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第6話_悪魔案件はドラ焼きの香り!

 今夜ご紹介するのは、魔界実習管理局公認。


 悪魔も認めた、究極の供物。


 甘く、丸く、契約者の心を縛り、仔悪魔の胃袋を一撃で支配する、人間界の奇跡――。


 その名も、ドラ焼き。


 ぱあああああっ、と妙に明るい照明がついた。


 そこは、黒背景の謝罪スタジオではない。


 白いテーブル。


 きらきら光る商品台。


 意味もなく回転する皿。


 背後には、天使の羽みたいな照明と、悪魔の角みたいな装飾が同時に置かれている。


 中央には、山積みのドラ焼き。


 そして、その前に立つのは、満面の笑みを浮かべた仔悪魔見習い・天満アイである。


「このドラ焼き、悪魔的においしいよ!」


「案件で“悪魔的”って言うな!」


 商品台の下から、真央直樹が飛び出した。


 なぜそこにいたのか。


 それは知らない。


 通販番組の世界では、ツッコミ役はだいたい変なところから出てくるものだからだ。


 ナレーションは気にせず続ける。


 いまならなんと、契約者の魂のツッコミつき。


「俺を特典にするな!」


 さらに、魔界実習管理局からの評価ポイントも加算対象。


 仔悪魔見習いの成長を支える、安心安全の供物プロモーション。


「安心安全の前に、魔界実習管理局って文字列がもう不安なんだよ!」


 アイはドラ焼きをひとつ手に取り、カメラ目線でにっこり笑う。


「外はふわふわ、中はしっとり。ひと口食べれば、契約者も思わず同意ボタンを押したくなる味だよ!」


「ドラ焼きで同意を誘導するな!」


 ナレーションは、さらに声を張った。


 ご契約は簡単。


 画面下の同意ボタンを押すだけ。


 初回登録で、仔悪魔ちゃんの供物レビューを毎週お届け。


「案件で契約させるな! しかも悪魔契約のノリを混ぜるな!」


 アイはきょとんと首をかしげた。


「でもダーリン、案件も契約も、だいたい同意ボタン押すんじゃないの?」


「そこで現代社会の闇を突くな!」


 画面端に、魔界文字のテロップが流れる。


『これは広告です』


『これは供物です』


『これは実習です』


『これは契約者のリアクション込みの商品価値です』


「最後だけ俺の人権が消えてる!」


 アイは、ドラ焼きをもうひとつ手に取る。


「今なら百個セットで、世界征服計画書もついてくるよ!」


「つけるな!」


「さらに、ダーリンのツッコミ音声素材も――」


「売るな!」


 ぴこん。


 画面に大きなボタンが表示された。


『今すぐ案件に参加する』


『あとで案件に参加する』


『参加したことにする』


「三つ目ぇぇぇ!」


 直樹の叫びがスタジオに響いた瞬間、照明が消えた。


 通販番組は終わった。


 現実に戻る。


 真央家の朝。


 直樹は自室のベッドの上で、スマホを握りしめたまま固まっていた。


 昨日の夜から、画面には同じ通知が残っている。


『魔界実習管理局から通知があります』


『次回実習課題:案件動画による供物プロモーション』


『契約者同席推奨』


『ドラ焼き持参可』


 直樹は、無言でスマホを伏せた。


「見なかったことにしたい」


 床に座っていたアイが、ぱあっと目を輝かせる。


「ダーリン、ドラ焼き案件だよ!」


「見なかったことにさせろ!」


「だって、ドラ焼き持参可って書いてあるよ?」


「そこに希望を見出すな!」


 アイはスマホをのぞき込もうとする。


 直樹は枕で画面を隠した。


「だめだ。見るな。読めば読むほど悪魔契約っぽい穴に落ちる」


「でも、実習課題だよ?」


「課題なら学校で出してくれ。魔界から朝イチで送るな」


「魔界は時差があるのかも」


「時差以前に世界が違う!」


 スマホがまた鳴った。


 ぴこん。


『案件説明を確認しますか?』


 選択肢が表示される。


『確認する』


『あとで確認する』


『確認したことにする』


『出演したことにする』


 直樹は画面を見て、顔をひきつらせた。


「最後の選択肢が怖すぎる」


 アイはわくわくした顔で手を伸ばす。


「ダーリン、確認だけなら大丈夫だよ」


「その“大丈夫”はベル先生と同じくらい信用できない」


「アタシ、今日はちゃんとお願いするもん。押していい?」


「だめ」


「お願いしても?」


「内容による」


「じゃあ、内容。ドラ焼き案件を見るだけ」


「見るだけで参加扱いされる未来が見える」


 アイは少しだけ頬をふくらませた。


「でも、アタシが案件できたら、実習評価が上がるかもしれないんだよ?」


 直樹は言葉に詰まった。


 ずるい言い方だ、と思った。


 けれど、アイがそれを計算して言っていないことも分かる。


 落ちこぼれの仔悪魔見習い。


 世界征服に失敗し、カップラーメンに封印され、人間界で何をやってもだいたい騒動になる。


 そのアイにとって、魔界実習管理局からの課題は、たぶん無視できないものなのだ。


 ただし、だからといって直樹の生活がスポンサー枠に入っていい理由にはならない。


「……見るだけだぞ」


「うん!」


「絶対に同意するな」


「うん!」


「ドラ焼き百個とか出ても押すな」


「う、うん!」


「今、迷ったな」


「一瞬だけ!」


「その一瞬で人生が終わるんだよ、悪魔契約は!」


 アイは、そっとスマホに指を近づけた。


 直樹は横から画面をにらむ。


 その瞬間、アプリが勝手に開いた。


『閲覧を確認しました』


『案件参加意思ありと判断します』


 直樹は叫んだ。


「見るだけって言っただろぉぉぉ!」


 アイは両手を上げて弁解する。


「アタシまだ押してない!」


「押してなくても同意扱いするな! 悪魔よりアプリが悪魔的だ!」


 階下から、母・真実の声がした。


「直樹、朝から元気ねえ。今度は何?」


 続いて、遊羅の明るい声。


「お兄ちゃん、また配信者になるの?」


「ならない!」


 アイはにこにこしながら、伏せられたスマホを見つめている。


「ダーリン、案件って楽しそうだね」


「楽しくない」


「ドラ焼き食べられるよ?」


「そこだけは少し楽しい」


「じゃあ――」


「でも出ない!」


 直樹はスマホを鞄の奥に押し込んだ。


 だが、通知音はまだ小さく鳴っている。


 ぴこん。


 ぴこん。


 ぴこん。


 まるで、魔界のどこかにある実習管理局が、こちらの逃げ道を塞ぐように。


『契約者同席推奨』


『ドラ焼き持参可』


『リアクション評価対象』


 直樹は鞄を抱えて、深く息を吸った。


「……学校でベル先生と宙に見せる。解析してもらう」


 アイは目を輝かせた。


「じゃあ、学校にドラ焼き持っていく?」


「持っていかない」


「でも、持参可――」


「可は義務じゃない!」


 こうして、謝罪配信を回避した翌朝。


 真央直樹の平穏は、今度はドラ焼きの甘い香りをまとって、案件動画という名の火種に包まれようとしていた。


* * *


 真央直樹は、スマホをにらんでいた。


 ベッドの上。


 制服に着替える前。


 朝食の匂いが階下から漂ってくる、普通なら一日の始まりとしてはわりと平和な時間である。


 ただし、スマホ画面に表示されているものが普通ではなかった。


『魔界実習管理局から通知があります』


『次回実習課題:案件動画による供物プロモーション』


『契約者同席推奨』


『ドラ焼き持参可』


「消えろ」


 直樹は通知を横に払った。


 消えなかった。


「消えろ」


 もう一度払った。


 消えなかった。


「消えろって言ってるだろ」


 三度目。


 通知は、むしろ丁寧に大きくなった。


『案件説明を確認しますか?』


 画面に選択肢が並ぶ。


『案件説明を見る』


『あとで案件説明を見る』


『見たことにする』


『出演したことにする』


 直樹は絶句した。


「最後の選択肢が一番怖い!」


 床に正座していたアイが、ぴょこんと身を乗り出す。


「ダーリン、案件説明見る?」


「見ない」


「見るだけなら平気だよ」


「昨日、見るだけで人生がひどい目に遭うことを何回経験したと思ってるんだ」


「えっと……三回くらい?」


「数えるな。もっとある」


 アイはスマホ画面をのぞき込み、目を輝かせた。


「でも、ドラ焼き持参可だよ?」


「そこだけ読んで判断するな」


「供物プロモーションだよ?」


「言葉がもう嫌なんだよ」


「案件だよ?」


「俺は案件になりたくない」


 直樹はスマホを裏返した。


 すると、裏返した画面がぴこんと鳴った。


『未確認の案件説明があります』


「裏返しても追ってくるな!」


 アイは少しだけ困った顔をした。


 さっきまでの、ドラ焼き案件に浮かれる顔とは違う。


「でも、実習課題だよ。見なかったらアタシ、また評価下がるかも」


 直樹の手が止まった。


 その言い方はずるい。


 だが、たぶんアイはずるいと思って言っていない。


 魔王だの案件だの世界征服だの、毎回とんでもない言葉を持ち込んでくるが、アイはアイなりに焦っている。


 魔界で落ちこぼれ扱いされて。


 カップラーメンに封印されて。


 人間界でも失敗ばかりして。


 ようやく届いた実習課題を、何もしないで無視するのは、きっと怖いのだ。


 直樹は大きく息を吐いた。


「……見るだけだぞ」


 アイの顔がぱっと明るくなる。


「うん!」


「絶対に同意するな」


「うん!」


「押すな」


「押さない!」


「“押してないけど同意したことになった”も禁止」


「それはアプリに言って!」


「言って通じるアプリなら苦労してない!」


 直樹はスマホを表に戻した。


 画面には、相変わらず四つの選択肢が並んでいる。


 直樹は一番上の『案件説明を見る』を、指先で慎重に押そうとした。


 その瞬間。


 画面が勝手に切り替わった。


『閲覧を確認しました』


『案件参加意思ありと判断します』


 直樹は叫んだ。


「見るだけって言っただろぉぉぉ!」


 アイは両手を上げる。


「アタシ押してない! まだ押してない!」


「じゃあ誰が押したんだよ!」


 スマホが涼しい顔で、次の文面を表示する。


『契約者による注視を確認』


『前向きな関心として記録します』


「見るだけで前向き扱いするな!」


「ダーリン、前向きだったの?」


「後ろ向きだ! 全力で後ろ向きだ!」


 さらに通知が出る。


『案件参加に向けた準備リストを表示します』


『推奨持参物:ドラ焼き』


『推奨同席者:契約者』


『推奨リアクション:魂のツッコミ』


「俺の魂を推奨するな!」


 アイは、少しだけ首をかしげる。


「魂のツッコミって、ダーリンのいつものやつ?」


「いつもの扱いするな。あれは悲鳴だ」


「悲鳴も評価対象なんだね」


「評価される悲鳴ほど嫌なものはない!」


 階下から、真実の声がした。


「直樹ー。朝ごはんできたわよー。アイちゃんも降りてらっしゃい」


「はーい!」


 アイが元気よく返事をする。


 その直後、真実が続けた。


「あら、今度はお仕事?」


 直樹は固まった。


「母さん、何で分かるんだよ」


「だって、案件って聞こえたから」


「聞こえた単語を家庭内に受け入れるな!」


 さらに、廊下から遊羅が顔を出す。


 寝ぐせのついた髪のまま、目だけはきらきらしている。


「お兄ちゃん、案件デビュー?」


「デビューしない!」


「じゃあ、アイちゃんが案件デビュー?」


「それもさせない!」


 遊羅はスマホ画面をのぞこうとする。


「ドラ焼き案件?」


「家族そろってドラ焼きだけ拾うな!」


 アイは胸を張った。


「遊羅ちゃん、アタシ、魔界実習管理局公認の供物プロモーションに挑戦するかもしれないんだよ!」


「すごい! よく分からないけど、肩書きが長い!」


「長い肩書きはだいたい危険なんだよ!」


 真実が階下から、のんびりと言う。


「お仕事なら、ちゃんとご挨拶しないとねえ」


「挨拶の前に未成年と悪魔の案件倫理を確認してくれ!」


「直樹、難しい言葉を使う前に朝ごはん食べなさい」


「朝ごはんで解決する問題じゃない!」


 スマホがまた鳴る。


『案件準備を開始しますか?』


 選択肢。


『開始する』


『あとで開始する』


『開始したことにする』


『契約者が叫んでいるので開始する』


「俺の叫びを起動条件にするな!」


 直樹は慌ててスマホをロックした。


 画面は暗くなった。


 今度こそ静かになった。


 ……かと思ったら、暗い画面に赤い魔界文字が浮かんだ。


