「極楽の糸」
その立ち姿は死霊と似ている。
意識はほとんど途切れかかっている。
ただ一本の糸で全身を支えているような、危うい均衡で今の翌木は成り立っていた。
立たなければならなかった。
血を止める。吊天弦を用いて傷口を縫合する。即死をまぬがれたのは奇跡と言うほか無く、それでも致命傷には違いないのに、まるで心臓以外の別の機関が無理やり身体を稼働させているように、指先は応えてくれた。
「驚きだ! 何が貴様をそうまでさせる!」
糸の一閃を避けつつ、訊かずにはいられないといった楽しげな容相でヤナギは無造作に問いを投げつけた。聞くだに値しない戯れの言葉。だが、
「犬は、この世の犬は、すべて、壇上に立つ物語の演者にござります」
「ほほう!」
再び一閃。わけなく受け流される。
「皆が役を演じて、そうあろうとしているからこそ、世は滞りなく流れるもの。取るに足らない、矮小なもののため、そうあろうと願わなければ、風はただ通り抜け、日はただ浮き沈むだけ」
「くだらんなぁ! 実にくだらん! 本当にそれだけか! 役目を演じて安心するのが貴様の力の源か! そんなものでこの俺を斃せると思ったか!」
「、 違う、」
両腕を振るう。翌木を中心にして、放射状に糸が展開した。十字に、阿弥陀に、複雑怪奇な軌跡を描き、すべての方位を覆い囲んだ。
「これは……!」
そこに描かれたのは、蜘蛛の巣の包囲陣である。
天守閣の庭一帯に必殺の糸が張り巡らされたのだ。
翌木は糸と糸の交わる点に立っていた。
「お手前様を取り囲んでございます。見えましょうか? 暗闇でも私の攻撃を避け続けたヤナギ殿なら、心配はござりゃんせんでしょうが」
「貴様本当に死に体か? 先刻よりも力がみなぎっているように見えるぞ」
「私自身にも分からないでのございます。役者の本領と申しましょうか。役目を負って立つものだと心に言い聞かせればこそ、奮い立つものがあるのでござりゃんしょう」
「役目とはなんだ? 貴様は何を演じている?」
その問いも戯れだ。
だが今は、自分こそが戯れそのものだった。
「柏槇」
「…なんだと?」
「十余年前、この地で果てた柏槇の代わりを、私は演じているのでございます」
+
柳川を発展させるため方々に走り回っていた柏槇は、都と山青を繋ぐ顔役でもあった。
文渓側の意図はこうだ。この大事な時期に、列強を率いる山青を敵に回すのは得策ではない。いざというとき同盟を組んでもらうためにも、恩を売っておく必要がある。
だが同時に、山青が恩を仇で返して敵となったときのため、弱みも握っておかなければ。
その両方をやってのけるのが人器魂讃の存在であった。
山青には魂讃を扱える犬がそれまでいなかった。その利用価値も解らず、祭壇に飾り神体として祀っていたのだ。
そこに目を付けた五稜郭は、優秀で従順な巫女である柏槇を柳川へ送り込んだ。魂讃を使いこなせば、山青はさらなる力を付けるだろう、そう首長をたらしこんだのである。
敵になるかもしれない相手に力を付けさせたのは、その力を手放しがたいものとするためであった。
与えて、奪う。その決定、裁量を握り山青を従わせるためだ。
この企みには弱点があった。
あまりにも柏槇ひとり荷を負わせすぎたところである。
このとき柳川の首長はヤナギではなかったが、よほど馬鹿でもなければ五稜郭の意図には気付くだろうし、その中核が柏槇に依存していることも想像に難くない。
ほどなくして予想通り、柏槇は五稜郭と柳川との板挟みで苦しむようになる。魂讃の運用で主導権を得ようとする五稜郭と、柏槇を丸め込むため謀略を尽くす柳川旗下の勢力。それは水面下の綱引きのように見えない場所で、取り返しのつかないところまで張り詰めていた。
業を煮やした柳川勢力が、盤面を引っくり返すのは目に見えていたのだろう。
彼女もそのときにはもう、自らの死期を悟っていたのだろう。
雨混じりの風が吹き、たくさんの花が散った春の暁に、柏槇は鎮国神社の堀の中で水死していた。
様々な利害の観点から、公的に彼女の死が認められることは無かった。
この地で彼女を見知ったわずかな犬が、のちに小さな葬式を開き、記録の上では役所の片隅にある名簿のただ一行に『不明。縁無シ』と記されたのみである。
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「柏槇は、実に実に慎重でありました。自らの死が避けられないものと知り、しかし使命をまっとうするために、その叡智を弟子に引き継がせていたのでございます」
「それが貴様か…」
吊天弦の格子に囲まれたヤナギに、両側から挟み込む一閃を浴びせた。左右にも前後にも避けられない。
地を蹴る音。真上に跳躍。ヤナギの全身を絡め取るはずの攻撃は空を切り、返す刀の一撃を落下に合わせたときその予測位置にいるはずのヤナギの姿はかき消えていた。
