4.疾風娘が空に舞う
林檎月の豊かな日差しが、黄金色の輝きで王都クローカの美しい町並みを彩っている。
「もう王宮の中?」
キャムは驚いて眉をはねあげた。
ゆるやかに右に曲がりながらのぼっていく石畳の道は、ただの坂ではなく、一段がやたらと広い階段だった。両脇は、百合模様の格子をはめた窓がならぶ淡茶色の壁がすきまなく建ち並び、高ささまざまな赤褐色の屋根を乗せている。さらに、踊り場のような小広場があったり、建物と同化した渡り廊下の下のアーチ型のトンネルをくぐったりと、変化に富んでいる。
「そうだ。ここは百合の階段というんだ」
隣でルヴェルがうなずいた。
通りを吹きすぎていくかすかな風に髪をまかせながら、もう一度、キャムはあたりを眺めてみた。
キャムたちに前後して追いかけっこする子どもたちや、彼らにむかって楽しげに吠える白い子犬や、頭上ではためく洗濯物や、声高に議論する長上着の男たちや、新鮮そうな籠いっぱいの野菜をかかえて立ち話にいそしむ女たちや、ドアの前でひなたぼっこをする老人や――町並みは整って美しく、町人も皆どことなく身ぎれいなものの、やはりどこの街角にもありそうな、ごく当たり前の風景だった。
「ここが、もう、王宮?」
一語一語、ゆっくりくりかえす。
ルヴェルはふたたびうなずく。
「このあたりは王宮内区という。クローカにある建物の四分の一は、こうした元王宮なんだ。住民は王宮の使用人たちとその家族と親族で、王宮内区の建物は渡り廊下とかで全部つながっている。橋の上の建物と似ているが、これは綿密な計算のもとに建てられているんだ。こうした建築物は、クロー王国の歴史の古さと豊かさのたまもので、たとえば王立錬成院本部は第一棟にあって、窓格子の意匠は……」
「せっかくだけど、そういう話は興味ないから」
キャムはばっさりさえぎる。
「ともかく、これから会う王さまは、このきれいな階段の先に住んでるわけね?」
「ああ、いまはな。いつもは郊外の離宮にいることも多いんだが」
「なんだ、そっちのほうが気軽でよかったのに」
「そうでもないぞ。なにしろなんにもない。離宮にいる以外の人間より、鹿や猪のほうが多いようなところだ。陛下が狩りや釣りを楽しむ場所だからな」
ルヴェルはむすっと眉間をくもらせる。
「まったく、そんなところにばかり行っているから、こんなばかげたお遊びを思いつくんだ。女剣士と金薔薇剣士団の団長を戦わせて、それで聖剣士を内定しようだなんて。こんな裏の決定があるなんてことがおおやけになったら、国民のやる気がそがれるだけだ。ひいては政府への不信ってことにだって――」
「でも、そういう正論で納得させられないんでしょ?」
「……おれみたいなしたっぱ風情は、意見なんてもとめられないんだ」
「もっと偉い人は?」
「陛下の機嫌を損ねて、更迭される危険をおかすほどの問題じゃない」
「ふうん。要は、出世する人はもっと大人ってわけね。見習ってみたら?」
「性分を、そうかんたんに変えられるか」
「王さまからしてそうみたいだしね」
ルヴェルはますます眉間をくもらせた。
「……問題だ」
「まあいいじゃない。もしかしたら王さまのこのお遊びのおかげで、ひとついいことが起きるかもしれないんだから」
「なんのことだ? ――そうだ。だいたい、なんで急に王宮へ来ることを納得したのか、まだ理由を」
キャムはルヴェルの質問をさえぎって逆に聞く。
「それより、この格好でおかしくない?」
髪は地色の淡褐色に戻して束ね、キャムの上背では腿まで来る男物の短上着の下に、脚の線がそのまま出るぴったりした脚衣と膝までの革長靴を合わせてある。もちろん腰にはカリハ・シャールカの剣。
ルヴェルはちらりと天明瞳をキャムに走らせ、すぐに行く手に戻す。
「おかしくないといえばおかしくないが、やっぱりおかしい」
「なんで?」
「……女だろう? 脚を、そこまではっきり出すのはだな、その」
「そうだけど、だって王さまは女剣士に会いたがってるんでしょ?」
キャムは、肩に落ちた一房の髪を指にからめた。ヴァルドに斬られたこの箇所だけ短くなってまとめられず、しかたなくそのままにしてある。
「だったら男装でいいじゃない。このほうが動きやすいし」
「いままで平気で、スカートのままいろいろやってたじゃないか」
「あのねえ、急に事が起きたって着替えられるわけないでしょ? でも今日は女剣士ってことで呼ばれてるわけでしょ? 予想できることに用意するのは当然じゃない」
「いやでも、そのでも、ほらあのなんだ」
