第9話:運命の賽は投げられた (1)
砂漠の分岐路で、僕はまた「こっち」と口にしていた。
根拠なんてない。道標は半分砂に食われて、左は轍が深く、隊商が通った跡がある。右は埋もれかけた獣道。誰が見ても左だ。
「右」
フィンが肩をすくめる。セリナは黙って手帳を開き、何かを書きつけた。
半日後、右の道は岩陰の水場に繋がっていて、目的地が予定より早く見えた。懐の予言書が、ほんのり温かい。歩き疲れた身体の熱だろう、と思うことにした。
「的中、12の12」
セリナの呟きは独り言に近かった。
「エルの勘、ちょっと怖いくらい当たるよな」
「たまたまだよ。砂の色が違って見えただけで」
「それを12回連続で当てる確率、知りたい?」
手帳から顔を上げたセリナの目が、据わっている。
「……いや、いい。知らない方が幸せなこともある」
夜営の焚き火。爆ぜる薪の合間に、セリナがふと言った。
「マーサさん、いまごろどうしてるかしらね」
「……ひとりで、家のことを片付けてるかな。あの人なら、もう片付け終わって縁側に座ってる気もする」
「移住の期限は、とっくに過ぎてる頃よ」
セリナが手帳の隅を指でなぞる。そこには日付が書いてあった。「今ごろ村は、半分は空っぽ。人が抜けていく速さは、たぶん私たちが歩く速さより、ずっと早い」
慰めじゃなかった。ただの計算だ。だからこそ、重い。フィンは何も言わず、自分の毛布を直していた。
中央まではまだ何ヶ月もかかる。村が圏外化されてから歩いた距離は、地図の上ではほんの一寸だ。こうして息をしている今も、村は人を失っていく。
書状を出した側へ辿り着くには、まずもうひとつの街を越えねばならない。間に合わないかもしれない。それでも、足を止める理由にはならなかった。
◇
歓楽都市ルミナは、夜でもないのに光っていた。
門をくぐった瞬間、油と香辛料と果実酒の匂いが、まとめて鼻を突いた。さっきまでの乾いた砂の世界が嘘みたいだ。砂漠の只中に、遺跡から掘り出された不滅の光源を惜しげもなく灯した不夜城。
門の脇には、護り手の詰所があった。旅の埃をかぶった風体の者には、予言書の写しの照合を求める列ができている。フィンが視線だけで、荷駄改めを待つ商人たちの流れを示した。僕らはそこに紛れて、何事もなく通り過ぎる。
自分が懐を押さえていたことに気づいたのは、詰所がとうに背中の向こうへ流れてからだった。
靴底に、石畳の熱。人いきれ。歓声と悲鳴の混じった騒音。歯車仕掛けの円盤が回る、低い唸り。通りの両脇には看板が並び、そこに予言書の一節めいた文句が掲げられ、その下で人々が賭け駒を積んでいた。
「今日の天気は『晴れ時々砂嵐』! 倍率は2.5倍!」
「商隊の到着予想! 東の門か西の門か! さあ張った張った!」
(予言を……賭け事に?)
怒りが込み上げた。ただ、その怒りがどこへ向いているのか、僕自身よく分からなかった。
予言書は神聖なものだ――村ではそう教わった。でも僕の予言書は不吉な顛末しか示さず、その「神聖さ」に一度も触れたことがない。信じてすらいないものを汚されたと感じるのは、おかしくないか。
(僕は怒ってるんじゃない。……悔しいんだ。予言書に「特別」であってほしいのは、僕の書みたいな、困りごとばかりの代物にも、何か意味があると思いたいからだ)
その気づきは、砂を噛んだような味がした。
フィンは看板の胴元を眺めていた。「利用できるもんは何でも利用する。それが人間だろ」と軽い口調で言う。けれど笑顔のまま、目だけが看板に留まっている。ほんの一拍、長すぎた。どこかで「神聖なもの」が崩れるのを見てきた目だと、ふと思った。
「兄さん、あのルーレットの回転数と停止位置の関係性……面白いわね」
隣を見ると、セリナの目が輝いていた。道徳的な怒りなんて影もない。回る盤面を、食い入るように見つめている。
僕はこの表情を、見たことがなかった。
◇
「よし、まずは宿の確保だ」
フィンが財布を逆さにする。チャリ、と情けない音がした。
「……と言いたいところだが、現実は厳しいな」
「だから無駄遣いするなって……」
「手っ取り早く稼ごうぜ。元手はある」
「元手って、これだけじゃ――」
「金じゃねえよ」
フィンが親指でセリナを指した。
「俺たちには最強の『頭脳』があるだろ?」
街で一番大きな賭場だった。天井から吊るされた大ぶりのクリスタルの燭台が、青白い光で場内を照らしている。奥の壇上では、弦を弾く仕掛け箱が軽快な旋律を繰り返していた。
僕はおっかなびっくり後をついていく。セリナはすたすたとルーレットの卓へ向かった。
真鍮製の巨大な円盤。仕掛けも細工もない、力任せにレバーを引いて回すだけの代物だ。歯車が唸りを上げ、重い盤面が回りだす。
セリナはそれを見つめた。ぼんやりと、何も考えていないみたいに。
(……何を見てるんだろう)
僕にはただの盤にしか見えない。けれどセリナの瞳は、盤面のわずかな傾きを、軸受けの摩耗を、ばねの弾み具合を、盤の仕切り役が球を投じる時の手首の角度を、そのひとつひとつを拾い上げて、目に映るもの全部を彼女の中の一点へ手繰り寄せていく――
解。
フィンがなけなしの銀貨を渡す。
「全額だ。頼むぜ」
「任せて」
セリナは小額を三度に分けて賭けた。赤、黒、数字。淡々と、実験の手順を踏むように。三度とも当たる。
唇の端が微かに上がった。
そこからは狩りだった。
「32、赤」
一点賭け。周りの客が嘲笑う。球がポケットに吸い込まれる。
「32、赤」
静寂。そして歓声。
「15」「黒」「00」
賭け駒を置くたび、山が積み上がっていく。セリナは表情を変えない――ように見えた。けれど頬が、わずかに紅潮している。本人は気づいていない。管理でも計算でもない、「勝っている」ことへの剥き出しの昂ぶりだ。
「簡単な道理ね。この円盤、整備が甘いわ。軸が右にわずかに傾いてる」
賭け駒の山を見下ろして、つまらなそうに言う。でもその声は、ほんの少し弾んでいた。
(あの顔……村では、見たことがない)
セリナの横顔を見つめる。知っているはずの妹分が、知らない誰かに見えた。嬉しいのか、怖いのか、よく分からない。ただ、こんな顔をするんだ、と思った。少しだけ、距離を感じた。
フィンは僕たちの後ろで、にやにやしている。何を見抜いているのかは知らないが、その目が面白がっていることだけは分かった。
「ちょ、ちょっとセリナ、もういいんじゃないか? 目立ちすぎてるよ」
「目標まであと少し。無駄のない資金調達よ」
セリナが最後の賭け駒を置いた、その時だった。
卓の向こうから、体格のいい男が二人、まっすぐこちらへ歩いてきた。




