第二十八話 大広間で、手をつないで
婚約発表から一週間が経った夜のことだった。
書斎で、いつものように書類の整理をしていた。
リシャールも来ていた。
今日は私の机の近くまで椅子を持ってきて、並ぶように座っている。
静かな夜だった。
窓の外では、夏の夜風が木々を揺らしている。
書類をめくる音と、ときどき蝋燭の芯が小さく鳴る音だけが、部屋の中に落ちていた。
「……ねえ、リシャール。一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「どのくらい前から、私のことを意識していましたか」
リシャールは手元の書類を置いた。
すぐには答えず、少しだけ考えるように目を伏せる。
「……いつから、と聞くか」
「聞いていいですか」
「聞いていい」
それから、静かに答えた。
「廊下でぶつかった日からだ」
「……あの日から?」
「眼鏡越しに見上げてきた表情に……惹かれてしまった」
眼鏡。
……眼鏡なのか、と思った。
一瞬だけ、眼鏡に特別なこだわりでもあるのでは、と浮かんだが、どうにか呑み込む。
「そして、書類を拾いながら、捏造に気づいて、そのまま淡々と言い切って、定時に帰ろうとした。あの時に、変な人間だと思った」
「変な人間……」
「変な、というのは悪い意味ではない」
「そうであることを祈ります」
「今まで会ったことがない種類の人間だった」
リシャールは、少しだけ笑った。
「宮廷にいる人間は、俺を見る時に何かを期待した目をする。お前は違った。書類の話をしている時、お前の目には俺が映っていなくて、書類だけが映っていた」
「……それは失礼ではないですか」
「いや。それが良かった」
「なぜですか」
「俺を王子として見ていない人間は、珍しい」
少し考えた。
あの時は、前世を思い出した直後でもあった。
頭の中でいろいろなことが一度に動いていて、注意力も散漫で、たぶん相当礼を欠いた態度だったはずなのに。
「……確かに、あの日は廊下でぶつかった相手が誰か、最初は判断がついていなかったです。書類に気を取られていたので」
「だから良かった。お前が俺を見る目は、最初から今も、ずっと同じだ」
「書類を見る目、ですか」
「……それは少し違う」
「では、どういう目ですか」
「……ただ、俺を見ている目だ。特別扱いでもなく、卑下でもなく。ただ、そこにいる人間として」
その言葉を、私はゆっくり受け取った。
「……リシャールは、たくさんの人に囲まれているのに、孤独な時があるんですね」
「そうだな」
「それは、大変だったと思います」
「なんだ、いきなり」
「ただ、思ったので」
リシャールの視線に、ほんの少しだけ揺れが走った気がした。
「同情か」
「同情ではないです。……同情ではなくて、これからは、そういう場所に一人でいることが少し減ればいいと思って」
「……減る?」
「私が隣にいれば、ただの人間として話せる相手が一人増えますから」
「……お前は、そういうことをさらっと言うな」
「さらっと言っていますか?」
「言っている」
「本心なので」
「……わかっている。わかっているから、さらっとに聞こえるんだ」
蝋燭の炎が揺れた。
その揺れに合わせるように、リシャールの視線も、体温も、少しだけ近くなった気がした。
「ミルフィ」
「はい」
「もう少し、こちらに来てくれ」
静かな言葉だった。
命令でもなく、無理に引き寄せるような響きでもない。
私は椅子ごと、少しだけリシャールの方へ寄った。
「このくらいですか」
「もう少し」
さらに近づく。
肩が触れ合いそうなほどの距離になって、ようやく止まった。
「……このくらいですか」
「うん」
リシャールの大きくて温かい手が、私の手の上に重なった。
書斎の静けさの中では、ただそれだけのことが、どうしようもなく温かい。
「ミルフィ」
「はい」
「好きだ」
「……聞こえています」
「聞こえているなら返事をしてくれ」
「……私も、です」
「それだけか」
「それだけでは不十分ですか」
「不十分ではないが、もう少し詳しく聞きたい」
「……どのくらい好きか、ということですか」
「そうだ」
少し考えた。
具体的に言うなら、私が出せる範囲でいちばん上の比較対象は、ひとつしかない。
「……ケーキと同じくらい、いや、それより少し多いくらい好きです」
リシャールは一瞬止まって、それから声を出して笑った。
「ケーキと比べるのか」
「ケーキより上ですよ? 私の人生の中心と同等以上の評価を下したつもりです」
「……そうか。それは光栄だ」
「本心です」
「わかっている。だから笑った」
書斎の中に、温かい静けさが広がっていく。
外では夏の夜風が吹いていた。
前世で死んだ時、まさかこんな場所に来るとは思っていなかった。
浮気されて、コンビニのケーキを食べて、翌日逆恨みで殺されて、そのまま目が覚めたらこの世界だった。
定時退勤とケーキだけが目標の、平凡な転生者が。
書類の捏造に気づいて、夜会に割り込んで、宰相の不正を暴いて、今は王太子リシャールの隣で、こうして手を重ねている。
……人生は、本当にわからない。
でも、悪くない。
むしろ、かなり良いのかもしれない。
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