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第7話_生徒会長は悪魔契約を認めない!

 ここは、鏡星学園。


 若人たちが学び、語らい、ときに青春を謳歌する、由緒正しき学び舎である。


 だが、その平穏は、ある日ひとつの契約によって破られた。


 悪魔契約。


 案件動画。


 供物プロモーション。


 そして、契約者の叫び。


 いま、学園を揺るがした数々の事件は、ついに秩序の法廷へと持ち込まれたのである。


 重々しい扉が開く。


 そこに広がっていたのは、生徒会室――ではなかった。


 いや、生徒会室のはずだった。


 しかし、なぜか床には赤い絨毯が敷かれ、机は裁判所の法壇のように高くそびえ、壁には巨大な校章が輝いている。


 左右には、校則集を抱えた影のような生徒たち。


 中央には、被告席。


 そこに立たされているのは、真央直樹と天満アイだった。


「待て」


 直樹は開幕一秒で顔をしかめた。


「なんで俺が被告席にいるんだ」


 隣のアイは、妙に緊張した顔で周囲を見回している。


「ダーリン、ここが学園の法廷?」


「違う。たぶん違う。いや、違ってくれ」


 ナレーションは続く。


 校則は剣。


 申請書は盾。


 反省文は涙の証。


 提出期限を過ぎた書類は、いかなる悪魔契約よりも重い――。


「重くしなくていい! あと反省文を神話アイテムみたいに扱うな!」


 法壇の中央。


 裁判長席に座るのは、完璧なる生徒会長、鳴海真奈。


 背筋はまっすぐ。


 表情は静か。


 視線は冷静。


 手元には、分厚い資料の束。


 タイトルはこうだ。


『魔界契約および校内情報拡散に関する事実確認資料』


 直樹はその文字を見ただけで胃を押さえた。


「タイトルだけで有罪っぽい……」


 真奈の横には、白金光が控えている。


 手にはタブレット。


 表情は穏やか。


 だが、そこに表示されている見出しは穏やかではない。


『仔悪魔ちゃん案件動画未遂、契約者の叫びで差し戻し』


「見出しで俺を刺すな!」


 さらに証拠品台には、妙なものが並んでいた。


 魔界契約アプリ。


 ドラ焼きの包み紙。


 案件動画未遂のスクリーンショット。


 理科準備室で使われた味覚測定器。


 マイクつきワラ人形。


 そして、謎の音声データ。


『契約者の叫び・抜粋』


「抜粋するな! 俺の悲鳴を証拠保全するな!」


 アイはおそるおそる手を挙げる。


「裁判長さん」


 真奈は静かに訂正した。


「生徒会長です」


「生徒会裁判長さん」


「増やさないでください」


 アイは小声で直樹に聞いた。


「ダーリン、アタシたち裁かれるの?」


「裁判じゃない! たぶん!」


「たぶん?」


「俺も自信がなくなってきた!」


 真奈は資料を一枚めくった。


 その音だけで、生徒会室全体が静まり返る。


 魔法ではない。


 呪文でもない。


 ただの紙の音で、場の空気が支配された。


 アイが小さく震える。


「ダーリン……この人、魔法使ってないのに強い」


「書類が強いんだよ」


 真奈は、淡々と告げた。


「真央直樹さん。天満アイさん。あなたたちには、説明責任があります」


「俺、被害者なんですけど!」


 直樹の叫びが法廷に響く。


 その瞬間、証拠品台の音声データが点滅した。


『契約者の叫びを検出』


「今のを保存するな!」


 光が冷静にメモを取る。


「発言記録としては有用です」


「有用にするな!」


 ナレーションはさらに盛り上がる。


 次々と突きつけられる証拠。


 叫ぶ契約者。


 震える仔悪魔。


 飛び交う校則第何条。


 申請不備。


 本人同意未確認。


 契約者の精神的負担。


 そして、ドラ焼きの包み紙に残された甘い香り――。


「最後だけ急に食レポに戻すな!」


 アイは証拠品台のドラ焼きの包み紙を見つめた。


「ダーリン、あれ、証拠品だけどおいしそう」


「包み紙だぞ」


「でも、ドラ焼きの気配がする」


「証拠品を供物として見るな!」


 真奈が静かに口を開く。


「天満さん」


「はいっ」


「校内での無許可案件動画、供物プロモーション、学級連絡アプリへの干渉、電子黒板への通知表示。これらについて、事実確認を行います」


 アイは真剣な顔でうなずいた。


「分かった。つまり、悪魔契約と学園支配権をめぐる決戦だね」


「違います」


 真奈の訂正は速かった。


「これは校内秩序に関する聞き取りです」


「秩序……やっぱり女王様」


「生徒会長です」


「ダーリン、やっぱり強い」


「強いけど拝むな!」


 直樹が止めた瞬間、背後から別の声がした。


「いやー、学園裁判編、始まった感あるね」


 鏡野アリスだった。


 なぜか傍聴席に座り、わくわくした顔をしている。


 直樹は振り向いて叫ぶ。


「お前、どこから入った!」


「関係者っぽいし」


「“ぽい”で法廷に入るな!」


 美咲も別の席から腕を組んでいる。


「直樹、落ち着きなさいよ。叫ぶとまた記録されるわよ」


「叫ばせてるのは周囲だ!」


 その横で、見上宙がワラ人形を抱いている。


 ワラ人形が低い声で告げた。


「契約者、事情聴取」


「人形に宣告させるな!」


 さらに、ベル先生が白衣をひらめかせて、証拠品の味覚測定器に手を伸ばす。


「この機会に、悪魔契約と校則の相互干渉を――」


 真奈が一言。


「鈴鳴先生。触らないでください」


 ベル先生の手が止まった。


 直樹は目を見開いた。


「先生を一言で止めた……!」


 アイも感動したように真奈を見る。


「やっぱり学園の女王……」


「生徒会長です」


 ナレーションが再び重々しく響く。


 悪魔契約は、校則の前にひれ伏すのか。


 仔悪魔の自由は、申請書によって封じられるのか。


 契約者の叫びは、証拠として採用されるのか。


 そして、ドラ焼きは通常のおやつなのか、供物なのか――。


「だからドラ焼きを争点にするな!」


 直樹が叫んだ瞬間、世界がぱきんと割れた。


 法廷のような生徒会室。


 巨大な校章。


 証拠品台。


 赤い絨毯。


 すべてが消える。


 現実に戻る。


 真央家の朝。


 直樹はベッドの上で、スマホを握りしめたまま固まっていた。


 画面には、昨夜届いた通知が残っている。


『本日放課後、生徒会室へ出頭してください』


『遅刻厳禁』


『関係者は事実確認に協力してください』


 直樹は、深く息を吐いた。


「……夢見が悪い」


 床に座っていたアイが、制服の上から魔界風マントを羽織ろうとしていた。


「ダーリン、学園の女王様に会うんでしょ? 悪魔として礼装を――」


「脱げ」


「え」


「普通の制服で行け」


 スマホが、ぴこん、と鳴った。


『補足:生徒会室では校則に従ってください』


 直樹は画面を見て、もう一度ため息をついた。


「悪魔契約の次は、校則か……」


 アイは首をかしげる。


「ダーリン、校則って強いの?」


「少なくとも、お前の魔法より俺には怖い」


 アイは、ぱちぱちと瞬きした。


「人間界、奥が深いね」


「深くなくていい。普通に浅瀬で暮らしたい」


 しかし、通知は消えない。


 生徒会室への出頭。


 説明責任。


 そして、鳴海真奈。


 直樹の平穏は、今日もまた、書類の束に挟まれようとしていた。


* * *


 朝。


 真央直樹は、自室のベッドの上でスマホを見下ろしていた。


 画面には、昨夜届いた通知がそのまま残っている。


『本日放課後、生徒会室へ出頭してください』


『遅刻厳禁』


『関係者は事実確認に協力してください』


 直樹は、深く、長く、魂が抜けるようなため息をついた。


「高校生活で“出頭”って単語を見るとは思わなかった……」


 普通の高校生が朝に見る通知といえば、せいぜい時間割変更、提出物の連絡、体育が雨で中止になった程度である。


 しかし直樹のスマホには、生徒会室への出頭命令。


 しかも原因は、悪魔案件動画未遂。


 人生のジャンルがまた一段階おかしくなっている。


「……いや、違う。これは俺の人生じゃない。誰かの学園裁判パロディだ」


 現実逃避しかけたところで、部屋の扉が開いた。


「ダーリン、見て見て!」


 天満アイが、元気よく入ってくる。


 鏡星学園の制服。


 小さな角。


 隠しきれていない尻尾。


 そして、その制服の上に、なぜか黒と赤の魔界風マントを羽織ろうとしていた。


 直樹は無言で数秒見つめたあと、言った。


「何してる」


「学園の女王様に会うんでしょ? 悪魔として礼装を」


「脱げ。普通の制服で行け」


「えー。だって、相手は生徒会長だよ? 学園を統べる者には、こちらも格を示さないと」


「示すな。格を示した瞬間、反省の意思が疑われる」


「じゃあ、角だけ磨いていく?」


「磨くな。角もできれば隠せ」


 アイは少し不満そうにマントの裾をつまむ。


「でも、アタシ、悪魔だよ?」


「今日だけは悪魔より生徒として行け」


「悪魔生徒」


「混ぜるな」


「じゃあ、仔悪魔生徒」


「かわいくしてもだめだ」


 直樹はベッドから立ち上がり、アイのマントをつかんで引っ張った。


 アイは「わー」と言いながらくるりと回る。


 マントが外れ、制服姿に戻った。


「よし。これでまだ普通に近い」


「ダーリンの普通、悪魔基準で厳しい」


「人間基準でも厳しい状況なんだよ!」


 スマホがまた鳴った。


 直樹の肩が跳ねる。


『補足:生徒会室では校則に従ってください』


 直樹は画面を見て、顔をしかめた。


「補足が怖い」


 アイはのぞき込む。


「校則って、悪魔契約より強い?」


「少なくとも今日は強い。たぶん魔界契約アプリより強い」


「人間界、書類とルールが多すぎる……」


「お前ら魔界も契約書だらけだろ」


「魔界の契約書は、燃えたり光ったりするから分かりやすいよ?」


「分かりやすさの基準がおかしい」


 ふたりが階段を下りると、台所から朝食の匂いがした。


 リビングでは、母の真実がお弁当を作っている。


 卵焼き。


 ウインナー。


 ミニトマト。


 そして、なぜか小さなドラ焼きが端に置かれている。


 直樹は即座に指さした。


「母さん、そのドラ焼きは何」


 真実はにこにこと振り返る。


「アイちゃん、昨日ドラ焼きで大変だったんでしょう? 元気が出るかなと思って」


「昨日ドラ焼きで大変だったから、今日入れないでほしかった!」


 アイは目を輝かせる。


「お母さま……!」


「お母さまと呼ぶな。距離の詰め方が悪魔より速い」


 真実は弁当箱のふたを閉めながら、のんびり言った。


「生徒会に行くなら、ちゃんと挨拶するのよ」


 直樹は固まった。


「母さん、受け入れ方が軽い」


「だって、生徒会ってちゃんとしたところでしょう?」


「ちゃんとしてるから怖いんだよ」


「悪いことをしたなら謝って、していないことなら説明すればいいのよ」


 正論だった。


 直樹は胸を押さえる。


「正論が朝から痛い……」


 階段から、妹の遊羅が顔を出した。


「お兄ちゃん、今度は学園裁判?」


「家族が次回予告に適応しすぎてる!」


 遊羅は制服姿のアイを見る。


「あれ? アイちゃん、マント着ないの?」


「直樹に脱がされた」


「言い方!」


 直樹は即座に叫んだ。


 遊羅はにやにや笑う。


「お兄ちゃん、朝から大胆」


「違う! 生徒会室に魔界礼装で行かせないためだ!」


「じゃあ、裁判っぽい黒マントは?」


「裁判じゃない!」


 アイがぽんと手を打った。


「でも、証人ならマントいる?」


「証人でもいらない。そもそもお前は証人じゃなくて関係者だ」


「関係者……かっこいい」


「かっこよくない。不祥事の時に出る言葉だ」


 遊羅は楽しそうに言う。


「お兄ちゃん、また関係者代表?」


「“また”って言うな。俺は代表に立候補した覚えがない」


 真実が弁当を包みながら言った。


「直樹、ハンカチ持った?」


「持った」


「生徒会長さんに失礼のないようにね」


「俺、呼び出される側なのに面接みたいになってる」


「アイちゃんも、余計なことを言わないのよ」


 アイは胸を張った。


「大丈夫! アタシ、今日は学園の女王様にちゃんと――」


「それが余計なことだ」


 直樹、美咲不在の朝なのに、すでにツッコミが足りない。


 直樹は頭を抱えた。


 その隙に、アイはテーブルの上にあったドラ焼きをそっと手に取る。


 そして、制服のポケットに入れようとした。


 直樹は見逃さなかった。


「何してる」


 アイはぴたりと止まる。


「謝罪の手土産」


「供物を持ち込むな」


「供物じゃないよ。手土産」


「言い換えてもだめだ」


「でも、何も持っていかないの失礼かなって」


「生徒会室への出頭にドラ焼きを添えるな!」


 アイはドラ焼きを両手で持ったまま、しょんぼりする。


「だって、アタシ、ちゃんと謝りたいし……」


 その言い方だけは、少しだけ本気だった。


 直樹は言葉に詰まる。


 アイは昨日、案件より一緒に食べるほうを選んだ。


 評価が下がるかもしれないと言いながら、直樹を無理に動画へ出すのをやめた。


 今日もたぶん、謝ろうとしている。


 ただ、その手段がドラ焼きなだけで。


 直樹は大きくため息をついた。


「……謝る気持ちは分かった」


「じゃあ」


「でも、ドラ焼きは置いていけ」


「ええっ」


「生徒会長に“供物です”って言った瞬間、話が三倍ややこしくなる」


「じゃあ、“普通のおやつです”って言う」


「それでも持ち込み理由を聞かれる」


「“ダーリンと食べる用です”」


「もっとだめだ!」


 真実が小さな紙袋を出した。


「じゃあ、これはお弁当のあとに食べなさい。生徒会室には持っていかないこと」


 アイは紙袋を受け取って、ぱあっと笑った。


「お母さま、ありがとう!」


「どういたしまして」


「母さん、悪魔の扱いがうますぎる」


 遊羅が階段から降りてきて、アイの角を見つめる。


「アイちゃん、角は隠さないの?」


「今日は生徒として行くから、隠す予定」


 アイはそう言って、髪で角を隠そうとした。


 しかし、隠れない。


 ぴょこんと先端が出る。


 直樹は机の上のヘアピンを取った。


「ほら、少し動くな」


「ダーリンが直してくれるの?」


「角を校則に寄せてるだけだ」


「校則に寄せる角」


「言葉にすると意味不明だな」


 直樹はアイの髪を軽く整え、角が目立ちにくいようにした。


 完全には隠れない。


 だが、少なくとも「悪魔として礼装」よりはずっとましだった。


 アイは鏡を見て、にこっとする。


「普通の生徒っぽい?」


「角以外はな」


「じゃあ、八割普通?」


「その計算ならだいぶ頑張ってる」


 アイは嬉しそうに笑った。


 直樹は目をそらす。