結界の糸が犬一匹分たわむ。
ヤナギも翌木と同じに、糸の上に着地していたのだ。
「──フーム…吊天弦とは随分と頑丈な糸なのだな。これほど細く鋭くとも、まったく千切れない。改めて感心したよ。使い方さえ分かれば色々と応用が利きそうだ」
「そんな場所に立っていては足が千切れ飛びますよ」
「貴様は体重を散らす工夫をしているようだ。俺も真似させてもらったまでよ」
ヤナギは糸と糸の交わる点を見抜き、そこを足場にしている。地上で自由に身動きが取れないことが分かると、即座に居場所を移すその機転は称賛に値するが──
「お見事です。ですが、ひとつ見誤っていることが」
「なんだ?」
「吊天弦は確かに頑丈な糸でありますが、それ自体が切れ味を帯びるほど鋭くはありません。その本来の使い用は『力を伝える』ための模倣人器でござりゃんしょう」
「……なるほど、な!」
再びヤナギが跳んで退いたときには遅く、左のつま先がばっくりと裂け、鮮血がほとばしった。
翌木は糸の一本を指で弾いただけである。
「振動か。糸を糸鋸のように動かして切れ味を増していたというわけだな!」
「ご明察であります」
再び動きの制限された地に降り立ったヤナギは、かぶりを振って嘆息した。
「戦い方が違うな。先刻までは、触れれば何もかも千切れ飛ぶ鉄の暴風のようだったが、今度は狙いを絞った矢のごとき。こちらの動きを止め、確実に仕留めにきている。厄介だ、まあ厄介だ」
吊天弦は翌木の周囲を自在に飛び回っている。いつでも、どこへでも狙いを付けられるように。
「だがなぁ、俺はこう考える。──小賢しいとな。派手なやり方をせず、最小限で一点集中…戦じゃこいつは真っ正面からぶつかる勢いの無い奴が、一か八かでやる策だ。平静を装っちゃいるが、ようはそれしかできないほどに消耗しているんだろう? 馬鹿が!」
ヤナギが深く地を蹴った。包囲網にも構わず肉薄してきたのだ。当然、それは振動して切れ味を増した糸に阻まれるはず。
が、ヤナギを寸断するはずの弦は、肉を削らず、身を撫でるだけにとどまり、そのまますり抜けてしまった。
「すべてを刃にしうる力は無い!」
糸を張っているのに突っ込む。──切れない。ヤナギはでたらめに動き回り、糸の効果範囲を集中させないつもりだ。
外から見ただけでは、目の前の弦が切れるか切れないか判断できるはずもないのに、構わず突っ込んでくる。
わざわざ一度、糸を足場にして立ったのは、翌木に残る力を見定めるためだったのだ。
その目測通り翌木は消耗し切っていた。
自分でもなぜこの場に立てたのか分からないくらいだ。意識は朦朧とし、音像をはっきり捉えることもできない。胸の痛みが無ければ、真っ逆さまに奈落へ落ちようとしている。動き回るヤナギに狙いを合わせられない。
「まだ、です 。まだ、 であります」
意識はすでに虫食いだったが、しかし、内なる声が背中を支えた。
機はある。必ず来る。
ヤナギはまだ決定的な間合いへは飛び込んで来ない。
刀の届く範囲、翌木の身の回りだけならまだ集中した斬撃が可能だった。
こちらを仕留めるためには、そこへ飛び込まなくてはならない。その瞬間最大の反撃が待っている事を、必ず訪れるその時を、翌木もしかと待ち受けている事を、ヤナギは解っている。
互いにその瞬間を読み合っている。
深く、翌木は集中した。
役に没入することが体調に左右されるなどあってはならない。たとえ命が尽きようとも、落命するその瞬間まで、義賊の翌木、阿天座の頭領はその精度を狂わせない。
吊天弦の効果範囲がヤナギに追い付きはじめた。指先が割れ、肩を、耳を、縦横に切り刻んで血を撒き散らしていく。それでも、痛みなどまるで意に介さず、ヤナギの目はただ一点、そこさえ見れば他にいらぬとばかりに、翌木を直視していた。
そして翌木は、最後の踏み込みを聴いた。
──来る!
その、一瞬前である。
その一瞬前にヤナギの攻撃は終わっていた。
肩口に突き刺さったまま、引き抜かずにいた、矛の切っ先を翌木に投擲していた。
反射が認識を上回る。
尋常では無い集中力が、翌木の鼻先寸前で、刃を宙に縫い止めた。
まったく予測していなかったその攻撃を絡め取って防いだはいいが、その結果として招くものが何か、翌木は同時に理解していた。
そうすることで、絶死の圏内をかいくぐり、ヤナギを、刀の届く範囲にまで潜り込ませてしまう事を。
最後の集中力を、攻撃ではなく防御に回した、その空白を逃すはずもない事を。
切っ先を投げるその速度に追いつくほどの縮地をもって、ヤナギは最速の閃きを滑り込ませていた。
翌木が感じ取れたのは、そこまでだ。
意識が落ちる。
最後の一本、翌木を支えていた決定的な何かが切れた。