『ロック中も実習は進行します』


「進行するな!」


 アイは、さすがに少し不安そうになった。


「ダーリン、どうしよう」


「どうしようじゃない。学校でベル先生と宙に見せる」


「ベル先生に?」


「危険だけど、アプリ解析ならあの人しかいない」


「宙にも?」


「危険だけど、魔界反応を読むならあいつしかいない」


 遊羅がにこにこする。


「お兄ちゃん、危険な人に頼るの得意だね」


「得意になりたくなかった!」


 真実が階下から言う。


「じゃあ、お弁当にドラ焼き入れておく?」


「入れないで!」


「一個くらい?」


「一個でも案件の燃料になる!」


 アイは小さく手を挙げた。


「でも、持参可だよ?」


「可は義務じゃない!」


 直樹は鞄にスマホを押し込み、深く息を吐いた。


 朝から、すでに一日分疲れた気がする。


 昨日、謝罪配信を回避した。


 訂正文も出した。


 アイもちゃんと謝った。


 少しは平和になると思った。


 甘かった。


 ドラ焼きより甘かった。


「いいか、アイ」


「うん」


「今日は案件説明を見るだけ。撮影しない。投稿しない。俺をリアクション担当にしない。ドラ焼きで世界征服しない」


「最後はちょっと関係なくない?」


「お前の場合、全部関係ある!」


 アイは真剣な顔でうなずいた。


「分かった。今日は見るだけ」


「絶対だぞ」


「うん。たぶん」


「たぶんをやめろぉぉぉ!」


 こうして、真央家の朝は、また直樹の叫びで始まった。


 案件通知からは、まだ逃げられていない。


* * *


 真央家を出て、三分。


 直樹はすでに帰りたかった。


 理由は簡単である。


 隣を歩く仔悪魔見習いが、朝からずっと「案件」という単語を、まるで新しい魔法の呪文みたいに唱えているからだ。


「案件、案件、ドラ焼き案件……」


「唱えるな。不吉な召喚が始まりそうだ」


「ダーリン、案件って、契約と何が違うの?」


 アイは真剣な顔で聞いてきた。


 こういうときだけは、妙に素直である。


 直樹は鞄を持ち直しながら、ため息まじりに答えた。


「契約は約束。案件は仕事とか依頼。……いや、悪魔契約と混ぜるなよ」


「約束と依頼……」


 アイはうんうんとうなずく。


「つまり、ドラ焼きを褒めたら、ドラ焼きがもらえる?」


「だいぶ雑だけど、そういう場合もある」


「最高じゃん!」


「最高じゃない」


 直樹は即座に止めた。


「宣伝には責任があるんだよ。適当に褒めたらだめだし、広告なら広告って分かるようにしなきゃいけないし、勝手に人を巻き込んだらもっとだめだ」


「広告って、悪魔で言うと誘惑?」


「その言い換えがもう危険なんだよ!」


「じゃあ、正しい誘惑?」


「正しく誘惑するな!」


 アイは首をかしげる。


「でも、人間界ってすごいね。ドラ焼きを褒めるだけで仕事になるなんて」


「褒めるだけじゃない。ちゃんと紹介するんだ」


「紹介……」


 アイは、通学路の先にあるコンビニを見た。


「あそこが供物交換所で、ドラ焼きが神聖供物で、アタシが悪魔案件者で、ダーリンが魂のツッコミ担当」


「俺の担当を勝手に決めるな」


「じゃあ、契約者同席推奨担当」


「もっと嫌だ!」


 そのとき、後ろから聞き慣れた声が飛んできた。


「朝から何の担当決めてるのよ」


 佐藤美咲だった。


 バスケ部の朝練がない日なのか、今日は普通に鞄を肩にかけて歩いている。


 ただし、直樹とアイを見た瞬間、表情がすでに嫌な予感で固まっていた。


「美咲……」


 直樹は助かったような、巻き込んで申し訳ないような顔をした。


 アイはぱっと手を振る。


「おはよう、美咲! アタシ、案件を勉強してるの!」


「謝罪の翌日に案件って、順番おかしくない?」


「俺もそう思う!」


 直樹は全力で同意した。


「昨日は謝罪配信を止めて、訂正文を出して、やっと一段落したと思ったら、今朝これだぞ」


 直樹はスマホを見せる。


 画面には、まだしつこく通知が残っている。


『案件動画による供物プロモーション』


『契約者同席推奨』


『ドラ焼き持参可』


 美咲は一秒で眉間にしわを寄せた。


「うわ、最悪」


「だろ?」


「ドラ焼き持参可ってところに、アイが食いつくのも分かるけど」


「分からないでくれ」


 アイは少しむくれる。


「でも、魔界実習管理局からの課題だし……」


 美咲の目が、少しだけ鋭くなった。


「課題でも、直樹を巻き込んでいい理由にはならないでしょ」


 アイは言葉に詰まった。


「……う」


「昨日、何を謝ったの?」


「ダーリンを素材にしないって……」


「じゃあ、案件でも素材にしない」


「でも、契約者同席推奨って」


「推奨は命令じゃない」


 美咲がぴしゃりと言う。


 直樹は思わず横から口を挟んだ。


「おお……朝からまともな大人みたいなことを」


「同級生よ」


「頼もしすぎて年上に見えた」


「それ、褒めてる?」


「半分くらい」


「半分は?」


「怖い」


「殴るわよ」


「もう怖い!」


 アイは、スマホの通知をじっと見た。


 さっきまでのきらきらした顔ではない。


 少し迷っている顔だった。


「アタシ、評価が下がるのは嫌だけど……ダーリンが嫌なのに出てもらうのも、だめなんだよね」


「そう」


 美咲は短く答えた。


 直樹は頭をかいた。


「とりあえず、学校でベル先生と宙に見せる。ただし、撮影はしない」


「ベル先生に見せる時点で、かなり危ない気がするけど」


 美咲が言う。


「俺もそう思う。でも、魔界契約アプリを解析できる危険人物が、あの人しかいない」


「危険人物って分かってて頼るの、どうなの」


「他に選択肢がないんだよ!」


 アイが手を挙げる。


「宙にも見せるの?」


「見せる。魔界反応とか、署名とか、その辺を見られるのは宙だからな」


「宙、アタシより悪魔っぽいときあるよね」


「否定はしない」


 通学路の向こうに、鏡星学園の校舎が見えてきた。


 普通の高校のはずなのに、直樹には今朝だけ巨大な契約書に見えた。


 校門が同意ボタンに見える。


 廊下が利用規約に見える。


 教室が配信スタジオに見える。


 だいぶ重症である。


「ダーリン」


「なんだ」


「撮影なしで案件できる?」


 直樹は足を止めた。


 美咲も足を止めた。


 二人は同時にアイを見る。


 アイは本気で聞いている顔だった。


 直樹は深々と息を吸う。


「できないからやらないんだよ!」


「そっか!」


「そこで納得するな! 最初から納得してくれ!」


 美咲は額を押さえた。


「今日も長くなりそうね」


「まだ登校中なんだけどな……」


 直樹は空を見上げた。


 青空だった。


 こんなに晴れているのに、彼の一日はもう案件曇りである。


 アイはその隣で、少しだけ小さな声で言った。


「でも、もしダーリンが嫌じゃない形があったら……そのときは、お願いしてもいい?」


 直樹は、すぐに否定しようとして、少しだけ止まった。


 第5話で、アイはちゃんと謝った。


 今も、前よりは直樹の嫌がり方を気にしている。


 だから、直樹も雑には切り捨てられなかった。


「……内容による」


 アイはぱっと笑った。


「出た、ダーリンの便利な言葉」


「便利だから使ってるんだよ」


 美咲が横からため息をつく。


「甘いわね、直樹」


「甘くない。ドラ焼きよりは甘くない」


「比較対象がもう負けてる」


 アイは楽しそうに一歩前へ出る。


「じゃあ、まずはベル先生と宙に相談だね!」


「撮影はしないからな!」


「うん。たぶん!」


「たぶんをやめろ!」


 通学路に、今日最初の直樹の叫びが響いた。


 いや、正確には真央家でかなり叫んでいるので、今日何回目かの叫びである。


 案件動画はまだ始まっていない。


 けれど、火種はもう鞄の中で、魔界契約アプリの通知音を鳴らしていた。


* * *


 鏡星学園高等部、一年二組。


 直樹は教室の前で、一度だけ深呼吸した。


 昨日、この教室はコメント欄になった。


 電子黒板には「謝罪配信まだ?」が並び、クラスメイトは直樹のツッコミを切り抜き名言扱いし、宙のワラ人形がコメントを読み上げた。


 普通なら、翌日には少し落ち着く。


 人は飽きる生き物だからだ。


 そう信じたい。


 信じさせてほしい。


「……よし。今日は普通に入る」


「ダーリン、普通って難しいね」


「お前が言うと説得力があるのが嫌だ」


 直樹は教室のドアを開けた。


 中では、何人かのクラスメイトがスマホやタブレットを見ていた。


「あ、真央来た」


「訂正文出てたな」


「あれ、動画削除されたっぽい」


「昨日のツッコミまとめ、もう見られないの残念」


「残念がるな!」


 直樹は即座にツッコんだが、内心では少しだけ安心した。


 訂正文は見られている。


 動画も少なくとも人間界側では削除されつつある。


 教室コメント欄化事件は、ぎりぎり鎮火方向に向かっている。


 たぶん。


 そう思った瞬間だった。


 電子黒板が、ぴこん、と鳴った。


 直樹の背筋が固まる。


「今の音、嫌いだ」


 アイが小さく手を挙げる。


「アタシも、ちょっと嫌な予感がする」


「じゃあ止めろ!」


 電子黒板に、黒と赤の魔界風ウィンドウが開いた。


『本日の特別課題:供物プロモーション案件』


『出演候補:天満アイ』


『契約者リアクション担当:真央直樹』


『推奨供物:ドラ焼き』


 直樹は黒板に向かって叫んだ。


「電子黒板に出すな!」


 教室が一拍、静かになる。


 そして、ざわついた。


「案件?」


「悪魔ちゃん、案件取ったの?」


「真央、リアクション担当なの?」


「昨日のツッコミ評価されたんじゃね?」


「評価するな! 担当にするな!」


 直樹は鞄を机に置く暇もなく、電子黒板の前へ走った。


 画面右上の閉じるボタンを押す。


 閉じない。


 長押しする。


 閉じない。


 電源ボタンを押す。


 画面が暗くなりかけて、すぐに復活した。


『案件通知は重要なお知らせです』


「重要じゃない! 少なくとも学校の重要じゃない!」


 アイは電子黒板を見つめて、少しだけ頬を赤くした。


「ダーリン、やっぱり一緒に出るんだね」


「出ない!」


「でも、リアクション担当って」


「担当に任命された覚えがない!」


「魔界実習管理局が」


「俺の人事権を魔界に渡すな!」


 クラスメイトの一人が手を挙げた。


「真央、リアクション担当って具体的に何するの?」


「知らないし、やらない」


「ドラ焼き食べて、“うまい!”って言う係?」


「普通の感想を職務にするな」


「じゃあ、“俺を案件にするな!”って叫ぶ係?」


「もうやってる!」


 教室のあちこちから笑い声が起きる。


 直樹は頭を抱えた。


 まずい。


 昨日の「ツッコミ切り抜き」から何も学んでいない。


 いや、学んでいる。


 悪い方向に学んでいる。


 電子黒板には、追加の小さな文字が流れ始めた。


『PR表記推奨』


『契約者同意確認中』


『ドラ焼き持参可』


『ツッコミ性能:高評価』


「高評価を本人に通知するな!」


 アイが嬉しそうに直樹を見る。


「ダーリン、高評価だって」


「お前が褒められた顔をするな。俺は今、部品扱いされてるんだ」


 美咲が直樹の横に来て、電子黒板をにらんだ。


「また学級アプリに干渉してるの?」


「たぶん。もう電子黒板が魔界の営業掲示板になってる」


「営業掲示板って何よ」


「俺が知りたい!」


 そのとき、教室の後方から、明るい声がした。


「え、なにそれ。悪魔ちゃん案件? 素材強すぎじゃん」


 空気が少し変わった。


 直樹が振り向く。


 後ろの席。


 窓際から少し離れた机に、金髪の女子生徒が肘をついていた。


 明るい髪。


 白い肌。


 制服は校則の範囲内に収まっているはずなのに、なぜか全体の雰囲気がきらきらしている。


 いかにも、教室の空気を一瞬で自分のテンポに変えるタイプ。


 鏡野アリス。


 直樹は名前くらいは知っていた。


 クラスの中でも目立つ金髪白ギャル。


 明るく、ノリがよく、誰とでも話す。


 ただし直樹にとって、今この瞬間に一番聞きたくなかった単語を言った人物でもある。


「素材って言うな」


 直樹が低く言うと、アリスはにこっと笑った。


「ごめんごめん。でも、天満さんだっけ? 悪魔ちゃん、普通にバズるやつだよ」


「これ以上、バズる方向へ火を吹くな!」


 アイはきょとんとする。


「バズるって、また炎上?」


