「忘れていたもの」
空飛ぶ船の不時着によって村に降り立った『天族』の弁天院アヤヒ女王。
村では宴を催すが、鋼は不安にとらわれていた。これまで築きあげてきた静かな日常が崩れ去るのではないか。娘を取り上げられてしまうのではないか。そんな予感を裏付けるように襲撃者たちが鋼を襲う。彼らの目的はアヤヒであったが、手違いにより連れ去られたのは娘の雅だった。
犬の生きて暮らす世界で、雅は唯一ほんものの人間である。その正体が知られれば、大変なことになる…
かつては皆がいた場所にいた。
今は誰もいない場所。
鋼はただ一匹で這いずっていた。
背には、重く濁ったものが押し潰そうとのしかかってくる。
進むべき道は恐ろしく狭い。
光明の見えない、ひとりきりの道。果たしてそこが道かどうかも鋼にはもう分からない。
(きっとここは泥沼だ。知らないうちに沼底へ引きずりこまれてしまった)
ならば自分を引きずりこんだのは…きっと亡霊なのだろう。
過去からの亡霊。
それまで屠ってきた、数々の仇敵。
理想の残骸。
かつて煌めいたもの。
それが今や澱のようによどむのみで、ここより新しいものは何ひとつ生まれない。
忘れていた。
無くしたものだったから。
魂から抜け落ちたものだったから。
それが泥濘となって足にまとわりついてくる。
(許してくれ。忘れていて悪かったから、もう構わないでくれ。俺は新しい道を見つけたんだ…)
歩みは遅い。
もはや歩みとも呼べない。
手をつき、粘りつく泥を引きずって、鋼は這って進んでいく。
(そもそも、俺は、どこを目指していたのだろう?)
かつての目指していた場所にはもう何もない。
別の場所。
過去に見た煌めきとは違う色の光が見えたはずだ。
(そうだ。俺は、これに救われたんだ)
支えてくれる民の願いや戦友たちの彼岸などではない。それらは消えて、後に残った途轍も無く大きな虚ろを埋めたのは、ごく普通の、ありふれた幸せだったのだ。
その光に手を伸ばす事を、泥は一心に邪魔をした。
亡霊が、私を見ろと呻きを上げる。
いくら振り払っても、いくら振り払っても──
一度起きてしまった事は変えられない。
そのうち、やっと見えていた光さえ泥で覆われ、何も見えなくなってしまう。
光の喪失は、絶叫となって鋼を支配した。
+
夜明け。
目が覚めると、鋼は小高い丘の上にいた。
どうやってここまで来たのか、まったく憶えが無い。
どこだ、ここは。
あれからどうなった。
船で何者かに襲われ、雅を攫われた。
そこで気絶していまい…あとは何も憶えていない。
森を切り裂く巨大な船が、すぐそこに擱座していた。
「そうか、ここは…」
なぎ倒された木立。粉々になって燃えた材木。庭を控えめに囲う柵と、その中心の何も無い空間。
「俺の家があった場所か」
言葉にした瞬間、思いもよらない悲しみが押し寄せてきた。
「ああ…無い…無い…なんで……うああああ…」
土を掘った。
意味もない事は分かっていた。
埋まっているはずもない。瓦礫も、あらかた片付けてしまったのだから。自分でばらばらに壊してしまったのだから。
それでも平気だったのは、雅がいたからだ。
「うあ、うあ、うあああああ」
「何をしておる!」
血相を変えアヤヒが走ってきた。
白襦袢の寝巻姿のままだ。
護衛のひとりも付けない不用意さ。そんな彼女を気遣う余裕さえ今の鋼には一欠片も無い。
否。
恨みの方が勝った。
「お前さえ来なければ…」
ぐるぐると、抑えようもなく喉から漏れ出る害意。アヤヒは一瞬たじろいて、踏みとどまった。
「ほう……わらわに牙を向けるか。這いつくばって恨みがましくも、獣のような様相じゃな」
「お前のせいだ。雅は、お前の身代わりになって攫われた。返せ、俺の娘を返せ!」
「存外、情けない雄じゃな。かつての英傑が、見る影も無いぞ」
かつての──
その一言がきっかけだった。
襲いかかった。
地面に叩きつけられ、無防備に組み敷かれても、アヤヒは表情ひとつ変えない。それどころか吠えた。
「このうつけが! お前ほどの男が、いっとき娘と別れたくらいでなんたるありさまじゃ! そんなに娘が恋しくば、縄にでも繋いでおけば良かったじゃろう!」
「俺がどんな男だろうと! お前には関係無い!」
「──」
「英傑だと? ふざけるな! そんなものは無くなった無くなったんだ!! お前の中にしか無いんだよっ!! お前が見てる俺は亡霊なんだ!!」
決壊した。
ぐしゃぐしゃに顔が歪んで、堰を切って涙が溢れてきた。
「国の行く末なんて、俺にはもう背負えないんだ…なくなったから…その夢は…だから俺は…雅さえいれば、それで良かった。あの子が元気に育ってくれれば…俺の夢は…」