「……だから、今日は余計なこと言うなよ」


「うん!」


「生徒会長を女王と呼ぶな」


「うん!」


「魔王とも呼ぶな」


「うん!」


「ドラ焼きを供物と言うな」


「うん!」


「俺を契約者代表として差し出すな」


「……うん!」


「今、間があったな」


「一瞬だけ!」


「その一瞬で人生が終わるんだよ!」


 スマホが最後にもう一度鳴った。


『本日放課後、生徒会室へ出頭してください』


『対象:真央直樹、天満アイ、ほか関係者』


 直樹は画面を見てつぶやく。


「“ほか関係者”って、言葉が便利すぎるだろ」


 アイは首をかしげる。


「ダーリン、関係者代表?」


「代表じゃない。被害者代表だ」


「でも、一緒に行くよ」


 アイは紙袋のドラ焼きを鞄に入れず、テーブルの上に置いた。


「ドラ焼きは、帰ってから食べる」


 直樹は少しだけアイを見る。


「……そうしろ」


「帰ってから、案件じゃなくて」


「普通におやつ、だろ」


「うん!」


 アイは元気よく笑った。


 直樹は鞄を持ち、玄関へ向かう。


 今日の放課後には、生徒会室。


 書類。


 校則。


 説明責任。


 そして、鳴海真奈。


 朝から気が重いにもほどがある。


 それでも、直樹は靴を履いた。


 玄関先で、真実が声をかける。


「いってらっしゃい。ちゃんと説明してくるのよ」


 遊羅も手を振る。


「お兄ちゃん、裁判がんばって!」


「裁判じゃない!」


 アイが隣で拳を握る。


「ダーリン、出頭がんばろうね!」


「お前もその言葉に慣れるな!」


 こうして、真央直樹の朝は始まった。


 普通の登校。


 ……ではなく。


 生徒会室への出頭を控えた、限りなく普通から遠い登校準備である。


* * *


 真央家を出た直樹は、朝の通学路を歩いていた。


 隣にはアイ。


 制服姿。


 角は髪でだいたい隠している。


 尻尾もどうにかリュックの影に押し込んでいる。


 ただし、歩き方だけは妙に堂々としていた。


 これから生徒会室へ出頭する生徒の歩き方ではない。


 魔界の式典へ向かう仔悪魔の歩き方である。


「普通に歩け」


「普通に歩いてるよ?」


「その“これから学園の支配者に謁見します”みたいな顔をやめろ」


「だって、生徒会長って偉いんでしょ?」


「偉いけど、王族じゃない」


「じゃあ貴族?」


「学校の役職を魔界階級に変換するな」


 直樹はすでに疲れていた。


 まだ一時間目も始まっていない。


 放課後の呼び出しまで、長すぎる。


 そのとき、前方から聞き慣れた声がした。


「……朝から顔死んでるわね」


 佐藤美咲だった。


 バスケ部の朝練帰りなのか、スポーツバッグを肩にかけている。


 彼女は直樹の顔を見て、すぐにため息をついた。


「本当に生徒会室に呼び出されたのね」


「俺はドラ焼き食べただけなのに」


 直樹は真顔で言った。


 美咲はもっと深いため息をついた。


「その前に、案件動画未遂があったでしょ」


「未遂だぞ」


「未遂でも、魔界契約アプリが校内広報に申請出しかけた時点でアウトよ」


 アイが少しむくれる。


「アタシは案件をやめたのに」


「その前にやらかしすぎたのよ」


「ぐっ」


 アイは胸を押さえた。


「美咲の言葉、校則より刺さる」


「校則はこれから刺さるんだよ」


 直樹が言うと、アイは真剣な顔になった。


「ねえ、ダーリン」


「嫌な予感がする」


「生徒会長って、学園の女王?」


「違う」


 即答だった。


 美咲も即座に言う。


「女王じゃないけど、真奈会長はかなり強いわよ」


 アイの目がきらりと光る。


「強い」


「その反応、悪魔っぽいからやめろ」


 美咲は指を折りながら説明する。


「成績優秀。品行方正。校則も申請手続きも、たぶん全部頭に入ってる。先生相手でも筋が通ってないと普通に指摘するタイプ」


 直樹は遠い目をした。


「俺たちに一番向いてない相手だな」


「特にアイにはね」


「アタシ?」


「だって、校則も申請も、全部“なんか面白そう”で突破しようとするじゃない」


「突破はしてないよ」


「アプリが勝手に突破してる」


「それは、うん。アプリが悪い」


 直樹は横目でアイを見る。


「お前もけっこう悪い」


「ちょっと?」


「昨日だけなら、かなり」


「ダーリン、朝から正直!」


「生徒会長の前ではもっと正直に行くぞ。変な言い訳したら終わる気がする」


 アイは少し考える。


「じゃあ、生徒会長は校則魔法を使うの?」


「魔法にするな」


「でも、書類で人を止められるんでしょ?」


「まあ、止められるな」


「申請書を出したら扉が開く?」


「開く場合もある」


「反省文を書いたら呪いが解ける?」


「解けるというか、許される可能性が上がる」


「やっぱり魔法じゃん!」


「違う! 社会の仕組みだ!」


 美咲が少し笑った。


「でも、アイにとっては魔法みたいなものかもね」


「笑いごとじゃないぞ。こいつ、絶対に“校則呪文”とか言い出す」


「校則呪文……」


「覚えるな!」


 そこへ、後ろから軽い足音が近づいてきた。


「おはよー。朝から濃い話してるね」


 振り向くと、鏡野アリスが手を振っていた。


 金髪。


 白い肌。


 朝からテンションが軽い。


 この状況に、最も混ぜてはいけないタイプの軽さだった。


 直樹は眉をひそめる。


「鏡野まで来たのか」


「来たっていうか、通学路一緒じゃん。あと、今日の生徒会呼び出し、ちょっと気になるし」


「気にするな」


「無理でしょ。悪魔ちゃん案件動画未遂からの生徒会室出頭とか、イベント感ありすぎ」


「イベントにするな!」


 アリスはにこにこしながら、アイの横に並ぶ。


「悪魔ちゃん、今日ちゃんと普通制服じゃん。マントは?」


「直樹に脱がされた」


「言い方!」


 直樹と美咲のツッコミが同時に入った。


 アリスは楽しそうに笑う。


「息ぴったりじゃん」


「そこで感心するな」


「いやー、生徒会呼び出しって、学園裁判編って感じあるよね。証拠品出てきたり、会長が“説明責任があります”って言ったり」


 直樹は頭を抱える。


「俺は朝からそれに近い夢を見たんだよ。やめろ」


「え、予知夢?」


「やめろ。現実味が増す」


 アイはアリスを見る。


「アリス、生徒会長に詳しい?」


「まあ、それなりに。鳴海会長、マジでちゃんとしてるからね。変な言い訳すると秒で詰むよ」


 アイはぴくっと反応した。


「秒で詰む……三秒より早い」


「また動画基準に戻るな」


「でも三秒より早いなら、サムネ出す前に終わるね」


「だから動画にするな!」


 アリスは指を立てる。


「真面目に言うと、会長は怒鳴るタイプじゃないんだよ。静かに資料出して、こっちが言い訳できないところを一個ずつ確認してくるタイプ」


 美咲がうなずく。


「そうそう。逃げ場をふさぐのがうまいのよ」


「怖すぎる」


 直樹の顔色が悪くなる。


 アイは逆に感心していた。


「すごい。悪魔の契約術みたい」


「違うわよ。たぶん」


 美咲は言ってから、少し自信をなくした。


 アリスが笑う。


「でも、書類で悪魔ちゃん止められるなら、それはそれで魔法じゃん?」


「アリスまでそっちに寄るな」


「真央、今日はツッコミ忙しそうだね」


「今日“も”だ!」


 アリスはスマホを取り出しかけた。


 美咲が即座ににらむ。


「撮らない」


「撮らない撮らない。もう学んだって。今のは、しないやつ」


 アリスはスマホをポケットに戻した。


 直樹は少しだけ意外そうに見る。


「本当に学んだんだな」


「失礼じゃない? アタシだって怒られたらちょっとは覚えるし」


「ちょっとかよ」


「ちょっとでも進歩は進歩」


 アイがぱっと顔を上げる。


「アタシも昨日、進歩した!」


「お前は今日それを維持しろ」


「維持……難しい言葉」


「難しくない。生徒会長の前で“女王様”と“魔王”と“支配者”を言わないだけだ」


「三つも禁止語がある」


「少ないほうだろ」


 美咲が指を立てる。


「あと、“供物”も禁止」


 アリスが続ける。


「“案件”も慎重に」


 直樹がさらに言う。


「“ダーリンを素材に”も禁止」


 アイは両手で頭を押さえた。


「人間界、禁止ワード多すぎる!」


「お前が危険ワードを日常会話に混ぜすぎなんだよ!」


 登校中の生徒たちがちらちらこちらを見る。


 すでに少し目立っている。


 直樹は声を落とした。


「とにかく、今日は普通に行く。普通に授業を受ける。放課後、普通に生徒会室へ行く」


 美咲が眉を上げる。


「“普通に出頭”って、だいぶ普通じゃないけど」


「言うな。俺も気づいてる」


 アイは不安そうに聞いた。


「ダーリン、もしアタシが変なこと言ったら?」


「俺が止める」


 美咲が言う。


「私も止める」


 アリスも軽く手を挙げる。


「じゃあ、アタシは空気見て止める」


 直樹は疑わしそうに見る。


「本当だな?」


「本当。面白くても、公開しちゃだめなやつはしない」


 美咲が小さくうなずいた。


「そこは昨日よりマシね」


「佐藤さん、褒め方が体育会系」


「褒めてない」


 アイは三人を見て、少しだけ笑った。


「じゃあ、アタシ、今日はちゃんと生徒として行く」


「よし」


「学園の女王様に――」


「言うな!」


 直樹、美咲、アリスの三人が同時に叫んだ。


 アイは口を押さえる。


「危なかった」


「本番じゃなくてよかった……」


 直樹は心からそう思った。


 校門が近づいてくる。


 いつもの鏡星学園の門。


 いつもの朝のざわめき。


 いつもの登校風景。


 そのはずなのに、直樹には生徒会室へ続く処刑台の入り口に見えた。


 アリスが軽く言う。


「まあ、真央が被害者なのはみんな分かってるって」


「本当か?」


「たぶん」


「その“たぶん”が一番怖い」


 美咲が肩をすくめる。


「大丈夫よ。少なくとも私は言うから。直樹だけの責任じゃないって」


 直樹は少しだけ美咲を見る。


「……助かる」


 美咲はそっぽを向いた。


「別に。事実を言うだけ」


 アイも拳を握る。


「アタシもちゃんと説明する。案件はやめたって。ダーリンが嫌なことは、しないって」


 直樹は、少しだけ表情を緩めた。


「その調子で頼む」


 アイは大きくうなずいた。


「うん! 学園の――」


「禁止!」


「まだ最後まで言ってない!」


「言う前に止めるんだよ!」


 こうして、四人は校門をくぐった。


 放課後の生徒会室。


 鳴海真奈。


 校則と申請書。


 直樹の平穏は、また一歩、書類の束へ近づいていった。


* * *


 放課後。


 授業は終わった。


 だが、直樹の一日は終わっていない。


 むしろ、ここからが本番だった。


 鏡星学園高等部、校舎三階。


 生徒会室前の廊下。


 そこには、妙に濃い面子が集まっていた。


 真央直樹。


 天満アイ。


 佐藤美咲。


 見上宙。


 鈴鳴ベル先生。


 鏡野アリス。


 そして、生徒会室の扉の前には、白金光がタブレットを手に立っている。


 直樹は廊下の壁に貼られた『静粛に』の掲示を見て、深くうなずいた。


「俺も静粛に暮らしたかった……」


「ダーリン、もうすぐ学園の――」


「言うな」


 直樹は即座に止めた。


 アイは口を押さえる。


「危ない。禁止ワードだった」


「入室前に出すなよ。本番で終わるぞ」


 美咲が腕を組む。


「本番って言い方も嫌ね。何かの審査みたい」


「審査だろ。たぶん俺の平穏が落選する」


「もう落ちてるでしょ」


「即答するな!」


 光が穏やかに一礼した。


「皆さん、お揃いですね」


 その声は柔らかい。


 だが、手元のタブレットにはすでに名簿らしきものが表示されている。


 直樹はそれを見て、嫌な汗をかいた。


「白金、そのタブレットに俺の叫びとか入ってないよな?」


「要約のみです」


「入ってるじゃん!」


「詳細な音声データは添付していません」


「添付できる状態なのが怖い!」


 光はさらりと流して、出席確認を始めた。


「真央直樹くん」


「はい……」


「天満アイさん」


「はい!」


「佐藤美咲さん」


「はい」


「見上宙さん」


「……はい」


 宙の腕の中で、ワラ人形がぺこりと頭を下げた。


 直樹は反射的に言った。


「お前は返事しなくていい」


 光は少しだけワラ人形を見た。


「見上さん、その人形も同席者として扱いますか?」


 宙は無表情で答える。


「この子は証人」


「人形を証人にするな!」


 ワラ人形が低い声で言った。


「見た。聞いた。契約者が叫んだ」


「証言内容が俺に偏ってる!」


 美咲が横からぼそっと言う。


「だいたい事実じゃない」


「味方ならもう少し言い方を選んでくれ」


 光はタブレットに何か入力しかけた。


 直樹は慌てて止める。


「今のも記録するな!」


「記録ではなく、同席区分の確認です」


「ワラ人形に同席区分を作るな!」


 光は少し考えてから、静かに言った。


「では、見上さんの補助資料として扱います」


「人形の扱いだけで校内文書が増えていく!」


 そのとき、白衣の裾をひらめかせてベル先生がにこやかに手を挙げた。


「鈴鳴ベル、教育的観点から同席するわ」


 直樹はじっとベル先生を見た。


「先生まで本当に呼ばれてるんだな……」


「ええ。教職員として、生徒の安全と学びを見守る義務があるもの」


 美咲が即座に言った。


「教育的観点なら、最初に止めてください」


「正論だ」


 直樹がうなずく。


 ベル先生は微笑んだまま、少しだけ視線をそらした。


「止める前に観察したいこともあるの」


「本音が出た!」


 光がタブレットを見ながら言う。


「鈴鳴先生については、会長からも確認事項があります」


「確認事項?」


 ベル先生の目が少し輝く。


「私の研究に関する質問かしら」


「おそらく、研究以前の問題です」


「白金、淡々と刺すなあ!」


 直樹は感心したように言った。


 ベル先生はまったく傷ついていない。


「書類で研究を止められるのは新鮮ね」


「止められてください。今日だけは」


 アリスは壁にもたれ、興味津々に生徒会室の扉を眺めていた。


「やば。ほんとに学園裁判っぽくなってきた」


「だからイベントにするな」


「でも、メンバー強くない? 悪魔ちゃん、契約者、幼なじみ、ワラ人形、マッド先生、生徒会広報、これで会長登場でしょ?」


「俺をジャンル紹介に入れるな」


「契約者枠」


「枠にするな!」


 アリスはスマホに手を伸ばした。


 その瞬間、光が静かに言った。


「撮影は禁止です」


 アリスの指が止まる。


「まだ構えてないよ?」


「構える前にお伝えしています」


「はや」