まったくこちらに――特に脚に――絶対視線がむかないよう、かるく上向いてすらいるルヴェルの横顔に、キャムはあきれて尋ねる。
「で、どこまで行けばいいのよ?」
「ああ、それはもうすぐだ」
ルヴェルの言葉どおり、カーブの先に鉄の柵の門が見えた。
銀の飾りのついた帽子の門番は、ルヴェルの姿にさっと槍をかかげた。
小姓がひとり待っていて、キャムから剣を受け取ると、しずしずと五歩ほど離れてついてきた。
門を過ぎると、いきなり人の気配がなくなった。両脇の建物が一気に離れて道も広がり、まっすぐ三段のぼると階段もなくなって広場となる。
「ああ、あれなら王宮って感じ」
広場中央の噴水のむこう、古代帝国風に列柱を据えた大きな建物が横たわっている。
「そうだ、あれが王宮だ」
王宮のポーチから、豪華なベルベットの帽子とマントの少年が飛び出した。
「ルヴェル!」
きわだった身なりから、キャムは走ってくるこの金髪の少年がティシェク五世なのだと知った。
「……ねえ。王さまって、もう結婚しててもおかしくない年だったよね?」
「ああそうだ、それがどうした」
「当分まだむりそうね」
ルヴェルはなにか答えようとしたのかもしれないが、それよりも王の到着のほうが早かった。
「やったな! さすがはルヴェルだ!」
頬を上気させてルヴェルの肩をたたきながら、王は期待にあふれた目をこちらにむけてくる。
「これがカリハ・シャールカの弟子か!」
キャムは片足を後ろにかるくひいて、礼をしてみせた。
「初めてお目にかかります、キャム・ヴラスタと申します、陛下」
「うん!」
王はにこにこと笑っている。
だが、キャムは王よりもその隣に立った長身の男に目を奪われた。
上着に隠された鍛えた体躯。こちらを射抜くような淡い水色の目。王の前ということで帯剣こそしていないが、革のベルトのバックルに彫られた金薔薇の紋章が、男の身分を物語る。
キャムはわずかに目を細める。
「ああ! こちらは金薔薇剣士団団長のイグナッツだ! さすがだな、紹介するより前に気づいたか!」
ティシェクはふたりの肩をたたかんばかりの勢いで、ますます喜んでいる。
「今日はな、ふたりに戦ってもらおうと思って呼んだんだ!」
イグナッツの水色の目は極端にまばたきがすくなく、完璧に心を隠して動じない。
強い――剣士としての彼のなみはずれた力量に、キャムは感心する。
同時に悟る。
自分では、この男には勝てない。この男もそれを知っている。それでも国王の命令として、この茶番をきちんとやりとげる腹づもりでいる。
ふたりの剣士のあいだの無言のやりとりにはまるで気づかない様子で、ティシェクが無邪気にぱんと手をたたいた。
先ほどキャムから剣を受け取った者と、もうひとり別の者と、そろいの制服の小姓がふたり、剣をかかげてやってくる。
ティシェクが顔を寄せてささやいてくる。
「ここだけの話だがな! イグナッツとやりあえるくらいの腕なら、余は、もうおまえを聖剣士にすると決めているんだ!」
ルヴェルから聞いていたとおりだった。
キャムはさりげなく、王から一歩さがった。
「剣を合わせるまでのこともありません。金薔薇剣士団団長殿のお力は、わたしのような未熟者とは比べようもないものです。えこひいきはご勘弁いただきたく」
一瞬、横で聞いている水色の目がゆらぐ。
だけでなく、傍らのルヴェルの天明瞳まで驚いたようにふりかえる。
もちろん、ことばを返された当の本人、ティシェクが一番驚いている。驚きはそのまま不快感となり、怒りに育って、彼の細い眉を逆立てる。
「な、なにを言い出すんだ! 余の決定のなにが不満だ! いいか聖剣士だぞ、聖剣士にしてやるって言っているんだぞ!」
キャムは彼には答えず、あわてふためくルヴェルに顔をむけてにこりと笑いかける。
「ルヴェル、あなたがわたしを助けてくれて、うれしかったから」
いぶかしげにゆらいだ天明瞳に、キャムは言う。
「わたしも、あなたの問題を手助けしてあげる」
「な、なに、なんだって?」
「あなたの願いは、この国をよくしたい、だったものね」
キャムはふたたび少年のような王にむきなおると、顔をそらせて下目ぎみに彼を見た。
「あのねえ! 猫も杓子も聖剣士になりたがるなんて、勝手に思いこまないでくれる?」
「……は?」
そんな乱暴なことばを投げつけられたのは、おそらくティシェクは生まれて初めてのことだろう。驚いたり怒ったりするより前に、なにが起きているのかわからないらしい。目も口もぽかんと見事なまでに丸くなる。
キャムを止めるべきイグナッツは、ためらっている。ここで役目を果たすべきか、それともキャムがティシェクの不興を買うまで放っておくべきか、水色の目の奥であわただしく考えている。
