第十五話 工房帰りの焼き菓子デート
次に向かったのは、路地裏にある製本工房だ。
こちらは文具店よりもずっと庶民的で、糊と革と紙の匂いが入り混じっている。
帳簿の綴じ直しに手慣れた職人がいれば、差し替え頁の綴じ方にも見覚えがあるかもしれない。
工房の親方に、ラルフが事前に用意していた見本の綴じを見せると、親方は「ああ」と低く唸った。
「この締め方は、うちじゃないな。でも王都でやれる奴は限られる」
「誰ですか」
「北市場の奥にいる老職人か、宰相府付きの工房の若いのか……まあ、たぶん後者だろうな。癖が若い」
「癖、ですか」
「綺麗に見せたがる締め方だ。慣れた職人は、こんな見栄えの方は気にしねえ」
なるほど、と私は思った。
偽造にも、技術と性格が出る。
工房を出る時、通りの向こうから若い令嬢が二人、こちらを見てひそひそと囁いているのが聞こえた。
「やっぱり本当なのね」
「王太子殿下のお相手って、あの方?」
「地味だけど、案外……」
最後までは聞こえなかった。
いや、聞こえなかったことにした。
私は足早に歩こうとしたが、その前に殿下がさりげなく私の歩幅に合わせてきた。
しかも、ほんの少しだけ腰のあたりに手を添える。
「……殿下」
「何だ」
「今の、必要でしたか」
「必要だった」
「本当に?」
「十分に」
顔が少し熱くなる。
演技だ。わかっている。
わかっているのに、実際に触れられると、それはそれで別問題だった。
「顔が赤い」
「気のせいです」
「そうか」
「そうです」
そのまま大通りへ戻ると、午後の街は賑わっていた。
果物売りの声。馬車の車輪の音。焼き菓子の匂い。
私は普段、定時後にしか王都を歩かないから、こうして明るいうちの街を見るのは少し新鮮だった。
「次はどちらへ」
「最後に一軒、寄りたいところがある」
「調査先ですか」
「半分」
「残り半分は」
「行けばわかる」
嫌な予感が、これで二度目を迎えた。
連れて行かれたのは、中央通りから少し外れた場所にある、落ち着いた雰囲気の菓子店だった。
高級店らしく、窓辺には宝石みたいなケーキが整然と並んでいる。
艶のある果実のタルト、鏡のように光るチョコレート菓子、繊細な飾りのついた小さな焼き菓子。
見ているだけで、自分の財布では縁がないとわかる種類の店だ。
私は思わず足を止めた。
「……ここ」
「入るぞ」
「え、あの」
「嫌か」
「嫌ではありませんが、価格帯が私の知っている世界ではありません」
「今日は知る日だ」
「ずいぶん豪快な学びですね」
店に入ると、店員が一瞬息を呑み、次いで完璧な笑みを浮かべた。
やはり王太子という肩書きは、いろいろな意味で便利らしい。
店の空気そのものが、一段静かに整えられた気がした。
殿下はショーケースを眺めながら、当然のように私に言った。
「選べ」
「……任務経費ですか」
「違う」
「では調査上の必要経費?」
「それも違う」
「では、なぜ」
「俺が買いたいだけだ」
あまりにあっさり言われて、私は数秒黙った。
店員が絶妙な角度で視線を逸らしてくれているのが、逆に気まずい。
「……王太子殿下」
「何だ」
「そういうことを平然と言わないでください」
「なぜ」
「周囲が誤解します」
「誤解ではないだろう。今日はそういう設定だ」
「設定と、今の台詞は少し種類が違います」
「そうか?」
「そうです」
殿下は首を傾げたが、それ以上は追及してこなかった。
代わりに、「この店のチョコレート菓子は評判がいいらしい」と言う。
それは困る。
そんなことを言われたら、選ばないわけにいかない。
結局私は、艶のある濃いチョコレートの小さなケーキと、季節の果実を使った焼き菓子を選んだ。
殿下は何も選ばなかった。
ただ、私が迷っている様子をなぜか静かに見ていた。
店を出る頃には、店員の目は完全に「仲睦まじい恋人」に向けるものになっていた。
非常に居心地が悪い。
でも、心のどこかでは少しだけ、こそばゆい。
見られているのに、完全に嫌だとは思っていない自分が少し厄介だった。
帰りの馬車の中で、私は買ってもらった小さな箱を膝の上に置いていた。
「……収穫はありましたね」
「ああ」
「紙の注文先、綴じ工房、宰相府経由の発注。だいぶ絞れました」
「お前を連れ出した甲斐があった」
「私としては、仕事をしに来たのか菓子を買いに来たのか、途中から少し怪しくなりましたが」
「両方だ」
「そうですか」
箱を見下ろす。
綺麗な紺色のリボンがかかっている。
自分ではまず買わない店だ。
だから余計に、なんとなく落ち着かない。
「……でも」
「何だ」
「少しだけ、楽しかったです」
「少しだけか」
「かなり、と言うと調子に乗りそうなので」
「もう十分乗っている」
「自覚がおありなら結構です」
殿下は笑った。
はっきりと、楽しそうに。
その顔を見て、私は少しだけ目を丸くした。
王太子としての顔でも、策を巡らせる時の顔でもない。
年相応の、ただ一人の男の顔だった。
「ベルラン」
「はい」
「次もある」
「それは、調査の外出ですか」
「それもある」
「またもがつくんですね」
「当然だろう」
私は箱を抱えたまま、ため息をついた。
定時退勤とケーキだけを考えていたはずの私の人生は、気づけばとんでもない方向へ転がり始めている。
その中心にいるのが王太子殿下で、その人が今、隣で妙に満ち足りた顔をしているのだから、なおさら始末が悪い。
でもまあ、今日のところはよしとしよう。
調査は進んだ。
ケーキも手に入った。
定時にも、ぎりぎり間に合いそうだ。
それくらいの現実的な条件がそろっているなら、少しばかり人生が予定外でも、たぶん何とかなる。
……たぶん。
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