ひらり、ひらりと。
なにかに導かれるかのように、静かに舞い踊る薄紅の雪。
目の前を漂っていた桜の花弁が、畳の上に座るように着地する。
「身体がだるい。重い。気分が悪い。口移しでないと食べる気がしない」
「それだけ体調が悪かったら、口移しでも食べられないわよ」
「試してみないと、わからんぞ?」
「駄々こねないでよ、子供じゃあるまいし」
きっちり三日三晩寝込んだあと、暁貴は平然とした態度で我儘放題述べていた。
それを窘めながら、蓮華は用意された膳を布団の脇に置く。
毒の症状は軽く、昏睡状態は長く続かなかったが、そのまま体調不良を訴えてしまったのだ。
二日目は発熱に見舞われて食物を全て吐いてしまい、三日目は風邪のような症状が続いた。
医師は精神的なものだと言って安静を言い渡したが、今朝にはほとんど回復したようだ。
顔色もよく、何事もなかったかのように添い寝まで要求してきた。本当に図々しい。
「昨日までは、あんなに甲斐甲斐しく世話をしてくれていたのに、冷たいじゃないか」
「病人と仮病は違うでしょ」
「俺はお前のせいで死にかけたのだ。また毒でも入っていないか心配だ。悪いが、毒見してくれ」
膳に盛られた鱧茶漬けを指差して、暁貴は意地の悪い笑みを浮かべた。どう見ても、仮病である。
だが、毒を盛られたのは、ある意味蓮華のせいだ。
蓮華は仕方なく茶碗を持ち、澄んだ出汁で満たされた茶漬けを口に運ぶ。
柔らかく崩れる鱧を彩る味噌と山椒の香りが上品で、流石は皇族に出される逸品だと思った。蓮華は丁寧に味わうように咀嚼する。
だが、蓮華が茶漬けを飲み込む前に、暁貴の手が素早く伸びた。
「んぅっ!」
気がついたときには、もう遅い。料理で綻んでいた蓮華の唇を貪るように、暁貴が唇を重ねていた。
舌先で唇の扉をこじ開けられ、蓮華は思わず身を硬直させてしまう。
「ふん、美味いな」
暁貴は短く言うと、放心している蓮華から茶碗を奪うように取り上げる。
数日、まともに食事を摂っていなかったせいか、いつもより豪快に茶漬けを胃袋へ流し込んでいった。
「ちょ……く、口移しじゃなくても食べられるじゃない!」
「そのようだな。今、気がついた」
白々しく笑いながら、暁貴は空になった茶碗を突き出す。おかわりを所望しているようだ。
蓮華は文句を言いながらも、お櫃に入った白飯を大盛りにしてやった。
「あの間諜だが」
おもむろに暁貴が口を開く。
沙耶のことを言っているのだとわかり、蓮華は手を止めた。
体調が悪くても、抜け目なく忍にあらゆる情報を集めさせていたようだ。そういうところは、相変わらずである。
「今朝、自害したらしい。囮にしようと思っていたんだが、困ったものだ」
「そう……」
大して困ってもいない。他にも策はある。そう言いたげに、暁貴は胡坐をかき、片肘をついた。
実際、暁貴は困っていないだろうし、政敵を確実に追い詰めるだろうと、蓮華にはわかってしまう。
「沙耶をすぐに殺さなかったのは――」
「勘違いしてくれるなよ。間諜は情報源にもなり得る。拷問して尋問するのが定石。その前に死なれてしまったがな」
蓮華の言葉を予測して、暁貴は強い口調で遮った。当たり前のように冷静で、明朗な声だ。
「……ありがとう」
蓮華は暁貴にも聞こえないほど小さな声で呟き、白飯の上に茶漬けの具を盛っていく。
沙耶のことを友人だと思っていた蓮華に配慮してくれた。目的は他にもあっただろうが、きっと、そうなのだと蓮華は思うことにする。
やっぱり、この人は優しすぎるんだ。
今は素っ気ない態度の中に確かなものを感じる。蓮華にも、暁貴の心が読めるようになったのかもしれない。
「そういえば、まだ答えを聞いていないが」
茶漬けをこしらえる蓮華の横顔に、暁貴が言葉を投げた。
――どこへも行くな。
求められている答えを悟って、蓮華は再び手を止めてしまう。庭では、もう終わりかけた桜の花が最後の薄紅を散らせていた。
母を殺したのは秀明ではなく、暁貴だった。
母は自ら死を選んだかもしれないが、命令を下したのは暁貴だ。憎むべき相手は、目の前にいる男だった。
だが、同時にその男は、蓮華を傍に置き、真実を告げなかった。
母親が自分を置いて死を選んだ真相を、蓮華に告げられずにいた男でもある。
