「辺りを照らす物語」
翌木の視界は常に無であり、時折自分がどこにいるか分からなくなる。
現実の地に立っているのか、それともまだ夢の中で、たゆたっているのか。
境目が曖昧なのだ。
ある日、目が覚めた時、犬を殺していた事があった。
粘りつくような嫌悪感が手の中に残っていた。着衣が乱れていた事から、その男に乱暴されて殺してしまったのだろうと想像できた。
罪悪感は特に無かったが、何かが食い違っているとは感じた。
以来、自分の居場所を確かめる方法を探ってきた。
たとえば、腕をつねる。地団駄を踏む。匂いを嗅ぐ。舌を噛む。どれも夢の中で同じ動作をしてしまうため、さして良い方法とは言えなかった。どうにも翌木には決定的に鈍いところがあって、現実味というものを肌に感じにくいのだ。生きて呼吸をしているはずなのに、まるで自分が空気か水のように、そこにただ在るだけで、自意識を無くしてしまうのである。
ただ、
「何してるんでありますか?」
誰かに話しかけられたときだけは、自分をはっきり認識できた。
「なるほどなるほどですな。君は欲求というものに乏しい存在のようでありますな」
そう教えてくれたのは、とある巫女である。
名は柏槇と言うらしい。
「君の意識はそこらに浮遊する埃のように儚く、曖昧なものになってしまうのですな。これは一個の犬として当然の欲求が欠けているからです。例えばお腹が空いたら苦しくなるでしょう? 寒さすぎたり、暑すぎたりを肌で感じれば、適切な場所に移動するでしょう? それは本能が発する要求であって機械的反応とそう変わりないわけです。苦しいと感じなければ何も無いのと同じ。ですので、自意識を形成する欲求とは、もののあはれなのです。心の渇望なのであります」
それまで透明に見えていた沢山の出来事に、柏槇は色を付けてくれた。
知らないことに枠組みを与えてくれた。世界の体系を説いてくれた。
「君は私と一緒にいるのが良さそうでありますな」
ごく当たり前に彼女と一緒にいるようになった。
翌木、という名前はそのとき付けられたものだ。
「君は感情というものに乏しいようですからな。生きていくには欲が無さすぎます。欲とは現実を生きるための果実。木は大地の栄養をもらって実をならせるのであります。君はもっと他の犬と関わりを持って、翌日にはきっと実のなる木でなければなりませんな」
たくさんの物事を教わり、たくさんの犬と関わった。
翌木と呼ばれるたびに、自分が形作られていくのが分かった。
「翌木」
「はい」
「辻芝居がやっておりますな。私は見たい! 君は見たいですかな?」
「はい。見ます」
「この紙に小銭を包むのですよ」
お互いに盲目だったが「見る」という感覚は自然と理解できるようになっていた。光も何も無い世界には、知識と想像力を介在させなければならない。それは目明の「見る」感覚とは違うもので、彫刻を削るような、一切の余分なものを剥ぎ取る作業だった。
「面白かったですか?」
「はい、とっても!」
「良い傾向であります。私たち光無きものには、何よりも感情が必要なのです。物語が必要なのです。世を明るくするためには、それこそが光なのです」
「芸を身につけろ、ということでござりますか?」
「おほほ! そうでありますなー、結局はそういうことかもしれませんなー、自分でよく考えてみることですな。それが将来実を結ぶかもしれませんぞ」
生きるのに必要だから知るのではない。知ることそのものが、生きることへの欲求なのだ。
あるとき翌木は訊いてみた。
「柏槇様は、どうして翌木に色々と教えてくださるのですか?」
それまでごく当たり前に受け入れてきたこと。
育ててくれる親もない道端に転がっていただけの自分に、食べ物を与え、世の理を教えてくれた。柏槇にとって何の益も無いことだ。
柏槇の形が少し困ったように揺れ動いた。
「実を言えば私には、遂行しなければならないお役目があるのです」
「柳川で行われている事業のことですか? でもそれと、翌木に何か関係が?」
「これはとても手前勝手な言い分なのであります。聞けば怒られても仕方ないのであります。それでも聞いてくれますか?」
「怒るなんて絶対ありえません。ただ翌木は真意を知りたいのです」
柏槇はずいぶんと悩んだようで、夢にうなされたようにうんうんと唸っていた。
やがて、彼女は話してくれた。
「私には、身の支えとなる物語があるのです」
「物語、でござりますか?」
「ええ、それは私自身の物語ではなく、私の命より大切な方の物語なのであります。この世を大きな一本の木と喩えた御方の物語なのであります──」
そうして、柏槇の口から語られた話は、実に驚くべきものであった。
その話を聞いて、見えていた景色が一気に広がった。それまでぼやけていたものが精緻で鮮やかな陰影を帯びて、目の前に浮かび上がったのだ。
その中で、自分がどれだけちっぽけな存在であったのか知り、涙した。
「幻滅したのでありますか…?」
「いいえ。感動いたしました。翌木の寄って立つ場所がはっきりと見えました。このために生まれてきたのだと強く感じました」
世界は騒がしく揺れ動くばらばらの塊のようで、手に触れるのがずっと怖かった。その塊に一貫した意味があったこと、世界に連続性があったこと、自分との関わりがあったことに、感激を覚えずにはいられなかった。透明で実がなく何もかもすり抜けていってしまう自分に、初めて意味を見出せたのだ。
「そのお役目は、きっと果たしてみせます」
柏槇は複雑そうにしていた。
彼女の教えてくれたことは、光とは、闇の存在をも浮かび上がらせてしまう、というものだったから。




