第十六話 音楽会で名前を呼んで
音楽会の前日、殿下の手配で届いた服を見て、私は少しのあいだ口をつぐんだ。
淡いアイボリーのドレス。
シンプルだが、素材が明らかに上質だ。
刺繍も装飾も最小限なのに、だからこそ品がある。
「……こんな服を着る日が来るとは思っていませんでした」
書記官室の同僚たちが見たら、目を剥くに違いない。
着替えは、殿下が手配してくれた侍女の手を借りた。
私には慣れないことだらけだったが、侍女は手際よく、しかも押しつけがましくない気遣いで世話をしてくれる。
「お綺麗ですよ、ベルラン様」
「……無理に言ってくれなくても」
「本当のことです。普段の制服もお似合いですが、こういったドレスですと、なんというか、印象が変わりますね」
私は鏡の前に立って、自分の姿をまじまじと見た。
確かに、自分でも少し驚く。
普段の書記官制服は機能性重視で、どちらかといえば地味だ。
それに慣れすぎていたけれど、こうして少し整えてみると……悪くない。
「……ちょっと、別の人みたいですね」
「元々、お顔立ちが整っていらっしゃいますから」
「そんなことは」
「殿下がお選びになった服ですから、似合う方を想定して選んでいるはずです」
「……殿下が選んだんですか、この服」
「はい。侍女頭から聞きました。殿下ご自身が何着か候補をご覧になって、これをご指定されたとか」
「…………」
なんとなく、少し気恥ずかしくなりながら、私は眼鏡を外してドレッサーに置いた。
殿下が選んだ服を、今、自分が着ているのだと思うと落ち着かない。
いや、これは仕事の一環だ。
恋人のふりをするための衣装選びも、殿下の仕事の一部。
気恥ずかしがることではない。
……そう自分に言い聞かせながら、私は音楽会の会場へ向かった。
会場は、王宮の中ほどにある小さな演奏の間だった。
三十人ほどが入れる規模で、壁には楽器の装飾、窓には薄い絹のカーテン。
中央に演奏台があり、それを囲むように椅子が並べられている。
貴族の若者たちと、その親族と思しき人々が思い思いに話しながら、演奏の始まりを待っていた。
私は殿下と並んで入場した瞬間、その場にいた人間の視線が、まとめてこちらへ向いたのを感じた。空気が一瞬だけ止まり、それから静かにざわめきが広がっていく。
「……こういうのは慣れますか」
私は小声で殿下に聞いた。
「慣れない者は少ない」
「殿下は慣れているわけですね」
「俺は別だ」
「……差し出がましく申しますが、王族というのは、それだけで大変なお仕事ですね」
「お世辞は言わなくていい」
「お世辞ではないです。心からそう思います」
殿下は小さく笑った。
今日は軍服ではなく、落ち着いた濃紺の服を着ている。
それでも部屋の中で際立って見えるのは、顔立ちや立ち居振る舞いのせいだろう。
「ミルフィ」
突然名前を呼ばれて、私はほんの少しびくりとした。
「は、はい」
「今日から名前で呼ぶ。ベルラン書記官では恋人らしくない」
「……そ、そうですね」
「俺のことも、公の場ではリシャールと呼んでいい」
「さ、さすがにそれは」
「恋人がリシャール殿下と呼んでいたら不自然だろう」
「……た、確かに」
「練習してみろ」
私は周囲の視線を感じながら、小声で言った。
「……り、リシャール様?」
「呼び捨てでいい」
「……リシャール、殿下」
「殿下は要らない」
「…………リシャール」
「うん」
殿下——リシャールは満足そうに頷いた。
私はというと、顔が少し熱い気がした。周囲の誰かに聞かれていたらと思うと、余計に落ち着かない。
これは恥ずかしさだ。
普段、絶対に呼ばない呼び方で呼んだことへの、単純な恥ずかしさ。
それ以上の意味はない、と私はもう一度、心の中でしつこいほど自分に言い聞かせた。
やがて演奏が始まった。
弦楽器の四重奏だった。
私の耳には心地よく、音は細い糸みたいに部屋の空気へ溶けていく。
前世でも音楽は好きだったが、聴くのはもっぱらJ-POPだ。
こんなふうに間近で生演奏を聴く機会などなかったから、少しだけ聴き入ってしまった。
会場に満ちていたざわめきも、いつの間にかやわらかく沈んでいく。
リシャールは演奏の間、静かに音楽へ耳を傾けていた。
私もしばらくそれに倣っていたのだが、ふと視線を感じて横を向く。
部屋の反対側に、壮年の男性がいた。
どっしりとした体格に、品のいい衣装。
計算高そうな目と、にこやかなのにどこか冷たい笑み。
「……あの方が」
私はリシャールの袖を、さりげなく引いた。
「グレイン・ドレイク宰相か?」
「……そうです」
リシャールの声が、わずかに低くなる。
「見ているか」
「はい。こちらを見ています」
「無視しなくていい。普通に視線を返せ」
「普通に、ですか」
「お前が俺の恋人だと信じているなら、堂々としていろ」
「……は、はい」
私はドレイク宰相の視線を受け止めた。
にっこりと微笑まれて、私はうっかり会釈してしまう。
宰相も軽く頭を下げ返し、それから何事もなかったように視線を演奏台へ戻した。