「前回の件がありますので」


「信用がない」


 アリスは苦笑して、スマホをポケットに戻した。


「分かった分かった。今日は撮らないって。今のは、しないやつ」


 美咲がじとっと見る。


「本当に?」


「本当だって。会長の前でやったら秒で詰むし」


 アイがびくっとした。


「秒で詰む……」


 直樹がすかさず言う。


「動画基準に戻るなよ」


「戻ってない。三秒より早いって思っただけ」


「戻ってる!」


 そのときだった。


 閉ざされた生徒会室の扉の向こうから、静かな声が聞こえた。


「鏡野さん」


 全員が固まる。


 声は、扉越しでもよく通った。


 落ち着いていて、強い。


「構える前に止めています。白金くんの判断は正しいです」


 アリスはぴしっと背筋を伸ばした。


「もう怒られた」


 直樹は扉を見つめる。


「入る前から強い……」


 アイは小声で言う。


「ダーリン、やっぱり学園の――」


「言うな!」


 直樹、美咲、アリスの三人が同時に止めた。


 アイは両手で口を押さえる。


 光は、何事もなかったかのようにタブレットを操作した。


「入室前の確認を続けます。皆さん、会長から質問がありますので、事実と違うことは言わないでください」


「それは分かる」


 直樹はうなずいた。


「推測で話さないでください」


「分かる」


「感情的に叫ばないでください」


「それは自信がない」


「直樹、最初から諦めないで」


 美咲が呆れる。


 光はさらに続ける。


「天満さんは、生徒会長を女王、魔王、支配者、秩序の覇者と呼ばないでください」


 アイは目を丸くした。


「秩序の覇者はまだ言ってない!」


「候補として登録しました」


「白金、先回りがうますぎる!」


 直樹は思わず声を上げた。


 アイは悔しそうに拳を握る。


「じゃあ、何て呼べばいいの?」


「鳴海会長、または生徒会長でお願いします」


「鳴海会長……」


 アイは真剣に練習する。


「鳴海会長。鳴海会長。学園の――」


「混ぜるな!」


 ワラ人形が低い声で言う。


「鳴海会長、強い」


「お前は余計な感想を言うな」


 宙はワラ人形を抱きしめる。


「この子も緊張してる」


「人形に緊張を背負わせるな」


 ベル先生がドアの上部を見て、感心したようにつぶやく。


「この生徒会室、結界みたいに空気が締まっているわね」


 光が即答する。


「掃除と整理整頓です」


「魔術的じゃないの?」


「書類棚の分類です」


「分類、強いわね」


 直樹は心の底から思った。


 この生徒会室は、理科準備室より怖い。


 理科準備室は爆発する。


 生徒会室は、爆発しない。


 その代わり、書類で逃げ道をふさぐ。


 爆発しない分、確実に怖い。


 光は全員を見回した。


「では、入室します」


 美咲が小さく息を吐く。


 アリスは少しだけ楽しそうに笑う。


 ベル先生は観察者の顔をしている。


 宙はワラ人形を前に向ける。


 アイは直樹の袖をそっとつかんだ。


「ダーリン」


「なんだ」


「変なこと言ったら止めて」


「言う前に止めたい」


「頑張る」


「俺も頑張る」


 光がドアノブに手をかけた。


 その向こうには、鳴海真奈がいる。


 学園の女王ではない。


 生徒会魔王でもない。


 ただし、たぶん、今のアイにとっては悪魔より厄介な相手。


 そして直樹にとっては、今日の胃痛の本命。


 扉が、静かに開いた。


* * *


 生徒会室の扉が開いた。


 そこに爆発はなかった。


 魔法陣もなかった。


 怪しい煙も、謎の機材も、勝手に回るドラ焼き台もなかった。


 ただ、きれいに整えられた机。


 整理された書類棚。


 壁に貼られた行事予定表。


 そして、空気を乱すことを許さない、圧倒的な整頓感があった。


 直樹は一歩入った瞬間、思った。


 理科準備室とは別の意味で危険だ。


 あちらは爆発する。


 こちらは逃げ道をなくす。


 机の向こうに、一人の女子生徒が座っていた。


 鳴海真奈。


 鏡星学園高等部、生徒会長。


 背筋はまっすぐ。


 表情は静か。


 視線は落ち着いている。


 怒っているわけではない。


 しかし、怒られるより怖い。


 机の上には、白金光が用意したらしい資料一式が、角までそろえて置かれていた。


 資料の束が、武器に見えた。


「お入りください」


 真奈が静かに言う。


 その一言だけで、全員がなんとなく姿勢を正した。


 アイも、さっきまで「学園の――」と言いかけていた口をきゅっと閉じる。


 ベル先生だけは興味深そうに室内を見回していた。


「書類棚の分類が美しいわね」


「先生、感心するところそこですか」


 直樹が小声で突っ込む。


 真奈は机の上の名簿に目を落とした。


「確認します」


 その声は淡々としている。


「真央直樹さん」


「はい……」


「天満アイさん」


「はい!」


「佐藤美咲さん」


「はい」


「見上宙さん」


「……はい」


 宙の腕の中で、ワラ人形が小さく頭を下げる。


 直樹は即座に小声で言った。


「お前は呼ばれてない」


 真奈は名簿から目を上げる。


「補助資料扱いと伺っています」


「生徒会長まで受け入れた!?」


「扱いを定義しただけです。正式な同席者ではありません」


「定義って強いな……」


 真奈は続ける。


「鈴鳴ベル先生」


「はい」


「鏡野アリスさん」


「はーい」


 アリスの返事が軽い。


 真奈の視線が、すっとアリスへ向いた。


「鏡野さん」


「はい」


「この場では、録音、撮影、投稿、速報、見出し作成を禁止します」


「見出し作成まで先に止められた」


 アリスが小さく笑う。


 直樹は震えた。


「強い。俺が言う前に全部言った……」


 真奈は再び直樹を見る。


「真央直樹さん」


「はい」


「今回の件では、あなたが関係者の中心にいます」


「なんで俺が最初なんだ……」


 直樹はつぶやいた。


 しかし、真奈は聞き逃さなかった。


「発生した異常事態の中心にいる頻度が高いためです」


「俺が原因じゃない!」


 直樹は反射的に叫んだ。


 その瞬間、光のタブレットが少し動く。


「白金、今のメモるな!」


「まだメモしていません」


「“まだ”って何だ!」


 真奈は表情を変えずに言う。


「原因でないことは理解しています。ただし、中心です」


「中心って言葉が一番つらい!」


 美咲が横から腕を組む。


「まあ、中心ではあるわよね」


「味方じゃなかったのか!」


「味方だから原因じゃないって言ってあげる。でも中心なのは否定しにくい」


「理屈で刺すな!」


 アイは真奈をじっと見ていた。


 何かを探るように。


 悪魔としての本能なのか、単なる好奇心なのか。


 やがて、アイは真剣な顔で言った。


「あなたが学園の女王?」


 室内の空気が、ぴたりと止まる。


 直樹は頭を抱えた。


「言った……!」


 真奈は静かに答える。


「生徒会長です」


 アイは少し首をかしげた。


「生徒会魔王?」


「生徒会長です」


「同じ訂正を二回させるな!」


 直樹のツッコミが飛ぶ。


 アイは慌てて口を押さえる。


「ごめん、禁止ワードだった」


「禁止ワードを本人の前で確認するな」


 アリスが小声でつぶやく。


「でも、生徒会魔王ってタイトルはちょっと強い」


 真奈の視線がアリスへ向く。


 アリスは即座に両手を上げた。


「言っただけ。書かない。撮らない。出さない」


「お願いします」


「会長、圧だけで返信速度上がるね」


「褒めてる場合じゃない」


 美咲が小声で言う。


 真奈は、光へ軽く目配せした。


 光が資料の束を一部ずつ配る。


 配り方が丁寧すぎて、逆に怖い。


 直樹の前にも一部置かれた。


 表紙には、こう書かれていた。


『魔界契約および校内情報拡散に関する事実確認資料』


 直樹は表紙を見ただけで、椅子に座る前から胃が痛くなった。


「タイトルがもう重い」


 光が穏やかに言う。


「内部向けにはかなり柔らかくしました」


「これで!?」


「初稿はもう少し直接的でした」


「何だったんだよ初稿!」


 アリスが興味を示す。


「気になる」


「気にするな!」


 光は少しだけ考えたあと、淡々と言った。


「初稿は『仔悪魔案件動画未遂および契約者叫喚事案』です」


「柔らかくなってた!」


 直樹は思わず認めてしまった。


 だが、認めたくはなかった。


「叫喚って何だ! 俺は地獄の亡者か!」


 宙のワラ人形が低く言う。


「叫喚地獄」


「広げるな!」


 ベル先生は資料をめくり、楽しそうに目を細めた。


「魔界契約と校内規則の衝突。これは面白いわね」


 真奈は即座に言った。


「面白がる案件ではありません」


「はい」


 ベル先生が素直に返事をした。


 直樹は衝撃を受けた。


「先生が……止まった……」


 美咲も小声で言う。


「真奈会長、すごい」


 アイは真奈を見て、尊敬と警戒が混じった顔をしている。


「ダーリン、この人、やっぱり強い」


「だから拝むなよ」


「まだ拝んでない」


「手がちょっと合わさりかけてる」


 アイは慌てて手を下ろした。


 真奈は資料の一ページ目を開いた。


「本日は、第六話――ではなく、昨日発生した一連の校内事案について、事実確認を行います」


 直樹は顔を上げた。


「今、“第六話”って言いかけませんでした?」


「言っていません」


「いや、言いかけた気が」


「言っていません」


 真奈の目は静かだった。


 静かすぎた。


 直樹はすぐに引いた。


「はい。言ってません」


 アリスが小声で笑う。


「メタ発言まで校正された」


「笑うな」


 真奈は淡々と続ける。


「確認事項は大きく三つです」


 真奈は資料の上に、きれいに指を置いた。


「一つ目。魔界契約アプリによる校内システムへの干渉」


 アイがぴくっとする。


「二つ目。本人同意のない案件動画プレビュー生成」


 直樹がぴくっとする。


「三つ目。生徒の平穏な学校生活への影響」


 全員が直樹を見る。


 直樹は両手を広げた。


「そこで俺を見るな! いや、俺のことだけど!」


 真奈は静かにうなずいた。


「真央さんの平穏が継続的に損なわれていることは、資料上も確認できます」


「俺の平穏、ついに資料化された……」


 光が補足する。


「時系列表も作成済みです」


「やめてくれ。俺の苦難を年表にするな」


 アイは不安そうに直樹を見る。


「ダーリン、そんなに損なわれてた?」


「お前が自覚してないのが一番怖い」


「でも、昨日は案件やめたよ」


「そこは認める」


 真奈がアイを見る。


「天満さん。その点も確認します。あなたが途中で案件動画化を止めたことは、白金くんから報告を受けています」


 アイの表情が少し明るくなる。


「ほんと?」


「はい。ただし、止めたから問題が消えるわけではありません」


「ぐっ」


 アイは再び胸を押さえた。


「褒めてから刺された」


 直樹はうなずく。


「これが書類攻撃だ」


「書類、怖い」


 真奈は資料を一枚めくる。


「まずは事実確認です。感情的な弁明、過度な演出、悪魔的比喩、動画向けの言い回しは控えてください」


 アリスが小さく手を挙げる。


「動画向けの言い回しって、例えば?」


「“素材が強い”などです」


「ピンポイントで刺された」


 直樹はアリスを見る。


「お前のせいで項目が増えてるぞ」


「アタシ、影響力あるね」


「誇るな!」


 真奈はアイを見る。


「天満さん」


「はい」


「“支配”“征服”“供物”“契約者を落とす”などの表現も、今回は避けてください」


 アイは両手で頭を押さえた。


「ほとんどアタシの語彙!」


「だから問題なんだよ!」


 宙のワラ人形が言う。


「語彙、危険」


「お前も危険だ!」


 ベル先生は小さく手を挙げた。


「質問いいかしら」


 真奈は落ち着いて答える。


「実験に関する提案でなければ」


「……では後で」


「今、実験に関する提案だったんですね!?」


 直樹が叫ぶ。


 真奈は資料を整え、全員を見渡した。


「では、始めます」


 その一言で、部屋の空気がさらに引き締まった。


 直樹は資料の表紙をもう一度見る。


『魔界契約および校内情報拡散に関する事実確認資料』


 重い。


 あまりにも重い。


 ドラ焼きを食べただけのはずなのに、ここまで重い。


 直樹は小さくつぶやいた。


「俺の高校生活、いつから議事録制になったんだ……」


 アイが隣で小声で言う。


「ダーリン、大丈夫?」


「大丈夫じゃない」


「でも、アタシ、今日はちゃんと説明する」


 直樹はちらりとアイを見る。


 彼女の声は、いつもより少しだけ真面目だった。


 直樹はため息をついた。


「余計なこと言う前に止めるからな」


「うん」


「まず“女王”禁止」


「分かってる。鳴海会長」


 アイはそう言って、姿勢を正した。


 真奈はそれを見て、ほんの少しだけうなずいた。


 ほんの少し。


 だが、それだけでアイが緊張するには十分だった。


 光がタブレットを開く。


「それでは、第六――昨日の案件動画未遂について、時系列で説明します」


 直樹は即座に反応した。


「今、白金も第六って言いかけたよな!?」


 光は穏やかに微笑んだ。


「昨日の件です」


「この部屋、メタ発言の握りつぶしがうまい!」


 真奈は静かに資料を見た。


「続けてください」


「はい」


 こうして、生徒会による事実確認が始まった。


 悪魔契約。


 案件動画。


 ドラ焼き。


 ツッコミ。


 そして、直樹の平穏。


 すべてが、書類の上に並べられようとしていた。


* * *


 白金光が、タブレットを操作した。


 生徒会室の壁に設置されたモニターが点灯する。


 映し出されたのは、きれいに整理された時系列表だった。


 余白は十分。


 文字は読みやすい。


 見出しは簡潔。


 しかし内容は、まったく簡潔ではなかった。


『案件動画未遂に関する経緯』


 直樹は、タイトルを見ただけで椅子に沈み込んだ。


「俺の昨日が資料になってる……」


 真奈は姿勢を崩さずに言う。


「白金くん、説明をお願いします」


「はい」


 光は穏やかな声で説明を始めた。


「まず、昨日の朝、魔界契約アプリより、天満アイさんに対して供物プロモーション通知が届きました」


 モニターに通知画面が表示される。


『次回実習課題:案件動画による供物プロモーション』


『契約者同席推奨』


『ドラ焼き持参可』


 直樹は即座に手を挙げた。


「最初から“契約者同席推奨”がおかしいです」


 真奈はうなずく。


「記録します」


