見せる。
「普通に、ちょっと怪しくて可愛いフリーBGM探せばいいじゃん。ハロウィンっぽいやつ」
アイは感心する。
「人間界、便利!」
「そこで魔界召喚儀式に戻らないでね」
美咲は別の机で、ノートに項目を書いていた。
「装飾より先に、食品衛生と会計を決めなさい」
その一言で、アイの尻尾が少し下がる。
「また書類?」
「書類じゃなくても必要なの。ドラ焼きはどこで仕入れるのか。どう保管するのか。誰が配るのか。お金は誰が管理するのか」
「人間界、ドラ焼き食べるまでの道のりが長い」
「商売ってそういうものよ」
直樹はしみじみ言った。
「美咲がいなかったら、今ごろ“魂不要セット”とか売ってたな」
「魂不要セット、まだ候補に――」
「戻すな」
アイが言いかけた瞬間、直樹と美咲の声が重なった。
教室の隅では、宙が小さなレジ係の札を作っていた。
そこには、なぜかこう書かれている。
『レジ担当:ワラ人形』
直樹は見つけた瞬間、叫んだ。
「客が逃げる!」
宙は無表情でワラ人形を持ち上げる。
ワラ人形が低い声で言う。
「いらっしゃいませ。対価を」
「言い方!」
美咲が即座に札を取り上げる。
「レジは普通の人がやる」
「この子も普通」
「普通の人形は喋らない」
「喋っているのは、この子」
「だから普通じゃないのよ」
アリスが笑いながら言う。
「でも、受付横に置くだけならキャラ立つかも。喋らなければ」
宙は少し考えた。
「沈黙担当」
「それなら検討可」
直樹は疲れた声で言った。
そこへ、教室の扉が開いた。
「進んでいるかしら?」
鈴鳴ベル先生が、にこやかに顔を出す。
その手には、小さな金属製の焼き印があった。
直樹は即座に身構える。
「先生、その手に持っているものは何ですか」
「ドラ焼きの焼き印よ。小さな魔法陣を入れたら、魔界風になると思って」
「魔法陣を食品に入れるな!」
アイはぱっと顔を輝かせる。
「魔界風!」
「お前は喜ぶな!」
ベル先生は説明する。
「もちろん、実際に魔法効果は発動しないように調整するわ」
「発動する可能性がある時点でだめです!」
「焼き印だけなら可愛いと思うのだけれど」
そのとき、教室の廊下側から静かな声がした。
「食品への魔法陣印字は事前確認です」
全員が振り向く。
鳴海真奈が立っていた。
手には、当然のように赤ペンとクリップボード。
直樹は叫んだ。
「生徒会長、巡回が早すぎる!」
真奈は落ち着いて答える。
「文化祭準備期間ですので」
光も後ろから顔を出し、タブレットを持っている。
「現在、食品提供予定企画を中心に確認しています」
直樹は額を押さえた。
「もう監査みたいになってる……」
真奈はベル先生の焼き印を見る。
「鈴鳴先生。食品に印字する場合、図柄、素材、衛生面、誤認防止を確認してください」
ベル先生は微笑む。
「魔法効果は抜くわ」
「最初から入れないでください」
「まだ入れていないわ」
「入れそうなので止めています」
直樹は小さく拍手した。
「未然防止の女王……いや、生徒会長」
真奈の目が直樹を見た。
「今、女王と言いかけましたか」
「言ってません。生徒会長です」
「よろしいです」
アイは飾りつけのリボンを持ったまま、教室を見回した。
黒板の企画名。
机の上の色画用紙。
美咲の会計メモ。
アリスの内装案。
宙の沈黙ワラ人形。
ベル先生の封印された焼き印。
真奈の赤ペン。
光のタブレット。
直樹のツッコミ。
全部がばらばらで、全部が騒がしい。
けれど、そこには確かに、自分の居場所が混ざっていた。
アイは少しだけ声を落として言った。
「アタシ、学校でみんなと何か作るの初めてかも」
教室の空気が、一瞬だけ静かになった。
直樹は、黒いリボンを握るアイを見る。
いつものように調子に乗っているわけではない。
征服でも、契約でも、供物でもなく。
ただ、みんなと一緒に準備していることが嬉しい。
そんな顔だった。
直樹は少し黙ってから、言った。