「違うけど近い! いや、近くないけど近づけるな!」


 アリスは椅子の背にもたれながら、電子黒板を見る。


「だって、悪魔ちゃんでしょ? ドラ焼き案件でしょ? ダーリン呼びで、契約者がリアクション担当。キャラ立ちすぎじゃん」


「立たなくていいキャラまで立ってる!」


「真央のツッコミもセットだと、さらに強いし」


「俺をセット販売するな!」


 美咲がアリスをじろっと見た。


「アリス、面白がって余計なこと言わないで」


「えー、面白いじゃん」


「面白いから困ってるの」


「なるほど。燃えやすい素材ってことね」


「素材って言わない!」


 美咲と直樹の声が重なった。


 アイは二人を見てから、アリスへ向き直る。


「アリスは、人間界の宣伝に詳しいの?」


「詳しいってほどじゃないけど、流行ってるもの見るのは好きだよ。あと、悪魔ちゃんみたいな分かりやすいキャラは強い」


「強い!」


 アイの目が輝く。


「悪魔として強い?」


「動画的に強い」


「動画的……!」


「そこで感動するな!」


 直樹が止める。


 しかし、アイはすでにアリスの言葉を吸収し始めていた。


 悪魔、契約、ドラ焼き、案件。


 そこへ「動画的に強い」が加わった。


 最悪の化学反応である。


 アリスは楽しそうに指を立てる。


「たとえば、最初の三秒でこう言うの。“悪魔ちゃんが本気で選ぶ、人間界最強ドラ焼き!”みたいな」


 アイがすぐに真似する。


「悪魔ちゃんが本気で選ぶ、人間界最強ドラ焼き!」


「覚えるな!」


「で、横から真央が“勝手に選ぶな!”って言う」


「台本にするな!」


「ほら、もう流れできてるじゃん」


「できてない! 壊れてる!」


 クラスメイトたちは面白がっている。


「アリス監修の悪魔案件」


「真央、リアクション担当確定じゃん」


「ドラ焼きレビューなら見たい」


「見るな! 見たいと思うな!」


 電子黒板がまた鳴る。


『人間界反応を検出』


『案件期待値:上昇』


「ほら見ろ! 反応するな!」


 直樹が黒板に向かって叫ぶと、さらに表示が出る。


『契約者リアクション:良好』


「俺の怒りを好材料にするな!」


 アイは少しだけ嬉しそうにしながらも、ふと直樹を見る。


 直樹が本気で嫌そうな顔をしているのに気づいたのか、少し表情を曇らせた。


「ダーリン、ほんとに出たくない?」


「出たくない」


 即答だった。


 アイは小さくうなずく。


「そっか」


 アリスはそのやり取りを見て、軽く首を傾げた。


 さっきまでのノリより、少しだけ声が柔らかくなる。


「真央、マジで嫌なんだ?」


「嫌だ」


「そっか。じゃあ、勝手に撮るのはなしだね」


 直樹は少し意外そうにアリスを見る。


「……そこは分かるのか」


「分かるよ。嫌がってるの撮ったら、普通に感じ悪いし」


 美咲が少しだけ表情を緩める。


「だったら最初から煽らないで」


「ごめん。でも企画としては強い」


「まだ言うか」


 アリスは笑った。


 アイは電子黒板を見上げる。


 魔界契約アプリの通知は、まだ消えていない。


 教室の空気も、すでに案件動画の方向へざわざわし始めている。


 直樹は頭を抱えた。


「とにかく、ベル先生と宙に見せる。勝手に進めるな。撮影しない。投稿しない。俺をリアクション担当にしない」


 アイはうなずく。


「うん」


 アリスが軽く手を挙げた。


「見学は?」


「するな」


「じゃあ助言は?」


「しなくていい」


「サムネ案だけ」


「絶対いらない!」


 電子黒板が、最後に小さく表示した。


『案件準備中』


 直樹は黒板を指さした。


「準備するな!」


 だが、準備はもう始まっていた。


 魔界契約アプリが。


 クラスメイトが。


 そして、新たに現れた陽キャ・鏡野アリスが。


 直樹の平穏を、また別の方向から編集しようとしていた。


* * *


 電子黒板の案件通知は、まだ消えていなかった。


『本日の特別課題:供物プロモーション案件』


『出演候補:天満アイ』


『契約者リアクション担当:真央直樹』


『推奨供物:ドラ焼き』


 直樹は黒板の前で、消去ボタンを連打していた。


「消えろ。消えろ。頼むから消えろ」


「真央、電子黒板に念を送ってる?」


 後ろから、明るい声がした。


 鏡野アリスだった。


 金髪を軽く揺らしながら、彼女はアイの机のほうへ近づいてくる。


 表情はにこにこ。


 足取りは軽い。


 だが直樹には分かる。


 これは火事場にガソリンではない。


 火事場に、照明とカメラと編集ソフトを持ってくるタイプの人間だ。


「悪魔ちゃん、見た目もキャラも強いし、ダーリン呼びもキャッチーだし、ツッコミ役もいるし、案件動画としては完成度高くない?」


「俺を構成要素に入れるな!」


 直樹の叫びに、クラスメイトが笑う。


 アリスは悪びれず、アイの前の席に腰かける。


「天満さん、だよね? あ、悪魔ちゃんって呼んでいい?」


 アイはぱちぱちと瞬きした。


「悪魔ちゃん……悪魔っぽい?」


「めっちゃ分かりやすい」


「じゃあ、いい!」


「許可するな!」


 美咲が横から低い声を出した。


「アリス。余計なこと教えないでよ」


「え、まだ何も教えてないよ?」


「教える気満々でしょ、その顔」


「バレた?」


「バレるわよ」


 アイは興味津々でアリスを見る。


「アリス、人間界の宣伝に詳しいの?」


「詳しいってほどじゃないけど、流行ってる動画とかは見るし。こういうのは最初の三秒が大事」


「三秒……カップラーメンより早い」


「基準をカップラーメンにするな」


 直樹は即座に突っ込んだ。


 アイにとって三分は召喚事故の基準であり、二分は直樹が蓋を開けて人生を壊した時間である。


 だから三秒という短さは、たぶん魔界の高速詠唱より衝撃的なのだろう。


 そんな基準で案件を学ばないでほしい。


 アリスは人差し指を立てる。


「まず最初に決め台詞。次に商品。最後にリアクション。あと、サムネ顔」


 アイが首をかしげる。


「サムネ顔?」


「そう。動画見る前に、ぱっと目に入る顔。こう、ちょっと目を大きくして――」


 アリスは自分の頬に手を当て、わざとらしく驚いた顔を作った。


「え、これ悪魔級!? みたいな」


 アイは一瞬で真似した。


 両手を頬に当て、目をきらきらさせる。


「え、これ悪魔級!?」


「覚えるな!」


 直樹は頭を抱えた。


 吸収が早い。


 悪魔契約の規約は読めないくせに、こういう余計なものだけは砂漠の水みたいに吸収する。


 アリスは楽しそうに手を叩いた。


「いいじゃんいいじゃん。悪魔ちゃん、表情作るのうまい」


「ほんと?」


「うん。あと、語尾にちょっと悪魔っぽい単語入れるとキャラ立つかも。“禁断の甘さ!”とか、“魂が震える!”とか」


「禁断の甘さ!」


「震える魂!」


「やめろ! 食品レビューで魂を持ち出すな!」


 クラスメイトが面白がっている。


「悪魔ちゃん、上達早い」


「真央のツッコミもセットでいい」


「案件っぽい」


「ぽくするな!」


 美咲がアリスをにらんだ。


「余計なこと教えないでって言ったでしょ」


「え、佐藤さん、怒ってる?」


「怒ってる」


「ごめん。でもさ、これ絶対みんな見るよ?」


「見るから困るんだよ!」


 直樹の声が、教室中に響いた。


 アリスは少しだけ目を丸くした。


 それから、直樹の顔を見て、軽く肩をすくめる。


「そっか。真央、マジで嫌なんだ」


「昨日からずっと嫌だって言ってる」


「ごめん。面白すぎて、ちょっとノった」


「“ちょっと”で電子黒板が案件準備中になってるんだよ」


「それはアタシじゃなくて魔界アプリのせいじゃん?」


「お前が燃料を増やしてる!」


 アイはアリスと直樹を交互に見た。


 さっきまでサムネ顔の練習をしていたのに、直樹の声を聞いて少しだけ手を下ろす。


「ダーリン、ほんとに嫌?」


「嫌だ」


「じゃあ、サムネ顔はしない」


 直樹は一瞬、言葉に詰まった。


 アイがちゃんと止まった。


 昨日の謝罪が、完全に消えたわけではないらしい。


 美咲もそれに気づいたのか、少しだけ表情を緩める。


 だが、アリスはすぐに言った。


「じゃあ、悪魔ちゃん単独なら?」


「提案を変形させるな!」


「だって、本人がやりたいなら別じゃん」


 直樹は反射的に言い返そうとして、少し止まった。


 それは、完全には間違っていない。


 問題は、アイが「やりたい」と「評価が下がるのが怖い」を混ぜてしまうことだ。


 アリスはその空気を読んだのか、軽い調子のまま少しだけ声を落とした。


「まあ、無理にやると空気悪くなるし、やるならちゃんと確認してからじゃない?」


 直樹は眉を上げた。


「……そこはまともなんだな」


「ひどくない?」


「今までの発言を振り返れ」


「いや、盛り上がるのは好きだけど、ガチで嫌がってる人を勝手に使うのは違うっしょ」


 美咲が腕を組む。


「最初からそのテンションで話して」


「それは無理。アタシ、面白いもの見るとテンション上がるから」


「自覚あるなら抑えなさい」


「努力する」


「今して」


「はい」


 アイは、アリスをじっと見つめた。


「アリスって、人間界の陽属性悪魔みたい」


 アリスはきょとんとしてから、笑った。


「それ、褒めてる?」


「うん。たぶん」


「たぶん?」


「人間界の褒め言葉、まだ難しい」


「じゃあ、褒め言葉として受け取っとく」


「受け取るな。悪魔扱いだぞ」


 直樹が突っ込むと、アリスはにこっと笑った。


「悪魔ちゃんに言われるなら、ちょっとアリじゃない?」


「アリにするな!」


 電子黒板が、またぴこんと鳴った。


『人間界協力者候補を検出』


『鏡野アリス:広報補助適性あり』


 直樹は黒板を二度見した。


「検出するな!」


 アリスは目を輝かせる。


「え、アタシも出てる」


「喜ぶな!」


「広報補助適性ありだって。なんか肩書きついた」


「魔界アプリの肩書きなんて不吉でしかない!」


 アイはぱっと笑う。


「アリス、協力者候補だって!」


「いいじゃん。悪魔ちゃん案件、ちょっと楽しそう」


「楽しむな!」


 美咲がすかさずアイの肩をつかむ。


「アイ。協力者が増えたってことは、止める人も増えたってことだからね」


「え、そうなの?」


「そう」


「美咲は止める係?」


「当然」


「ダーリンは?」


「巻き込まれる係」


「違う!」


 直樹は叫んだが、教室の誰も否定しなかった。


 それが一番つらい。


 アリスは、机の上に肘をついて、アイに向かって笑う。


「ま、悪魔ちゃん。やるなら最初の三秒は大事。だけど、嫌がってる人を無理に出すのはナシ。そこ守れば、けっこう面白いことできると思うよ」


 アイは真剣にうなずいた。


「最初の三秒。無理に出さない。サムネ顔は封印」


「封印までしなくていいけど」


「封印得意だよ。アタシ、カップラーメンに封印されてたし」


「経験談が重い!」


 直樹が突っ込むと、アリスはまた笑った。


「やっぱ強いわ、悪魔ちゃん」


「だから強くするな!」


 そのとき、教室の扉の外から、白衣のすれる音が聞こえた。


 直樹の表情が変わる。


「……この足音」


 美咲も顔をしかめる。


「ベル先生?」


 廊下の影から、見慣れた白衣が近づいてくる。


 その横には、無表情な少女と、なぜか小さなワラ人形。


 見上宙である。


 アリスはそれを見て、ますます楽しそうに笑った。


「え、なに。次は先生と人形も来るの? 悪魔ちゃん案件、出演者多くない?」


 直樹は天を仰いだ。


「出演者じゃない。被害者と加害装置だ」


 電子黒板は、まだ消えない。


『案件準備中』


 その文字だけが、妙に楽しそうに点滅していた。


* * *


 教室の扉が開いた。


 入ってきたのは、白衣をなびかせる理科教師・鈴鳴ベル。


 そして、その横に無表情で立つ見上宙。


 さらに宙の腕には、当然のようにワラ人形。


 直樹はその三点セットを見て、静かに絶望した。


「来た……解析できるけど、絶対に被害を増やす人たちが来た……」


「真央くん、失礼ね」


 ベル先生はにこやかに言った。


「今回はまだ何も爆発させていないわ」


「“まだ”って言いましたよね?」


「ええ。正確な表現は大事だから」


「不安を正確に増やさないでください!」


 ベル先生は電子黒板を見る。


 そこにはまだ、魔界契約アプリの通知が堂々と表示されていた。


『本日の特別課題:供物プロモーション案件』


『出演候補:天満アイ』