「……今、私は何をすれば正解でしたか」
「今ので十分だ」
「でも会釈してしまいました」
「それでいい。自然だった」
確かに、過剰に無視したり睨んだりする方が不自然だったかもしれない。
むしろ、あれくらいの方が普通の令嬢らしく見えただろう。
演奏がひと区切りつき、休憩の空気が広がったところで、宰相の方から歩み寄ってきた。
「リシャール殿下、ご機嫌麗しゅう」
「ドレイク卿」
リシャールは落ち着いた声で応じる。
「今日の演奏は素晴らしいですな。弦楽の響きがこの部屋によく合っている」
「そうですね」
「殿下のお隣の方は……」
宰相の視線が、私に向いた。
「ミルフィ・ベルランです」
リシャールが私の名を紹介する。
「ああ、春の夜会で発言されたという書記官の方ですな。なるほど」
宰相の目が、にこやかなまま私を測っていた。
「殿下と親しくされているとは、伺っていましたが」
「少し縁がありまして」
私は緊張しながらも、笑って答えた。
前世で検察の仕事をしていた経験が、こういう場で少しだけ役に立つ気がする。
検察庁でも、裁判官や弁護士、時には被疑者と向き合うことがあった。
相手に意図を悟られず、自然に会話を続ける訓練は、それなりに積んでいる。
「書記官からのご出世ですな。殿下も変わったご趣味をお持ちで」
刺のある言葉を、にこにこと言う。
これが宰相か、と思った。
「趣味ではありません」
リシャールがさらりと言う。
「彼女は優秀だから傍においている。それだけです」
「ほう、優秀とは」
「書類の読み方が、並みの文官より数段上だ。それに——正直だ」
そう言うなり、リシャールは私の方をちらりと見て、ぐいっと腰に手を回して引き寄せた。
「正直な人間は、今の王宮ではずいぶん貴重だと思いませんか、ドレイク卿」
宰相の目が、一瞬だけ細くなった。
「……おっしゃる通りですな」
「ええ。貴重ですから、大切にしています」
この短い会話の中に、どれだけの意味が込められているのか。
私はにこにこしたまま、内心では舌を巻いていた。
リシャールは、さりげなく「書類の読み方に優れた人間を手元に置いている」と宰相に知らせた。
それだけで、十分な牽制になる。
宰相は、書類に問題があることを知っている。
だからこそ、「書類の読み方が優れた人間」という言葉が引っかかるはずだ。
自分の足元に火が近づいているかもしれない、と意識させるだけでも意味がある。
正面から責めなくても、相手に『知られているかもしれない』と思わせるだけで、人は勝手に揺れる。
演奏が再開し、宰相は一礼して立ち去った。
「……今の、わかったか」
リシャールが小声で言った。
「はい。宰相への牽制ですよね」
「その通りだ。お前が傍にいることで、ドレイクは俺の手元に書類の専門家がいると意識する」
「それが圧力になる」
「ああ。これで少しでも動きを見せてくれれば」
「宰相が焦って動けば、ほころびが出やすい」
「賢いな」
褒められた。
なんとなく、悪い気はしない。
演奏が終わり、人々が席を立ち始めると、リシャールは立ち上がり、私にも立つよう目で合図した。
帰路の廊下で、私たちはしばらく一言も交わさなかった。
足音だけが、静かな廊下に規則正しく響いていく。
さっきまで人の視線と音楽で満ちていた部屋が嘘みたいで、余計に胸の鼓動が気になる。
「……今日の出来はどうでしたか」
沈黙に耐え切れなくなって、結局私の方から聞いてしまった。
「十分だ」
「本当ですか」
「お前は緊張していたが、それが逆に自然に見えた。計算ずくではないと、見ている者に伝わる」
「褒めているのかどうか判断しにくいですね、いつも」
「褒めている」
「……わかりました。ありがとうございます」
正門が近づいてきた。
「今日も送る」
「え、でも殿下はここから先は」
「王宮の外まで送る。それくらいしておかないと、恋人のふりにならない」
「……ああ、そういう」
私たちは並んで正門を出た。
春の夜の空気が、ひんやりと頬に触れる。
「ミルフィ」
「はい」
「今日、よくやってくれた」
「……はあ、ありがとうございます。宰相の目、すごく計算高かったですね」
「それを感じ取れるなら十分だ」
「感じ取るだけで、うまく立ち回れたかは」
「立ち回れていた」
リシャールはそう言って、街灯の光の下でこちらをまっすぐ見た。
「ありがとう」
「いえ、これはお仕事ですから」
「仕事でも、礼は言う」
……なんでだろう。
この人が『ありがとう』と言う時の声は、少しだけ他の言葉と温度が違う気がして、妙に落ち着かない。
「では、お気をつけてお帰りください。私もそろそろ」
「ああ。おやすみ、ミルフィ」
「……おやすみなさい」
足早に帰宅した。
帰り道のあいだずっと、名前を呼ばれた時の声が耳の奥に残っていた。
……仕事だ。全部仕事だ。
念押しは、もう三度目だった。
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