「……征服じゃなくて、参加だからな」
アイはにこっと笑った。
「うん。参加」
直樹は少しだけ安心する。
だが、アイはすぐに続けた。
「ちょっとだけ征服」
「最後を消せ」
美咲が赤ペンを差し出す。
「消す?」
「消す」
直樹は即答した。
アリスが笑う。
「でも、悪魔ちゃん的にはだいぶ進歩じゃん。九割参加、一割征服くらい」
「一割も残すな」
宙のワラ人形が低く言った。
「征服、隠し味」
「味にするな!」
ベル先生が焼き印を見ながらつぶやく。
「隠し味程度の魔法陣なら――」
真奈の赤ペンがすっと動いた。
「鈴鳴先生」
「はい」
「事前確認です」
「分かっているわ」
直樹は教室の真ん中で、深いため息をついた。
魔界風ドラ焼きカフェ。
表向きは、普通の喫茶企画。
ただし、普通になるまでに、これだけの人間と悪魔と教師と生徒会長が必要になる。
文化祭とは、青春である。
文化祭とは、共同作業である。
そして直樹にとって文化祭とは、危険単語を消し続ける耐久レースである。
アイは、壁に黒いリボンを貼りながら、楽しそうに言った。
「ダーリン、文化祭って大変だけど、楽しいね」
直樹は苦笑する。
「始まる前からこんなに大変なの、うちのクラスだけだと思うけどな」
「じゃあ、特別だね!」
「そこは否定しづらい」
アイの尻尾が、ふわりと揺れた。
直樹はその様子を見て、また少しだけ黙った。
そして、誰にも聞こえないくらい小さくつぶやく。
「……まあ、楽しそうならいいか」
その瞬間、アイが振り向いた。
「何か言った?」
「何も言ってない」
「ダーリン、手伝って。ここの飾り、届かない」
「ホウキで飛ぶなよ」
「飛ばない。今日は」
「今日はをやめろ」
直樹は椅子に乗って、アイの代わりにリボンを貼った。
その下で、アイが嬉しそうに見上げている。
魔界風ドラ焼きカフェ。
迷走だらけの準備は、まだ続く。
それでも、この教室は少しずつ、文化祭の形になっていた。
* * *
文化祭当日。
鏡星学園高等部は、朝から浮き足立っていた。
校門にはアーチ。
廊下には色とりどりのポスター。
教室からは、呼び込みの声、笑い声、どこかのクラスが練習している劇の台詞、調理室方面から漂う甘い匂い。
学校全体が、いつもの授業モードから一日だけ別の顔になる。
青春。
祭り。
非日常。
ただし、直樹のいる教室には、普通の非日常では済まない看板が掲げられていた。
『魔界風ドラ焼きカフェ』
黒と赤を基調にしつつ、アリスの監修でポップに寄せた内装。
小さな羽根飾り。
角つきドラ焼きの手描きイラスト。
入り口横には、宙が作った『魔界風ラッキーくじ』。
ただし、契約効果なし。
対価なし。
大凶なし。
真奈の赤ペンをくぐり抜けた、奇跡の健全版である。
直樹は店内を見回し、深く息を吐いた。
「……形になってる」
美咲が会計用の小銭ケースを確認しながら言う。
「みんなで準備したんだから、当たり前でしょ」
「いや、途中まで文化祭征服計画だったから、普通に店っぽいだけで感動してる」
アリスは入口で看板の角度を直していた。
「ほらね? 悪魔っぽくしても可愛い方向ならいけるって言ったじゃん」
「そこは認める。悔しいけど」
「悔しがるところ?」
そして、教室中央。
アイは、黒いリボンと小さな羽根飾りのついたエプロン姿で立っていた。
角は隠さず、あえて“悪魔風カチューシャ”という扱いで通している。
本人いわく、本物だが申請上は装飾。
真奈いわく、触れなければ安全。
直樹いわく、もう深く考えたら負け。
アイは両手を腰に当て、胸を張った。
「いよいよだね、ダーリン」
「始まる前に言っておく。今日は征服じゃない」
「分かってるよ」
「本当だな?」
「うん。合法的征服」
「分かってない!」
美咲がすぐにアイの背中を軽く押した。
「接客。参加。文化祭」
「接客。参加。文化祭」
アイは復唱する。
「よし」
直樹は少し安心した。
そのとき、クラスメイトがメニュー表を持ってきた。