『契約者リアクション担当:真央直樹』


『推奨供物:ドラ焼き』


 ベル先生の目が、実験器具を見つけた科学者の目になった。


「なるほど。魔界における広告実習ね」


「広告に実習制度を作らないでください」


「現代の悪魔は、人間を誘惑するにも透明性が必要なのよ」


 美咲が腕を組む。


「透明性があるなら、勝手に学級アプリへ出さないでほしいです」


「そこは透明性より侵入性が勝ったみたいね」


「勝たせないでください!」


 アリスは机に肘をついて、面白そうに眺めている。


「ベル先生、これって本当に案件なんですか?」


「魔界基準ではね。人間界基準では、未承認広告、校内無許可撮影、本人同意未確認、情報管理違反の可能性があるわ」


 直樹は少しだけ安心した。


「先生、まともなこと言ってる……!」


「だから解析しましょう」


「まともな方向に戻ったと思った瞬間、崖から飛びましたね!」


 宙が電子黒板の前に立つ。


 無表情のまま、ワラ人形を掲げた。


「案件条件」


 ワラ人形が低い声で読み上げる。


「供物を魅力的に紹介すること」


「人間界反応を得ること」


「契約者の自発的リアクションを含めること」


「PR表記を明記すること」


「虚偽誇大表現は禁止」


「ただし悪魔的表現は推奨」


 直樹は即座に叫んだ。


「矛盾してる!」


 アイは首をかしげる。


「どこが?」


「虚偽誇大表現は禁止なのに、悪魔的表現は推奨ってところだよ!」


「でも、アタシ悪魔だよ?」


「そういう問題か!?」


 ベル先生は腕を組んで考え込む。


「“悪魔的においしい”は、悪魔が言うなら事実表示かもしれないわ」


「そこを法的に検討しないでください!」


「実際、発言者が悪魔である場合、“悪魔的”は比喩か属性表示か、判断が分かれるところね」


「分かれなくていい! 食品レビューに魔界法を持ち込むな!」


 アリスが軽く手を挙げる。


「でもさ、PR表記ちゃんと入れるなら、むしろ今どきっぽいじゃん」


 美咲が即座に振り向く。


「だからやる前提で話すなって!」


「ごめん。でも、ちゃんと広告って分かるようにするのは大事じゃん?」


「そこは大事。でも、その前に直樹の同意」


「それも大事」


 アリスはうなずく。


 直樹は少しだけアリスを見る。


 ノリは軽い。


 でも、嫌がる相手を無理やり撮る気はないらしい。


 その一点だけは、今の教室で数少ない救いだった。


 ただし、救いはすぐにベル先生によって燃やされる。


「では、同意確認装置を――」


「出さないでください」


「まだ何も出していないわ」


「出そうとした顔でした」


「顔で止められる時代なのね」


「先生の顔は危険物予告なんです!」


 宙がタブレットを操作する。


「追加条件あり」


 ワラ人形が続ける。


「契約者リアクションは、自発的であること」


 直樹は身を乗り出した。


「よし! 俺は自発的に出ない!」


 ワラ人形。


「ただし、拒否反応もリアクションに含む」


「含むな!」


 電子黒板がぴこんと鳴る。


『契約者リアクション:拒否反応を確認』


『反応強度:高』


『案件素材価値:上昇』


「俺が断るほど素材価値が上がるシステム、悪魔すぎる!」


 アイは少し困った顔で直樹を見る。


「ダーリン、出ないって言ってるのに評価されちゃうね」


「お前はそこで申し訳なさそうにしろ。ちょっと嬉しそうにするな」


「ちょっとしか嬉しくないよ?」


「ちょっとあるのが問題なんだよ!」


 美咲がアイの頭を軽く小突く。


「アイ。昨日、何を覚えたの?」


「ダーリンを素材にしない」


「そう」


「お願い素材にもしない」


「そう」


「拒否素材にも……しない?」


「疑問形にしない」


 アリスが小さく吹き出した。


「拒否素材って、新しいね」


「新しくしなくていい!」


 ベル先生は電子黒板の通知を保存しようとする。


 直樹はすぐに気づいた。


「先生、今、保存しようとしました?」


「解析用よ」


「流出用の第一歩です!」


「今回は外部共有しないわ」


 宙が小さく手を挙げる。


「内部記録」


「それも危ない!」


 ワラ人形が低く言う。


「これは広告です」


「急に透明性を出すな!」


 アイはワラ人形をじっと見つめた。


「ワラちゃん、案件に詳しいね」


「ワラちゃん呼びするな。仲間にするな」


 宙は無表情で言う。


「広告倫理、基礎」


「宙、お前どこで何を学んでるんだ」


「この子が」


「ワラ人形に教育を押しつけるな!」


 ベル先生が手を叩いた。


「まとめましょう。この案件には三つの問題があるわ」


 直樹は警戒した。


「珍しくちゃんとまとめが来た」


「一つ、本人同意が未確認」


「それは大事」


「二つ、校内での撮影・宣伝許可が未取得」


「それも大事」


「三つ、ドラ焼きの供物適性をまだ測定していない」


「三つ目だけ実験したいだけですよね!?」


 ベル先生は微笑んだ。


「測定しなければ、安全なプロモーションはできないわ」


「測定しなければ、そもそもプロモーションしなくて済みます!」


 アイがそっと手を挙げる。


「じゃあ、ドラ焼きの味だけ確認するのは?」


「それはただ食べたいだけだろ」


「うん」


「正直!」


 美咲がため息をつく。


「とにかく、撮影はなし。投稿もなし。まずは通知の条件確認だけ」


 アリスが指を鳴らす。


「じゃあ、企画会議だけなら?」


 直樹が振り向く。


「なぜ会議に進む」


「撮影しないなら、せめて案だけ」


「案を出すと、こいつが本気にする!」


 アイはすでに目を輝かせていた。


「企画会議……悪魔案件作戦会議!」


「ほら!」


 電子黒板が、再びぴこんと鳴る。


『案件企画フェーズへ移行しますか?』


『移行する』


『あとで移行する』


『移行したことにする』


 直樹は教室中に響く声で叫んだ。


「移行するなぁぁぁ!」


 だが、ベル先生は白衣のポケットから赤ペンを取り出した。


 宙はワラ人形を机に座らせた。


 アリスは椅子を引き寄せた。


 美咲は止める顔をしながらも、直樹の横に立った。


 アイは、期待と不安の混ざった顔で、電子黒板を見ている。


 案件はまだ始まっていない。


 しかし、企画会議は始まりそうだった。


 直樹の許可なく。


* * *


 企画会議は、直樹の許可なく始まった。


 場所は一年二組の教室。


 黒板には、ベル先生がいつの間にか書いた謎の見出し。


『第一回 供物プロモーション検討会』


 その下に、宙のワラ人形がちょこんと座らされている。


 アリスは楽しそうに机を寄せ、美咲は腕を組んで警戒態勢。


 アイは、やる気半分、不安半分、ドラ焼き八割の顔で立っていた。


「足して十割を超えてるんだよ」


「ダーリン、心を読んだ?」


「読まなくても分かる」


 ベル先生が赤ペンを構える。


「では、天満さん。企画タイトル案をどうぞ」


「はい!」


「どうぞじゃない!」


 直樹の制止は間に合わなかった。


 アイは電子黒板に向かって、堂々と案を読み上げる。


「第一案。『仔悪魔ちゃんが選ぶ、人間界最強供物ドラ焼き』!」


 クラスの数人が「おお」と言った。


 直樹は即座に言う。


「供物って言葉を一般向けタイトルに入れるな!」


 アイはめげずに次の案を出す。


「第二案。『ダーリンと食べる悪魔の甘味』!」


「俺を入れるな!」


「第三案。『契約者を落とす百個のドラ焼き』!」


「全部だめ!」


 美咲が眉間を押さえる。


「最後、意味が危ない」


 アリスは顎に手を当て、妙に真剣な顔をした。


「タイトルだけなら強いけど、ちょっと燃えそう」


「強いとか燃えるとか、昨日から俺の人生に火の単語を増やすな!」


 宙のワラ人形が低く言う。


「契約者を落とす」


「読むな!」


「百個のドラ焼き」


「そこだけ切り取るな!」


 ベル先生は赤ペンで電子黒板に丸をつけた。


「発想は悪くないわね」


「悪いです」


「ただし、校内で扱うには表現が攻撃的すぎるわ」


「先生がまともに見える瞬間が怖い」


「では、“契約者も思わずうなずくドラ焼きレビュー”くらいに」


「俺をうなずかせる前提もやめてください!」


 アイは首をかしげる。


「じゃあ、“ダーリンが嫌がらない範囲で食べるドラ焼き”?」


「タイトルに配慮がにじみすぎてる!」


 アリスが笑いながら手を振る。


「でも、その方向はちょっといいかも。悪魔ちゃんがちゃんと気をつけてる感じ出るし」


 美咲が少しだけアイを見る。


「そこだけは成長してるわね」


 アイはぱっと明るくなる。


「成長!」


「調子に乗るな。まだタイトル会議で炎上寸前だからな」


 そのとき、教室の扉が控えめにノックされた。


「失礼します」


 入ってきたのは、柔らかい雰囲気の男子生徒だった。


 整った制服。


 落ち着いた声。


 手にはタブレット。


 見るからに、今この教室で一番まともそうな人間である。


 直樹は思わず希望を見た。


「誰だ……まともそうな人が来た……」


 男子生徒は丁寧に一礼する。


「生徒会広報補佐の白金光です。学級連絡アプリに不審な広告通知が出たと聞いて確認に来ました」


「まともな人が来た!」


 直樹は心から言った。


 光は電子黒板の文字を見て、少しだけ目を細める。


「校内で宣伝動画を撮影する場合は、事前申請が必要です。外部公開、校内配信、商品紹介、出演者の同意確認、すべて別々に扱われます」


「ほら! そういうの! そういうまともな手続きがほしかった!」


 アイは少し不安そうに手を挙げた。


「申請すれば、悪魔案件できるの?」


「内容によります」


 直樹は光を見た。


「今、俺と同じ便利な言葉を使った」


「便利ですから」


「まともな人も使うんだ……」


 光はタブレットに何か入力しながら、電子黒板のタイトル案を見た。


「ただし、見出しとしては“契約者を落とす百個のドラ焼き”は少し強すぎますね」


 直樹は固まった。


「まともじゃなかった!」


 光は穏やかに首を傾げる。


「いえ、見出しの強度としては理解できます。ただ、校内広報では誤解を招きます」


「強度を理解しないでください!」


 アリスがにやっと笑う。


「白金くん、やっぱタイトル見るよね」


「見ます。広報ですので」


「ほら、アタシの感覚だけじゃなかったじゃん」


「仲間を見つけるな!」


 美咲が光に向き直る。


「白金くん。これ、止められる?」


「現時点では、無許可撮影未遂として止められます」


「未遂で済んでるのね」


「はい。まだ」


「“まだ”が怖い!」


 ベル先生がにこやかに言う。


「では、申請用に企画名を整えましょう」


「先生も進める側に戻らないでください」


 光はタブレットに文案を表示した。


「校内申請なら、“悪魔契約と供物文化に関する実習報告”なら通りやすいかと」


 アイが目を丸くする。


「固い!」


 直樹は即答した。


「固いくらいでいい!」


「でも、ドラ焼き感がないよ?」


「なくていい!」


「悪魔ちゃん感もないよ?」


「なくていい!」


「ダーリン感は?」


「絶対いらない!」


 アリスが小声で言う。


「タイトルとしては弱い」


「弱くていいんだよ、学校の申請書は!」


 宙がワラ人形を持ち上げる。


「別案」


 ワラ人形が読み上げる。


「供物摂取時における契約者反応の観察」


「観察するな!」


「ドラ焼きによる関係性変化の実験」


「実験するな!」


「悪魔と人間の甘味媒介交流」


 直樹は一瞬だけ黙った。


「……最後だけ、ちょっとそれっぽいのが腹立つ」


 光が真面目にうなずく。


「それなら広報文にも転用できます」


「転用しないで!」


 アイは両手を胸の前で握った。


「じゃあ、アタシの案と、白金の案と、宙の案を混ぜて……」


「混ぜるな」


「『悪魔契約と供物文化に関する、ダーリンと食べる最強ドラ焼き実習報告』!」


「全部乗せやめろ!」


 アリスは大笑いしている。


「長い! でも嫌いじゃない!」


「嫌ってくれ!」


 美咲はアイの肩をつかんだ。


「アイ。落ち着いて。昨日、短い訂正文で学んだでしょ」


「あ、そっか。短く」


「そう。短く」


 アイは深呼吸した。


「『ドラ焼き、おいしい』」


 教室が一瞬、静かになった。


 直樹は真顔で言った。


「急に削りすぎだ」


 アリスが机を叩いて笑う。


「悪魔ちゃん、極端!」


 光は少し考えてから、丁寧に言う。