「どこへも行かないなんて、約束出来ないわ」
蓮華はゆっくりと、心を声にした。
「今だって憎いと思う。やっぱり、母様は大好きなの。奪った相手を許せない」
秀明は政に向いていないが、暁貴だって同じではないか。蓮華は密かにそう感じていた。
無能を装って、冷徹を装って、策を弄し……いくら取り繕っても、皮を剥げば二人は同じ。
決して、正反対などではない。
同じ存在なのに左右違う動きをしているだけの鏡だと、蓮華にはわかってしまった。
「でも、あたしは……」
怖くなってしまった。
暁貴の優しさが怖くて堪らなく感じてしまう。
彼はどんどん闇に染まるだろう。平気な振りをして、また同じように人を殺める命令を下す。政敵を引きずり降ろし、残虐な刑を言い渡すかもしれない。
秀明の代わりに。
暁貴がどんなに醜くい闇であろうと、この国は――この国を統べる君主となった秀明は美しく在り続ける。穢れた闇を覆い尽くすように咲いた桜や、麗らかな風が変わることはない。
暁貴は秀明の影になると決めている。彼の明るい光の下で、闇になろうと決めているのだ。
きっと、暁貴の生き方は覆らない。
自分の優しさを隠して生きていくだろう。脆さを見せずに生きて行こうとするだろう。
本当は崩れやすく、弱い人間だというのに。
「ここにいるわ。でも、あなたを赦すわけじゃない。またいつか、命を狙うかもしれない」
蓮華の答えを黙って聞く暁貴の表情は変わらない。
暁貴は茶碗を持つ蓮華の手首を掴むと、軽々と自分の方へ引き寄せた。何日も寝込んでいたとは思えない力強さだ。
細い身体を腕の中に納めて、暁貴は囁くように言葉を紡ぐ。
「では、俺の命は蓮華にくれてやろう。好きなときに殺せば良い」
顔を胸に押し付けられて、暁貴の表情を見ることが出来ない。
肌越しに感じる鼓動が熱を帯びている気がした。それでも、声だけは悪戯で人を見下したような、いつも通りの調子だ。
「お前以外の人間に、俺の首はやらん。だから、そんなに怖がるな」
長い指が、宥めるように蓮華の黒い髪を梳かす。
あいかわらず、蓮華の心など見透かされているようだ。
蓮華には暁貴の命など、もう狙えない。彼が抵抗しなくても、なんの邪魔が入らなくても、出来ないのだ。
殺すくらいなら、殺される選択をしてしまう。それがわかっていて、そんなことを言うこの男は、やはり腹黒い。
けれど、そこに宿った虚勢と優しさが伝わるようで、蓮華は厚い胸板に顔を埋める。
「俺は病気だからな」
「また仮病?」
「仮病とは失礼な」
痛いほど強く抱き締められた腕の中からようやく抜け出すと、蓮華は厳しい視線を暁貴に浴びせる。
だが、そこにあったのが予想外に真剣な表情で、思わず息を呑んでしまった。
「蓮華に触っていないと死ぬ病気だ」
肩を抱く力が再び強くなる。
暁貴の顔が間近まで迫り、吐息が重なった。
甘くて柔らかい感触が唇を伝って全身に駆け廻る。胸の動悸が恐ろしい速度で跳ね上がり、痺れたように全身から力が抜けていってしまう。
甘美な夢のような波が心に押し寄せ、現実をさらっていく気がした。凍えるような孤独に竦んでいた胸に陽が射し、冷たい氷を溶かしていく。
「暁! いいものを作りましたよ! だから、これで元気になってください!」
静けさと桜の香りで満たされていた宮の一室に、慌ただしい声が響く。
開けっ放しだった障子の間から滑り込んだ秀明の姿を見て、二人は唖然としてしまう。
秀明は尻尾を振る子犬のように、新しい「発明品」とやらを突き出していた。
しかし、すぐに、二人が互いに腕を回して抱き締めている最中だと気づいて、みるみる顔を赤くしていった。
「お邪魔でしたか?」
「見てわからんのか」
暁貴の一言に秀明はシュンと背中を丸めて小さくなっていく。
暁貴は興が醒めてしまったのか、蓮華をとりあえず解放した。
「いいえ、秀明殿下。良い頃合いでございましたよ。はい、暁貴殿下。お食事の続きをなさいませ。ご自分で! 箸を持って!」
蓮華は暁貴に茶碗と箸を押しつけながら、満面の笑みを貼り付けた。
体力が落ちているはずなので、食べてもらわなければ困る。暁貴は苦い顔をしていたが、渋々と出汁をすすった。