「真央、これ最終版でいい?」
「なんで俺に聞くんだ。俺は代表じゃない」
「でも相談役じゃん」
「それもまだ正式には認めてない」
ぼやきながら、直樹はメニュー表を見た。
そこには、こう書かれていた。
『普通のドラ焼き』
『魔界風チョコドラ焼き』
『悪魔的にうまい抹茶ドラ焼き』
『契約不要セット』
『叫ばない契約者おすすめセット』
直樹はメニュー表を握りしめた。
「最後の二つ、俺の気配がする!」
アイが覗き込む。
「でも、契約不要セットは安全でしょ?」
「それはまあ、ギリギリ安全かもしれない」
「叫ばない契約者おすすめセットは?」
「俺だろ!」
「叫ばないダーリンにおすすめって意味で」
「俺だろ!」
そこへ、白金光がやってきた。
首から文化祭広報の腕章を下げ、タブレットを持っている。
「開店前の確認に来ました」
直樹はメニュー表を差し出した。
「白金、頼む。俺の気配を消してくれ」
「確認します」
光はメニューを見て、穏やかな表情のまま一つずつチェックしていく。
「普通のドラ焼き、可。魔界風チョコドラ焼き、可。悪魔的にうまい抹茶ドラ焼き、表現として可。ただし誤認のない範囲で」
アイが小さくガッツポーズする。
「悪魔的にうまい、生き残った!」
「そこに毎回喜ぶな」
光は続ける。
「契約不要セットは、来場者に安心感を与える表現として可」
アイが誇らしげに胸を張る。
「ほら!」
直樹はうなずく。
「そこは本当に、だいぶ進歩してる」
光は最後の一行で止まった。
「叫ばない契約者おすすめセット」
直樹は祈るような顔で見る。
光は静かに言った。
「関係者特定のため不可です」
直樹は両手を合わせた。
「ありがとう!」
アリスが横から覗き込む。
「でも売れそう」
「売るな!」
直樹は即座に叫んだ。
光はタブレットに修正案を打ち込む。
「代替案として、“ゆっくり楽しむおすすめセット”ではどうでしょう」
美咲がうなずく。
「それでいいんじゃない?」
アイは少し考えたあと、笑顔で言った。
「じゃあ、それにする。叫ばないダーリンは裏メニュー」
「裏に回すな!」
「裏にも置きません」
光が即座に言った。
「広報補佐、強い!」
開店時間になった。
教室の扉が開き、最初の客が入ってくる。
同じ学年の生徒、下級生、保護者らしき人たち。
最初は看板を見て笑っていたが、内装が意外と可愛く、ドラ焼きの匂いも普通においしそうなので、すぐに席が埋まり始めた。
「いらっしゃいませ!」
クラスメイトたちが声をそろえる。
アイも張り切って、入口でお辞儀した。
「いらっしゃいませ! 魂は取らない安心営業だよ!」
美咲が即座に近づいた。
「その言い方やめなさい!」
「えっ、安心って言ったよ?」
「魂を取らないって言われると、逆に不安になるの」
アイは真剣に考えた。
「じゃあ……契約不要、対価不要、ドラ焼きだけ!」
直樹は少し感動した。
「やっと普通に近づいた!」
お客の一人が笑う。
「それ、いいね。契約不要セットください」
アイの目が輝く。
「はい! 契約不要セット一つ!」
直樹は小声でつぶやく。
「本当に売れた……」
アリスが得意げに言う。
「ね? 言い方次第だって」
「お前がまともな方向に使われると強いな」
「だから評価の仕方」
店は、思ったより盛況だった。
悪魔的にうまい抹茶ドラ焼きは、名前のわりに普通においしい。
魔界風チョコドラ焼きは、見た目が少し黒いだけで、味は甘い。
契約不要セットは、名前のインパクトだけで注文が入る。
魔界風ラッキーくじも人気だった。
宙が用意したくじを、ワラ人形が無言で差し出す。
無言担当である。
客が引いた紙には、
『大吉。今日はいいことがあるかも。ドラ焼きを食べるとさらに楽しい』
と書かれている。
客は笑って、ドラ焼きを追加注文した。
直樹は驚いた。
「普通に販促になってる……」
宙が静かに言う。
「契約なしでも、人は動く」
「急にマーケティングみたいなこと言うな」