「校内広報としては、“ドラ焼き試食に関する実習相談”くらいが無難です」


「無難……」


 アイは少し物足りなさそうにする。


 直樹はすかさず言う。


「無難が最高。無難こそ平和。無難を崇めろ」


「ダーリン、無難教?」


「入信したいくらいだ」


 ベル先生は赤ペンをくるりと回す。


「では、企画名は保留。次は撮影環境の検討ね」


 直樹の顔色が変わった。


「今、最悪の次に進みましたよね?」


「検討だけよ」


「その“だけ”で何回ひどい目に遭ったと思ってるんですか!」


 光が冷静に言う。


「撮影する場合は、申請が必要です」


「白金、止めてくれ」


「はい。申請なしでは止めます」


「申請ありだと?」


「内容によります」


「やっぱり便利な言葉、怖い!」


 アイは電子黒板を見上げた。


 そこには、魔界契約アプリの小さな通知がまだ残っている。


『企画名候補を検出』


『案件準備度:上昇』


 直樹は黒板に向かって叫んだ。


「上昇するな!」


 しかし、会議はもう次の段階へ進もうとしていた。


 撮影はしない。


 投稿もしない。


 そのはずだった。


 なのに、ベル先生はすでに白衣のポケットから、小型ライトらしきものを取り出している。


 宙はワラ人形の首に小さなマイクをつけている。


 アリスは机の角度を見ている。


 光は申請項目を確認している。


 アイはドラ焼きの幻を見ている。


 直樹は頭を抱えた。


「……俺、今すぐ早退していい?」


 美咲が肩を叩く。


「逃げたら、たぶん勝手に進むわよ」


「残っても進むんだよ!」


 そして、直樹の叫びを合図にしたかのように、電子黒板が次の文字を表示した。


『撮影準備フェーズへ移行します』


「移行するなぁぁぁ!」


* * *


 場所は、理科準備室。


 なぜ移動したのか。


 直樹は分からない。


 ただひとつ分かるのは、ベル先生が「撮影準備フェーズ」という言葉を聞いた瞬間、教室よりも理科準備室のほうが安全だと言い出したことだ。


 もちろん、安全ではなかった。


 扉を開けた瞬間、直樹は叫んだ。


「また機材!」


 理科準備室の中央には、小さな撮影台があった。


 白い布。


 商品撮影用ライト。


 くるくる回るドラ焼き回転台。


 味覚測定器。


 ツッコミ反応測定器。


 PR表記自動挿入装置。


 そして、台の横には、なぜか小さなマイクをつけたワラ人形。


 昨日の謝罪配信スタジオから、反省という文字だけが消え、代わりに広告という文字が入っただけだった。


「先生、昨日の今日でこれですか!」


 直樹が詰め寄ると、ベル先生は落ち着いた顔でうなずいた。


「大丈夫。前回の反省を活かして、今回は配信ではなく録画よ」


「録画もだめです!」


「外部には出さないわ」


「その言葉、昨日も聞きました!」


「今日は配線を一本減らしたの」


「減らせばいい問題じゃない!」


 宙がワラ人形を撮影台の横に座らせる。


 ワラ人形が低い声で言った。


「これは広告です」


「開幕からPR表記するな!」


「透明性」


「透明ならいいって話じゃない!」


 アリスはすでに、アイの椅子の位置を調整していた。


「悪魔ちゃん、もうちょい右。ライトが角に当たると強い。真央は左で、ツッコミが入る距離」


「俺の立ち位置を撮影用に決めるな!」


「いや、真央が近すぎるとラブコメ感が強すぎるし、遠すぎるとリアクション拾いにくいじゃん」


「拾わなくていい!」


 美咲がアリスの肩をつかむ。


「アリス。さっき、無理に出すのはなしって言ったわよね」


「言った言った。だから位置確認だけ」


「位置確認が撮影の前提なのよ」


「あ、そっか」


「そっかじゃない」


 アイは椅子に座り、撮影台の上に置かれたドラ焼きを見つめていた。


 目は輝いている。


 だが、直樹の顔もちらちら見ている。


 前なら、迷わず「ダーリンも一緒!」と腕を引っ張っていただろう。


 でも今のアイは、少しだけためらっていた。


「ダーリン」


「なんだ」


「出たくない?」


「出たくない」


 即答だった。


 理科準備室が一瞬だけ静かになった。


 アイは、しゅんと尻尾を下げた。


「そっか」


 直樹は少し身構えた。


 いつものアイなら、ここで「でも契約者同席推奨だよ!」とか「ダーリンがいないと寂しい!」とか言って食い下がる。


 だが、アイは膝の上で手を握り、少し考えてから言った。


「じゃあ、出なくていい。アタシだけでやる」


 直樹は思わずアイを見た。


「……え」


「だって、ダーリンが嫌なのに出てもらったら、また昨日と同じでしょ」


 アリスが少し感心したように笑う。


「悪魔ちゃん、ちゃんと聞けるじゃん」


 美咲も小さくうなずいた。


「少しはね」


「少しって言い方!」


 アイは頬をふくらませたが、反論はしなかった。


 直樹は、何とも言えない顔でそっぽを向く。


「まあ……そこは、えらい」


 アイの顔がぱっと上がった。


「えらい?」


「調子に乗るな」


「でも、えらい?」


「一回だけだ」


「やった」


 その瞬間だった。


 撮影台の横に置いていたスマホが、ぴこん、と鳴った。


 全員の視線が集まる。


 画面には、魔界契約アプリの通知。


『契約者リアクションが不足しています』


『案件評価が下がる可能性があります』


 アイの表情が揺れた。


「……評価、下がる」


 直樹は舌打ちしたくなった。


 このアプリは、本当に嫌なタイミングで嫌な文面を出す。


 アイがやっと立ち止まったところに、評価という言葉で足元をぐらつかせてくる。


 美咲がすぐに言う。


「アイ。評価のために直樹を出すのは違う」


「うん……分かってる」


 分かっている。


 でも、揺れる。


 アイは仔悪魔見習いだ。


 魔界での評価が気にならないはずがない。


 アリスも、さっきまでの軽い顔ではなく、少しだけ真面目に口を開いた。


「悪魔ちゃん単独でも、やり方はあると思うよ。リアクション担当なしのレビューとか」


 ベル先生が端末を見ながら言う。


「ただ、魔界側は“契約者との関係性”も評価項目に入れているみたいね」


「関係性を案件に入れるな」


 直樹は低く言った。


 ワラ人形がつぶやく。


「契約者リアクション、重要」


「黙れ、広告ワラ人形」


 アイは直樹を見た。


 期待している顔ではない。


 頼みたいけど、頼んだら悪いと思っている顔だった。


 直樹は、その顔に弱い。


 弱い自覚があるから、なおさら腹が立つ。


 直樹は大きくため息をついた。


「……一口食べて感想言うだけなら、やる」


 アイが目を丸くした。


「ほんと?」


「ただし」


 直樹は指を立てる。


「勝手に動画にするな」


「うん!」


「録画するな」


「うん!」


「俺の言葉を推薦文にするな」


「うん!」


「“普通にうまい”を魔界実習管理局公認コメントみたいに使うな」


「まだ言ってないのに、言いそう」


「自覚あるならやめろ!」


 ベル先生が手元の機材に触れようとする。


 直樹は即座に叫んだ。


「先生、録画ボタンに触らない!」


「これは味覚測定器の起動ボタンよ」


「それも触らない!」


 宙がワラ人形のマイクを調整する。


「ナレーション準備」


「ナレーションいらない!」


「これは広告です」


「だから広告にするな!」


 アリスは、椅子の位置をまた少し調整しようとして、美咲に止められた。


「位置も動かさない」


「じゃあ、見守る」


「本当に見守るだけね」


「うん。たぶん」


「たぶんをやめなさい」


 アイが、少し緊張した顔でドラ焼きを見た。


「ダーリン、一緒に食べてくれるの?」


「一口だけだ」


「案件じゃなくて?」


「案件じゃない」


「じゃあ、普通に?」


「普通に」


 アイは、小さく笑った。


「普通、いいね」


 直樹はそっぽを向く。


「お前が言うと、普通が貴重品みたいに聞こえる」


「ダーリンの普通、いつも壊れるから」


「主にお前のせいでな!」


 そのツッコミに、アイはちょっとだけ安心したように笑った。


 魔界契約アプリは、まだ画面の端で光っている。


『契約者リアクション待機中』


 直樹はそれを見て、スマホを裏返した。


「待機するな」


 撮影はしない。


 録画もしない。


 配信もしない。


 ただ、ドラ焼きを一口食べて、感想を言うだけ。


 それだけのはずだった。


 しかし、ここは理科準備室。


 ベル先生がいる。


 宙がいる。


 アリスがいる。


 ワラ人形にマイクがついている。


 そして、魔界契約アプリは、裏返してもたぶん見ている。


 直樹はドラ焼きを前に、静かに悟った。


 普通に一口食べるだけが、こんなにも難しい人生がある。


* * *


 理科準備室の中央。


 白い撮影台の上に、ドラ焼きが置かれている。


 録画はしない。


 配信もしない。


 案件動画にはしない。


 これは、ただの実食である。


 ……と、直樹は三回確認した。


「いいか。食べるだけだぞ。感想を言うだけ。録画なし。投稿なし。案件化なし」


「分かってるよ、ダーリン」


 アイは真剣な顔でうなずいた。


 ただし、視線はずっとドラ焼きに固定されている。


 人の話を聞いている目ではない。


 供物を前にした仔悪魔の目である。


「アタシ、ちゃんと普通に食べる」


「普通に、だぞ」


「うん。普通に、悪魔として」


「もう普通じゃない」


 ベル先生が横で味覚測定器を構えた。


「では、実食開始ね」


「先生、測定器は置いてください」


「味の客観的評価には必要よ」


「必要ありません。ただのおやつです」


 宙はワラ人形の前に小さな札を立てる。


『これは広告ではありません』


「その札が出てる時点で広告っぽい!」


 アリスは腕を組んで、少し離れた位置から見ている。


「でも、悪魔ちゃんの初手リアクションは気になる」


「気にするな」


「撮らないから。見るだけ」


「その“見るだけ”もアプリ用語みたいで怖い」


 光はタブレットを持って、冷静に待機している。


「校内広報としては、記録しません。必要があれば、事後報告のみ文章化します」


「白金、お前だけが頼りだ」


「ただし、発言によっては表現を調整します」


「すでに不安!」


 アイは両手でドラ焼きを持った。


 ふわりと甘い香りが広がる。


 アイの尻尾が、ぴんと立った。


「いただきます」


 ぱくり。


 アイが一口食べる。


 次の瞬間、目がきらきら輝いた。


「んんっ……!」


 頬がゆるむ。


 翼がちょっとだけ開く。


 背後に、存在しない魔界の光が差したような気がした。


「やっぱり人間界、征服する価値ある!」


「レビューで征服って言うな!」


 直樹のツッコミが飛ぶ。


 アリスがすかさず手を叩いた。


「でもリアクションいいね。今のサムネに使える」


「使うな!」


「撮ってない撮ってない。脳内サムネ」


「脳内でも使うな!」


 アイはさらにドラ焼きを見つめ、感動した声で言う。


「この餡子、契約者の心を縛る甘さ!」


 美咲が即座に割り込んだ。


「縛るって言わない!」


「じゃあ、契約者の心を包み込む甘さ?」


「まだ契約者から離れて」


「ダーリンの心を――」


「もっと離れて!」


 ベル先生が赤ペンを取り出す。


「“虜にする甘さ”くらいなら、人間界でも許容範囲ね」


「添削が広告寄りになってる!」


「ただし、“魂を奪う”は避けましょう。食品表示として強すぎるわ」


「食品表示で魂を検討しないでください!」


 宙のワラ人形が、低い声で告げる。


「このドラ焼き、供物として適性高し」


「適性を測るな!」


「香り、形状、糖度、契約誘引性、いずれも良好」


「最後の項目が怖い!」


 光がタブレットに視線を落とし、静かに言う。


「校内広報では、“好評でした”に変換します」


 直樹は思わずうなずいた。


「変換って大事だな……」


 アイがぱっと光を見る。


「“魂を縛る甘さ”も?」


「“甘さが印象的でした”にします」


「すごい。人間界の広報魔法」


「魔法ではありません。調整です」


「調整って大事だな……」


 直樹はもう一度しみじみ言った。


 アイは、半分残ったドラ焼きを見つめてから、直樹のほうへ差し出した。


「ダーリンはどう?」


「俺はいい」


「一口だけって言った」


「言ったけど」


「案件じゃなくて、普通に」


 その言い方に、直樹は少しだけ動きを止めた。


 案件じゃなくて。


 普通に。