「記録はしなくていいです!」


 アイは小さく言う。


「ドラ焼き持参可って書いてあったから……」


 美咲が横から刺す。


「そこで喜んだのよね」


「うん……」


「素直に認めた」


 直樹は少し意外そうにアイを見る。


 アイは以前なら「悪魔的には正しい」と言い張っていただろう。


 今日は、少しだけ反省文前の顔をしている。


 光は次の資料へ進む。


「続いて、同通知は学級連絡アプリおよび教室の電子黒板へ干渉しました」


 モニターに、昨日の電子黒板の表示が出る。


『本日の特別課題:供物プロモーション案件』


『出演候補:天満アイ』


『契約者リアクション担当:真央直樹』


 直樹は机を軽く叩いた。


「俺はリアクション担当に応募してません!」


 光はうなずく。


「応募履歴は確認されていません」


「確認されてないなら消してくれ!」


 アリスが小声で言う。


「でも“契約者リアクション担当”って、肩書きとしては強いよね」


 美咲が即座に睨む。


「黙って」


「はい」


 真奈の視線も静かにアリスへ向いた。


 アリスは両手を上げる。


「見出しにはしない。言っただけ」


「お願いします」


「会長、お願いの圧が強い」


 直樹はうなずいた。


「分かる。お願いなのに命令より効く」


 アイがはっとする。


「お願いなのに命令より効く……」


「今、学ばなくていいところで学ぶな」


 光はさらに続ける。


「その後、理科準備室にて、鈴鳴先生がレビュー撮影台を設置しました」


 モニターに設備一覧が映る。


『商品撮影用ライト』


『ドラ焼き回転台』


『味覚測定器』


『ツッコミ反応測定器』


『PR表記自動挿入装置』


『ワラ人形ナレーション』


 真奈の視線が、すっとベル先生に向いた。


「鈴鳴先生」


「はい」


「これは授業に必要な設備ですか」


「広義では、現代社会における広告倫理と魔界契約の比較教材として――」


「必要な設備ですか」


「……必要ではありません」


 直樹は小さく感動した。


「二回で落とした……」


 美咲も小声で言う。


「すごいわね」


 宙のワラ人形が低くつぶやく。


「書類、強い」


「お前は感想を入れるな」


 光は次の項目へ進める。


「撮影は行わないという前提で、ドラ焼きの実食が行われました」


 モニターに、昨日のドラ焼きの写真が映る。


 アイの尻尾がぴくっと動いた。


「おいしそう……」


「昨日食べたやつだろ」


「思い出してもおいしい」


「証拠品を見て腹を鳴らすな」


 光は淡々と続ける。


「その際、天満さんはドラ焼きについて複数の表現を行いました」


 画面に文字が並ぶ。


『人間界、征服する価値ある』


『契約者の心を縛る甘さ』


『供物として適性高し』


 真奈の眉が、ほんのわずかに動いた。


 それだけで、アイがびくっとする。


「天満さん」


「はいっ」


「食品の感想としては、誤解を招く表現です」


「はい……」


 直樹は思わずつぶやいた。


「校則以前に食品レビューで怒られてる」


 アリスが小声で言う。


「でも初手リアクションは良かったんだよね……」


 美咲がまた睨む。


「黙って」


「はい」


 光は次の画面を表示した。


「その後、魔界契約アプリが自動的に案件プレビューを生成しました」


 モニターが切り替わる。


 派手な赤黒背景。


 くるくる回るドラ焼き。


 笑顔のアイ。


 そして、妙に真面目な顔でドラ焼きを食べている直樹。


 画面上部に大きく表示される。


『仔悪魔ちゃんが食べてみた!』


 続いて。


『ダーリンも認めた、普通にうまいドラ焼き』


 下部には、小さく。


『PR:魔界実習管理局』


 直樹は椅子から半分立ち上がった。


「俺の“普通にうまい”がまた出た!」


 真奈は画面を見る。


「この発言は、使用許可を得ていますか」


 光が答える。


「得ていません」


「では使用不可です」


 直樹は両手を合わせかけた。


「生徒会長が今日一番まともなことを……」


 アイがこそっと言う。


「拝む?」


「拝まない」


 美咲がすかさず止める。


 光は次の項目へ進む。


「さらに、この案件プレビューは校内広報システムへの申請経由で共有されかけました」


 モニターに申請画面が映る。


『申請種別:供物プロモーション』


『出演者:天満アイ、真央直樹』


『使用コメント:普通にうまい』


『補足素材:契約者の叫び』


「補足素材にするな!」


 直樹の叫びが生徒会室に響く。


 すぐに、全員が光を見る。


 光は穏やかに首を横に振った。


「今の叫びは記録しません」


「助かる!」


 真奈が静かに補足する。


「ただし、会議の議事概要には“真央さんが強く抗議”と記載します」


「形を変えて残る!」


 宙のワラ人形が言う。


「変換、大事」


「それを言うな!」


 光は最後の画面を表示した。


「これに対し、生徒会広報補佐として、私が申請を差し戻しました」


 画面に差し戻し理由が表示される。


『申請不備:本人同意未確認』


『申請不備:商業宣伝扱い』


『申請不備:校内撮影許可なし』


『申請不備:契約者が叫んでいる』


 直樹は頭を抱えた。


「最後の項目、何度見ても俺専用!」


 真奈は画面を見て、少しだけ考える。


「最後の表現は、正式文書では修正します」


 直樹は顔を上げた。


「本当ですか?」


「“対象生徒が明確に拒否反応を示している”とします」


「丁寧になっただけで、俺の叫びが残ってる!」


 アリスが小声で言う。


「でも、正式文書っぽい」


 美咲。


「黙って」


 光はタブレットを閉じる。


「以上が概要です」


 直樹は椅子の背もたれに沈み込んだ。


「概要だけで胃が痛い」


「詳細は別紙にまとめています」


「別紙があるの!?」


 光はにこやかに答える。


「あります」


「白金、仕事が早すぎる!」


 真奈は資料を見ながら、直樹に視線を向けた。


「真央くん」


「はい」


「あなたは案件動画への出演に同意しましたか?」


 直樹は即答した。


「してません」


 その声だけは、いつものツッコミより少し真面目だった。


 真奈はうなずく。


「分かりました」


 続いて、アイを見る。


「天満さん」


「はい」


「真央くんの同意を得ましたか?」


 アイは、少しだけ膝の上で手を握った。


 いつものように勢いで言い返さない。


 少し考えてから、ゆっくり答える。


「一口食べてもらうお願いはした。でも、動画にするお願いはしてない」


 生徒会室が、一瞬だけ静かになった。


 真奈は静かに言う。


「そこは重要です」


 アイの肩が少し揺れる。


 真奈の声は責めるものではなかった。


 だが、まっすぐだった。


「お願いと利用は違います」


 アイは視線を落とした。


「……はい」


 直樹は、隣のアイを見た。


 第5話で、命令ではなくお願いを覚えた。


 第6話で、案件より一緒に食べたいと言った。


 それでも、まだ分かっていないことがある。


 お願いしたことと、あとから別の形で使うことは違う。


 たぶん、アイは今、それを初めてちゃんと刺された。


 アリスが小声でつぶやく。


「今の、見出しにしたい」


 美咲が即座に睨む。


「黙って」


「はい」


 光が、ほんのわずかにタブレットへ視線を落とした。


 直樹は見逃さなかった。


「白金も反応するな!」


「すみません。教育啓発用の見出しとしては非常に――」


「言うな! 俺たちを教材にするな!」


 真奈が光を見る。


「白金くん」


「はい」


「今は見出しではなく、事実確認を優先してください」


「承知しました」


 光は素直にタブレットを閉じる。


 アリスが小さく息を吐いた。


「会長、広報にも強い」


 美咲が言う。


「だから強いのよ」


 ベル先生は興味深そうに真奈を見る。


「同意と利用の切り分け……なるほど、契約制御にも応用できそうね」


 真奈はベル先生に視線を向ける。


「応用しないでください」


「はい」


 直樹はまた感動した。


「先生が二回目で止まる……!」


 宙のワラ人形が低く告げる。


「生徒会長、強敵」


 アイが小さくうなずきかける。


 直樹がすぐ止めた。


「敵にするな」


「でも、強い」


「強いけど敵じゃない。たぶん味方側だ」


 真奈はそのやり取りを見て、ほんの少しだけ表情を緩めた。


 本当に少しだけ。


 そして、次の資料を開く。


「では次に、悪魔契約そのものについて確認します」


 アイの尻尾が、ぴんと固まった。


 直樹の胃が、さらに沈んだ。


「まだ本題じゃなかったのか……」


 真奈は静かに言った。


「ここからが本題です」


 直樹は天井を見上げた。


「ドラ焼きひとつで、どこまで行くんだよ……」


 誰も答えなかった。


 答えられる者など、この場にはいなかった。


* * *


 真奈は、資料の次のページを開いた。


 紙の音がする。


 ただそれだけなのに、アイの尻尾がぴんと固まった。


 直樹は思う。


 この部屋、紙が強すぎる。


 真奈は静かに読み上げた。


「次に、真央直樹さんと天満アイさんの間で成立しているとされる契約について確認します」


 アイが背筋を伸ばす。


「悪魔契約だね」


「正式名称は、こちらです」


 光がモニターに契約名を表示した。


『人間界滞在補助および世界征服実習における仮契約』


 表示された瞬間、生徒会室の空気が重くなった。


 主に、タイトルが長いせいで。


 直樹は額を押さえた。


「改めて見ると、契約名からして終わってる……」


 美咲も渋い顔をする。


「世界征服実習って、学校で表示される言葉じゃないわね」


 アリスが小声で言う。


「でもタイトルとしては強い」


 美咲が睨む。


「黙って」


「はい」


 真奈は表情を変えずに続けた。


「まず、この契約は本校の校則上、部活動、同好会、委員会、校外活動のいずれにも該当しません」


 直樹は、妙に納得した。


「まあ、そうでしょうね」


 そもそも、悪魔契約が校則上のどこかに該当したら、その学校の校則がおかしい。


 いや、この学校なら少しだけありえそうなのが怖い。


 アイは真剣に手を挙げた。


「じゃあ、新しい活動区分を作ればいい?」


「作るな」


 直樹は即答した。


 アイは首をかしげる。


「悪魔契約部」


「作るな」


「世界征服実習同好会」


「作るな」


「ダーリン補助委員会」


「絶対に作るな!」


 アリスが肩を震わせる。


「ダーリン補助委員会、活動内容めっちゃ気になる」


「気にするな!」


 光が一瞬だけタブレットに視線を落とした。


 直樹はすぐに叫ぶ。


「白金、候補名として保存するな!」


「保存していません」


「じゃあ今、何で視線が動いた!」


「職業病です」


「生徒会広報の職業病、怖い!」


 真奈は資料に赤い付箋を貼った。


「新規活動区分の申請は認めません」


 アイがしょんぼりする。


「申請前に落ちた……」


「申請させるな。落ちてよかった」


 真奈はさらに資料をめくる。


「また、契約者を常時巻き込む条項について、本人の意思確認が不十分です」


 アイが少しむっとした顔になる。


「でも、ダーリンは契約者で――」


「学校内では、契約者である前に本校生徒です」


 真奈の声は、静かだった。


 怒ってはいない。


 だが、その一言だけで、部屋の温度が少し変わった。


 直樹は思わず真奈を見た。


 契約者である前に、本校生徒。


 そんな当たり前のことを、最近ほとんど誰も言ってくれなかった気がした。


 アイは言葉を止める。


「本校、生徒……」


 真奈は直樹に視線を向ける。


「真央くんには、授業を受ける権利と、平穏に学校生活を送る権利があります」


 直樹は、少しだけ固まった。


 それから、ぽつりと言う。


「その権利、久しぶりに聞いた……」


 美咲が隣で小さく息を吐く。


「本当よ。最近ずっと、授業どころじゃなかったし」


 直樹は指折り数え始めた。


「転校騒動、魔王適性検査、命令アプリ、謝罪配信未遂、案件動画未遂……」


 アリスが明るく言う。


「シリーズ化できるね」


「するな!」


 真奈は資料の別紙を確認する。


「なお、白金くんが作成した時系列表では、真央くんの平穏が損なわれた事例は、少なくとも五件確認されています」


「平穏損壊件数を数えるな!」


 光が丁寧に言う。


「客観的整理です」


「客観的に整理されるほどつらい!」


 宙のワラ人形が低く言った。


「平穏、希少」


「希少にするな。俺は普通に欲しい」


 アイは少しだけ不安そうに直樹を見る。


「ダーリン、学校楽しくない?」


「いや、楽しいかどうかで言えば……」


 直樹は言葉に詰まる。


 正直、疲れている。


 毎日ひどい目に遭っている。


 しかし、全部が嫌だったかと言われると、即答できないところがさらに嫌だった。


「……少なくとも、叫ぶ回数は減らしたい」


「それはそう」


 美咲がうなずいた。


 真奈も静かにうなずく。


「そのために、学校としても一定の整理が必要です」


 ベル先生が興味深そうに手を挙げた。


「平穏の定義から確認しましょうか」


 真奈は即座に言った。


「鈴鳴先生は黙っていてください」


「はい」


 直樹は目を見開いた。


「先生を一撃で止めた!」


 ベル先生が止まる。


 機材も出さない。


 仮説も展開しない。


 この部屋、本当にすごい。


 宙のワラ人形が感情のない声で告げる。


「書類、強い」


「それは本当にそう」


 直樹は思わず同意した。


 真奈は淡々と続ける。


「鈴鳴先生。教育的観点から同席されているのであれば、生徒の平穏を実験対象にしないでください」


「していないわ」


 ベル先生は微笑む。


「まだ」


「“まだ”を削除してください」


「はい」


 直樹は感動で震えた。


「削除された……!」


 アリスが小声で言う。


「会長、先生にも強いんだ」


 美咲がうなずく。


「だから強いって言ったでしょ」


 アイは真奈を見つめる。


「鳴海会長」


「はい」


「でも、アタシが契約してるのは、ダーリンだよ?」


「はい」


「契約がないと、アタシは人間界で実習できない」


「そこは否定していません」


 アイは少しだけ混乱した顔をする。


「じゃあ、契約はいいの?」


「契約そのものの有効性について、本校が判断する立場にはありません」


 直樹は首をかしげた。


「つまり?」


 光が補足する。


「魔界側で成立している契約かどうかは、本校では判定しません。ただし、校内でその契約を理由に生徒を拘束したり、活動へ無断参加させたりすることは認めない、という整理です」