アイは接客を続けている。
「こちら、契約不要セットです! 安心して食べられる人間界の甘味だよ!」
「魔界風チョコドラ焼き、お待たせしました!」
「ラッキーくじは一人一回! 契約効果はありません!」
美咲が横から小声で言う。
「最後は言わなくていい」
「でも安心かなって」
「まあ、安心だけど」
お客の反応は、意外なほどよかった。
「悪魔ちゃん、接客うまいじゃん」
「ドラ焼き普通においしい」
「内装かわいい」
「ラッキーくじ面白い」
「契約不要なの助かる」
アイはその声を聞くたびに、顔をぱあっと明るくした。
直樹は、少し離れたところでその様子を見ていた。
騒動を起こして。
赤ペンを入れられて。
怒られて。
言葉を直されて。
それでも、アイは今、ちゃんと文化祭の店員として働いている。
世界征服ではない。
契約でもない。
供物でもない。
ただ、来た人にドラ焼きを渡して、笑ってもらっている。
アイにとっては、それがきっと初めてなのだ。
自分の魔法でも契約でもなく、みんなで作ったもので誰かに喜んでもらうのは。
「ダーリン!」
アイが手を振った。
「見て! お客さん、笑ってる!」
直樹は少しだけ目をそらした。
「見えてる」
「文化祭って、征服しなくても人が来るんだね!」
「最初からそう言ってる」
「でも、なんか……うれしい」
アイは照れくさそうに笑った。
その顔を見て、直樹は小さく息を吐く。
「なら、よかったんじゃないか」
「うん!」
そのとき、アリスが横からメニュー表を差し出した。
「真央、追加メニュー案なんだけど」
「嫌な予感がする」
『ダーリンも認めた普通にうまいセット』
直樹は即座に叫んだ。
「俺の気配を戻すな!」
光が横からすっと現れる。
「関係者特定のため不可です」
直樹は叫びながらも、どこか安心していた。
「広報補佐、今日も助かる!」
店内には笑い声が広がる。
魔界風ドラ焼きカフェは、想像以上に順調だった。
順調すぎて、直樹は逆に怖かった。
こういうときほど、次のトラブルが近い。
だが、今だけは。
アイが文化祭の中で笑っていることを、少しだけ見守ってもいい気がした。
もちろん、その平穏は長く続かない。
文化祭の神様は、直樹にそこまで甘くないのだから。
* * *
魔界風ドラ焼きカフェは、順調だった。
順調すぎた。
直樹は、その時点で少し嫌な予感を覚えていた。
なぜなら、真央直樹の人生において、「順調」はだいたい次のトラブルの前振りだからである。
「契約不要セット、二つお願いします!」
「はい! 契約不要セット二つ!」
アイはエプロン姿で、元気よく接客している。
美咲は会計を管理し、アリスは客の列を整理し、宙は無言担当のワラ人形と一緒にラッキーくじを担当していた。
光は入口横で、校内広報用の巡回チェックをしている。
真奈の赤ペンを通過した企画だけあって、今のところ違反はない。
今のところ。
直樹は、教室の隅に置かれた魔界風スモーク発生装置を見た。
ベル先生いわく、「雰囲気演出用」。
真奈いわく、「換気条件付きで限定使用」。
直樹いわく、「存在そのものが不安」。
「なあ、先生」
直樹は、装置の前に立つベル先生に声をかけた。
「それ、本当に安全なんですよね?」
ベル先生は白衣の袖を揺らしながら、にこやかに答えた。
「大丈夫。今回は爆発しないわ」
「その言い方、何回聞いても安心できないんですよ」
「煙は出るけど」
「煙もできれば出ないでほしい!」
その瞬間。
ぽふん。
装置から、紫色の煙が出た。
予定通りの量なら、教室の一角にふわっと漂うだけだった。
しかし、現実は直樹に優しくない。
ぽふん。
ぽふん。
ぽふぽふぽふぽふぽふぽふっ。
紫色の煙が、明らかに予定を超えて噴き出した。
「多い多い多い!」
直樹が叫ぶ。
煙は床を這うように広がり、教室の入口から廊下へ流れ出した。
客がざわつく。
「え、演出?」
「魔界っぽい」
「すごい」
「ちょっと煙くない?」
「これ、撮っていい?」