 アイがそれを意識して言っているのが分かった。


 だから直樹は、渋々ながらもドラ焼きを受け取った。


「一口だけな」


「うん!」


 直樹はドラ焼きを見た。


 普通のドラ焼きだ。


 たぶん購買か、近所の店で買えるようなやつ。


 悪魔の供物でも、案件商品でも、契約素材でもない。


 ただの甘いおやつ。


 直樹は一口食べた。


 しっとりした皮。


 ほどよい甘さの餡子。


 朝から騒がされっぱなしの脳には、少し悔しいくらいちょうどよかった。


「……普通にうまい」


 アイの顔が、ぱっと明るくなった。


「普通にうまい、だって!」


「言いふらすな」


「普通にうまい!」


「繰り返すな!」


 アリスがにやっと笑う。


「真央のリアクション、逆に信頼感ある」


「信頼を案件に使うな!」


「だって、“悪魔級においしい!”より、“普通にうまい”のほうが本音っぽいじゃん」


「本音だからこそ使うな!」


 ベル先生が感心したようにメモする。


「なるほど。過剰表現より、素朴な感想のほうが信頼性を生む、と」


「先生まで広告研究にしないでください!」


 宙のワラ人形が言う。


「普通にうまい。契約者真正反応」


「真正反応って何だ!」


 光が落ち着いた声で言う。


「外向けには使用しません」


「ありがとう、白金」


「内部記録には“普通に好評”とだけ」


「内部にも残さなくていい!」


 美咲は腕を組んで、少しだけ笑った。


「まあ、でも確かにおいしそうね」


 アイがすぐにドラ焼きを差し出す。


「美咲も食べる?」


「え、いいの?」


「うん。案件じゃなくて、普通に」


 美咲は一瞬だけ直樹を見る。


 直樹は肩をすくめた。


「食えばいいだろ。ただのドラ焼きだ」


「じゃあ、一口」


 美咲も食べる。


「……普通においしい」


「また普通!」


 アイは嬉しそうに笑った。


「人間界の普通って、すごいね」


 その言葉だけは、少しだけ本音っぽかった。


 直樹は視線をそらす。


「ドラ焼き一個で人間界を語るな」


「でも、アタシが最初に人間界いいなって思ったの、ドラ焼きだったよ」


「基準が餡子なの、ずっと変わらないな」


「うん」


 アイは笑った。


「そこは変えない」


 その瞬間。


 裏返していたスマホが、ぴこん、と鳴った。


 全員の視線が集まる。


『契約者リアクションを検出』


『評価語:普通にうまい』


『信頼性:高』


『案件文言候補として保存します』


 直樹はスマホをつかんだ。


「保存するなぁぁぁ!」


 アイは慌てて両手を振る。


「アタシじゃない! アタシ今、何も押してない!」


「分かってる! 悪いのはアプリだ!」


 アリスがぼそっと言う。


「でも、いいコピーだよね。普通にうまい」


「言うな!」


 光がタブレットを操作する。


「その文言は外部使用禁止にしておきます」


「頼む!」


 ベル先生が味覚測定器を見た。


「ちなみに測定結果も普通に良好よ」


「測ってたんですか!?」


「ええ。録画はしていないわ」


「そういう抜け道を探さないでください!」


 ワラ人形が最後に、低く告げた。


「このドラ焼き、案件化危険度、高」


 直樹は深くうなずいた。


「それだけは正しい」


 ドラ焼きはおいしかった。


 ただ、それを普通に食べるだけのことが、どうしてここまで危険になるのか。


 直樹には分からない。


 分かりたくもない。


 しかし、アイが隣で嬉しそうに残りを食べているのを見て、少しだけ思った。


 案件じゃなければ。


 動画じゃなければ。


 供物でも契約でもなければ。


 ただのドラ焼きは、まあ、悪くない。


 そう思った直後、魔界契約アプリがまた鳴った。


『案件プレビューを生成します』


 直樹は叫んだ。


「悪くなったぁぁぁ!」


* * *


 魔界契約アプリが鳴った。


『案件プレビューを生成します』


 直樹は、その文字を見た瞬間、反射的にスマホを裏返した。


「生成するな」


 ぴこん。


 裏返したスマホの下から、赤い光が漏れる。


『裏面表示モードに切り替えます』


「裏から出るな!」


 ベル先生が興味深そうに覗き込む。


「すごいわね。ユーザーの拒否行動にも対応している」


「対応しなくていいんです!」


 宙が無表情で言う。


「拒否耐性、高い」


「アプリに耐性を持たせるな!」


 スマホの画面が勝手に明るくなった。


 そこに表示されたのは、見覚えのない動画プレビューだった。


 黒と赤の派手な背景。


 くるくる回るドラ焼き。


 笑顔のアイ。


 そして、なぜかやけに真剣な顔でドラ焼きを食べている直樹。


 画面上部に大きな文字。


『仔悪魔ちゃんが食べてみた!』


 続いて、テロップ。


『ダーリンも認めた、普通にうまいドラ焼き』


 さらに、画面下に小さく。


『PR:魔界実習管理局』


 直樹は絶叫した。


「俺の“普通にうまい”を勝手に推薦文にするな!」


 アイは画面を見て、首をかしげる。


「でも、ちゃんとPRって書いてあるよ?」


 美咲が即座に言った。


「そういう問題じゃない!」


「PRって書けば全部許されるわけじゃないの?」


「許されない!」


 アリスは動画プレビューを見て、妙に悔しそうな顔をした。


「編集はうまい。危険だけど」


「危険なうまさを褒めるな!」


「いや、切り抜き方とかテロップのタイミングは普通に上手いんだよ。だから余計危ない」


「冷静に分析するな。俺の人生が勝手に素材化されてるんだぞ」


 ワラ人形が、動画のナレーションを勝手に読み上げる。


「仔悪魔ちゃんが選ぶ、人間界の究極供物」


「読むな!」


「契約者も思わず認めた、その味とは」


「認めたんじゃない! 普通にうまいって言っただけ!」


「普通にうまい」


「繰り返すな!」


 光がタブレットを操作し始めた。


「校内に流れる前に止めます」


 直樹は光に向き直った。


「白金、今だけお前が神に見える」


「生徒会広報補佐です」


「今だけ広報神でいい」


「困ります」


 宙がスマホの横にワラ人形を近づける。


「自動共有待機中」


「またか!」


 直樹は血の気が引いた。


 昨日、謝罪配信未遂でケーブルを抜いた記憶がよみがえる。


 人は過ちから学ぶ。


 だが、魔界契約アプリも学ぶ。


 そして、学んだ結果がだいたい悪い。


 ベル先生が画面を見ながら言う。


「前回より学習して、校内限定配信ではなく、校内広報申請経由になっているわ」


「進化の方向が嫌!」


「直接流すと止められるから、申請ルートを使うようになったのね」


「社会性を身につけた悪質アプリ、怖すぎる!」


 画面には、さらに表示が出ている。


『校内広報申請を作成中』


『動画種別:供物プロモーション』


『出演者:天満アイ、真央直樹』


『使用コメント:普通にうまい』


『契約者の叫び:補足素材として利用可』


「補足素材にするな!」


 美咲がスマホを押さえ、直樹が申請画面を閉じようとし、光がタブレットで広報システムにログインする。


 三人の動きだけは、妙に連携が取れていた。


「真央くん、右上の申請番号を読んでください」


「えっと、M-KAI-666-PR――番号が不吉!」


「不吉でも読んで」


「M-KAI-666-PR-100!」


「確認しました。佐藤さん、そちらの共有ボタンを押さないように」


「押さないわよ。むしろ押されないようにしてる!」


「アイは何も触るな!」


「アタシ、両手上げてる!」


 アイは本当に両手を上げていた。


 ドラ焼きを持っていないほうの手まで上げている。


「じゃあ、そのドラ焼きも置け!」


「これは関係ないよ!」


「関係あるんだよ、お前の場合!」


 アリスが横から画面を見て言う。


「共有前プレビュー、あと十秒で申請完了っぽい」


「カウント読むな!」


「九、八――」


「読むなって言ってるだろ!」


 光の指がタブレット上を滑る。


「申請差し戻しをかけます」


 画面に警告が出た。


『差し戻し理由を選択してください』


 候補が並ぶ。


『本人同意未確認』


『商業宣伝扱い』


『校内撮影許可なし』


『契約者が叫んでいる』


 直樹は目をむいた。


「最後の項目、また俺専用!」


 光は迷わず複数選択した。


『本人同意未確認』


『商業宣伝扱い』


『校内撮影許可なし』


 少し考えてから、最後も選択する。


『契約者が叫んでいる』


「選ぶな!」


「客観的事実です」


「事実でも選ぶな!」


 美咲が真顔で言う。


「叫んでるのは事実でしょ」


「味方じゃなかったのか!」


「味方だから選んでるのよ。叫んでる本人が嫌がってる証拠になるでしょ」


「理屈が通ってるのが余計つらい!」


 光が差し戻しボタンを押した。


『申請を差し戻しました』


『理由:本人同意未確認/商業宣伝扱い/校内撮影許可なし/契約者が叫んでいる』


 プレビュー画面が、ふっと暗くなる。


『案件プレビューは保存されませんでした』


 直樹はその場で膝に手をついた。


「助かった……」


 アイもほっと息を吐く。


「よかった。ダーリンがまた素材になるところだった」


「“また”って言うな。あと、お前もちょっと止める側に回れ」


「うん。次からはアプリが勝手に作る前に止める」


「作る前提をやめろ!」


 アリスは腕を組んで、消えた画面を見つめていた。


「でもさ、ほんとに自動編集うまかったね」


「まだ言うか」


「いや、だから危ないんだって。うまいと見ちゃうじゃん」


 光が静かにうなずく。


「その通りです。見やすさと安全性は別です」


「白金、まともな締めだ……」


「ただし、内部報告には今回の流れを記録します」


「また俺が記録される!」


「必要最小限です」


「最小限でもつらい!」


 宙のワラ人形が、低く言った。


「案件動画、未遂」


「未遂で終わったのはいい。でも読み上げるな」


 ベル先生はスマホを見ながら、楽しそうに微笑む。


「興味深いわね。前回は配信事故、今回は申請事故。魔界アプリも学習している」


「先生、次に何を学ぶか予想しないでください」


「次はおそらく、広報文の自動生成ね」


「不吉な未来予測やめてください!」


 光がタブレットを閉じる。


「この件は、生徒会広報として預かります。少なくとも、校内には流れません」


 直樹は心から頭を下げた。


「ありがとう、白金。今日一番の常識人だ」


 光は穏やかに微笑んだ。


「いえ。校内秩序の範囲です」


 アイは小さく手を挙げる。


「つまり、案件は失敗?」


 直樹は答えようとして、少し止まった。


 光が先に言う。


「少なくとも、無許可案件動画としては差し戻しです」


 アリスが補足する。


「企画としては強かったけど、出しちゃだめなやつ」


 美咲がまとめる。


「つまり、やっちゃだめ」


 アイはしゅんとした。


「そっか……」


 直樹は、その顔を見てしまった。


 評価。


 実習。


 案件。


 アイが気にしている言葉が、また尻尾を引っ張っている。


 直樹はため息をつく。


「動画はだめだ。でも、ドラ焼き食べたことまで失敗ってわけじゃないだろ」


 アイが顔を上げる。


「そう?」


「少なくとも、普通にうまかった」


 アリスがすぐに反応する。


「今のも使え――」


 美咲がアリスの口をふさいだ。


「使わない」


 光も静かに言う。


「使用しません」


 宙のワラ人形。


「非広告」


「それでいい」


 直樹はやっと少しだけ息を吐いた。


 案件動画は流れなかった。


 校内広報にも載らなかった。


 ドラ焼きは、かろうじてただのドラ焼きに戻った。


 ……かに見えた。


 だが、光のタブレットには、すでに小さな報告メモが作成されている。


『無許可案件動画未遂について』


『関係者:真央直樹、天満アイ、ほか』


 直樹はそれを見て、顔をひきつらせた。


「なあ、白金」


「はい」


「その“ほか”に俺の平穏も入れてくれ。今日も死んだ」


「検討します」


「検討される平穏って何だよ!」


 理科準備室に、また直樹の叫びが響いた。


 案件動画は止まった。


 しかし、生徒会広報の記録には、確実に残った。


* * *


 案件動画は止まった。


 校内広報にも流れなかった。


 魔界契約アプリが勝手に作った『ダーリンも認めた、普通にうまいドラ焼き』という、直樹の人生を勝手に商品棚へ並べようとする危険な動画は、白金光の差し戻しによって未遂に終わった。


