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【完結】定刻の鐘と、ケーキと、王太子と~前世は検察事務官。断罪を止めたら、恋人役のはずが本物の婚約者になりました~  作者: 木風


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第二十九話 約束のホールケーキ

夏の盛りの、ある休日。


リシャールの婚約者と正式に決まってから、警備の都合もあり、私の住まいは王宮の一室へ移っていた。

静かで広くて、雨風の心配もない。侍女たちの気配もほどよく遠い。

けれど、ときどき自分がどこに住んでいるのか、まだ不思議になる。


部屋の扉を、コンコン、と叩く音がした。

休日の朝に訪ねてくる人間は、そう多くない。

扉を開けると、ラルフが立っていた。


「……ラルフさん、休日ですが」

「殿下からのお届けものです」


ラルフの後ろには、大きな木箱を抱えた使用人が二名いる。


「……なんですか、それは」

「殿下よりの言伝です。『約束を果たす』と」


私は少し考えてから、ぱちりと目を見開いた。


「……ホールケーキですか」

「はい」


部屋の中へ運び込まれた木箱を開けると、中には氷に守られた、大きな丸いケーキがあった。

真っ白なクリームの上に、繊細な飴細工の花。薔薇と、小さな葡萄の粒。側面には金箔を使った装飾。

前世でネットの記事の写真でしか見たことがないような、圧倒的な存在感だった。

宝石と見紛う、とはたぶんこういうことを言うのだろう。


「……これが」

「王都でも有数の菓子師、フラン・マリーニ氏の作です。通常一年待ちのところ、殿下のご依頼で特別に」

「……本当に一年待ちなんですね」

「はい。大変光栄なことです」


しばらく、私はただケーキを見つめていた。

それから、もう一通の手紙が木箱の中にあることに気づく。

開くと、殿下の字で書かれていた。


——約束通り、届ける。

今日の夕方、一緒に食べよう。

——リシャール


手紙を読んで、もう一度読んで、そっと折りたたんだ。


「ラルフさん、殿下に伝えてください」

「はい」

「夕方、お茶を用意してお待ちしていると」

「かしこまりました」


ラルフたちが去った後、私は一人で部屋に残った。

木箱の中のホールケーキを、またしみじみと見る。

こんなに大きいケーキ、どうやって食べ切ればいいのか、正直なところはよくわからない。


でも、殿下が一緒に食べると言っているのだから、二人なら何とかなるかもしれない。

……いや、それでも相当な量ではあるのだけれど。


前世の記憶を辿っても、ホールケーキを丸ごと一個前にしたことはない。

でもこれは約束のケーキだ。

ドレイクの件を全部終わらせたら用意すると言っていた、最初の約束の。


始まりの約束。

私がケーキに目がくらんでこの件に首を突っ込み、その結果として今ここにいる、その始まりの印みたいなものだ。

思わず、笑いがこみ上げてきた。

前世の私が見たら、なんと言うだろう。


チーズケーキを二個食べて死んだお前が、なんで異世界で王子の婚約者になって、ホールケーキを前にしているんだ、と言うかもしれない。


それでも、前世の私に言いたかった。


大丈夫だよ、と。


理不尽に終わらされた命の後にも、ちゃんと別の場所があった。

穏やかに生きたかっただけの私が、穏やかな日常の延長線上で、思いがけない幸せを見つけた。


ケーキも美味しい世界で、好きな人もできた。

十分すぎるくらい、恵まれている。


夕方、殿下が来た。

二人でテーブルに向かい合い、木箱を開ける。


「……大きいな」

「ですね」

「食べ切れるか」

「二人ではおそらく」

「何日かかけて食べるか」

「日持ちがどのくらいか、確認しましょうか」

「リサに聞く」

「では明日、聞きましょう」


私はケーキナイフを取り、一番外側からそっと切り分けた。

刃が入るたび、白いクリームがきれいな断面を見せる。

中には苺の層と、薄い海綿状の生地。丁寧に重ねられていて、見ているだけでうっとりする。


皿に盛って、殿下の前に置いた。


「どうぞ」

「お前も切ってくれ」

「はい」


自分の分も取り分けて、フォークを手に取る。


「……では、いただきます」

