第二十六話 怖かった夜、離さない腕
婚約発表の前夜。
雨が降り始めた夜に、一人、自室の窓際に座っていた。
明日のことを考えていた。
正式な婚約発表。白いドレス。大広間。国王陛下のお言葉。
二日前の書斎の出来事が、まだ頭の隅に残っている。
消えたわけではない。
ジュリアン殿下が追いついてきた足音。壁に追い詰められた感覚。
前世の記憶と重なった、あの恐怖。
でも同時に、リシャール殿下の腕の温かさも残っていた。
二つが、一緒に胸の中にある。
前者が薄まるにつれて、後者の方が、かえって鮮明になっていく気がした。
怖かった、という事実よりも、助けに来てくれた、という事実の方が、少しずつ強くなっていく。
コンコン、と扉が鳴った。
「はい」
「……ミルフィ」
リシャール殿下の声だった。
扉を開けると、殿下が立っていた。
侍女もラルフも連れていない。いつもより簡素な姿だった。
夜の廊下の灯りを背にしていて、表情は少し見えにくいのに、誰なのかは声だけですぐわかった。
「……リシャール、どうしたんですか」
「雨が降り始めたので」
「雨が降り始めたら来るんですか」
「……お前が一人で起きていると思って」
「…………」
「眠れているか」
「眠れています。ただ、今夜はもう少し起きていようと思っていて」
「そうか」
殿下は少し迷ってから、「中に入っていいか」と聞いた。
「どうぞ」
殿下は窓際の椅子に腰を下ろした。私もそばの椅子に座る。
雨の音が、静かに聞こえていた。
強くはないけれど、途切れずに降っていて、部屋の中の沈黙をちょうどよく埋めてくれる音だった。
「……明日のことを考えていましたか」
「少し。あと、一昨日のことも」
「……そうか」
「消えないんですよね、こういう記憶は。特に前世の重なりがあると」
「前世でも似たことがあった、と言っていたな」
「はい。追いかけられて、逃げられなくて……最後は逃げられませんでした」
「…………」
「でも、そのおかげでこちらの世界に来られましたし」
「そうだな」
「今回は逃げられましたし、リシャールも来てくれた。だから全然違うんですが、体の記憶というのは頭より遅いので」
頭では、もう終わったことだとわかっている。
今は安全だともわかっている。
でも、体だけがまだ完全には納得していない。
そういう感じが、今夜はまだ残っていた。
雨の音が少し強くなった。
「……リシャール」
「うん」
「一昨日、抱きしめてもらって、すごく落ち着いたんです」
「…………そうか」
「前世も今世も、あまりそういうことがなかったので。ただ、そこにいてくれるだけで落ち着けるというのが、新鮮で」
殿下は少し間を置いてから、立ち上がって私の方に来た。
「……ミルフィ」
「はい」
「今夜も、眠れるまで、ここにいてもいいか」
「……護衛の方に見られませんか」
「離れた所に立っているが、ここには近寄らせない」
「……では、少し」
殿下は私の隣の椅子に座って、窓の外を見た。
雨が、静かに降り続いている。
肩が触れるほどではない。でも、ひとりで座っていた時より、明らかに部屋の空気が違った。
「……昨夜、よく眠れなかったか」
「少し、夢を見ました」
「どんな夢だ」
「前世の夢。でも途中で、書斎が出てきて……リシャールが来てくれた夢に変わりました」
「変わったのか」
「はい。そこで目が覚めました。嬉しくて」
殿下はしばらく黙っていた。
「……よかった」
「何がですか」
「夢で、来られて」
私は少し笑った。
「……本当に来てくれましたから。現実でも」
「これからは」
「はい」
「何かあれば、すぐに呼んでくれ。夢でなく、現実で来る」
「……現実に来てもらえる状況が、まずいことが多いんですが」
「構わない。呼べ」
「……わかりました」
雨が、ざあっと少し強くなる。
窓ガラスを流れる水の筋が、蝋燭の光を揺らして光っていた。
「……綺麗ですね、雨の夜」
「そうだな」
「前世の世界では、夜に雨が降ると街の明かりが濡れて、それがきれいで好きでした」
「こちらの世界では違うか」
「蝋燭と雨の組み合わせは、また別の綺麗さがあります。どちらも好きです」
「そうか」
私たちはしばらく、黙って雨を見ていた。
時々、どちらかが言葉を足して。
時々、また静かになって。
無理に話を続けなくても苦しくならない沈黙が、今夜はとてもありがたかった。
どのくらい経った頃か。
「……眠くなってきました」
「そうか」
「今夜は大丈夫な気がします」
「なら良かった」
「リシャールがいてくれたから、だと思います」
殿下は少し、目を細めた。
「……明日の婚約発表、楽しみにしているか」
「……はい。少し緊張していますが」
「緊張したら俺の手を握れ」
「大広間の中央で、ですか」
「構わない」
「……恥ずかしいんですが」
「俺が握ると言っている。お前が握るのではない」
「……それは少し違いますよ」
「どう違う」
「……まあ、いいです」
殿下は立ち上がった。
「では、おやすみ」
「……おやすみなさい、リシャール」
「明日は迎えに来る」
「はい」
「白いドレスが似合っている。楽しみにしている」
「……着たところ、見せましたっけ?」
「着ていなくてもわかる」
「……それは嬉しいですが、根拠がよくわかりません」
「お前が着るから似合うんだ」
返す言葉がなかった。
そういうことを、こんなふうに静かに言われると、余計に困る。
「……おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
殿下は出て行った。
雨の音だけが残る。
私は窓の外をしばらく見てから、目を閉じた。
今夜は、きっとよく眠れる。
腕の温もりを思い出しながら、静かに眠りについた。
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