アリスがすぐに声を張った。
「撮らないでくださーい! たぶん今は撮らないほうがいいやつでーす!」
「判断が成長してる!」
直樹は叫びながら、装置へ駆け寄る。
ベル先生は機械のパネルを見て、首をかしげた。
「あら。スモーク出力が文化祭テンションに反応して上がっているわね」
「何に反応してるんですか!」
「来場者満足度測定器と連動しているみたい」
「つなぐな!」
さらに悪いことに、宙のおみくじ箱が反応した。
紫色の煙を浴びた箱が、かたり、と揺れる。
中のくじが一枚、勝手に飛び出した。
ワラ人形が、低い声で読み上げる。
「大吉。今日、悪魔と目が合う」
通りかかった生徒が、アイを見る。
「もう合ってる!」
アイは慌てて手を振った。
「合ってるけど、契約は不要だよ!」
別のくじが飛び出す。
「中吉。紫の煙に包まれる」
「現在進行形!」
「小吉。叫ぶ契約者を目撃する」
「俺を予言するな!」
直樹のツッコミに、廊下の何人かが笑う。
だが、笑っている場合ではない。
煙は廊下へじわじわ広がり、隣のクラスの呼び込み係まで巻き込み始めていた。
アイは顔を青くした。
「ダーリン、校内規模?」
直樹は煙の広がりを見た。
教室。
入口。
廊下。
隣のクラス前。
「まだギリギリ廊下規模!」
「ギリギリってことは危ないんだよね!?」
「かなり危ない!」
そこへ、静かな声が割り込んだ。
「状況を説明してください」
鳴海真奈が駆けつけていた。
後ろには光。
真奈の手にはクリップボード。
光の手にはタブレット。
赤ペンは、すでに構えられている。
直樹は思わず叫んだ。
「俺が知りたいです!」
光は即座に記録する。
「発生時刻、現在確認中。煙の発生源は魔界風スモーク発生装置と思われます」
「白金、淡々と事故報告書にしないでくれ!」
真奈は煙の向こうを見た。
「鈴鳴先生」
ベル先生は少しだけ目をそらす。
「まだ原因特定中よ」
「まず停止してください」
「停止ボタンが煙の中で見えにくくて」
「設計上の問題です」
「正論が煙より濃い!」
直樹が叫んだ、そのとき。
紫の煙の向こうから、ものすごい声が響いた。
「全員、廊下を走るな!」
ベルバラ先生だった。
ジャージ姿で、煙を割るように登場する。
なぜか片手には体育館用のメガホン。
通行人たちが一斉に足を止める。
「煙が出たら姿勢を低くしろ! 口元を押さえろ! 慌てるな! 文化祭は逃げ足を競う競技ではない!」
直樹は叫ぶ。
「生活指導が避難訓練になった!」
ベルバラ先生は直樹を指さした。
「真央! 叫ぶときも姿勢を低く!」
「そこまで指導しないでください!」
美咲はすぐに動いた。
「みんな、こっち! 煙の少ないほうから出て!」
アリスも両手を振る。
「並んでー! 押さないでー! 撮影より移動優先でーす!」
光は廊下の誘導表示を確認しながら言った。
「隣クラスにも連絡します。撮影禁止ではなく、まず安全確保で案内します」
真奈はうなずく。
「お願いします」
宙のおみくじ箱は、まだかたりかたりと鳴っている。
ワラ人形がまた読み上げた。
「凶。提出書類が増える」
直樹は振り向く。
「今一番聞きたくない運勢!」
アイは両手を前に出した。
「アタシが魔法で煙を集める!」
紫色の煙が、アイの指先に少しだけ渦を巻いた。
直樹の背筋が冷えた。
この流れは知っている。
よかれと思って魔法。
魔法が暴走。
校内規模。
生徒会預かり。
反省文。
ドラ焼き没収。
「待て!」
直樹はアイの手をつかんだ。
「今、勝手に魔法使ったら生徒会預かりだぞ」
アイはびくっと止まった。
煙が、ふわっとほどける。
アイは直樹を見た。
いつものように「大丈夫!」とは言わなかった。
いつものように勝手に魔法を撃たなかった。
ただ、少し不安そうに聞いた。
「……じゃあ、どうすればいい?」
直樹は、一瞬だけ驚いた。
アイが聞いた。
勝手にやらずに。
契約でも、征服でも、悪魔の勢いでもなく。
