「天開の曙光」
柳川の空を運ばれて行くなかで、町の火はどんどん消し止められていき、混乱も下火になりつつあるのを、雅は巨人の首元から見下ろしていた。
その光景を、悲しいと感じていた。
誰かが不幸になるのは良くないことに決まってる。急に訪れた災厄に、たくさんの犬が傷付いて、怪我をして、家を失った。悪いのは翌木であって、責められるべきは彼女ひとりだ。庇うこともできない。
でも──
こんな事をして、何かが報われるなんて、本当にあるのだろうか。
危機を知らなければ何も知らない犬は、何事も為そうとしない。そう彼女は言った。
責められても構わないと分かっていてやったのだ。
なんだかそれは、とても悲しくて、虚しいやり方だと思う。
彼女の中でそれが誰からも理解されなくていい孤高の理想だったとしても、せめて自分ひとりだけは報われたと思えるほどの実感が、この光景の中にあるのだろうか。
彼女のやってきた全てが、あの火のように鎮火されていく。
誰かが悲しみ、もうたくさんだと思える事でも、積み重なる月日の中にきっと埋れて、消えてしまうだろう。
誰かを傷つけてほんの一時たくさんの心に残ったとしても、いずれ忘れ去られしまうのだ。
それなのに、悪を演じていて良かったと、本当に思えるのだろうか。
「翌木さん……お願いなのです。答えて……お願い答えてください! 本当にこれで良かったのですか……?」
阿天座の頭領でもない。
役目を与えられた他の誰かでもない。
何も上に纏わない彼女自身は、この光景を見て、何を思うのだろう。
「国を作るって言ったじゃないですか! それが翌木さんのやりたかったことじゃないんですかっ!? 叶えたかった願いじゃないんですか!? これで、いいんですか!? 聞いてください…翌木さん…どこにいるの…本当の翌木さんはどこにいるの──」
突然、目の前が真っ暗になった。
どこに立っているのかも分からない。
雅を縛り付けていた糸が消え去り、風も、匂いも、何も無い、静寂の世界にいた。
雲間に光が差すように、視界が開ける。
とても広い場所だった。どこまでが果てて、どこへ繋がっているのかも分からない、目まぐるしく移動しているようで、何も起こっていないような、曖昧な世界に放り込まれていた。
ただ地面だけが、水たまりのように透き通り、触れるたびに波紋を起こしている。
世界を真っ二つに分けて、無限に続いていく静寂の湖面を歩いているようだ。
「翌木…さん……?」
すぐ近くにいる。
なぜかそう感じる。
この空間は彼女自身が見ているものだ。それがなんとなく分かったからだ。
彼女は立ちすくんでいた。
何をするでもなく、見えないものを見ているように。
「翌木さん、何してるのですか?」
返事を辛抱強く待つ。やがて、
「──思い出していたのです」
翌木は応えた。
「私がこの世に生まれ落ちたとき、最初に覚えた感情は、『恐怖』だった気がします」
胸を押さえて、ぽろぽろとこぼれ落とすように、言葉の切れ端を繋げていく。
「何かに侵されるのが恐かったのではない気がします。何も見えないからと言って、この世が悪意に満ち溢れているとは感じませんでした。鳥が空を飛ぶことに疑問を持たないように、蜘蛛が巣の作り方を教わらないように、何も見えない世界が、ただそうあっただけで、私にとってそれは透き通る泉のようでした」
彼女の言葉を通して、雅は彼女の見る世界を想像していく。
「恐い、と感じたのは、私の心に何も留まるものが無かったからです。すべてがすり抜けていった。私の心は何も反射しなかった。『透明』だったのです。光の無い世界は闇ではないのです。光を、光とさえ感じられないことが、どうしようもなく恐ろしかった」
暗闇にいるよりも、どこにもいないこと。
何事も自分には関わりの無い世界にいること。
すべてがすり抜けて、過ぎ去ってしまう世界。
「いつしか羨望を覚えていました。世界を捉えられる方々が、鮮烈に生きていられることに。私もこうはなれないか、ずっと探していました。それが最初の道標であった気がします。誰かを真似て、誰かを演じることが、私の光の捉え方であった気がします」
そして翌木は初めて、雅に意思を投げかけた。
「…それが間違っていたのでしょうか? 誰かの意思を自分のもののように振りかざして生きていくのは、真に生きていくとは言えないのでしょうか?」
すぅ、と雅は息を吸って答える。
「ぜんぜん、そんなことないですよ」
朗々と、胸を張って主張した。
「ふつうだと思いますよ? みんな最初は、誰かを真似して、楽しさを覚えるんだと思うのです。誰かが笑うから、自分も笑えるんだと思います。間違うことも、怒られるから、やっちゃいけないんだって分かるんだと思います」
「けれど、私は誰かの道をたどることしかできなかった。貫くべき自分の意志を持てませんでした。それで良いのでしょうか…?」
「いいんです!」
きっぱりと言い放つ。
「何をしなくちゃいけないから何かをするなんて、バカみたいじゃないですか! そういうときに始めたことは、失敗するんです! わたしがそうでした! 焦ると、ひとに迷惑ばっかりかけて、けっきょく何もできないことのほうが多いのですよ」