鋼は泣いた。
慟哭が響き渡る。
朝焼けの野原。家の無い荒れ果てた庭で、嘆きは言葉でさえなくなって、かすれた声で吐露された。
恥も外聞も無く、一匹の雄が嘆き、苦しみ、大粒の涙を流すさまを、アヤヒは生まれて始めて目の当たりにしていた。
(これが、わらわの夢見ていた男の姿か)
なんと脆い。
剛力無双と謳われ、諸国にその名を轟かせようと、心が鎧で覆われるわけではないのか。
八犬の姿とは、長く戦に苦しんだ民が望むまま積み上げた、救世の偶像だったのだ。
アヤヒはこのとき、初めて鋼を偶像としてではなく、ただ一匹の犬として見れた気がした。
(男子とはこのように哭くものなのだな)
鋼の涙が胸にしみ込んでいく。魂を絞り出すかのような叫びは、心を揺さぶり、自然とアヤヒの目にも伝い落ちるものがあった。
「…そんなに哭くな。心が壊れてしまうぞ」
「誰のせいだと……!!」
嘆きは一瞬で怒りへと転じた。矛先をわざと自分に向けたのだ。
「雅嬢が攫われたのは、わらわのせいじゃ。じゃが、あの娘はきっと生きておる」
「──!」
「もともとの狙いはこの弁天院文仁であるぞ。暗殺が目的なら、あの場で殺されていたじゃろう。なればわらわを狙う以上、何であれ、命なくば成り立たん目論見じゃ。攫った者が偽物であると気付かれぬ限りはな」
鋼は引きつるように唸う。
雅はまだ生きている。
それでもなお危険である事に変わりはない。
「わらわは、わらわの責任において、必ずあの子を取り戻すと誓おう」
「…いいだろう」
鋼は立ち上がる。アヤヒの言葉は、鋼が相手だから特別にそうする、といった傲慢なものではなく、元からの決意の重さを伴っていた。
誰であれ、きっと同じ事を言ったのだろう。
気丈な子だ。
おかげで鋼は冷静になれた。
「それだけ大見得切るなら、雅の居場所に心当たりくらい付いてるんだろうな」
「柳川じゃ。奴等は森を迂回して柳川へ通じる道に入った」
立ち上がってアヤヒは埃を払った。鋼はさらに問う。
「あれからどれくらい経った」
「丸一日。傷は回復しておるようじゃが、一晩中うなされておったから、気が気ではなかったぞ。寝床を這い出してここまで来る気力があるなら、心配はいるまいが、悪夢でも見ておったのか、やかましくてやかましくて」
「お前が看てくれてたのか?」
「…じ、霊玉の人器を持つもの同士が近くにいれば、治癒が早まるからの。わらわのせいで傷を追わせてしまった負い目もあるし…礼などいらぬぞ」
「当たり前だ。お前に振り回されてこっちは災難だよ」
「な、なんじゃと~…添い寝までしてやったのに…」
「あんだって?」
「な、何やあらん! そもそもおぬしは、天族に対する敬意というものに欠けておる! わらわを、お前呼ばわりするなど、都ですれば首が飛ぶぞ!」
「知るかよ。天族に対する敬意なんか、これっっっっぽっちも無いんだからな! それにお前を許したわけじゃない。雅に何かあったとき、どうなるか分かってるだろうな」
「どうするつもりじゃ?」
「お前を殺す」
「ふん! …いいじゃろう。ただし生きて帰ってきたならその不敬な態度、改めてもらうぞ。端的に言えばわらわが上司、そなたが部下の関係になるのじゃ。異存あるまい?」
そのいかにも不遜な物言いに鋼は眉をしかめたが、殺すと脅しても怯むどころか逆に条件を突きつけてくる肝っ玉には驚嘆した。自分を殺すはずがないと、たかをくくっているのかもしれない。尊大に振舞うことが義務みたいな環境で生きていたから、真剣味が沸かないのかもしれない。
でなければ、こうもあっさり「命をかける」なんて約束はできないはず。
鋼は半信半疑でいたが、それ以上の追求はしなかった。どうせ押し問答になるだけだし、こんなものは約束とも言えない。
しかし、見くびっていたのは自分の方だと、鋼は後に知ることになる。
アヤヒはこの時、どうしようもないほど震えていたのだから。
(鋼は変わった。じゃが、変わらぬ部分もあったということか)
手の平からにじむ汗を悟られまいと必死であった。
鋼の内は、天下布武を志していた夢に代わって、娘の無事な成長を願う心に占められている。
アヤヒはそれを知った。
だが、鋼は気付いているだろうか?
そこに注がれる力も、まったく同じだということに。
国と、娘を、同じ天秤に載せている事に。
つまりそれは娘を救うためなら、一国を敵に回しても構わないという事だ。
アヤヒは、自分の言葉に命をかけなかった事などなかった。
雅を失う時は、国を失う時だと理解した。
コミックマーケット82で頒布した「戦う犬の冒険2」からの内容になります。




