「福音をもたらすもの」
賢いことは良いことだ。
誉めてもらえるから。
これを覚えれば良いのですよ。そう、その通りです。次はこれ。
これはしてはいけません。そう決まっているからです。
なんて覚えが早いのでしょう。アヤヒ様はお利口さんですね。
字を覚えた。
舞を覚えた。
詩を覚えた。
礼を覚えた。
たくさんの顔を覚えた。
儀式を、神言を、歴史を、生活様式を。
ただただ覚えれば良かった。
けれど「何故?」と疑問を抱いたことに、答えてくれる者は少なかった。お決まりの言葉「そう決まっているのです」と。言われた通りにすれば誉められる。だからそんなものは必要ないのだと。
不満は無い。それさえやれば事足りて、何不自由ない暮らしを送れたのだから。
そんなある日、都に降りたとき、一匹の犬を見つけた。
手も脚も退化しきって、人語も発声できなくなった、完全な『犬返り』を起こした犬だった。
初めて見た。本当に四つ足で歩いている。あばら骨が浮き出るほど痩せ細っていて億劫そうに何かを探している。きっと食べ物を探しているのだ。何週間も何も食べていない顔をしていたから。
あわれに思い、自分の小豆袋から食べていた豆を差し出した。犬はそれを見つけて、ふと視線を転じ、じっとこちらの目を見つめてきた。
とても不思議な印象。
そして悲鳴が聞こえた。
気がつけば、犬が倒れていた。
お付きの衛士がその犬を斬りつけたのだと気付いたのは、天領に帰ってからのことだった。それまでずっと頭が真っ白で何もできなかったのだ。
この世には厳然とした身分制度が存在する。神と貴人と平民と、それ未満の死者だ。犬返りを起こした犬は、生者に関わる事を許されない死者として扱われる。現世の穢れを溜め込んで、生きたまま畜生に落ちたまつろわぬ者であり、追放されるのが常だ。それが貴人に触れるなどもっての外で、斬り捨てられて当然なのだという。
けれど、それはただの知識。
理解はしていなかった。
現実を知らなかった。
都会に暮らしていた犬がいきなり自然に適応するのもまた難しく、犬返りの痛みで死ぬことができなければ、ああして郷里のそばを付かず離れず生きていくしかないことを。
目の前で斬られた犬の、あの目を思い出す度に、どうしようもない気持ちが膨れ上がって何も手に付かなくなった。
あの目。
決して死者の目ではない。生きているものの、理性の光を宿した目。
自分が殺した。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
何度も、何度も、何度も泣いた。
忘れることができなかった。何度謝っても足りない。
知らないことは罪なのだ。
あの日から、あらゆる疑問が恐怖となって襲いかかった。書を読み漁り、それでも足りないものは知恵を振り絞って想像した。それは賢さとは異なるもので、近くにいた者には気が違ったように見えただろう。幼子が目を赤くして寝る間も削ってひたすらに文字を追うその光景は、余人を遠ざけるには十分なものだ。
そんなころ、唐突に陛下に呼ばれた。
天元陛下。血を分けてくださった御母堂である。そして、この世の源たる、天上の御方である。それは実子であっても例外なく召喚が無ければ会うことさえ許されない、身分違いの会見であった。
正直母という自覚は無い。
何故、という思いのほうが強かった。何故今頃なんだ。自分のことなど気にかけくださらなかったのではなかったのだろうか。
荒んだ気持ちでいたせいか、疑念ばかりが圧しかかっていた。
御簾の向こうにいる人物が、闇の世界に繋がる巨大な穴のように見え、きっと何か恐ろしいことをされるのだろうとびくびくしていた。
──何を気に病んでいるのです。
単刀直入に訊かれたのを憶えている。
それにどう答えたのか。ばらばらになった石の欠片を繋ぎ合わせたような、言葉にもならない言葉で無様を晒したのは確かだ。
陛下はこう答えてくれた。
──この世は深い闇ばかり。闇を晴らす術を其方は持たないのですね。
涙があふれた。
そうなのだ。
どれだけ書の山を築いても、臣下に問いただしても得られなかった。身の回りでしかない、ふすまの中の関係でしか物事を想像できなかったのだ。誰も自分を怒ってくれない。本当に慕ってくれる者はいない。激情を実感できない。荒野の渇きや、繁茂する緑の逞しさを目の当たりにすることができない。天領と都の一部より他は、濃い霧のような闇の世界なのだ。
何かを知ったつもりになっても、何も手にすることはできないのだ。
弱い。
それが、途轍もなくもどかしかったのだ。
陛下は言った。
『かつて其方と同じように苦しむものがおりました。
真実を知ることは勇気のいることです。冷たく重い真実より、きらびやかな嘘が望まれることは、多くあります。
それでも其方が闇を晴らしたいと願うなら、真実を知ることは、大いなる救いになるでしょう。
私も早く勇気を持つべきでした。其方には同じ間違いを犯して欲しくないのです』
そして陛下は、自らの手で、御簾を開けられた。
その日、真実を打ち明けられた。
昔々の話。世を変えようとした犬の軌跡。
うたわれる犬士たちと、母との、出会いと別れの物語だった。
『文仁、真実を知りたいのなら、道標を見つけるのです。
外の世界に飛び出すのです』
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窓辺に月が浮かんでいた。
アヤヒは目をこする。布団も敷かず寝てしまっていたらしい。
「……鋼?」
部屋に鋼はいない。
ぐらり、と心がよろめいた。
「観笠! 観笠はどこにいる!」
返事が無い。ああれほど鋼を見張っていろと言っておいたのに。
それからは一二もなく宿を飛び出していた。
城の近くに宿を取った時からわかっていたのだ。目の前に娘の手がかりがあるというのに、あの男がじっとしてられるはずが無い。
だから見張りを付けたのに。観笠はきっと莫迦だから鋼の行く先にまで付いて行ってしまったのだろう。
でも、だったら何故走っている。居場所は観笠が知らせてくれる。娘の安否を気にして居ても立ってもいられない鋼が、夜陰に乗じて探りを入れて来るぐらい、どうして許してやれない。それに鋼は約束してくれたではないか。娘を見つけたあとも厄介になると、言ってくれたではないか。
それが、アヤヒは心の底ではどうしても信じられなかった。
雅が攫われた事には責任を感じている。
何としても見つけ出して鋼の前に届けたかった。
けれど、それは鋼のためにだろう? 鋼との関係を保ちたい自分のためにだろう?