どうすればいいか、聞いた。
直樹はすぐに我に返る。
「ベル先生の装置を止めて、真奈会長に説明。美咲、誘導頼む。アリス、撮らずに客へ案内。宙、その人形を黙らせろ!」
宙はワラ人形を見た。
「難しい」
「努力しろ!」
ワラ人形が低く言う。
「努力」
「しゃべるな!」
アイはうなずいた。
「分かった!」
アイはベル先生のスモーク装置へ走る。
ただし、魔法は使わない。
装置の横にしゃがみ、パネルを見る。
「先生、どれ押せば止まるの!?」
ベル先生が指さす。
「赤いボタン」
「赤いボタン三つある!」
「大きい赤」
「全部大きい!」
直樹が叫ぶ。
「設計!」
光が横からタブレットを見せる。
「停止手順、提出済み資料にあります。左から二番目です」
アイはそれを見て、左から二番目の赤いボタンを押した。
ぷしゅう、と音がして、煙の噴出が止まる。
「止まった!」
美咲は客を教室の外へ安全に誘導している。
「慌てないでください。煙は止まりました。足元に気をつけて!」
アリスは入口付近で、明るい声を出す。
「ちょっと演出が盛れすぎただけでーす! 安全確認中なので、外で待っててくださーい!」
直樹は突っ込む余裕を取り戻す。
「盛れすぎって言うな!」
宙はおみくじ箱を抱え込み、ワラ人形の口を手で押さえた。
ワラ人形がくぐもった声を出す。
「むぐ。大吉。黙る」
「よし、その大吉だけ信じる!」
ベルバラ先生は廊下の生徒を整列させている。
「走らない! 押さない! 煙を見に戻らない! 文化祭は好奇心でケガをする場所ではない!」
真奈は状況を見て、静かに指示を出す。
「煙が収まるまで一時停止。換気。食品に煙がかかったものは提供しないでください。装置は使用停止。原因報告書を提出してください」
直樹は顔をしかめた。
「報告書……」
真奈は直樹を見た。
「今回は、対応が早かったので校内規模にはしていません」
直樹は胸をなで下ろした。
「廊下規模で済んだ……!」
光が補足する。
「廊下規模という分類はありません」
「今だけ作ってください」
煙は少しずつ薄くなっていった。
窓を開け、扇風機で空気を流し、使えなくなったドラ焼きを下げる。
客たちは外で待っていたが、アリスがうまく説明し、美咲が落ち着いて誘導したため、大きな混乱にはならなかった。
おみくじ箱も黙った。
スモーク装置は、ベルバラ先生により廊下の隅へ撤去された。
ベル先生は装置の前で反省しているような顔をしている。
ただし、目はまだ少し解析したそうだった。
真奈が言う。
「鈴鳴先生」
「はい」
「再起動は禁止です」
「……はい」
直樹は小さく言った。
「生徒会長、先生にも強い」
アイは、煙の消えた教室を見回した。
それから、直樹のところへ戻ってくる。
「ダーリン」
「ん?」
「聞いたら、止まった」
直樹は少しだけ黙った。
そして、苦笑する。
「たまにはな」
「いつも聞いたら、止まる?」
「いつもとは限らないけど、勝手にやるよりは止まる確率が高い」
アイは真剣にうなずいた。
「次から、聞く」
「できれば、次は煙が出る前に聞いてくれ」
「うん。煙の前」
そのやり取りを、真奈が少しだけ静かに見ていた。
赤ペンは、今回は動かなかった。
代わりに、光がタブレットに記録する。
「対応記録。天満さん、魔法使用前に確認。真央くんの指示により、装置停止、誘導、広報、危険物沈黙を実施」
直樹は顔を上げる。
「危険物沈黙って何」
宙がワラ人形を抱え直す。
「この子」
「自覚あるのかよ!」
アリスが笑い、美咲がため息をつき、ベルバラ先生が「よし、再開前に全員深呼吸!」と声を張る。
魔界風ドラ焼きカフェは、一時停止。
だが、校内規模の大騒動にはならなかった。
直樹は、紫の煙が消えていく廊下を見ながら思った。
文化祭は、やっぱり危険だ。
だが、今日のアイは、少しだけ違った。
勝手に征服せず、勝手に魔法を使わず、ちゃんと聞いた。
その小さな違いが、騒動を廊下規模で止めた。