 直樹は一瞬考えた。


「……まともだ」


「まともだね」


 美咲も同意する。


 アリスが小さく手を上げる。


「じゃあ、“魔界では契約者、学校では普通の生徒”ってこと?」


 真奈はうなずく。


「簡潔に言えば、そうです」


「分かりやすい」


 アリスは感心する。


 直樹はそのアリスを見た。


「お前、そういう要約はうまいんだな」


「でしょ。サムネとか見出しって要約力だから」


「今は褒めたくない」


 アイは自分の胸元をぎゅっと押さえる。


「学校では、ダーリンはダーリンじゃなくて、生徒……?」


 直樹は即座に言う。


「普段からダーリンじゃない」


「でも呼ぶのはいい?」


「今それを聞くな」


 真奈は少しだけ考えてから答えた。


「呼称については、真央くん本人が本気で嫌がる場合は控えてください」


 アイが直樹を見る。


「ダーリンって呼ばれるの、嫌?」


 直樹は固まった。


 美咲がちらりと見る。


 アリスがにやっとする。


 宙のワラ人形が前のめりになる。


「観測」


「観測するな!」


 直樹は顔を赤くしかけて、慌てて咳払いをした。


「今は議題を増やすな」


 アイはにこっとした。


「じゃあ、あとで聞く」


「あとでも聞くな」


 真奈は資料に目を戻す。


「次に、契約書内の“世界征服実習”という文言についてです」


 アイが少しだけ胸を張る。


「アタシの目標!」


「校内での世界征服活動は認められません」


「即答!」


 直樹は思わず叫んだ。


 アイはしょんぼりする。


「まだ何もしてないのに」


「今まで何回もしかけてるからだろ」


「クラス制覇とか、購買制圧とか、文化祭征服とか……」


「最後のやつはまだやってない!」


「今、言いましたね」


 真奈の声が静かに刺さる。


 アイは口を押さえた。


「しまった」


 直樹も頭を抱える。


「未来のやらかしを自白するな!」


 光がタブレットに視線を落とす。


 直樹が叫ぶ。


「白金、文化祭征服をメモるな!」


「念のためです」


「念のためで次回の火種を保存するな!」


 真奈は、光のメモを一度だけ見てから、資料に戻った。


「現時点では、昨日の案件動画未遂に関する確認を優先します。文化祭については、必要があれば別途確認します」


 直樹はうなだれた。


「別途確認の未来が見える……」


 宙のワラ人形が言う。


「次回、文化祭」


「予告するな!」


 真奈はペンを置いた。


「まとめます」


 その一言で、全員がまた少し姿勢を正す。


「本校としては、天満さんの魔界契約そのものを現時点で否定しません。ただし、その契約を理由として、真央くんの意思確認を省略することは認めません」


 アイは、真奈をじっと見た。


「ダーリンが嫌って言ったら、契約でもだめ?」


「はい」


 真奈は迷わず答えた。


「当然です」


 直樹は小さくうなずいた。


「そこは俺も全面的に同意する」


 アイは、少しだけしゅんとした。


 けれど、前みたいに言い返さなかった。


 その代わり、ゆっくりとうなずく。


「……分かった。学校では、契約よりダーリンの気持ちを聞く」


 直樹は横から言う。


「学校以外でも聞け」


「じゃあ、人間界では聞く」


「魔界でも聞け」


「魔界まで!?」


「場所で変えるな!」


 アリスが笑いをこらえる。


「悪魔ちゃん、適用範囲を狭めようとしてる」


 美咲が言う。


「そこは広げなさい」


 真奈は少しだけ目元を和らげた。


「まずは、そう理解してください」


 アイはうなずいた。


「はい。鳴海会長」


 直樹は少し驚く。


 今度は、女王とも魔王とも言わなかった。


 言えた。


 それだけで、生徒会室の空気が少しだけ軽くなる。


 だが、安心したのは一瞬だった。


 真奈は次のページを開く。


「次に、契約対象者の範囲について確認します」


 美咲がぴくっと反応した。


「え?」


 光が静かに次の資料を表示する。


『関係者欄および契約対象外者の確認』


 直樹は嫌な予感に顔をしかめた。


「今度は誰が刺されるんだ……」


 美咲がなぜか少し身構える。


 アイは首をかしげる。


 宙のワラ人形が低く告げた。


「幼なじみ、対象外」


 美咲がワラ人形をにらんだ。


「先に言わないで」


 直樹は天井を見上げた。


 やっぱり、今日はまだ終わらない。


* * *


 真奈は、契約書の写しを一枚めくった。


 そのページには、関係者欄らしきものが表示されている。


 契約者。


 実習者。


 補助者。


 観測対象。


 契約者リアクション担当。


 なぜか直樹の名前が複数回出てくる。


 直樹は見ただけで頭を抱えた。


「俺、何役やらされてるんだよ……」


 真奈は資料に目を落としたまま、静かに名前を呼んだ。


「佐藤さん」


「はい」


 美咲が背筋を伸ばす。


 いつもなら腕を組んで強気に構えるところだが、生徒会長の前では少しだけ姿勢が正しい。


 真奈は淡々と言った。


「あなたは契約対象外です」


「……それは分かってますけど」


 美咲は少し眉を寄せた。


 分かっている。


 分かっているのだが、真正面から言われると、何となく妙な気分になる。


 直樹は横から小声でつぶやく。


「契約対象外って、言われて嫌なものなのか……?」


「嫌っていうか、言い方の問題でしょ」


 美咲が即座に返す。


 真奈はさらに資料を確認する。


「幼なじみは契約書に記載されていません」


 アイが目を丸くした。


「幼なじみって契約じゃないの?」


「違う」


 直樹は即答した。


 アイは本気で驚いた顔をしている。


「でも、昔から一緒にいるんでしょ?」


「いるけど契約じゃない」


「家が近いんでしょ?」


「近いけど契約じゃない」


「お母さまたちも知り合いなんでしょ?」


「知り合いだけど契約じゃない」


「じゃあ、幼なじみって何?」


 直樹は一瞬詰まった。


 美咲も少し詰まった。


 アリスが横からにこにこしながら言う。


「説明しづらい関係性だよねー」


「にやにやするな!」


 美咲が即座に怒る。


 アイは真剣な顔で手を打った。


「分かった。じゃあ、幼なじみ契約を作れば――」


「作らない!」


 美咲の声が生徒会室に響いた。


 真奈の資料が少しだけ揺れた。


 直樹は反射的に耳を押さえる。


「美咲、ここ生徒会室」


「今のは止めるところでしょ!」


「それはそう」


 アイは不思議そうに美咲を見る。


「でも、美咲はダーリンの昔からの関係者でしょ?」


「関係者って言い方やめて」


「じゃあ、古参?」


「もっと嫌!」


「幼なじみ代表?」


「代表でもない!」


 アリスが小さく手を挙げる。


「幼なじみ契約、タイトル強いね」


「強くするな!」


 直樹が叫ぶ。


 美咲はアリスをにらむ。


「アリス、面白がらない」


「ごめんごめん。でも、“契約者VS幼なじみ契約”って、学園ラブコメ的にはかなり――」


「言わない」


「はい」


 光がタブレットを見ながら、真面目に補足した。


「校内文書上は、“長期的近隣交流関係”でしょうか」


 美咲の顔が引きつる。


「それも嫌!」


 直樹も顔をしかめた。


「俺と美咲の関係を行政文書みたいにするな」


 光は少し考える。


「では、“幼少期からの継続的友人関係”」


「悪化した!」


 アリスが笑いをこらえる。


「白金くん、言葉は丁寧なのに破壊力あるね」


「正確性を優先しました」


「正確性で青春を殺すな!」


 美咲が少し赤くなりながら叫ぶ。


 宙のワラ人形が低く言った。


「青春、対象外」


「人形まで言わないで!」


 真奈は、騒ぎが一段落するのを待ってから、静かに言った。


「いずれにせよ、佐藤さんを契約対象に含めることは認めません」


 アイは首をかしげる。


「じゃあ、美咲は自由人?」


 美咲は、なぜか少しだけ胸を張った。


「そうよ。私は契約されない」


 直樹が横から突っ込む。


「かっこよく言うことか?」


「うるさい」


 美咲はそっぽを向いた。


 けれど、その横顔は少しだけ複雑だった。


 契約されたいわけではない。


 そんなものに含まれたいわけでは、もちろんない。


 アイの悪魔契約なんて、危なっかしくて、面倒で、直樹を巻き込んでばかりで、むしろ早くどうにかしたほうがいい。


 そう思っている。


 それなのに。


 直樹とアイの間には、「契約」という名前のついたものがある。


 自分と直樹の間には、名前をつけにくいものがある。


 それだけが、ほんの少しだけ引っかかった。


 アイは美咲をじっと見ていた。


「美咲、契約されたいの?」


「されたいわけないでしょ!」


 即答だった。


 直樹も即座にうなずく。


「そりゃそうだろ」


 美咲はなぜか直樹をにらんだ。


「直樹は黙ってて」


「なんで俺まで怒られるんだよ!」


 アリスが小声で言う。


「今のは真央が悪い」


「どこが!?」


「乙女心的に」


「乙女心を裁判資料に持ち込むな!」


 真奈は淡々と資料に目を落とした。


「佐藤さんの位置づけは、契約対象ではなく、関係者および証言者とします」


 美咲はさらに渋い顔をした。


「証言者……」


 宙のワラ人形がぽつりと言う。


「証人、増えた」


「増やさないで」


 光がタブレットに入力する。


「関係者および証言協力者」


 美咲が即座に言う。


「協力するとは言ってません」


 真奈が静かに返す。


「任意です」


「任意なら……まあ、直樹だけの責任にされるのは嫌なので、言うことは言います」


 直樹は少しだけ美咲を見る。


「……助かる」


 美咲はまたそっぽを向く。


「事実を言うだけ」


 アイはそんな二人を見て、ふむふむとうなずいた。


「分かった」


 直樹は嫌な予感がした。


「何が分かった」


「幼なじみは契約じゃないけど、強い」


「変な理解をするな」


「契約書に書かれてなくても、隣にいる関係」


 美咲が一瞬だけ黙った。


 直樹も言葉に詰まる。


 アイはにこっと笑う。


「人間界、契約じゃない関係もあるんだね」


 真奈が静かにうなずいた。


「あります」


 その一言は、今日の真奈の言葉の中では、少しだけ柔らかかった。


 美咲は小さく咳払いをする。


「ま、まあ、当たり前でしょ。何でも契約にされたら困るし」


 直樹も慌てて言う。


「そうだな。俺の人生、これ以上契約欄を増やされたら困る」


 アイは真剣にうなずく。


「じゃあ、美咲は自由人で、幼なじみで、証言協力者」


「最後は消して」


 光がすぐに言う。


「文書上は残ります」


「消して!」


 アリスがくすくす笑う。


「美咲、肩書き増えたね」


「嬉しくない!」


 真奈は資料を閉じず、次のページへ視線を移した。


「では次に、天満さんの校内行動について確認します」


 アイの表情が引き締まる。


 直樹の胃も、再び引き締まる。


「次は誰が刺されるんだ……」


 美咲が小声で言った。


「今度はアイでしょ」


 アイは胸を張ろうとして、真奈の視線を受け、少しだけ背筋を正した。


「はい。聞きます」


 直樹はその様子を見て、ほんの少しだけ思った。


 今日のアイは、いつもより少しだけ、聞く気がある。


 少しだけ。


 その少しを、生徒会長の書類が逃がしてくれないことを祈るしかなかった。


* * *


 真奈は、資料の次のページを開いた。


 白い紙。


 黒い文字。


 赤い付箋。


 それだけなのに、アイは少しだけ身構えた。


 魔界の契約書なら、燃える。


 光る。


 血のようなインクがにじむ。


 たまに小さな悪魔の顔が浮かび上がる。


 けれど、人間界の書類は違う。


 静かだ。


 静かなまま、逃げ道をふさいでくる。


「次に、天満さんの校内行動について条件を提示します」


 真奈の声は、やはり怒っていない。


 怒っていないのに、怖い。


 直樹は心の中で思った。


 この人、怒鳴らずにラスボス戦の空気を作るタイプだ。


 光がモニターに条件一覧を表示する。


『天満アイさんの校内行動に関する確認事項』


 一つ目。


『魔界契約アプリを、校内システムへ無断接続しないこと』


 二つ目。


『無許可で動画・配信・案件・供物プロモーションを行わないこと』


 三つ目。


『本校生徒を契約対象として勧誘しないこと』


 四つ目。


『真央直樹さんを、本人の同意なく素材・証人・契約者代表として扱わないこと』


 五つ目。


『ドラ焼きは通常のおやつとして扱うこと』


 アイは、そこで目を見開いた。


「最後、ドラ焼きまで管理されるの!?」


 直樹は即答する。


「そこが一番まともだろ」


「ドラ焼きは供物だよ?」


「おやつだ」


「契約対価でもあるよ?」


「それはそれで嫌だけど、おやつだ」


「悪魔的には神聖な――」


「ドラ焼きを神聖化するな」


 アリスが小声で言う。


「でも“ドラ焼きは通常のおやつとして扱うこと”って、校則に載ってたら読みたくなるよね」


 美咲が即座ににらむ。


「載せなくていい」


 光はタブレットに目を落としかけた。


 直樹はすぐ叫んだ。


「白金、校則案にしない!」


「注意喚起文としては、少し柔らかい表現にできます」


「柔らかくするな! 餡子だけで十分だ!」


 宙のワラ人形が低く言う。


「餡子、重要」


「お前も乗るな!」


 真奈は、騒ぎが落ち着くのを待ってから、静かに続けた。


「天満さん」


「はい」


「特に一つ目から四つ目については、今後必ず守ってください」


 アイの尻尾が、リュックの影で少しだけ揺れた。


 いつものように元気よく「はい!」とは言わない。


 少し考えている。


 それから、アイは口を開いた。


「でも、アタシは悪魔だよ?」


 生徒会室が、少し静かになる。


 アイは、自分の胸元をぎゅっと握った。


「契約がないと、人間界で何もできない。アタシ、悪魔だもん。契約して、実習して、成果を出さないと……魔界に戻っても、また失敗したって言われる」


 直樹は、黙った。


 美咲も、言葉を飲む。


 アリスの表情から、少しだけ軽さが消えた。


 真奈は、アイから視線をそらさない。


「契約を否定しているわけではありません」


 アイは顔を上げる。


「じゃあ、何を認めないの?」


 真奈は、はっきりと言った。


「契約を理由に、他人の意思を飛ばすことです」


 アイは黙った。


 その言葉は、魔法のように派手ではない。


 雷も落ちない。


 炎も上がらない。


 けれど、まっすぐ刺さった。


 直樹は隣のアイを見る。


 第4話で、命令アプリに振り回された。


 命令すれば動かせる。


 でも、それでは意味がないと、アイは少しだけ知った。


 第5話で、謝罪配信をしようとして失敗しかけた。


 謝る相手を間違えてはいけないと、少しだけ知った。


 第6話で、案件動画に舞い上がった。


 けれど、最後には動画ではなく、普通に一緒に食べることを選んだ。


