「演じるもの」
工業区。
炉号管理区画と呼ばれる温水施設の奥まった場所、縦横に無数の配管が走る通用路の陰、中間貯水槽に隠れるように、翌木はうずくまっていた。
息は荒く、集中力は乱れている。
あの後、退路を開いてからも佐野の兵はしつこく他の区画までも追ってきた。統率する者の無い状態では隊も散り散りになるかと思いきや、もともとの配置が良かったのか予備戦力があったのか、包囲から抜け出せず阿天座は止む無く三手、四手に別れて逃げ出したのだ。
集合場所に示し合わせていたのがここ、炉号管理区画だった。
まだ翌木ひとりしかいない。
真夜中。暗闇の中である。ガス灯の明かりが頼りなく辺りを照らし、闇を円形に切り取っている。
排熱で空気が揺らぎ、配管を通る熱湯が、地下を流れる水が、自身の血管が鳴らす脈動のように感じられる。
空気の流れが淀んでいて音が通りづらい。音像がはっきりとせず籠もって聞こえた。匂いも当てにならない。
翌木は音の他に何も無い、暗闇の中にいた。
音の形ではなく定位にだけ集中する事にする。
反響した先、どこに何があり、どこから発生するのか。耳障りな音を意識外に追いやって、有意をくみ取る。知覚を空間に沈めていく。
付近に生き物の動く気配はない。
翌木は不安になる。
佐野による待ち伏せは、思いのほか周到だった。
恐らく、自分が討たれ壁を越えられても、こちらを追えるよう準備していたものと思われる。あらかじめいくつもの逃亡経路を潰されていた。足軽たちの連携は地上で途切れる事なく、露払いして敵を引き付けても手勢を分ける事でしか活路を開いてやれなかった。
あいつら、生きてる、かな。
姐さん姐さんと呼ばれても、実はあの中では一番年小だった。槍に突かれても死なないどころが荒野にぽっぽり出したって三貫太って帰ってくるような奴らばっかりだから、簡単には死なないだろうけれど、目の届かないところにいるとやっぱり不安で仕方がない。ちゃんとやってるだろうか。いくらなんでも遅すぎやしないだろうか。もしかして集合場所を間違えてはいないだろうか。馬鹿だから、きっと間違う。炉号の温水施設の北の壁際の、今にも外れそうな小さな裏口のある場所だってちゃんと言っておいたのに。
ひとりきりだとまずい。
自分を保てない。
『翌木』は阿天座の頭領なのだ。
だから『姐さん』と呼ばれる。古強者の男どもがついてくる。芝居が、観客がいなくては成り立たないように、自分を見てくれる者がいなくては『義賊を率いる女頭領』の輪郭を保てないのだ。
芝居をしない犬なんていない。
芝居をして自分を大きく見せたり、弱い部分を隠したり、威勢の良い啖呵を切るから他の犬がついてくる。
弱い犬には誰だって味方したくない。
信頼を預けられるのはいつだって強い犬だった。
「強く…強く…ありましょう」
翌木は背中に刺さった矢に手をかけた。
半分から折れている。首を切り落としたつもりが、射手の執念が宿ったように腕だけが狙いをつけて追ってきたのだ。
骨で止まって深くは刺さらなかったけれど、血を止められない嫌な位置だったので、刺さったまま逃げてきたのだ。血の匂いで追われても困る。
「──っぅ…」
真っ白な痛みに、見えない目が眩む。
引き抜いた矢を土に埋めて、翌木は息を整えた。何度やっても怪我には慣れない。この前だって崖で足を踏み外した申を咄嗟に助けようとして手を、
右。
施設側の通用路、曲がり角。
近付かれるまで気づけなかった。
ひとり。その一画後ろに、鎧をがちゃがちゃと鳴らす集団が控えている。後をつけられたか、匂いを覚えられたのか。
思考を置き去りにして駆けた。
