第二十五話 咄嗟に呼んだ、名前は
昼過ぎに、リシャール殿下の側近であるラルフがまた現れた。
「殿下が執務室にお越しくださいと」
「今日は昼食はいいと言っていたんですが」
「昼食ではなく、ご報告があるとのことです」
私は手を止め、急ぎすぎないよう気をつけながら執務室へ向かった。
扉を開けると、殿下は机の前に座っていた。
昨夜と同じく落ち着いた顔をしている。けれど、目の下にはうっすらと影があった。きっと私より、ずっと眠れていないのだろうと思う。
「……眠れましたか」
「多少は」
「私の方が熟睡していたかもしれません。買っておいたモンブランを食べたら、急に眠くなって」
「……お前は本当に」
「どうしましたか。呆れた顔で」
「呆れてはいない。安心した」
その言い方が、少しだけやわらかかった。
殿下は机の上の書類を一枚手に取る。
「今朝、父上とジュリアンの件について話し合いがあった」
「はい」
「昨夜の件と、これまでの一連の行動を総合して、父上が判断を下した」
「……どのような」
「ジュリアンは正式に王位継承権を剥奪される」
私は静かに、その言葉を受け取った。
重い処分だ。けれど、昨夜のことを思い出せば、軽いとも言えなかった。
「さらに、王宮からの追放が決定した。今後はヴァルド地方の一領地に移り、そこで生活することになる」
「……そうですか」
「追放は、厳しいと思うか」
「……どちらとも言えません」
「正直に言えばいい」
「……ドレイク宰相に利用されていた側面もある、とは思います。ただ、エリーンさんを断罪しようとしたのも、昨夜のことも、それで許されるものでもない」
「そうだな」
「殿下は、どう思っていますか。弟殿下のことを」
リシャール殿下は、しばらく黙っていた。
私にはわからない兄弟二人の思い出が、きっとたくさんある。
同じ両親から生まれて、どうしてここまで違う道を歩くことになったのか。私には想像することしかできない。
それでも、兄である殿下にとって簡単な話ではないはずだった。
「……弟だから、かわいそうだとは思う」
「はい」
「ただ、昨夜のことは到底許せない。今回の父上の判断に、異議は唱えられない」
「……昨夜、怖かったとおっしゃっていましたね」
「ああ」
「あの時、殿下の声が少し震えていたのに気づきました」
殿下は少し間を置いた。
「……気づいていたか」
「はい」
「……そうか」
「初めて聞いた声でしたから」
「俺の声が震えるのは」
「はい」
「……そういうことだ」
私はその言葉の意味を、ゆっくり飲み込んだ。
この世界では、兄弟の情や立場の重さが、前世よりずっと複雑に絡み合う。
それでも昨夜、殿下は迷わず私を守ってくれた。
「……ありがとうございます。昨夜のこと、改めて」
「礼は昨夜も言った」
「また言いたかったので」
殿下は少し目を細めた。
「お前が無事で、良かった」
「リシャールが来てくれたので、無事でした」
「……これからは、一人で夜の書斎に籠もるのは控えてくれ」
「はい。それは私も反省しています」
「婚約が正式になれば護衛が常につく。それまでの間は、俺か信頼できる者が近くにいる時だけにしてくれ」
「わかりました」
「それと」
「はい」
「昨夜、ありがとう」
「……私が?」
「呼んでくれた。俺の名前を」
ああ、そういうことか。
咄嗟に『リシャール』と叫んだことを、言っているのだ。
「……あの状況では、それしか思い浮かびませんでした」
「それでいい」
「……殿下は、本当にそういうことをさらっと言いますね」
「さらっとか?」
「十分さらっとです」
殿下は少し笑った。
昨夜より目の下の影は残っていたが、笑うとほんの少し和らいで見えた。
「……今日の仕事が終わったら、ケーキを買って書斎で食べよう」
「賛成です」
「今日は俺も一緒にいる」
「……大賛成です」
「大賛成か」
「昨夜の分まで、美味しいケーキを食べたいです」
「そうしよう」
その声が温かくて、胸の奥にまだ残っていた緊張が、少しずつほどけていった。昨夜の冷たい記憶の上に、ようやく別の温度が重なっていくようだった。
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