第二十七話 雨の前夜と、白いドレス
正式な婚約の発表は、夏の初めに行われた。
春の夜会から約二か月。ドレイク宰相の失脚から約一か月半。
あの夜から積み重なってきた出来事が、ようやく一つの形になる日だった。
王宮の大広間で、国王陛下臨席のもと、リシャール王太子とミルフィ・ベルランの婚約が公式に発表される。
その日、私は殿下が用意してくれた白と薄金色のドレスを着ていた。
音楽会の夜の衣装より、さらに丁寧なつくりだった。
侍女が一時間かけて髪を結い上げ、耳元に小さな飾りを挿してくれる。
鏡の中の自分は、少しだけ自分ではない誰かのようにも見えて、でも確かに私だった。
「緊張していますか?」
侍女が優しく聞いた。
「……少し」
「大丈夫ですよ。殿下が一緒にいらっしゃいますから」
「そうですね」
「それに……殿下、今日はずっとそわそわしていらっしゃったみたいですよ」
「……殿下が?」
「側近の方がこっそり教えてくれました。今朝から時間を何度も確認されているって」
「…………」
眼鏡を外しながら、私は少し笑ってしまった。
あの落ち着き払った殿下が、そわそわしている。
そう思うと、不思議と自分の緊張も少し和らいでいく。
「かわいいですね」
「ミルフィ様、もし殿下の前でそれを仰ったら大変なことになりますよ」
「言いません。心の中にしまっておきます」
準備を終えて廊下に出ると、殿下がそこにいた。
深い紺色の正装。胸に王家の紋章。いつもより少し改まった姿で立っている。
目が合うと、一瞬だけ、殿下の方も止まった。
「……来たか」
「はい」
「……似合っている」
「ありがとうございます」
「……選んだかいがあった。きれいだ」
そう呟いた声が、少しだけ低かった。
私はその声に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「殿下も、お似合いです」
「俺はいつもこういう服を着ているが」
「いつも似合っていますが、今日は特に」
殿下は少し間を置いてから、「行こう」と言った。
歩き出しながら、私は隣の殿下を横目で見る。
耳がほんの少し赤い気がした。
……かわいい。
その言葉は、心の中にだけしまっておいた。
大広間は、春の夜会と同じように輝いていた。
ただ、あの夜とは空気がまるで違う。
あの時の私は、廊下の柱の陰から覗いていた。招待もされていない平民の書記官として。
今日は、殿下の隣に立っている。
それだけで、見える景色の高さまで違う気がした。
「……緊張しているか」
小声で聞かれた。
「はい。でも大丈夫です」
「大丈夫か」
「リシャールが隣にいるので」
殿下は前を向いたまま、でも少しだけ手を私の方へ動かした。
指先が触れる。
そのまま、ゆっくりと手を握られた。
「……っ」
「緊張したらここを握れ」
「……はい」
「返事が小さい」
「緊張しているので」
「さっき大丈夫と言っていたが」
「大丈夫ですが、緊張はしています」
「矛盾している」
「していないです。緊張していても大丈夫なんです」
殿下は小さく笑った。
そのまま手を繋いだまま、私たちは大広間の中央へ進む。
国王陛下の声が、広間に響いた。
「本日、余の名において、王太子リシャール・フォン・エルムローゼと、ミルフィ・ベルランの婚約を公式に宣言する」
広間が静まり返る。
それから、拍手が起きた。
私はまっすぐ前を向き、息を整えた。
手の中には、殿下の手の温もりがある。
その温もりが、ここに立っていいのだと教えてくれている気がした。
……これが本物だ、と思った。
ふりではない。演技でもない。
本当に、ここに立っている。
前世で理不尽に終わらされた命が、この世界でこんな場所に辿り着いた。
ケーキと定時退勤だけが目標だった私が、王太子殿下の手を握って、大広間の中央に立っている。
人生というのは、本当にわからないものだ。
でも——。
「ミルフィ」
殿下が小声で言った。
「はい」
「大丈夫か」
「……はい。大丈夫です。本当に」
殿下は私の手を、少しだけ強く握った。
私も握り返す。
それだけで、十分に思えてしまう。
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