第10話:運命の賽は投げられた (2)
肩を掴まれた。その瞬間、賭場の音が僕から遠ざかる――いや、僕のほうが、音から切り離された。
「ちょいと来てもらおうか、嬢ちゃん」
黒い外套の男が二人、いつの間にかセリナの両脇に立っていた。分厚い指が彼女の肩を押さえる。もう一人が、フィンと僕を顎でしゃくった。連れも一緒だ、と。
通されたのは奥の一室だった。壁際の酒瓶だけが、どこかの灯りの欠片を拾って光っている。革張りの椅子に沈んだ男が――この賭場の胴元だろう――セリナの積み上げた賭け駒の山を、太い指でぱちりと弾いた。
「単刀直入に言おう。イカサマだな。予言を使っただろう」
「予言?」
セリナの声は、拍子抜けするほど平らだった。
「そんな理に適わないものは使っていないわ、兄さん。私は『見て』『数えた』だけよ」
こんな時までまだ理屈が回っているのか。半ば感心しかけて、その先を続けられなかった。
胴元の視線が動いた。僕の懐――予言書をしまった、ちょうどその位置へ。
セリナの指先が、かすかに硬くなった。
ほんの一瞬のことだ。けれどそれは、連勝を重ねていた時の、あの余裕のある冷たさとはまるで別物だった。僕の秘密が露見する。その恐れが、爪の先まで走っていた。
半歩。
音もなく、セリナが僕の前へ出た。頬を紅くして勝ち続けていたさっきの子と、同じ人間には見えなかった。
(……庇ってるんだ、僕を)
勝負師の顔が、どこにもない。あるのはただ、兄さんを守る、それだけの構えだった。積み上げた駒も、あの熱っぽい興奮も、この子は僕一人を隠すためなら一息で捨てられる。切り替えの速さに、背筋が冷えた。
(さっき僕は、勝ち続けるこの子を見て、知らない誰かみたいだと思った。距離を感じた、なんて――何を見ていたんだろう)
胴元が腰を浮かせる。正直に話したほうがいいんじゃないか。僕の予言書は困難の予告ばかりで賭けの役になど立たない、そう言えばイカサマの疑いは晴れる――口を開きかけた、その肩を。
ぽん、とフィンが叩いた。
「ここは俺に任せろ」
低い声だった。いつもの軽さが、ひとつも残っていない。
◇
「なあ旦那、一つ聞いていいかい」
フィンが笑った。目だけが笑っていない。
「この店の円盤、随分と親切だなあ。客が負けやすいように、わざわざ盤を傾けといてくれるとはな」
胴元の眉が、ぴくりと跳ねた。
「三番台は右に一分半。五番台は手前に二分。台座の釘が真新しいから、つい最近やり直したんだろ。嬢ちゃんが勝てたのは、その仕込みまで読み切ったからだ。つまり――お互い様ってやつさ」
沈黙が落ちた。黒い外套の男たちが、互いの目を探り合う。
フィンは畳みかけた。
「このネタ、表通りでばら撒かれちゃ困るよな。だから取引しよう。俺たちの勝ち分はそのまま持ち帰る。代わりに、嬢ちゃんの見立てを少しだけ置いていってやる。盤の細工を、もっと勘のいい客にもバレにくいやり方に変えるコツだ。あんたの儲けは増える。悪い話じゃないだろ」
(……こいつ、いつの間にあの傾きに気づいてたんだ)
背中を見ながら、息を呑んだ。賭場に入ってからずっと、盤面を睨んでいるのはセリナだけだと思っていた。フィンはへらへら遊んでいるふりをして、その裏でとっくに退路を敷いていた。
暴力でもなく、泣き落としでもない。損と得の天秤を相手の鼻先にぶら下げて、こちらの望むほうへ静かに傾ける。場数を踏んだ、の一言で片づけるには手際が良すぎた。生き延びるために身につけた技だ。その重みが、笑顔の裏で息をしている。