「暁、もう元気になったのですか? 大丈夫なのですか?」
「いや、まだ熱もあるし吐気がする。悪寒も酷いから男は退室し」
「いいえ、もうすっかりお元気ですわ。秀明殿下のお陰でございます!」
秀明が素直に仮病発言を信じてしまいそうなので、蓮華は暁貴の声を遮って笑ってやる。そして、部屋の隅に山積みにされたガラクタ、もとい、発明品の数々を見た。
どれも、暁貴を元気にしようという趣旨だけは伝わったが、イマイチ使えないものや、すぐに壊れたものばかりであった。
蓮華は心ない笑声をあげながら、発明品の山を見据える。
「それで、今回はですね!」
秀明はあいかわらず、楽しそうに持ってきた発明品の説明をしていた。
大きな子供のようにはしゃぐ兄を見ながら、暁貴も楽しそうに微笑している。
全く正反対の兄弟。
しかし、同じように穏やかで優しい魂を持った鏡のような存在。
一人では不完全で、脆く崩れやすい二人。
この国を美しく覆い、闇へと花弁を散らす桜と同じ。
――良いですか、蓮華。忘れてはなりませぬ。
庭の池では、尚も舞い続ける桜の花弁がクルクルと回りながら、水面に着水する。
赤紫の新芽が見えはじめても、桜の雪は止むことを知らない。
薄紅美しい花弁が全てなくなるまで、桜はその身を散らし続ける。
――この国は美しい。そう……とても、美しいのですよ。
だが、花が終えても命は枯れない。
やがて、青々とした葉が茂り、清々しい夏を彩るのだ。秋は紅く、冬には雪をまとう。
この国は美しい。しかし、その美しさのために散った命は数知れない。
母は目を背けていた。この国の美しさというまやかしに縋ることで、自分の衝動から目を背け続けていた。そして、自ら散ることを選んだ。
だから、蓮華は目を背けない。
この国の闇や行く末を見続けることで、散っていた花弁を弔おう。
秀明と暁貴が作る国は、きっと、これまでと同様、あるいはこれまで以上に美しいだろう。
忘れない。
散った花弁は無駄ではない。積み上げられた闇の上に咲く花は、こんなにも美しいのだと言えるようになりたかった。
この国は美しい。
光も闇も、全てが美しい。何もかもが愛しいと思いたい。
「蓮華」
暁貴に呼ばれ、蓮華は庭から視線を室内に戻す。
彼は一方的に他愛もない話をする秀明の声を聞いてか聞かずか、飾り棚に置かれた煙管を指差していた。一服したいようだ。
「どうぞ」
蓮華は立ち上がり、煙管を暁貴の手元に差し出した。だが、暁貴は軽く首を振り、古びた煙管を掌で押し戻す。
「お前にやる」
この煙管は以前、暁貴の母親から盗んだと聞いた品だ。
蓮華は握らされた煙管を見下ろして、どうすればいいのか思案した。暁貴は、なにを望んでいるのだろう。
「いいの?」
「良い。お前の好きなようにしろ」
暁貴は不敵に笑いながら、庭の外を見上げた。
蓮華は釣られるように暁貴の視線を追いかけ、やがて、微笑する。
「じゃあ……」
蓮華は軽やかに腰を浮かせると、煙管を持った腕を大きく振りかぶった。
細い指を離れた煙管が大きな弧を描き、クルクルと回りながら白壁の塀を越えていく。
その軌道を目で追って、暁貴が声をあげて笑う。
澄んだ蒼穹に淡い桜が舞い上がる。
いつの間にか目の前を舞っていた蝶が風に乗り、何処かへ飛んでいった。
花の咲き乱れた美しい帝国を彩るように。
ひらり、ひらりと。
《完》
ここまで読んで頂き、ありがとうございます。
華蝶楓月には、時系列にして4本目に当たる長編が存在します。むしろ、そちらがメインで、あとから番外のような扱いの三作(虎蝶姫、まさか~、黎明)を書きました。
しかし、長編の初稿を書いたのは10年ほど前。改稿版も7年前の作品になり、とてもじゃありませんが、今読むのに耐えない黒歴史状態です。
内容としては、瑞穂(暁貴)VSエウル(胡蝶)の戦記のような、バトル物のような、冒険物のような(つまりカオス
そのうち、書き直して連載出来ればいいのですが……今は目処が立ちません。
ということで、この作品をもって、一応はシリーズ終結ということに致します。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます!
読者の皆様に、最大の感謝を。