「いただきます」


一口食べた。

……美味しい。


ルルンさんのケーキとは、また違う種類の美味しさだった。

ルルンさんのケーキには温かみがある。手作りの親しみがあって、食べるとほっとする。


このケーキは、もっと技巧的で、精密で、それでいて食べるとちゃんと幸せになる。

なるほど。一年待ってでも食べたくなる理由が、少しわかる気がした。


どちらも本物の美味しさだ。


「どうだ」

「……すごく美味しいです」

「そうか」

「リシャールは?」

「美味い」

「初めて、こういうケーキを食べましたか」

「ホールケーキは初めてだ」

「ホールケーキって、特別な時に食べるものだと思っていました。前世ではそういうものでしたから」

「前世でも好きだったか」

「好きでした。ただ、一人で食べていましたね。大体」

「一人で?」

「誰かと一緒に食べる相手が、あまりいなかったので」

「……そうか」

「でも今は」


私は殿下を見た。

一年待って食べるケーキも、きっと一人ならここまで感動しなかっただろう。


「リシャールがいるので」


殿下はしばらく私を見ていた。


「……俺もいる」

「知っています」

「これからも、いる」

「知っています」

「それでいいか」

「……それ以上のことを言わせますか」

「言ってくれたら嬉しい」


私は少し笑った。


「……それ以上に、良いです。これ以上の話をするなら、ケーキを全部食べ終えてからにしたいです」

「なぜだ」

「美味しいものには、集中したいので」


殿下は少し笑ってから、二人でしばらく黙ってケーキを食べた。

夏の夕暮れが窓から差し込み、白いクリームを橙色に染めている。

甘さの中に少しだけ黄昏の色が混じって、今日のケーキはいつもより特別に見えた。


全部食べ終えて、皿を脇へよける。


「さっきの話の続きをしていいか」

「どうぞ」

「これからも、一緒にいたい」


殿下は静かに、でもはっきりと言った。


「婚約者として、という意味だけではなく。隣に、ずっといてほしい」

「……ずっと、というのはどのくらいですか」

「これから先、全部だ」

「……全部」

「長いか」

「……長くないです。転生前は二十七年で終わってしまったので」

「そうか」

「……私も、そうしたいです。可能な限り、全部、一緒にいたい」


殿下は少しだけ目を細めた。

その顔が何を意味するのか、私はもう知っていた。

嬉しい時の顔だ。言葉にしなくても、ちゃんとわかる。


「……ミルフィ」

「はい」

「一つだけ聞いていいか」

「どうぞ」

「ケーキと俺、どちらが大事か」


少し考えた。

考えなくても、本当はもう答えなんて決まっているのに、少し考える時間がほしかった。


「……甲乙つけがたいですが」

「甲乙つけてくれ」

「……リシャールが、少しだけ、多いです」

「少しだけ、か」

「ケーキがないと辛いですが、リシャールがいなくなる方がもっと辛いので。差はわずかですが、差はあります」

「……お前と話していると、笑ってしまう」

「それは良いことだと思います」

「ああ。良いことだ」


窓の外には、夏の星が出始めていた。

私はもう一度、空になった皿を見る。

ホールケーキが、こんなに綺麗に消えていくとは思っていなかった。


始まりはケーキだった。

定時退勤して、ケーキ屋に寄るだけが目標だった、平凡な私の毎日。


それが今、ここにある。

信じられないのに、もうちゃんと現実だった。


「……リシャール」

「うん」

「ありがとうございます」

「何に対して」

「……全部に対して」


殿下は少し間を置いてから、「こちらこそ」と言った。


「あの日、ぶつからなかったら、どうなっていたんでしょうね」

「廊下でぶつかった書記官が、この人で良かった」

「……廊下でぶつかった王太子殿下が、リシャールで良かったです」


夏の夜が、静かに深まっていった。

ケーキの甘さがまだ口の中に残っていて、その甘さごと、今の幸せを覚えていたいと思った。

ブックマーク、★★★★★、リアクション

よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ

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