 理科準備室には、妙な静けさが戻っている。


 撮影台。


 ライト。


 ドラ焼き回転台。


 味覚測定器。


 マイクつきワラ人形。


 静けさの中に、危険物が多すぎる。


「まず機材を片づけません?」


 直樹が言うと、ベル先生はにこやかに答えた。


「大丈夫。今は何も録画していないわ」


「“今は”で安心できる人生じゃないんです」


 宙のワラ人形が低くつぶやく。


「未遂」


「その一言でまとめるな」


 そんなやり取りの横で、アイは小さくうつむいていた。


 さっきまでドラ焼きを食べてきらきらしていた目が、少しだけ曇っている。


 直樹は気づいてしまった。


 気づかなければ、たぶん楽だった。


 でも、もう気づかないふりができるほど、アイとの騒動は短くない。


「……アイ?」


 呼ぶと、アイは顔を上げた。


「アタシ、ちゃんと案件できたら、魔界で少し認められるかなって思った」


 理科準備室の空気が、少しだけ落ち着いた。


 アリスも、美咲も、光も、何も言わない。


 ベル先生も珍しく茶化さなかった。


 アイは、撮影台の上のドラ焼きを見つめる。


「ほら、アタシ、いろいろ失敗してるから。世界征服も、契約も、命令アプリも、謝罪配信も」


「自覚はあるんだな」


「あるよ!」


「そこは胸を張るな」


 いつもの調子で返したものの、直樹の声は少しだけ柔らかかった。


 アイは指先で、ドラ焼きの包みをつつく。


「でも、ダーリンが嫌なのに出てもらったら、また命令と同じだよね」


「まあ、そうだな」


「命令じゃなくて、お願いって覚えたのに。案件だからって、ダーリンの嫌なことしたら、意味ないよね」


 直樹は黙った。


 アイが、ちゃんと昨日のことを覚えている。


 都合よく忘れていない。


 それだけで、少し意外だった。


 いや、失礼な話だが、本当に意外だった。


「だから、案件はやめる」


 アイはそう言った。


「評価下がるかもしれないけど」


 直樹は、思わずアイを見る。


 アイは少し寂しそうだった。


 けれど、無理に笑ってごまかしてはいなかった。


 直樹が何か言う前に、アイはドラ焼きをひとつ手に取った。


 それを、ぱかっと半分に割る。


 餡子の甘い匂いが、ふわっと広がった。


「でも、これは食べる」


 アイは半分を直樹に差し出す。


「ダーリンと」


 直樹は、差し出された半分のドラ焼きを見る。


「案件じゃなくて?」


「案件じゃなくて」


「供物でもなくて?」


「供物でもなくて」


「実習評価でもなくて?」


「実習評価でもなくて」


 アイは、少しだけ照れたように笑った。


「普通におやつ」


 直樹は視線をそらした。


 妙に照れくさい。


 ドラ焼き半分で照れる意味が分からない。


 だが、今のアイの言い方は、いつもの「ダーリンと案件やる!」より、ずっと困る。


「……普通に食うなら、まあ」


 直樹は半分のドラ焼きを受け取った。


 アイの顔が、ぱあっと明るくなる。


 その明るさは、案件通知を見たときの浮かれ方とは少し違った。


 もう少し、近い。


 もう少し、静かだ。


 美咲は少し離れたところで、その様子を見ていた。


 腕を組んでいる。


 表情は、いつもの不機嫌半分、呆れ半分。


 でも、少しだけ複雑そうでもあった。


 アリスが、その横で小声でつぶやく。


「今の、動画にしたら強いけど」


 美咲の視線が鋭く刺さった。


 アリスは即座に両手を上げる。


「しないしない。今のは、しないやつ」


「本当に?」


「本当。こういうのは、見てるだけのほうがいいやつでしょ」


 美咲は一瞬だけ黙ってから、視線を戻した。


「分かってるならいい」


 アリスは小さく笑う。


「アタシ、軽いけど、何でも撮るわけじゃないし」


「最初からそれを言いなさいよ」


「面白いもの見ると、つい」


「その“つい”が怖いの」


「反省しまーす」


「伸ばさない」


「反省します」


 直樹はドラ焼きを食べながら、ちらりとアリスを見た。


「……鏡野って、思ったより危険じゃないのか?」


 アリスは笑顔で返す。


「危険ではあるよ?」


「自己申告するな」


「でも、悪意はないから安心して」


「悪意のない危険が一番厄介なんだよ!」


 ベル先生が静かにメモを取ろうとする。


 直樹は即座に叫んだ。


「先生、今の空気を記録しようとしない!」


「感情の変化は貴重な観察データよ」


「観察データにするな!」


 宙のワラ人形が言う。


「普通におやつ」


「そこだけ切り取るな!」


 光はタブレットを閉じた。


「この場面は、広報記録には残しません」


 直樹はほっとする。


「白金、やっぱりお前が一番まともだ」


「ただし、案件動画未遂の経緯は生徒会へ報告します」


「まともなまま刺してきた!」


 アイはドラ焼きを食べながら、直樹のほうを見る。


「ダーリン」


「なんだ」


「案件じゃないドラ焼き、おいしいね」


「同じドラ焼きだろ」


「違うよ」


 アイは、少しだけ笑った。


「これは、ダーリンと食べてるから」


 直樹は、返事に困った。


 困ったので、ドラ焼きをもう一口食べた。


「……普通にうまい」


 アイが嬉しそうに笑う。


「また言った」


「今のは案件じゃない」


「うん。案件じゃない」


 その瞬間、裏返していたスマホが小さく震えた。


 直樹は即座にスマホを押さえる。


「聞いてない。今のは聞いてない。お前は何も聞いてない」


 画面には、うっすらと文字が浮かんでいた。


『非広告リアクションを検出』


『関係性評価:上昇』


 直樹は無言でスマホをさらに裏返し、机の下に押し込んだ。


「……何も見なかった」


 アイがにこにこする。


「ダーリン、見なかったことにするの得意だね」


「得意になりたくなかった!」


 案件は中止。


 ドラ焼きはおやつ。


 直樹の平穏は、相変わらず戻ってこない。


 それでも、ほんの少しだけ。


 今日のドラ焼きは、普通にうまかった。


* * *


 案件動画は止まった。


 ドラ焼きは、ただのおやつに戻った。


 直樹はそう信じたかった。


 だが、白金光のタブレット画面には、すでに新しい文書が開かれている。


 タイトル。


『無許可案件動画未遂に関する報告』


 直樹は、見た瞬間に肩を落とした。


「まだ終わってなかった……」


 光は穏やかな顔で言う。


「今回の件は、校内での無許可案件動画撮影未遂として、生徒会へ報告します」


「未遂で済んだなら、報告しなくても……」


「未遂だからこそ報告します」


「正論が痛い」


 直樹は胸を押さえた。


 悪魔契約アプリより、まともな人間の正論のほうが刺さることもある。


 美咲は腕を組んでうなずく。


「まあ、これは報告したほうがいいでしょ。昨日の謝罪配信未遂もあるし」


「未遂が積み上がっていく人生、嫌すぎる」


 アイは不安そうに手を挙げる。


「アタシ、怒られる?」


 光は少し考えてから答えた。


「内容確認はされると思います。ただ、今回は動画が公開される前に止められましたし、本人同意の確認ができていなかった点も明記します」


「つまり?」


「怒られる可能性はあります」


「やっぱり!」


 アイの尻尾がしゅんと下がる。


 直樹は思わず言った。


「まあ、今回はお前、途中で止まったからな。そこは言っとけよ」


 アイがぱっと顔を上げる。


「ダーリン、かばってくれるの?」


「かばうっていうか、事実だろ」


「ダーリン……!」


「そこで感動するな。俺も巻き込まれた被害者だからな」


 光はタブレットにメモを打ち込む。


「では、広報記録案としては――」


 画面に文章が表示される。


『魔界契約アプリによる供物プロモーション通知について』


『校内での宣伝・撮影には事前申請が必要です』


『関係者の同意なき出演・編集・共有は禁止します』


『校内広報システムへの外部アプリ干渉が確認されたため、今後の取り扱いを生徒会で協議します』


 直樹は思わずうなずいた。


「まともだ……」


 美咲も同意する。


「うん。すごくまとも」


 アリスが少しだけ肩をすくめた。


「固いけど、まあ校内文書ならこれくらいか」


 アイは文面を見つめて、首をかしげる。


「供物プロモーションって、やっぱり固いね」


「そこは固くていい」


 直樹は真顔で言った。


「柔らかい供物プロモーションとか、もう炎上の匂いしかしない」


 光は静かに微笑む。


「ただし、内部共有用の見出しは別にします」


 直樹は嫌な予感がした。


「白金?」


 光はタブレットを軽く操作する。


 次の見出しが表示された。


『仔悪魔ちゃん案件動画未遂、契約者の叫びで差し戻し』


 直樹は机を叩いた。


「見出しで俺を刺すな!」


 アリスが即座に反応する。


「タイトルは強い」


「強くしなくていい!」


 美咲がアリスをにらむ。


「強くしなくていいってば」


「いや、でも見出しとしてはめっちゃ分かりやすいよ?」


「分かりやすさで直樹を犠牲にしない」


「佐藤さん、過保護?」


「違う!」


「違うのか?」


「直樹もこっち見るな!」


 直樹は両手を上げた。


 巻き込まれたくない。


 だが、すでに巻き込まれている。


 光は涼しい顔で続ける。


「“契約者の叫び”は、本人が強く拒否していた証拠として有効です」


「俺の叫びに証拠能力を持たせるな!」


「昨日から一貫していますので」


「一貫した被害者アピールみたいに言うな!」


 宙のワラ人形が低く言う。


「契約者、叫びがち」


「傾向分析するな!」


 ベル先生は横から楽しそうに言った。


「真央くんのツッコミは、観測可能な拒否反応として非常に分かりやすいのよ」


「先生まで学術的に刺してくる!」


「反応が大きいほど、実験データとしては――」


「実験にしないでください!」


 アイはおずおずと光を見る。


「白金、その見出し、アタシが悪い感じになる?」


「悪いというより、注意喚起です」


「注意喚起……」


「“仔悪魔ちゃん”の部分がやや柔らかいので、正式文書では“天満アイさん”にします」


「仔悪魔ちゃん、だめ?」


「内部共有なら分かりやすいですが、正式には避けます」


 アイは少し残念そうにする。


「悪魔ちゃん、分かりやすいのに」


「分かりやすいと正式は別なんだよ」


 直樹が言うと、アイは感心したようにうなずく。


「人間界、言葉の変換が多い」


「それでだいぶ世の中が守られてる」


「ダーリンの“普通にうまい”も変換されたしね」


「蒸し返すな!」


 光はさらに文書を整理していく。


『対応内容』


『一、案件プレビューの校内共有を差し戻し』


『二、本人同意未確認のため使用禁止』


『三、魔界契約アプリの校内システム干渉について調査依頼』


『四、契約者が継続的に叫んでいるため、精神的負担に配慮』


 直樹は四番を指さした。


「最後! また俺専用!」


 光は真面目に言う。


「配慮項目です」


「配慮されてるのに傷つく!」


 美咲は小さく笑いをこらえる。


「いいじゃない。配慮されるんだから」


「“叫んでいるため配慮”って書かれる高校生活、嫌だろ」


「それは嫌」


「即答!」


 アリスが机に肘をついて、光の画面を覗く。


「白金くん、内部見出しなら、もうちょい短くてもいいんじゃない?」


「例えば?」


「『仔悪魔案件、契約者絶叫で差し戻し』」


「悪化した!」