……廊下規模という言葉が正しいかどうかは、今は考えないことにした。
* * *
文化祭は、終わった。
正確に言えば、終わったことにした。
魔界風スモーク発生装置の誤作動。
魔界風ラッキーくじの一時的な予言化。
廊下規模寸前の紫煙騒動。
ベルバラ先生による避難訓練化。
真奈の状況確認。
光の記録。
宙のワラ人形沈黙処理。
そして直樹の叫び。
いろいろあった。
かなりあった。
文化祭の思い出としては濃すぎるくらいあった。
だが、店は最後まで開けきった。
提供できなくなったドラ焼きは下げ、煙のかかっていない分だけを販売し、魔界風ラッキーくじは完全沈黙版として再開した。
客足も思ったより戻った。
最後には、魔界風ドラ焼きカフェの看板の前で、クラスメイトたちが「お疲れー!」と笑い合っていた。
直樹は、片づけ中の教室で机を運びながら、深いため息をつく。
「……生きて文化祭を終えた」
美咲が隣で段ボールを畳んでいた。
「文化祭の感想としておかしいわよ」
「でも本心なんだよ」
教室の飾りは、少しずつ外されていく。
黒と赤のリボン。
小さな羽根飾り。
角つきドラ焼きの手描きポスター。
朝にはあれほど特別に見えたものが、夕方にはただの紙と段ボールに戻っていく。
文化祭の終わりは、少し寂しい。
ただし、直樹の場合は、寂しさより疲労が勝っている。
アイは、教室の隅で看板を抱えていた。
エプロンは少し汚れ、髪も少し乱れている。
いつものような勢いはない。
けれど、顔は楽しそうだった。
「ダーリン」
「ん?」
「文化祭って、征服より大変だね」
「征服したことないくせに比較するな」
「でも、きっと大変だよ。申請もあるし、会計もあるし、食品衛生もあるし、煙も出るし、ラッキーくじも黙らせなきゃいけないし」
「後半はうちだけだ」
アイは、抱えていた看板をそっと床に置いた。
『魔界風ドラ焼きカフェ』
何度も赤ペンを入れられ、何度も言葉を直し、ようやく通った名前。
アイはその文字を指でなぞる。
「でも、みんなと一緒にやるの、楽しかった」
直樹は少しだけ黙った。
文化祭の間、アイは何度も危ない方向へ行きかけた。
征服と言いかけた。
契約と言いかけた。
煙を魔法でどうにかしようとした。
でも、最後は聞いた。
どうすればいいか。
勝手にやらずに、聞いた。
それだけで、たぶん今日はかなり違った。
「……なら、よかったんじゃないか」
直樹がそう言うと、アイはぱっと笑った。
「うん。アタシ、学校に参加した」
直樹はその言葉を聞いて、少しだけ表情を緩める。
「その言い方なら、だいぶまともだ」
「でしょ?」
「“学校を参加した”とか言わなかっただけ成長だな」
「それは言わないよ。学校は参加される側じゃないもん」
「分かってるようで怪しいな」
アリスが、外した飾りを箱に入れながら笑った。
「悪魔ちゃん、今日は普通に店員してたよ。途中ちょっと煙属性ついたけど」
「煙属性って何だよ」
美咲が言う。
「でも、接客はちゃんとしてたわよ。魂を取らないって最初に言ったときはどうなるかと思ったけど」
アイは胸を張った。
「後半は言わなかった!」
「それは偉い」
「契約不要、対価不要、ドラ焼きだけって言った!」
「それもまあ、ぎりぎり偉い」
宙が、片づけたおみくじ箱を抱えていた。
ワラ人形は沈黙している。
かなり厳重に、口元にリボンが巻かれている。
直樹はそれを見る。
「その人形、最後まで黙ってたな」
宙はうなずく。
「沈黙担当、完遂」
ワラ人形が、リボン越しにくぐもった声を出した。
「むぐ」
「完遂してない!」
そのとき、生徒会広報補佐の白金光が教室へ入ってきた。
手にはタブレット。
表情は穏やかだが、直樹はもうその穏やかさに油断しない。
「皆さん、お疲れさまでした。文化祭終了後の校内広報文案を確認していただけますか」
「広報文案?」
直樹は警戒しながら近づく。
光はタブレットを見せた。
『文化祭、大盛況のうちに終了』
直樹は目を見開いた。