 それでも。


 まだ、足りない。


 契約があることと、相手の意思を聞かなくていいことは違う。


 その当たり前が、アイにはまだ難しい。


「……ダーリンが嫌なことは、契約でもだめ?」


 アイは、いつもより小さな声で聞いた。


 真奈は即答した。


「当然です」


 直樹もうなずく。


「そこは俺も全面的に同意する」


「全面的……」


 アイは少しだけしゅんとした。


 翼があったら、たぶん今、床まで垂れている。


「悪魔契約、難しい」


 真奈は静かに答えた。


「学校生活も難しいものです」


 直樹は思わず突っ込んだ。


「急に教師みたいなことを」


 美咲がすかさず言う。


「生徒会長でしょ」


「それはそうだけど、生徒会長ってここまで先生側だったか?」


「真奈会長はわりと先生より先生っぽいわよ」


 ベル先生がにこやかに手を挙げる。


「では、私も教師として補足を――」


 真奈が一言。


「鈴鳴先生は、今回は補足しないでください」


「はい」


「また一撃で止めた!」


 直樹は感心するしかなかった。


 ベル先生は少し残念そうに資料を見ている。


「契約と意思の衝突、教材としては非常に興味深いのだけれど」


「教材にされる側の気持ちを考えてください」


 美咲が言うと、ベル先生は「それも教育ね」と妙に納得した。


 納得されたところで安心はできない。


 宙のワラ人形がぽつりと言う。


「契約より、意思」


 アイがそれを見た。


「人形もそう思う?」


 宙が無表情に答える。


「この子はそう言っている」


 直樹は疲れた声で言う。


「人形の倫理観がまとも寄りなの、受け入れにくいな……」


 光が条件表に戻る。


「四つ目の項目について補足します。真央くんを、本人の同意なく素材・証人・契約者代表として扱わないこと」


 直樹は強くうなずく。


「そこ、赤線引いといてくれ」


「すでに引いてあります」


「仕事が早い!」


 アイは少し口を尖らせた。


「でも、ダーリンは契約者だし、いつも一緒にいてくれるし、ツッコミもしてくれるし……」


「最後が理由としておかしい」


 アリスが小声で言う。


「ツッコミ素材としての信頼性は高いよね」


「鏡野」


 美咲が名前だけで止める。


「はい」


 真奈も静かに続ける。


「ツッコミが返ってくることと、使っていいことは違います」


 直樹は深くうなずいた。


「今日の名言、二個目」


 光がわずかにタブレットへ視線を落とす。


「白金!」


「メモしていません」


「今のは絶対メモしたかった顔だ!」


「教育啓発文として有用です」


「ほら!」


 アリスが笑う。


「今日の会議、名言多いね」


「名言を生むために生きてるわけじゃない!」


 アイは、まだ少し納得しきれていない顔をしている。


 真奈はそれに気づいたように言った。


「天満さん。契約は、あなたにとって大切なものなのだと思います」


 アイは、ゆっくりうなずく。


「うん。アタシ、契約者がいないと人間界にいられないし。ダーリンが契約者だから、ここにいられる」


「はい」


「だから、契約をだめって言われたら……アタシ、どこにいたらいいか分からない」


 直樹の胸に、少しだけ引っかかるものがあった。


 アイはいつも強引だ。


 うるさい。


 騒がしい。


 迷惑。


 でも、ときどきこういう顔をする。


 自分の居場所を、契約にしがみつくことで何とか確かめているような顔。


 真奈は、資料を閉じずに、アイを見た。


「契約を理由にここにいるのだとしても、学校では学校のルールに従ってもらいます」


 アイは唇を少し噛む。


「ルールって、アタシを追い出すためのもの?」


「違います」


 真奈の返事は早かった。


「ルールは、誰か一人を追い出すためのものではありません。ここにいる全員が、できるだけ安全に過ごすためのものです」


 アイは、少しだけ目を丸くした。


「ダーリンを守るためにも?」


「はい」


 真奈はうなずく。


「真央くんを守るためにも。佐藤さんを守るためにも。天満さん自身を守るためにも」


 アイは黙った。


 美咲が小さく息を吐く。


「……そういうことよ。直樹を巻き込むなって言ってるのも、あんたを追い出したいからじゃない」


 アイは美咲を見る。


「美咲も?」


「まあ、あんたが騒ぐと面倒だけど」


「正直」


「でも、ちゃんと聞くなら、追い出したいわけじゃない」


 アイは少しだけ安心したような、でも困ったような顔をした。


「学校生活、悪魔契約より難しい」


 直樹はうなずく。


「それは俺も思う」


「ダーリンも?」


「お前が来てから、難易度が魔界級になった」


「魔界級!」


「喜ぶな」


 真奈は条件表を指で示す。


「では、確認します。天満さん」


「はい」


「無断で校内システムへ接続しない」


「はい」


「無許可で動画、配信、案件を行わない」


「はい」


「生徒を契約対象として勧誘しない」


「はい」


「真央くんを無断で素材、証人、契約者代表として扱わない」


 アイは直樹を見る。


 直樹も見る。


 アイは、少しだけ口を尖らせたあと、うなずいた。


「……はい」


 真奈は最後に言う。


「ドラ焼きは通常のおやつとして扱う」


 アイは苦しそうに胸を押さえた。


「……はい」


「そこが一番つらそうなの何なんだよ」


 直樹が突っ込む。


 アイは真剣な顔で言う。


「供物からおやつへ……位が下がった」


「下がってない。むしろ平和になった」


 アリスが小声で言う。


「“供物からおやつへ”って、特集タイトルっぽい」


 美咲が即座に言う。


「しない」


「はい」


 光が静かに言う。


「ただ、校内掲示には使いませんが、内部整理としては分かりやすい表現です」


「白金も戻ってこい!」


 真奈は、資料の欄にチェックを入れた。


「以上を、現時点での確認事項とします」


 アイは、少しだけ疲れた顔をした。


「鳴海会長」


「はい」


「ルール、守ったら、アタシは学校にいていい?」


 その問いに、部屋の空気がまた少し変わる。


 直樹も、美咲も、アリスも、光も、真奈を見る。


 真奈はすぐには答えなかった。


 代わりに、次のページをめくる。


「その判断は、後ほど行います」


 アイの肩が落ちる。


「後ほど……」


 直樹は小声で言う。


「まだ審査が続くってことだな」


「書類、長い」


「お前の契約書も長かっただろ」


「読んでない」


「読むなとは言ってないだろ!」


 真奈は資料を整え、次の書類を前に出した。


「次に、再発防止のための記入書類について説明します」


 直樹は嫌な予感で固まった。


「記入書類?」


 光が穏やかに言う。


「反省文兼再発防止計画書です」


 直樹は天井を見上げた。


「来たよ、反省文……」


 アイは青ざめる。


「ダーリン、反省文って何文字?」


 真奈は静かに答えた。


「文字数ではなく、内容を見ます」


「それが一番怖い!」


 直樹の叫びが、生徒会室に響いた。


 今回は、誰もメモしなかった。


 たぶん。


* * *


 真奈は、机の横に置かれていたクリアファイルを手に取った。


 透明なファイル。


 白い紙。


 きれいにそろった角。


 それだけなのに、アイが小さく身構える。


 直樹も、なんとなく背筋が寒くなった。


 魔界の悪魔契約書は怖い。


 でも、生徒会長が出す書類も、別の方向で怖い。


「では、次に再発防止のための書類を記入してもらいます」


 真奈が、用紙を一枚ずつ配った。


 表紙には、こう書かれている。


『校内特殊事案に関する反省文兼再発防止計画書』


 直樹は、文字を読んだ瞬間に叫んだ。


「書類の名前が長い!」


 光が穏やかに補足する。


「記入欄は三枚です」


「多い!」


「必要事項を整理すると、この量になりました」


「俺の人生、整理されると三枚になるのかよ!」


 美咲が用紙をのぞき込む。


「でも、ちゃんと書いたほうがいいわよ。口で説明するとアイ、すぐ余計なこと言うし」


「美咲、信用してない」


「してない」


「即答!」


 アイは反省文の用紙を両手で持って、じっと見つめた。


 まるで、未知の魔導書を読んでいるような顔である。


「ダーリン、これ、どこから呪文?」


「呪文じゃない。設問だ」


「設問……」


 アイは恐る恐る一問目を読む。


『今回、何が問題だったと思いますか。』


 次に二問目。


『関係者の同意は確認しましたか。』


 三問目。


『次に同様の通知が来た場合、どう対応しますか。』


 そして四問目。


『契約者を素材化しないために必要なことを書きなさい。』


 アイが顔を上げた。


「最後だけダーリン専用!」


 直樹は頭を抱えた。


「俺の心の叫びが設問になった!」


 宙が無言でワラ人形を前に出す。


 ワラ人形が低い声で読み上げた。


「契約者を素材化しない」


「読み上げるな。魂に刺さる」


 ワラ人形はさらに続ける。


「素材、だめ」


「分かってる!」


 アリスが小声で言う。


「でも、設問としては分かりやすいよね。かなり刺さる」


 美咲がにらむ。


「刺さらなくていいの」


「はい」


 光はタブレットに視線を落としかける。


 直樹がすぐに反応した。


「白金、その設問を広報文に流用しようとするな!」


「まだ何もしていません」


「“まだ”が多いんだよ、この学校!」


 ベル先生は、反省文の用紙を興味深そうに眺めていた。


「この反省文、魔界契約の制御文として使えそうね」


 真奈が即座に言う。


「使わないでください」


「まだ何もしていないわ」


「しそうなので止めました」


 直樹は思わず拍手しかけた。


「生徒会長、先生の扱いがうまい!」


 ベル先生はにこやかにうなずく。


「事前制止の精度が高いわね。研究対象として――」


「しないでください」


「はい」


「二段構えでも止めた!」


 美咲が感心している。


 アイは用紙の上でペンを握ったまま固まっていた。


「ねえ、ダーリン」


「なんだ」


「反省文って、悪魔としての誇りを保ったまま書ける?」


「まずその誇りを少し下ろせ」


「全部?」


「全部とは言わない。半分くらい」


「半分も!?」


「昨日の案件動画未遂を考えると、八割でもいい」


 アイは衝撃を受けた顔をする。


「悪魔アイ、誇り二割……」


「いや、そういう計算じゃない」


 真奈は静かに言う。


「正直に書いてください。自分をよく見せる必要はありません」


 アイは真剣にうなずいた。


「分かった。正直に書く」


 そして、ペンを走らせる。


 数秒後、用紙を掲げた。


「できた!」


「早すぎる」


 美咲が用紙を受け取って読む。


「えーっと……」


 アイの初稿。


『アタシは悪魔として正しいことをしましたが、人間界ではまだ早かったので――』


 美咲は即座に用紙を机に置いた。


「やり直し」


「なんで!?」


「一行目から言い訳」


 直樹もうなずく。


「“悪魔として正しい”を冒頭に持ってくる反省文、強すぎるだろ」


 アリスが小声で言う。


「でも出だしのインパクトはある」


「インパクトで反省文を書くな!」


 真奈は淡々と説明する。


「反省文では、まず事実と問題点を確認してください。自分が正しかったかどうかの主張は、後回しです」


 アイはむうっと唇を尖らせる。


「反省文、難しい」


「人間界は何でも難しいんだよ」


 直樹が言うと、アイはもう一度ペンを握った。


「じゃあ、次はちゃんと書く」


 二分後。


 第二稿が完成した。


 アイはやや自信なさげに差し出す。


 直樹が読む。


『ダーリンが叫んでいたので、たぶんだめでした。』


 直樹は用紙を見つめた。


 そして叫んだ。


「俺を判断基準にするな!」


 アイは驚く。


「でも、ダーリンが叫ぶときはだいたいだめなときだよ?」


「それはそうだけど!」


 真奈が冷静にうなずいた。


「その判断基準は一定程度有効です」


「有効にしないでください!」


 光が真面目に言う。


「実際、真央くんの拒否反応は、同意確認の指標として分かりやすいです」


「俺の叫びを校内基準にするな!」


 宙のワラ人形が低く告げる。


「契約者が叫んだら、止まれ」


「標語にするな!」


 アリスが少し目を輝かせる。


「それ、ポスターにできそう」


 美咲が即座に止める。


「しない」


「分かってるって。今のは、しないやつ」


 ベル先生が興味津々で言う。


「“契約者が叫んだら止まれ”は、安全標語としては優秀ね」


「先生まで!」


 真奈がペンを置く。


「安全標語化はしません」


「ありがとうございます!」


 直樹は心から感謝した。


 真奈はアイに視線を戻す。


「天満さん。真央くんが叫んでいたことは、問題に気づくきっかけにはなります。しかし、反省文では、何が問題だったのかを自分の言葉で書いてください」


 アイは少し黙った。


「自分の言葉……」


 美咲が、さっきより少しだけ柔らかい声で言う。


「昨日、直樹に言ってたでしょ。案件じゃなくて一緒に食べたいって」


 アイの表情が変わる。


 直樹は少し目をそらした。


「それを書くのか?」


「全部じゃなくていいでしょ。でも、何を間違えたかはそこにあるんじゃない?」


 アイは、もう一度用紙を見る。


 今度は少し時間をかけて、ペンを動かし始めた。


 途中で止まる。


「“素材化”って、ひらがなで書いていい?」


「漢字で書けるなら漢字で」


「書けるけど、魂が重い」


「そこは重く受け止めろ」


 アイはゆっくり書く。


 その横で、アリスが小声で光に聞いた。


「白金くん、こういう反省文って校内に残るの?」


「必要期間のみ保管されます」


「へえ。タイトルつけるなら?」


 光は少しだけ考えた。


「“悪魔ちゃん、同意確認を学ぶ”でしょうか」


「白金!」


 直樹が叫んだ。


 光は静かにタブレットを閉じる。


「業務外の発想でした」


「業務内にしないでくれ!」


 真奈は咳払いをした。


「白金くん」


「はい」


「後ほど広報文を作成する際、関係者が特定される見出しは避けてください」


「承知しました」


 アリスがにやりとする。


「会長、先読みすごい」


「鏡野さんもです」


「はい」


 アリスもすぐに黙った。


 直樹は思う。


 この部屋、真奈がいるだけで暴走が半分くらい止まる。


 すごい。


 ただし、半分しか止まらないあたり、自分たちの濃さも相当である。


 アイが三稿目を書き終えた。


 今度は、そっと用紙を真奈へ差し出す。


 真奈が読む。


 直樹も横から少しだけのぞく。


『アタシは、ドラ焼き案件をしたくて、ダーリンに一口食べてもらいました。でも、それを動画にしていいかは聞いていませんでした。ダーリンが嫌がることを、契約や案件のために使ってはいけないと思いました。次に通知が来たら、先に本人に聞きます。あと、ドラ焼きはおやつとして食べます。』