 直樹が叫ぶ。


 光は真剣に考え込む。


「簡潔ですね」


「検討するな!」


「ただ、“絶叫”は感情が強すぎます。“叫び”にしておきます」


「そこを調整するな!」


 ベル先生がうなずく。


「広報って奥が深いのね」


「先生が学ばなくていい分野です」


 宙のワラ人形。


「叫び、広報資源」


「資源にするな!」


 アイは少しだけ笑った。


 さっきまで落ち込んでいた表情が、直樹のツッコミで少し戻っている。


 それを見て、美咲が小さく息を吐いた。


「まあ、報告は仕方ないわね」


「仕方なくない方向を探したい」


「無理でしょ」


「即答!」


 光はタブレットを閉じた。


「詳細は、生徒会長に報告します」


 直樹の動きが止まる。


「生徒会長?」


「はい。鳴海真奈会長です。校内の秩序に関わるので」


 理科準備室の空気が、少しだけ変わった。


 ベル先生は興味深そうに微笑み、宙は無表情のままワラ人形を抱える。


 アリスは「あー」と何か分かったような顔をする。


 美咲は少しだけ眉を寄せた。


「真奈会長まで行くの?」


「外部アプリが校内広報システムに干渉していますから」


「正論がどんどん大きくなる……」


 直樹は頭を抱えた。


「生徒会長って、そんなに厳しいのか?」


 アリスが軽く笑う。


「厳しいっていうか、ちゃんとしてる人。校内ルールとか、秩序とか、そういうのにめっちゃ強い」


「今の俺たちに一番刺さるタイプじゃん」


「うん。刺さると思う」


「楽しそうに言うな!」


 アイは目を丸くする。


「生徒会長……学園の支配者?」


「言い方!」


「違うの?」


「違う。たぶん違う。少なくとも悪魔的な支配者じゃない」


 光が穏やかに補足する。


「鳴海会長は、学園運営の中心にいる方です」


「ほら、支配者っぽい」


「アイ、悪魔語に翻訳するな」


「じゃあ、秩序の女王?」


「悪化した!」


 美咲が額を押さえる。


「お願いだから、本人の前で言わないでよ」


「言わないよ。たぶん」


「たぶんをやめなさい」


 直樹は光を見る。


「白金。報告って、どの程度?」


「まずは事実確認です。必要があれば、関係者への聞き取りになると思います」


「関係者って」


 光はにこやかに答えた。


「真央くん、天満さん、佐藤さん、見上さん、鈴鳴先生、鏡野さん、そして私ですね」


「ほぼ全員!」


「ほぼ現場にいたので」


「現場って言うと事件感が増す!」


 ワラ人形が低く言う。


「案件動画未遂事件」


「事件にするな!」


 光は最後に、タブレットのメモ欄へ一文を加えた。


『詳細確認のうえ、生徒会長判断を仰ぐ』


 その文字を見た直樹は、深く息を吐いた。


「ドラ焼き食べただけなのに、何で生徒会長判断まで行くんだよ……」


 アイは半分残ったドラ焼きを見つめて言った。


「ドラ焼きって、すごいね」


「ドラ焼きのせいにするな。悪いのは魔界アプリと、その周辺の大人と、ちょっとお前だ」


「ちょっと?」


「ちょっとよりは多い」


「ダーリン、正直!」


「今日は正直でいたいんだよ!」


 光は丁寧に頭を下げた。


「では、この件は生徒会へ持ち帰ります。勝手な公開や共有は、こちらで止めます」


「それは本当に助かる」


「ただし、会長から呼び出しがある可能性は高いです」


「助かった直後に落とされた!」


 アリスがにこっと笑う。


「次は生徒会編?」


「勝手に次回予告するな!」


 美咲がため息をつく。


「でも、まあ……行くしかないわね」


 アイは小さく手を握る。


「アタシ、ちゃんと説明する」


 直樹はその横顔を見た。


 案件はやめると決めた。


 でも、責任まで投げ出す気はないらしい。


 そこだけは、少しだけ成長している。


 ほんの少しだけ。


 その成長が毎回、直樹の胃を犠牲にしている気はするが。


 光は理科準備室を出る前に、もう一度タブレットを見た。


「内部共有用見出しは、少し柔らかくしておきます」


「本当だな?」


「はい」


 光は穏やかに微笑んだ。


「『仔悪魔ちゃん案件動画未遂、契約者の叫びで差し戻し』で」


「一文字も柔らかくなってない!」


 直樹の叫びが、理科準備室に響いた。


 その叫びもまた、記録に残されそうで、直樹は慌てて口を押さえた。


* * *


 その日の夜。


 真央家のリビングには、ようやく平和が戻っていた。


 少なくとも、見た目だけは。


 テーブルの上には、ドラ焼きが一個。


 その横には、牛乳。


 ソファには、ぐったりと背もたれに沈み込む真央直樹。


 そして、その隣には、満足そうにドラ焼きを両手で持つ天満アイが座っている。


「ダーリン、今日はありがとう」


 アイが、ふいに言った。


 直樹は半分閉じかけた目を開ける。


「何が」


「案件じゃなくて、一緒に食べてくれて」


 アイは、ドラ焼きを見つめながら笑った。


 その笑い方は、朝の「ドラ焼き案件だよ!」の浮かれた顔とは、少しだけ違っていた。


 直樹は視線をそらす。


「案件じゃないならな」


「じゃあ、明日も案件じゃなくてドラ焼き食べる?」


「それはただのおやつだ」


「いいじゃん、おやつ」


「悪くはないけど、毎日食ったら普通に太るぞ」


「悪魔は太らないよ?」


「本当か?」


「たぶん」


「その“たぶん”でカロリーに勝負を挑むな」


 アイは、ぱくりとドラ焼きを食べる。


 幸せそうに頬をゆるめた。


「んー。やっぱり、案件じゃないドラ焼きっておいしい」


「同じドラ焼きだろ」


「違うよ。案件だと、ちゃんとしなきゃって思う。でもおやつだと、ただおいしい」


 直樹は少しだけ黙った。


 今日一日、案件だの供物だのPR表記だの、やたら難しい言葉が飛び交った。


 けれど、結局アイにとって一番大事だったのは、ドラ焼きがおいしいことと、それを誰かと一緒に食べることだったのかもしれない。


 だったら、それだけでよかったのではないか。


 魔界実習管理局は、いったい何を管理しているのか。


 直樹がそんなことを考えかけた瞬間。


 ぴこん。


 スマホが鳴った。


 直樹の顔から、すべての穏やかさが消えた。


「今の音、嫌い」


 アイもドラ焼きを持ったまま固まる。


「魔界契約アプリ?」


「だったら即座に電源を切る」


 直樹は恐る恐るスマホを手に取った。


 画面には、魔界契約アプリではない通知が表示されていた。


『生徒会広報補佐・白金光より通知』


 直樹は、少しだけ息を吐く。


「白金か……なら、まだマシか?」


 次の文面を見た瞬間、その安心は砕けた。


『本件は生徒会長へ報告されました』


『明日、関係者は生徒会室へ出頭してください』


 直樹はスマホを二度見した。


「出頭!?」


 アイは目を丸くする。


「ダーリン、今度は生徒会に召喚された?」


「召喚じゃない! 呼び出しだ!」


「でも、出頭って強そう」


「強くなくていい! 高校生活で出頭って単語を見たくない!」


 さらに通知が続く。


『対象者:真央直樹、天満アイ、佐藤美咲、見上宙、鏡野アリス、鈴鳴ベル教諭』


『案件動画未遂および校内広報システム干渉について』


『説明を求めます』


 直樹はソファの上で頭を抱えた。


「説明って……俺、今日一日ずっと説明を求めたい側だったんだけど」


「ダーリン、被害者?」


「そうだよ!」


「じゃあ、被害者として堂々と行けばいいよ」


「その前向きさ、半分くらいくれ」


「半分あげる」


「悪魔契約っぽいからやめろ」


 アイはドラ焼きをひと口食べてから、真剣な顔になる。


「アタシ、ちゃんと説明するよ。案件はやめたって。ダーリンが嫌なことは、しないって」


 直樹は少しだけアイを見た。


 今日のアイは、いつもより少しだけ学んでいる。


 少しだけ。


 ほんの少しだけ。


 でも、その少しが大事なのだろう。


 直樹はため息をついた。


「まあ……明日な」


「うん!」


「余計なこと言うなよ」


「うん!」


「生徒会長を支配者とか女王とか言うなよ」


「う……うん!」


「今、迷ったな」


「一瞬だけ!」


「一瞬で終わるんだよ、生徒会室では!」


 そのとき、部屋の照明がなぜか暗くなった。


 どこからともなく、低く重々しいナレーションが響く。


 悪魔契約。


 案件動画。


 供物プロモーション。


 校内を揺るがす数々の騒動に、ついに学園秩序の番人が動き出す――。


「誰だ、今のナレーション!」


 直樹が周囲を見回す。


 しかし、リビングには誰もいない。


 スマホ画面だけが、勝手に次回予告風の黒背景へ切り替わっていた。


 映し出されるのは、重厚な扉。


 おそらく、生徒会室。


 そこに白い文字が浮かぶ。


『書類』


『校則』


『申請』


『同意確認』


「地味な単語だけで怖い!」


 扉が開く。


 眩しい光の中に立つ、一人の女子生徒。


 完璧に整えられた制服。


 隙のない姿勢。


 静かだが、逆らいにくい声。


 鳴海真奈。


「真央直樹さん。天満アイさん。あなたたちには、説明責任があります」


 直樹は画面に向かって叫んだ。


「俺、被害者なんですけど!」


 アイはスマホ画面を拝むように見つめる。


「学園の女王様だ……!」


「拝むな!」


 ナレーションがさらに盛り上がる。


 次回。


 書類と校則が飛び交う学園裁判。


 悪魔契約は校則違反なのか。


 契約者の同意は有効なのか。


 供物としてのドラ焼きに、校内持ち込み申請は必要なのか。


「最後だけ普通のおやつ問題に戻すな!」


 画面いっぱいに、次回タイトルが表示される。


『生徒会長は悪魔契約を認めない!』


 直樹は割り込んだ。


「悪魔契約を認めないのは俺も同じだ!」


 アイは元気よく、スマホ画面に向かって指を差す。


「第7話、生徒会長は悪魔契約を認めない!」


「だから、俺も認めてないって言ってるだろぉぉぉ!」


 直樹の叫びが、真央家のリビングに響いた。


 その叫びを聞いて、台所から真実の声がする。


「直樹ー。明日、生徒会に行くなら、ちゃんと挨拶するのよー」


「母さん、受け入れるの早い!」


 階段のほうから遊羅の声も飛んできた。


「お兄ちゃん、今度は学園裁判?」


「違う!」


 アイは最後のドラ焼きを食べ終え、満足そうに笑う。


「ダーリン、明日も大変そうだね」


「お前も当事者だぞ」


「うん。だから一緒に行く」


 直樹は、文句を言おうとして、やめた。


 どうせ逃げられない。


 魔界契約アプリからも。


 仔悪魔ちゃんからも。


 そして、今度は生徒会長からも。


 スマホ画面には、最後に小さな文字が表示されていた。


『出頭時刻:明日放課後』


『遅刻厳禁』


『契約者の叫びは記録対象外とします』


 直樹は少しだけ安心しかけた。


 その下に、さらに小さく追記が出る。


『ただし、会議室外に漏れた場合はこの限りではありません』


「結局記録する気じゃねえか!」


 こうして、第6話の案件動画騒動は未遂で終わった。


 だが、火は消えない。


 ただ、次の場所へ移っただけである。


 次なる戦場は、生徒会室。


 相手は、学園秩序の番人。


 そして直樹の願いは、今日もただひとつ。


「普通に学校生活を送りたいだけなんだよ……」


 その願いは、たぶん明日も叶わない。

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