──違う。責任を果たすためだ。自分のせいで巻き込んでしまったことを悔いているからだ。
だが、雅を取引材料にして、鋼を側に置きたいと、ひと欠片でも考えなかったかと言えば、嘘だ。
そもそも本当に本気で雅を見つけてやろうと思っていたのだろうか。ヤナギとの交渉の、ほんのついでに見つけてやろうなどと、そんな片手間程度にしか考えていなかったのはないだろうか。
鋼の言葉をすべては信じられなかったように、鋼もそんなアヤヒを信じられなかったのではないか。
雅を見つけたら、きっと鋼は戻ってこない。
そこまでの繋がりがアヤヒには無い。
「いやじゃ…いやじゃ…いやじゃ…っ!」
途絶えるのが怖い。この世界との関係が、広がりかけた自分との関わりが無くなってしまうのが怖い。
あそこに戻るのは、もう嫌だ。
「おぬしは、やっと見つけた手がかりなのじゃ! 母上が教えてくださった道標なのじゃ! わらわの側から、離れないでくれ!」
城門にまでたどり着く。
息も絶え絶えにアヤヒは門を叩いた。
「出てくれ! お願いじゃ、ここを開けてたもう!」
億劫そうに番所の者が顔を出してきた。
「こんな遅くに何用だ」
「わら、わらわはアヤヒ。天領の御三家、弁天院が当主である。急ぎヤナギ殿に知らせがあってきた。ここを通されよ」
ややあって、男はしげしげとアヤヒを上から下まで眺め、合点がいったように目の色を変えた。
「夕刻に来た商犬の娘じゃないか」
ひくっ、と喉が引っ込んだ。
アヤヒは自分が着の身着のまま来てしまった事に気付いたのだ。
「ち、違う! これには事情があるのじゃ!」
「だいたい、そんな偉い方がお付きも無しひとりで来るわけないだろう。馬鹿にしているのか。ほら帰った帰った」
「違う、本当なのじゃ! この格好はお忍びじゃからで」
引き止めようと掴んだ手を伝って、形容しがたい力が膨らむのが分かった。
「ッギャン!」
いきなり尻餅を付いて、アヤヒは熱くなった頬を押さえる。
──痛い。殴られた…?
「勝手な娘だ。斬られないだけ有難いと思え」
門番の冷たい目線。虫けらを見るような。戸は閉じられ、アヤヒは何も考えられぬまま、ガス灯の下に取り残されてしまった。
ぽつり、と思考が芽生える。
勝手な娘?
そうだ。
そうなのだ。
自分などただの小娘だ。
お付きの犬を従えなければ、品の良い服を来ていなければ、何者でもない、ただのちっぽけな娘なのだ。
血筋も立場も家柄も、所詮仮初めのものに過ぎない。特別な力なんて何一つ無い、世間知らずの、子犬なのだ。
「アヤヒさまー!」
そのとき、巫女たちが馬を駆って慌てた様子でやってきた。
「びっくりさせないでください、おひとりで出て行かれるなんて! さあ宿に戻りましょう。ヤナギ殿とは明日会う約束じゃないですか」
「…鋼はどこじゃ」
「あんな男は放っておけばいいのです。きっといかがわしい事でもしているに違いないですわ」
「…馬を貸せ」
「はい。後ろにお乗りください」
「わらわひとりで乗る」
「は?」
馬に跨ると、アヤヒは制止も聞かず飛び出していた。
「全員をはたき起こして連れて来い! 遅れたものは置いて行く!」
「お待ちください! どこへ行かれるのですか!?」
「村じゃ! 鋼の村へ戻る!」
「ええ!? いったいなぜ!?」
答えず、一目散にアヤヒは駆けた。
涙がにじむ。悔しくてたまらなかったのだ。
「わらわには…わらわには意志の力が足らなかった! 心のどこかで、きっと何もせず自分の思い通りにいくと甘えておった! そんな甘い考えをあやつが信じるわけがない! わらわこそが大莫迦者じゃ!」
家柄や権力、着ているもの、従える者。世間が見ているのは、結局その程度のものだ。
そんなもので十分なのだ。
「必ず雅を取り戻すぞ。約束は果たす! おぬしの手を借りずとも、わらわの力で成し遂げてみせるぞ。見ておれ鋼ぇ!」
駆ける。全速力で駆ける。
一刻も速く使える力を取り戻さねば。