 最後の一文で、直樹は少しだけ笑いそうになった。


 でも、書いてあることは悪くない。


 真奈はうなずいた。


「この方向で続けてください」


 アイの顔がぱっと明るくなる。


「合格?」


「まだ途中です」


「途中……!」


 直樹は肩をすくめる。


「三枚あるんだろ」


「三枚……」


 アイの尻尾が、また少し下がった。


 美咲が苦笑する。


「頑張りなさい。自分でやったんだから」


「美咲、手伝って」


「文章は自分で書く」


「厳しい」


「反省文だからね」


 ベル先生がまた用紙を見ている。


「この設問、魔界契約アプリに組み込めば、次回から自動で同意確認が――」


「鈴鳴先生」


 真奈の声が飛ぶ。


「はい」


「組み込まないでください」


「まだ構想段階よ」


「構想段階で止めました」


 直樹は拍手した。


「すごい! 構想段階で止められる人、初めて見た!」


 宙のワラ人形がうなずく。


「未然防止」


「そう! 俺が求めてたのはそれ!」


 光が静かにメモする。


「未然防止」


「それはメモしていい!」


 アリスが笑う。


「真央、メモ許可出した」


「初めてだよ! 俺の平穏につながるメモだからな!」


 真奈は書類を一度そろえた。


「天満さんは、残りの設問を後ほど記入してください。今は次の確認に進みます」


 アイは用紙を大事そうに持つ。


「分かった。アタシ、ちゃんと書く」


 直樹は横目でアイを見る。


 最初の一行はひどかった。


 二稿目もだいぶひどかった。


 でも、三稿目は、少しだけまともだった。


 少しだけ。


 その少しが、今日のアイにとっては大きいのかもしれない。


 真奈は次の資料を開く。


「次は、校内への注意喚起文についてです」


 光がタブレットを持ち直す。


 アリスの目が輝く。


「見出し?」


 直樹は即座に叫んだ。


「次の火種が来た!」


 美咲がアリスを見る。


「強くしなくていいからね」


「分かってるって」


 アリスは笑った。


「弱くて読まれる見出し、考えよ」


 光が少しだけ反応する。


 真奈が静かに二人を見る。


「煽りは禁止です」


「はい」


「承知しました」


 直樹は天井を見上げた。


「このメンバーで広報文とか、絶対また揉める……」


 その予感は、たぶん正しかった。


* * *


 反省文という名の書類攻撃をひとまず乗り越えた――乗り越えたことにされたあと。


 真奈は、今度は光へ視線を向けた。


「白金くん。校内への注意喚起文案をお願いします」


「はい」


 光は待っていましたと言わんばかりに、タブレットを操作した。


 モニターに、すっと白い文書が表示される。


 余白は整い、見出しは落ち着き、文章は丁寧。


 いかにも生徒会広報が出しそうな、真面目で、無難で、読んだ瞬間に安心できる文面だった。


『校内における無許可撮影・外部アプリ連携について』


『本人同意のない出演・編集・共有は禁止します』


『校内システムへの外部アプリ接続、および宣伝・配信・案件行為には事前確認が必要です』


 直樹は、思わず手を合わせかけた。


「まともだ……」


 昨日から今日にかけて、直樹はまともな文章に飢えていた。


 魔界契約アプリの選択肢。


 案件動画の自動テロップ。


 光の内部見出し。


 真奈の反省文。


 どれもこれも、精神に刺さるものばかりだった。


 そこへ、この穏やかな注意喚起文である。


 直樹には、砂漠で見つけた給水所くらいありがたかった。


 しかし。


「でも、誰も読まなそう」


 横からアリスが言った。


 直樹は即座に振り向く。


「そこを突くな!」


 アリスは悪びれず、モニターを指さした。


「いや、真面目なのは分かるよ? 分かるけど、タイトル固いじゃん。これ、校内掲示に出ても、みんな“なんか大事そう”って思ってスルーするやつ」


 光は穏やかに答える。


「読まれる必要はありますが、煽る必要はありません」


「出た、広報の正論」


「広報ですので」


「でもさ、読まれない注意喚起って意味なくない?」


「煽って関係者を傷つける注意喚起も、意味がありません」


「真面目だ」


「広報ですので」


 同じ言葉なのに、光が言うと妙に強い。


 直樹は小さくつぶやいた。


「白金も白金で、静かに強いな……」


 アリスは腕を組み、少し考えてから、ぱっと手を上げた。


「じゃあ、アタシ案」


「嫌な予感がする」


 直樹が言うより早く、アリスは言った。


『仔悪魔案件未遂から学ぶ、同意確認の大切さ!』


 生徒会室が、数秒だけ止まった。


 直樹は机を叩きそうになった。


「俺たちを教材にするな!」


 アイは自分を指さす。


「仔悪魔ってアタシ?」


「お前以外にいないだろ」


「でも、学ぶって書いてある。アタシ、教材デビュー?」


「デビューするな!」


 美咲も額を押さえた。


「アリス、内容は間違ってないけど、巻き込み方がひどい」


「えー。でも、読まれるよ?」


「読まれればいいってものじゃないでしょ」


「そこが難しいんだよねー」


 光は、アリス案を見て、少しだけ考え込んだ。


 直樹はその反応を見逃さなかった。


「白金、考えるな!」


「見出しとしては強いですが、関係者保護の観点から不可です」


「不可にしてくれて助かったけど、“強い”って認めた!」


 アリスは得意げに笑う。


「ほら、強いって」


 光は丁寧にうなずく。


「強い見出しと、適切な見出しは別です」


「真面目だ」


「広報ですので」


「それ、決め台詞?」


「業務姿勢です」


 アリスは少し感心したように光を見る。


「白金くん、ノリは軽くないけど、言葉の扱いは分かってるんだね」


「鏡野さんも、読まれる言葉の感覚は優れていると思います」


「お、褒められた?」


「ただし、リスク管理が不足しています」


「褒めてから刺された」


 直樹はうなずく。


「今日ずっとそのパターンだな」


 アイが小さく手を上げた。


「アタシも案ある」


「お前の案が一番怖い」


 直樹が止めようとしたが、アイはもう言っていた。


『悪魔契約で学ぶ! ダーリンを勝手に素材にしない方法』


「やめろぉぉぉ!」


 直樹の叫びが生徒会室に響く。


 光がタブレットに視線を落としかけた。


 直樹は即座に指さす。


「白金、今のも保存するな!」


「タイトル構造としては分かりやすいですが、採用しません」


「採用以前に候補に入れるな!」


 美咲はアイの額を指でつついた。


「反省文を書いた直後に何言ってるの」


「反省したから、学びをタイトルに……」


「学びをダーリン呼びで包むな」


 アリスが笑いをこらえる。


「でも、“勝手に素材にしない方法”は分かりやすい」


「鏡野!」


「しない。分かってる。今のは、しないやつ」


 宙のワラ人形が低く告げる。


「素材化、禁止」


「人形まで広報標語を作るな!」


 ベル先生が興味津々で言う。


「安全教育としては、短い標語のほうが定着するわね」


 直樹はベル先生を見る。


「先生まで参戦しないでください」


「じゃあ、科学的に中立な案を」


「嫌な予感しかしない」


 ベル先生は微笑んだ。


『契約者の拒否反応を観測した場合は、ただちに利用目的を再確認しましょう』


「研究室の注意書きだ!」


「正確でしょう?」


「正確だけど俺が実験動物みたいなんです!」


 真奈が静かにペンを取った。


「皆さん」


 その一言で、全員が止まった。


 会議が一瞬で静かになる。


 真奈は、光案、アリス案、アイ案、ベル先生案を順番に見た。


 そして赤ペンを入れる。


 ざっくり削る。


 固すぎる部分を少し柔らかく。


 煽りすぎる部分を完全に削除。


 関係者が特定される単語を消す。


 悪魔、仔悪魔、ダーリン、契約者、素材、叫び、案件未遂。


 直樹の人生を構成する危険単語が、赤ペンで次々と消されていく。


 直樹は、その光景に少しだけ感動した。


「俺の被害要素が消えていく……」


 美咲が小声で言う。


「よかったわね」


「うん。赤ペンって優しいんだな」


「普通は怒られるときに使われるものだけどね」


 真奈は修正後の文面をモニターに表示した。


『校内での撮影・配信・外部アプリ連携には事前確認が必要です』


『本人の同意なく、映像・音声・発言を編集・共有することはできません』


『広報・配信・宣伝活動を行う場合は、事前に担当教員または生徒会へ確認してください』


 直樹は深く息を吐いた。


「無難だ……!」


 アリスは腕を組んで首を傾げる。


「弱い」


 真奈は、静かに言った。


「弱くてよいものもあります」


 その一言で、生徒会室の空気が少し落ち着いた。


 強い見出し。


 目立つ言葉。


 読まれる文章。


 それらは確かに大事なのかもしれない。


 けれど、すべてを強くすればいいわけではない。


 誰かを教材にしない。


 誰かの叫びを見出しにしない。


 誰かの失敗を、面白い形に整えない。


 そういう弱さも、たぶん必要なのだ。


 アリスは少しだけ黙ったあと、肩をすくめた。


「そっか。弱くていいやつもあるんだ」


「はい」


 真奈はうなずく。


「特に、関係者を守るための文書は、目立つことより正確であることを優先します」


 光も静かに言う。


「読まれる工夫は必要ですが、誰かを消費する形にはしません」


 直樹は光を見る。


「白金、今いいこと言った」


「ありがとうございます」


「でも、昨日の内部見出しは忘れてないからな」


「改善します」


「本当に頼むぞ」


 アイは、真奈をじっと見ていた。


 そして、ぽつりと言った。


「学園の女王、強い」


「生徒会長です」


 真奈は即座に訂正した。


 直樹は叫ぶ。


「三回目!」


 アイは慌てて口を押さえる。


「ごめん! でも、今のは悪い意味じゃなくて!」


「意味がよくても言葉がだめなことがあるんだよ!」


 アリスが小声で笑う。


「それ、今日のまとめっぽいね」


 光が少し反応する。


 直樹はすぐに睨んだ。


「白金」


「メモしていません」


「本当か?」


「心には留めました」


「心にも見出しを保存するな!」


 真奈は修正済みの注意喚起文を光に渡した。


「白金くん。この文面で、校内掲示と学級連絡アプリに出してください。個別の事案名は出さないように」


「承知しました」


 アリスが手を上げる。


「じゃあ、アタシの案は不採用?」


「不採用です」


「ざんねん」


 真奈は少しだけ表情を緩めた。


「ただ、読まれる工夫については、今後の広報で相談することがあります」


 アリスの目が少し輝く。


「え、マジ?」


「ただし、関係者保護と事実確認を優先します」


「そこは守る。さすがに今日学んだし」


 美咲がじとっと見る。


「本当に?」


「本当だって。今のは、ほんとに本当」


 アイが元気よく言う。


「アタシも学んだ! 強い言葉は、ダーリンが叫ぶ前に止める!」


「判断基準に俺の叫びを残すな!」


 真奈は資料をそろえる。


「では、広報文については以上です」


 直樹は椅子にもたれた。


「ようやくひとつ終わった……」


 美咲が言う。


「でも、まだ結論出てないわよね」


「言うな。分かってる」


 アイが少し不安そうに真奈を見る。


「鳴海会長」


「はい」


「アタシ、学校にいていいの?」


 生徒会室が、また少し静かになった。


 真奈は修正済みの書類を机に置き、アイを見た。


「次に、その件について判断します」


 直樹の胃が、再び重くなる。


 広報文バトルは終わった。


 だが、本日の最大の結論は、まだ残っていた。


* * *


 生徒会室に、しばし沈黙が落ちた。


 注意喚起文は決まった。


 反省文の方向性も決まった。


 悪魔契約は校則上の活動ではないと整理された。


 そして、いよいよ最後の問題が残っている。


 天満アイは、これからも鏡星学園にいていいのか。


 アイは、膝の上で両手をぎゅっと握っていた。


 さっきまでドラ焼きを供物かおやつかで本気で揺れていた仔悪魔が、今だけは静かだった。


 直樹はその横顔を見る。


 正直、騒動の原因の八割くらいはアイである。


 いや、ベル先生と宙とアプリとアリスとクラスメイトを足すと、割合はもう少し複雑になる。


 だが、それでもアイが学校からいなくなる、と考えると。


 ……それはそれで、妙に落ち着かない。


 真奈は資料を一度そろえ、机の中央に置いた。


「最終的な判断をお伝えします」


 アイの肩がぴくりと動く。


 直樹も、無意識に姿勢を正した。


 真奈は静かに告げる。


「天満さんの学園滞在は、現時点では認めます」


 アイがぱっと顔を上げた。


「本当?」


 真奈はうなずく。


「はい」


 アイの目が輝く。


 直樹も、ほんの少しだけ息を吐いた。


 美咲も、腕を組んだまま小さく肩の力を抜く。


 アリスは「おー」と小さく拍手しかけ、真奈の視線に気づいて手を止めた。


 宙のワラ人形が低く言う。


「滞在、許可」


「人形に判決を読ませるな」


 直樹が小声で突っ込む。


 しかし、真奈の言葉はそこで終わらなかった。


「ただし、条件があります」


 アイの笑顔が、ぴたっと止まる。


 直樹は額を押さえた。


「ですよね」


「当然です」


 真奈は、光に合図した。


 光がモニターに条件一覧を表示する。


『天満アイさんの学園滞在に関する条件』


 一つ目。


『校内システムへ魔界契約アプリを無断接続しないこと』


 二つ目。


『真央直樹さんを契約者代表として無断使用しないこと』


 三つ目。


『クラス活動・動画・広報・行事参加には申請を行うこと』


 四つ目。


『騒動が校内規模になった場合、生徒会預かりとする』


 直樹は、最後の一文を見て固まった。


「生徒会預かりって何ですか」


 真奈は淡々と答える。


「必要に応じて、活動範囲を生徒会管理下に置くという意味です」


「言い方を変えても怖い!」


 アイは目をぱちぱちさせる。


「つまり、アタシは学園の女王の配下?」


「違います」


 真奈は即答した。


 光が穏やかに補足する。


「監督対象です」


 直樹は頭を抱えた。


「監視する人がまた増えた……」


 アイは不思議そうに直樹を見る。


「ダーリン、監督対象って強い?」