「私の見立てを、安売りしないでほしいのだけど」
セリナが横から口を挟んだ。腕を組み、片方の眉を持ち上げている。
「……まあ、1割くらいなら、提供してあげてもいいわ」
フィンが振り返ってにやりと笑い、セリナはぷいと目を逸らした。逸らしたのに、唇の端がわずかに上がっている。
噛み合った、と思った。この二人がこんなふうに息を合わせるのを、僕は初めて見た。
(二人とも、僕の知らない世界で戦ってる)
情けないとは、なぜか思わなかった。少しだけ、悔しい。それ以上に、この二人と同じ場所に立っていることが、単純にすごいと思えた。僕には何ができるんだろう――その問いは残った。けれど、沈み込む重さじゃない。前を向いた痛みだった。
部屋を出しなに振り返ると、胴元の視線がもう一度、僕の懐のあたりへ滑った。傍らの帳場係が、羽根ペンの先で帳面に何かを短く書きつけている。かり、と紙を擦る音。
(……何を、書いてるんだろう)
気のせいだ。扉はすぐに閉まった。
◇
夜風が、気持ちよかった。
賭け駒を換金した上に「口止め料」まで握らされて、僕たちは歓楽都市ルミナの大通りを歩いていた。頭上でルミナス・クリスタルの光が揺れ、三人の影が石畳の上で重なっては、また離れる。
「心臓が止まるかと思った……」
深く息を吐く僕の隣で、フィンは上機嫌に金貨を放り上げては掌で受けている。
「予言通りに生きるのが正解じゃねえ」
不意に、フィンが言った。いつもの軽い口ぶりだった。
「予言を使ってどう生きるかが問題だろ」
何気ない一言のつもりだったのかもしれない。でも僕には、その言葉の底に妙な手触りがあった。従うのでも、逆らうのでもなく、利用する。僕の村には、そんな選択肢は初めから無かった。
中央に着いたら、こういう言葉を携えていく自分を、村長やマーサさんはどう思うだろう。きっと見当もつかない顔をする。僕自身、まだ自分の口で言える形にはできていない。それでも、書状を出した相手に届けたい言葉が、一つずつ増えていくのは分かった。
予言書を失くした国の出だからこそ、フィンの口から出てくる言葉なのだろう。それをどんな道の果てで拾ったのか、僕にはまだ半分も見えない。
金貨を指の背で転がしながら、フィンが付け足すように言った。
「ああいう店はな、客の勝ち方も売り物なんだぜ。……ま、明日にゃ忘れられてるさ」
軽い口ぶりだった。冗談なのか、忠告なのか、うまく量れなかった。
返す言葉を探しているうちに、セリナが足を止めた。
露店の一つに、旅用の枕が並んでいる。羊毛を詰めた、小ぶりで柔らかそうなやつ。セリナはしばらくそれを見つめ、今日の稼ぎから銅貨を数枚つまみ出すと、無言で一つ買った。
胸に抱えて歩き出す。その抱え方が妙に大事そうで、さっきまでの戦略家の面影は、もうどこにもなかった。
「似合ってるよ」
言うと、セリナは枕を抱えたまま振り返った。
「何が」
素っ気ない声だ。だけど、枕を抱く腕にきゅっと力がこもったのを、僕は見ていた。管理官でも勝負師でもない、ただの、嬉しさを隠しきれない15歳の顔だった。
(……今日一日で、知らないセリナを、いくつ見ただろう)
フィンは少し遅れて歩いていた。ふと振り返ると、笑ったまま夜空を見上げている。何かを探すような目だった。
「フィン?」
「ん? いや――この街からじゃ、見えない星があるなと思っただけさ」
軽く笑って、フィンはまた歩き出す。その横顔が、ふと遠いどこかへ流れて、すぐに戻った。
ヴェルムの星座がここからは見えないのだと、僕が知るのは、もう少し先のことだ。