「まともだ……!」
短い。
明るい。
誰も傷つけない。
契約者の叫びもない。
仔悪魔案件未遂もない。
魔王ナオキもない。
直樹は、文化祭の最後にまともな文章を見られたことに、心から感謝した。
しかし、光は少しだけ下へスクロールした。
そこに、小さな追記があった。
『一部、魔界反応および未確認の魔法反応が観測されたため、続報を待つ』
直樹は叫んだ。
「続報を待たなくていい!」
アイがタブレットをのぞき込む。
「魔界反応は分かるけど、魔法反応?」
美咲も眉をひそめる。
「また新しいやつ?」
アリスは片づけの手を止め、にやっと笑った。
「魔法少女とか来たら、ジャンル変わるね」
直樹は即座に言う。
「変わるな!」
宙が、窓の外へ視線を向けた。
夕焼けに染まる校舎。
人が少なくなった廊下。
文化祭の熱気が、ゆっくりと冷めていく時間。
宙はぽつりと言った。
「魔法反応、悪魔とは別」
アイの尻尾がぴくりと動く。
「悪魔じゃない魔法?」
「そう」
「魔界じゃなくて?」
「別系統」
直樹は嫌な予感で顔を引きつらせた。
「待て。今、第8話の後片づけしてるんだよな? ここで新しい系統とか出さなくていいよな?」
光は冷静に答える。
「記録上、確認は必要です」
「確認しない優しさもある!」
真奈が廊下側から顔を出した。
「白金くん。追記は内部確認用にしてください。全体広報には不要です」
直樹は両手を合わせた。
「生徒会長!」
「ただし、事実確認は行います」
「救いが半分だった!」
アイは腕を組み、少し真剣な顔をする。
「魔法少女って、悪魔の敵?」
アリスが笑う。
「作品によるんじゃない?」
「作品って言うな!」
美咲がため息をつく。
「悪魔、魔導工学、呪術、生徒会、生活指導の次は魔法少女なの?」
直樹は遠い目をした。
「うちの学校、ジャンルの履修範囲が広すぎる……」
その瞬間だった。
窓の外。
夕暮れの校舎の片隅で、かすかな光が走った。
星のような、花火のような、けれど文化祭の照明とは違う光。
宙が静かに言った。
「反応、増えた」
直樹は聞かなかったことにしたかった。
だが、物語は聞かなかったことにしてくれない。
――文化祭の熱狂が去った夜。
校舎の片隅に、まばゆい光が走る。
悪魔反応を追う、正義の影。
星の魔法。
長すぎる決め台詞。
そして、悪魔に囚われた一般男子として認定される真央直樹。
どこからか、凛とした少女の声が響いた。
「悪しき悪魔よ、その契約、浄化します!」
「俺を救出対象にするな!」
直樹が、まだ見ぬ次回予告に向かって叫んだ。
アイはすぐに直樹の腕にしがみつく。
「ダーリンはアタシの契約者だよ!」
「そこで張り合うな!」
美咲が額を押さえる。
「契約者って言い方、また怒られるわよ」
アリスは楽しそうに言う。
「次回、魔法少女参戦?」
「参戦するな!」
宙のワラ人形が、リボンを少しずらして低く告げた。
「次回。魔法少女は悪魔ちゃんを許さない」
「勝手にタイトルを読むな!」
アイは目を輝かせた。
「魔法少女って、何か決め台詞あるんでしょ? アタシも対抗して、悪魔決め台詞を――」
「対抗しない!」
直樹は叫んだ。
光がタブレットに何かを打とうとする。
「白金、記録するな!」
「次回予告としては興味深いです」
「広報補佐までジャンルに乗るな!」
夕焼けの教室。
片づけ途中の段ボール。
赤と黒のリボン。
沈黙しきれないワラ人形。
契約不要セットの余ったメニュー札。
その中で、直樹は天井を仰いだ。
「文化祭の次に魔法少女が来る学校、どうなってるんだぁぁぁ!」
叫び声が、片づけ中の校舎に響く。
その声を聞いたベルバラ先生が、廊下の向こうからすかさず叫んだ。
「真央! 腹から!」
「最後まで発声指導しないでください!」
こうして、魔界風ドラ焼きカフェは無事に終了した。
文化祭も、どうにか無事に終了した。
そして、直樹の平穏は。
またしても、次回へ持ち越された。