「強くない。だいたい問題児に使う言葉だ」


「アタシ、問題児?」


 室内に、微妙な沈黙が流れた。


 美咲が気まずそうに目をそらす。


 アリスが口を開きかけて、閉じる。


 ベル先生は楽しそうに微笑む。


 宙のワラ人形が言った。


「問題児」


「人形だけ正直!」


 アイはがーんとした顔をする。


 直樹は慌てて言った。


「いや、まあ、問題は起こしてるけど、悪気だけでやってるわけじゃないのは分かってるから」


 アイは直樹を見た。


「ダーリン……」


「でも問題は起こしてる」


「追撃!」


 美咲がため息をつく。


「でも、これで少しは落ち着くんじゃない?」


 直樹は即座に顔を上げた。


「その台詞、だいたい次の騒動の前振りなんだよ」


「そんなことないでしょ」


「ある。俺の人生ではある」


 アリスが笑う。


「たしかに、真央の周りって、落ち着くって言った次の瞬間に何か来るよね」


「笑いながら分析するな」


 ベル先生が、そこで何気ない口調で言った。


「文化祭も近いしね」


 全員が、ベル先生を見た。


 直樹はゆっくりと言う。


「今、何て?」


 ベル先生はにこやかに首をかしげる。


「来月、文化祭準備が始まるでしょう?」


 生徒会室の空気が変わった。


 直樹にとっては、地雷原に新しい看板が立った瞬間だった。


 アイの目が、きらきらと輝き始める。


「文化祭……」


 直樹はすぐにアイを見る。


「やめろ。その顔をするな」


「学校全体イベント……」


「やめろ」


「クラスで出し物……」


「やめろ」


「みんなで準備……」


「そこまではいい」


「学校全体を合法的に征服できる日?」


「そこがだめ!」


 真奈が即答する。


「できません」


 直樹は思わず叫んだ。


「即答!」


 アイはむうっと頬を膨らませる。


「まだ何もしてないのに」


 美咲が冷静に言う。


「今、言ったでしょ。征服って」


「言葉だけ!」


「その言葉が一番危ないのよ」


 アリスは楽しそうに指を立てる。


「でも文化祭なら、悪魔喫茶とか、契約おみくじとか、魔界風ドラ焼き屋とか、企画としては――」


 真奈の視線がアリスへ向いた。


 アリスはすぐに両手を上げる。


「申請前提。無許可ではやらない。見出しもまだ作らない」


「まだって言った!」


 直樹が叫ぶ。


 光は静かにタブレットへメモを入れる。


「文化祭関連企画については、事前申請を徹底する必要がありますね」


「白金、今から備えるな! いや、備えてくれ! どっちが正解だこれ!」


 宙のワラ人形が低く言う。


「文化祭、火種」


「予告するな!」


 ベル先生は楽しそうに笑う。


「文化祭は教育活動としても大切よ。生徒が主体的に企画し、準備し、責任を学ぶ機会だもの」


「先生が言うと急に危険な実験計画に聞こえるんですけど」


「失礼ね。まだ何も設計していないわ」


「“まだ”が怖い!」


 真奈は資料に新しい付箋を貼った。


「文化祭については、後日正式な案内を出します。天満さん、行事参加にも申請と許可が必要です」


 アイは真剣にうなずく。


「分かった。申請する」


 直樹は少し安心しかけた。


 しかしアイは続けた。


「学校全体を征服する申請書」


「そんな申請書はない!」


 真奈も即座に言う。


「ありません」


 アイは首をかしげる。


「じゃあ、作る?」


「作りません」


 真奈の即答二連撃。


 アリスが小声で笑う。


「会長の即答、強い」


 美咲も頷く。


「本当に強いわね」


 アイは感心したように真奈を見る。


「鳴海会長、悪魔より契約に厳しい」


「契約ではなく、校則と申請です」


「校則と申請、強い」


「そこは覚えておけ」


 直樹は心から言った。


 真奈はアイへ視線を向ける。


「天満さん」


「はい」


「あなたが学校にいること自体を、今すぐ否定するつもりはありません。ただし、ここはあなた一人の実習場所ではありません」


 アイは、少しだけ表情を引き締めた。


「みんなの学校」


「はい」


「ダーリンの学校でもある」


「そうです」


 直樹は少しだけ目をそらした。


 真奈は続ける。


「だから、学校で何かをしたいなら、周囲の人の意思を確認してください。ルールを守ってください。申請が必要なものは、申請してください」


 アイは、ゆっくりうなずいた。


「分かった。アタシ、ちゃんと聞く。ちゃんと申請する。たぶん」


「たぶんを外してください」


「……ちゃんと申請する」


 直樹は小さく息を吐いた。


「よし」


 美咲も、少しだけ安心したように笑う。


「今日のところはね」


「今日のところは、って言うな」


 アリスが明るく言う。


「でも、文化祭は楽しみじゃん? ちゃんと申請すれば、なんかできるかもだし」


「お前が言うと安心と不安が同時に来る」


 光が穏やかに言う。


「文化祭企画については、申請前に相談していただければ、表現や告知の調整は可能です」


「白金がいると助かるのか、見出しで刺されるのか、まだ判断に迷う」


「改善します」


「本当に頼む」


 真奈は最後に、資料の一番上へ判を押した。


 ぽん、と乾いた音がする。


 ただの確認印。


 だが、アイはそれを見て、目を輝かせた。


「それ、許可の印?」


「確認印です」


「契約成立?」


「違います」


「校則契約?」


「違います」


「ダーリン、違うこと多い」


「お前が混ぜすぎなんだよ」


 真奈は資料を閉じた。


「本日の確認は、以上です」


 直樹は椅子の背もたれに沈み込んだ。


「終わった……」


 アイは小さく、でも嬉しそうに笑った。


「アタシ、学校にいていいんだ」


 その声だけは、少しだけ素直だった。


 直樹はそれを聞いて、言葉を探す。


 結局、いつものようにしか言えなかった。


「条件付きだけどな」


「うん。条件付きでも、いる」


 アイはそう言って、直樹を見る。


「ダーリンもいるし」


 美咲が微妙な顔をした。


 アリスがにやっとした。


 宙のワラ人形が何か言おうとした。


 直樹は先に叫んだ。


「何も言うな!」


 真奈は少しだけ目を伏せ、資料を整えた。


「では、皆さん。今後はくれぐれも、校内規模の騒動を起こさないように」


 直樹は力なく笑った。


「努力します」


 アイも元気よく言う。


「努力する!」


 ベル先生もにこやかに言う。


「努力するわ」


 直樹はベル先生を見た。


「先生が一番信用できない!」


 真奈は静かにベル先生を見た。


「鈴鳴先生も、お願いします」


「はい」


 その返事だけは、きれいだった。


 ただし、直樹は知っている。


 この場できれいな返事ができる人ほど、次の騒動で変な機材を持ってくる。


 そして、アイはすでに窓の外を見ていた。


 その目は、文化祭の文字を空に見ている。


 直樹は頭を抱えた。


「……絶対、次で何か起きる」


 宙のワラ人形がぽつりと言う。


「次回、文化祭」


「だから予告するなぁぁぁ!」


 生徒会室に、直樹の叫びが響いた。


 光はメモしなかった。


 たぶん。


 たぶん、である。


* * *


 その日の夜。


 真央家のリビングには、いつもより少しだけ静かな時間が流れていた。


 テーブルの上には、夕食の皿。


 湯気の残るお茶。


 そして、直樹の前には一枚の紙。


『校内特殊事案に関する反省文兼再発防止計画書』


 その写しである。


 直樹は、それを眺めながらぐったりしていた。


「高校生って、もっとこう……英単語とか数学のプリントとかで疲れるものじゃなかったか……?」


 隣では、アイが別の紙を両手で持っていた。


『天満アイさんの学園滞在に関する条件』


 真奈が出した条件リストである。


 アイは、真剣な顔で一行ずつ読んでいた。


「校内システムへ魔界契約アプリを無断接続しないこと……」


「まずそれを覚えろ」


「真央直樹さんを契約者代表として無断使用しないこと……」


「そこも大事だ」


「クラス活動・動画・広報・行事参加には申請を行うこと……」


「特に行事な」


「騒動が校内規模になった場合、生徒会預かりとする……」


 アイは顔を上げた。


「ダーリン、生徒会預かりって、やっぱり学園の女王の地下牢?」


「違う。あと女王じゃない」


「地下書類室?」


「それはありそうで怖いけど違う」


 直樹は湯のみを持ち、深いため息をついた。


 今日一日で、悪魔契約より校則のほうが強い場面を何度も見た。


 いや、正確には校則そのものというより、鳴海真奈が強かった。


 真奈は魔法を使わない。


 角もない。


 尻尾もない。


 だが、資料と赤ペンと正論で、悪魔も先生もアリスも止めた。


 ある意味、この学園で一番危険な存在かもしれない。


 アイは条件リストを見つめたまま、ぽつりと言った。


「ダーリン、学校のルールって難しいね」


「悪魔契約よりは読める」


「でも、読めても難しい」


「まあ、それは分かる」


 アイは、少しだけ紙を下げた。


「でも、ルールって、ダーリンを守るためにもあるんだね」


 直樹は黙った。


 今日、真奈ははっきり言った。


 学校内では、契約者である前に本校生徒。


 授業を受ける権利。


 平穏に学校生活を送る権利。


 正直、平穏という単語が自分に適用されるものだと、久しぶりに思い出した。


「まあ、今回はそうだったな」


 直樹が答えると、アイは少し笑った。


「じゃあ、アタシも守る」


 直樹は半眼で見る。


「本当だな?」


「うん。たぶん」


「たぶんをやめろ」


「じゃあ、できるだけ」


「弱くなった!」


「悪魔、努力する」


「そこは普通に“守る”って言え」


 アイは条件リストを胸に抱えた。


「守る。ダーリンが叫ぶ前に止まる」


「だから俺の叫びを基準にするな」


「でも、分かりやすいよ?」


「分かりやすさで俺を警報装置にするな」


 アイはくすっと笑った。


 その顔を見て、直樹は少しだけ肩の力を抜く。


 今日のアイは、ちゃんと怒られた。


 ちゃんと反発した。


 ちゃんと少しだけ考えた。


 そして、ちゃんと少しだけ変わろうとしている。


 少しだけ。


 この少しが、次の騒動で吹き飛ばないことを祈りたい。


 そう思った瞬間。


 直樹のスマホが鳴った。


 ぴこん。


 その音だけで、直樹の背筋が固まる。


「……嫌な音がした」


 アイがのぞき込む。


「学級連絡アプリ?」


「このタイミングで鳴るなよ……」


 直樹は恐る恐るスマホを開いた。


 画面には、新しい通知。


『文化祭実行委員会からのお知らせ』


『各クラスは出し物案を提出してください』


『詳細は明日のホームルームで説明します』


 アイの目が、ぱあっと輝いた。


「ダーリン!」


「待て」


「公式イベントだよ!」


「待てって言った!」


「学校が認めたイベント!」


「まだ何も認めてない!」


「クラス活動!」


「申請が必要なやつだ!」


「出し物案!」


「案の段階で止めたい!」


 直樹はスマホを握りしめた。


「嫌な予感しかしない!」


 アイはソファから立ち上がり、拳を握った。


「文化祭……学校全体イベント……みんなで準備……合法的に目立てる……」


「最後の言い方がすでにアウトだ!」


 アイの背後に、なぜか赤黒い魔界風の光が見えた気がした。


 直樹は目をこする。


 幻覚だ。


 きっと疲れているだけだ。


 しかし、アイの瞳は完全に次の騒動を見ていた。


 ――そのとき。


 どこからともなく、重々しいナレーションが響く。


 生徒会長の審判を乗り越えた仔悪魔アイに、新たなる舞台が与えられる。


 それは、学校全体を巻き込む巨大イベント。


 文化祭。


 教室を支配せよ。


 廊下を飾れ。


 模擬店を制覇せよ。


 供物を売りさばけ。


「売りさばくな!」


 直樹がナレーションに突っ込んだ。


 だが、アイはもう止まらない。


「悪魔喫茶!」


「やめろ」


「契約おみくじ!」


「やめろ」


「魔界風ドラ焼き屋!」


「ドラ焼きから離れろ!」


「全部やろう!」


「全部やるな!」


 アイは勢いよくテーブルの上に紙を広げた。


 白紙。


 まだ何も書かれていない。


 しかし、直樹には見えた。


 そこに未来の騒動がびっしり書き込まれていく光景が。


「ダーリン、まずは企画書!」


「お前、今日“申請”を覚えた瞬間に悪用しようとしてないか?」


「悪用じゃないよ。正式手続き」


「正式手続きって言えば何でも通ると思うな!」


 アイはペンを握る。


「出し物名。悪魔喫茶・契約おみくじ・魔界風ドラ焼き屋合同企画――」


「長いし危険だし食中毒対策が見えない!」


 すると、直樹の脳裏に真奈の幻影が浮かんだ。


 まっすぐな姿勢。


 静かな表情。


 手には、厚い書類。


『申請書を出してください』


 直樹は頭を抱えた。


「幻影まで書類を持ってくるな!」


 幻影の真奈は、さらに一枚紙を差し出す。


『食品提供を伴う場合は、別途確認が必要です』


「細かい!」


 アイは直樹の様子を見て首をかしげる。


「ダーリン、どうしたの?」


「未来の生徒会長が見えた」


「予知?」


「胃痛だ」


 そこへ、二階から遊羅の声がした。


「お兄ちゃん、次は文化祭編?」


「家族まで予告するな!」


 キッチンから真実がのんびり言う。


「文化祭なら、お弁当作りの練習にもなるわね」


「母さんまで参戦しないで!」


 アイは、白紙に大きく文字を書き始めた。


『文化祭を世界征服せよ!』


 直樹はその文字を見て、全力で叫んだ。


「だから征服するなって生徒会長に言われただろぉぉぉ!」


 アイは満面の笑顔で振り返る。


「第8話、文化祭を世界征服せよ!」


「本当の次回タイトルみたいに言うな!」


 だが、もう遅い。


 文化祭実行委員会の通知は届いた。


 アイの目は輝いた。


 直樹の胃は沈んだ。


 生徒会長の条件付き許可は、早くも試されようとしている。


 次回。


『文化祭を世界征服せよ!』


 ――なお、申請書の提出期限は、明日の放課後までである。


「早い! 締め切りまで攻めてくるなぁぁぁ!」


 直樹の叫びが、真央家の夜に響いた。

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