その間に、キャムはティシェクの鼻先に指をつきつける。
「だいたい、どっちなのよ? 神聖剣戦に求めるものは、母国の聖剣士の勝利なの、それともあなたの名誉なの?」
「め、名誉……」
「ああ、そう! だったらいっそ自分でやりなさい!」
「は?」
「他人に勝ち取ってもらうなんてお安い名誉に、いったいどれくらいの価値があるっていうのよ? ――はい、じゃーんけん」
だしぬけに握ったこぶしを大きな動作でかまえると、つりこまれたようにティシェクもおなじくこぶしをかまえる。
「ぽん!」
キャムはこぶしそのまま、ティシェクは二本の指をつきだした。
「わたしの勝ちね」
にやり、とキャムは笑う。
きょとんと小首をかしげて、顔の前に持ってきた二本の指を立てた自分の手と、キャムとを見比べたティシェクが、はっとまばたく。
が、遅い。
「すきあり!」
キャムの平手がティシェクの頬に入って、かわいた音が天高く吸いこまれる。
「いっ!」
すでにキャムの平手を受けているルヴェルが痛そうな声をあげる。
が、キャムは気にしない。
「欲しいものがあるなら、自分でがんばって勝ち取ってよ。それでこそわたしたちのかっこいい王さまよ」
ミルシェさながらに片目をつぶって、王がひっぱたかれるという異常事態に直面して硬直している小姓の手から、自分の剣をひっつかむ。
すっ、と横に影がさす。
イグナッツだった。
「――」
彼も自分の剣をとりかえし、王に無礼をはたらいた罪人の処罰にそれを抜こうとしている。
キャムも柄にかけた右手を緊張させる。膚が泡立つ。
来る――金薔薇剣士団の団長の一撃がよけられるかどうか、キャムは極限まで神経をとぎすます。
「待て、イグナッツ!」
突然ティシェクの制止が入った。
ぴたり、とイグナッツの剣が止まり、彼は王をふりかえった。
王の頬はまた上気していた。
「決めたぞ! キャムは、聖剣士ではなくて余の妻とする!」
「はあ!?」
キャムやルヴェルや、何人分かが重なったすっとんきょうな声のうちには、ひょっとしたらイグナッツまで含まれていたのかもしれない。
「ちょ、ちょっと待ってよ! なにまた勝手に決めてるのよ!」
キャムは当然、猛抗議する。
満面の笑みを浮かべたティシェクは、おおきく両手を広げた。
「いいじゃないか! キャムは余を負かした最初の者だ! 余はキャムにいろんなことを教わるぞ! そうすれば余も強くなり、さらに立派な王となり、クロー王国はますます栄える! すぐに婚約式をすませて、結婚式はメルンカの花が満開になる花月にしよう!」
やけに前向きなティシェクの暴走は止まりそうにない。
キャムはさらにあわてて声を張りあげる。
「だから勝手に決めないでよ!」
「かまわん、余は皆に結婚をせっつかれているのだ!」
「わたしがかまうわよ!」
「気にするな、やっと結婚したい娘が見つかったといえば、皆が満足だ!」
「わたしは満足しないわよ! 気にするに決まってるじゃない!」
つきあってられないとばかり、キャムは身をひるがえす。
来る途中、壁に取りつけられた灯火用の金具に目をつけてある。キャムは走りながら剣を背負い、金具に飛びついて、屋根にあがった。
「ま、待て! 誰か来い、余の花嫁をつかまえろ!」
ティシェクの大声に、わらわらと王宮から人が出てきた。
それも待てずに、ティシェクが追ってくる。
「キャム、待て、待ってくれ! 余と結婚してくれ!」
それに追いすがった影がある。
「だめです、陛下!」
ルヴェルだった。彼はティシェクを背後から抱きとめ、顔をあげて叫んだ。
「行け、キャム・ヴラスタ!」
ティシェクがもがく。
「あ、こら、ルヴェル! 顔をあげるな、余の妻の脚を見るな!」
「脚なんかとっくに見てます――じゃなくて、とにかく彼女はだめです!」
「……なんの話をしてるのよ」
屋根の上でキャムはあっけにとられてふたりを見下ろした。が、ふふっ、とすぐにちいさな笑いがこみあげる。
ルヴェルに、またかばわれてしまった。
そんな彼がわずらわしいどころか、ほんのりうれしい。
剣はひっさげたまま、ここはキャムをとらえないほうが得策と判断したらしいイグナッツは動かずにいるが、王宮から出てきた兵たちが近づいている。
「ルヴェル、それじゃ!」
キャムは手を振り、赤い続き屋根をふりかえった。
林檎月の風が吹きぬける高い空が、さえぎるものなくどこまでも広がっていた。
「――さ、行こう」
風が、キャムの生まれたままの淡褐色の髪をやさしく吹きあげた。
〈了〉