出会い頭に仕留める。音像はぼけているが定位は間違いなく、曲がり角から首だけ出してこちらを覗こうとしていた。その首をもらおう。音の通りから、高さの見当を付けた。──低い。体重も軽いし衣服は布しか付けていない。息の漏れが特徴的で、まるで顔面を何かで覆っているようにしか、
「──きゃ!」
子供。
尻餅をついて倒れたのは、弁天院の姫殿下だった。
「お手前様! どうして」
「翌木さん。あ、みなさーんいましたよー」
ぞろぞろと鎧を付けた連中が駆け寄ってくる。
「あ、姐さん遅くなりやしたー」
「いんや参った参った、あいつらもお超絶しつけーんだもんよ。途中でじっといなくなるの待って蔵ん中に隠れたり姫様が誘導してくれにゃ、俺たち死んでたぜぇ」
「お、おいどん、このお姫様の足なら舐めていい」
「オレも」
「ペロペロしたいっす」
ヤナギ軍の鎧を着た阿天座の連中だ。
「お手前様がたでしたか。誤って殺すところでしたよ。紛らわしい」
「勘弁してくだせえ。囲まれて為す術ねえって時に思いついた上策ですぜ」
「狩谷は?」
「死にました。十匹ぐらいに四方八方からたかられて。まぁその前に八匹くらい潰してやしたから、華々しいもんですよ」
「戸瀬と美馬方は」
「こっそり消えてましたね。足やられてたから」
「さよ。では彼らの魂魄が無事天元の星へ届きますように、祈りを」
全員がしばしの黙祷をした。
そして、翌木は雅に向かって一礼する。
「助けてくだすったようで、心からの感謝をいたします。しかし何故? 私どもは、お手前様をひっ攫って悪逆に利用せんとする罪人でござりゃんしょう。慈悲を授けるべくもない不逞の輩でございます」
「あ、あの私はそんな…」
遠慮がちに彼女は言う。
「確かに…あなたたちは悪いことをしてる、と思います。たくさんの犬の人が死んで…とても恐かったのです」
「では、何故?」
「私は、私が、翌木さんのすることを、もう少し、もうちょっとだけ、見ていたい、と、思ったからです」
「…………」
「だめですか…?」
不思議な少女だ。
この状況に怯えているのは分かる。その場にしゃがんで耳を閉じてしまう方がずっと楽なはずだ。
なのに一歩踏み出してくる。それが女王としての対面を保つためでも、虚勢でもなく、ごく自然とそうしているのが不思議で仕方なかった。
善悪をあまり気にしていないのか、単なる世間知らずからくる好奇心なのか、翌木には判らない。
「あの、翌木さん、怪我してます…?」
「は、いえ、これは…わひゃい!」
傷口をくすぐられた気がして翌木は飛び上がった。
「何をしやしゃりますか!?」
「え、まだ何も…」
けれど矢傷がむず痒くて仕方ない。背中側で体を捻ってもよく見えない。翌木はその場で尻尾を追いかけるようにぐるぐる回った。
「あ、ここです。…良かった、血は止まってます」
「へ?」
深手ではなかったものの、すぐ血の止まってくれるほどの傷でもなかったはずだ。
さっきまで体を動かすだけでずきずきと痛んだのも、いつの間にか引いてしまっている。
「…不思議、なこともあるものですなぁ」
「姐さん、これからどうしやすか?」
「一晩明けるまで待ちますか?」
「俺たちまだまだいけるっす!」
「ぐひひひ…姫さんを舐められるなら、もっと気合いが入るんですがねぇ」
「姫様のふりふりしっぽは俺たちが守るっすッ!!」
「お手前様がた…」
呆れ半分、頼もしく感じる。この勢いを失うのは惜しいと感じた。
「──これより阿天座は夜陰に乗じ、柳川城に忍び込みます。ヤナギ殿は協力相手とはいえ、腹に何を抱えているかわかりゃんせん。決戦に臨む心持ちで参りゃんしょう!」
「「「おお!!」」」
精強に吼える犬たちの中で、雅だけは翌木を、『阿天座の女頭領』を、心配そうに見上げていた。