「そう、なのでしょうか」
「ええ! それに、翌木さんに何もないなんて、わたし思えません。誰かに憧れたり、恐いと思えるのが、他の誰でもない翌木さんじゃないですか」
足元から波紋が巻き起こった。
鏡写しの湖面が波立ち、霧に覆われていた捉えどころのない景色が、抜けるような青空へ晴れ渡っていった。
ここは翌木の心象風景そのものだった。
「──責任を果たしましょう。この行いは私の行い。その顛末を受け止めます」
「翌木さん…?」
「眼当て、気に入りましたか?」
「え、あ、これはその」
「あげますよ。不思議なお嬢さん。私は目が見えないわけではありませんから」
そう言って彼女は、伏せていたまぶたを開いた。
「お迎えです。名残惜しいですが、生きていればまた会えましょう。それでは、どうかお達者で」
「翌木さん…!? 待って、翌木さん!」
世界が閉じる。扉の外へ置いて行かれるように、雅は現実の空へ戻されていた。
「まだ…話したいことがあるのに!」
遠ざかる手が悲しかった。
導くものの無い空は、胸がすくような思いがした。
目指すものが欲しいのだ。彼女の、その気持ちだけは痛いほど胸を掴んだ。
+
「雅ぃぃぃいいいいいいいイイイイイ────ッ!!」
糸が解け、雅が空に投げ出される。
錨の鎖を鋼は疾る。落ちていく雅の体を、宙でしかと受け止めた。
「アヤヒ! 今だァ────────!!」
落下して行く鋼を見ながら、柳川の町を通過したのをアヤヒは冷静に確認する。
後部船倉。開け放たれた貨物口から、アヤヒは狙いを定めていた。
重量が大きすぎて旋回機構は取り外さざるを得ず、甲板にも置けなかったため船底内部に取り付けるしかなかった奥の奥の手。
人器〝三○・五糎臼砲〟。
俯角を取って固定されているため下に向かってしか撃てず、照準は船を動かしてするしかない最大の役立たず。威嚇のために積んだはいいが使いどころのあるはずなかった、最後にして最大の武器だ。
その外しようもない距離に、藁人形を捉えていた。
「加減はできぬぞ。それだけのことをしたのじゃからな──」
空が砕けた。
凄まじい胴間音と共に、巨人を切り裂く大穴が穿たれる。
弾頭は内部で猛烈な熱量を撒き散らしながらばらばらになって炸裂した。容赦無く火の手が上がる。赤と白に発光する炎。雨のような火花をを吐き、たちまち業火となって燃え広がっていく。
「そちを斃すには相応しかろう。摂氏三千度の消えぬ火に焼き尽くされるがよい」
炎は勢いを増し、各所で爆発を引き起こす。
吊天弦の素材である〝ヒヒイロカネ〟は力を伝達させる効果の他に、別の一面を持っている。着火点千五百度以上で、激烈な爆発反応を見せるのである。
その特性は純度を下げて加工された吊天弦にも引き継がれていた。
弦の密度が濃い部分が連鎖的に炸裂し、新たな炎を生み出して拡散していく。
断続的な爆発と轟音。
燃え落ちる藁人形の残骸。
船は徐々に高度を落としていった。
地上に足の先が触れると、そこから藁人形はボロボロに千切れ飛んで転がっていった。
すでに原型は無く、ただ祭りが過ぎ去ったような寒々しさが、柳川の町壁から野原にかけて、残酷に広がっていった。
+
朝日が昇る。
終わりを告げる曙光。
城を取り囲んでいて兵士たちが。
決死の思いで火を消し止めていた住民が。
町壁の外まで逃げ延びてきた犬たちが。
柳川の地下を生きて戻ってきた一団が。
天を翔けた船上で、戦いに疲れ果てた乙女たちが。
草原をどこかへ向かい走り続ける親子ふたりが。
等しくその光景に、肩の荷を降ろしていた。
アヤヒはひとつ伸びをする。これから一体どうしよう。何から手を付けたらいいか判らない。やる事が多すぎて、いっそこのまま何もかも投げ出して天領に戻ってしまおうかと思った。
改めて感じたのは、やっぱり自分は、鋼と一緒にいたいという事だ。
「さて………鋼の奴、どこへ行ったかの?」
そのとき、鋼は全力で柳川を離れようとしていた。
それはもう清々しいまでの逃走であった。
「──パパ! パパ! 何してるんですか!?」
「ああん? 逃げるんだよおおお! こんなとこ一秒でもいてられるかっつーの!」
「どうしてですかー!」
「ヤナギに顔見られたろーが! また捕まっちまう前に遠くまで逃げるんだよお!」
鋼に抱かれた雅は、手の中の眼帯を握り締める。
「ひとつ、お願い、いいですか?」
「ここに残るって以外ならなんでもいいぜ!」
「欲しいものがあるんです!」
「どうしてもか!」
「どうしても!」
「いいさ何でも手に入れてやる!」
娘を取り戻したばかりの鋼は、興奮して今なら本気で何でもできると思っていたし、ここ数日に起きた出来事よりも悪いことなんて、この先そうは起こらないに決まっていると信じていた。雅は切り裂くように言う。
「──わたし、国が欲しいです!」
その一言で、鋼の意識は彼方まで吹き飛んでいく。
朝日がせせら笑っていた。
一日の始まりが、何も変わらず、分け隔ても無く、誰も彼にも降り注いでいた。




