第11話:ピタゴラ的因果律
村の告示板に、犯罪予告が貼り出されていた。
『本日の予言――正午、パン屋の息子ポルタが店からパンを盗み、北へ逃げる』
なのに、誰も慌てていない。「今日はポルタの番か」「北の道、空けとかねえとな」と、井戸端の世間話みたいな調子で笑い合っている。
(犯罪予告が堂々と。……いや、それより誰も動じてないのが一番こわい)
道中立ち寄った小村エッグ。干し草の匂いを、焼きたてのパンの匂いを、胸いっぱいに吸い込む。絵に描いたような農村のど真ん中で、僕たちは間の抜けた顔をして突っ立っていた。
本当は、通り過ぎるだけの予定だった。なのに街道の分かれ道で、風見鶏の軋む音を拾って、片側だけ深く沈んだ轍に目が行って、「こっちに寄りたい」と口が動いた。なぜかは、自分でもうまく言えない。
「……また『勘』ね。記録するわ」
セリナが手帳を開いて、さらさらと書きつけた。僕の勘が当たった回数、とでも書いているのだろう。もう何度目かなんて、僕はとっくに数えるのをやめている。
告示板のそばで、村人の声がふと耳に入った。
「そういや先だって、護り手様が街道筋の宿を回って、旅の者のことを聞いてったらしいねえ」
「へえ。うちの村にゃ来なかったが」
それきり、話はまた畑の段取りへ戻っていく。僕たちは、誰も顔を見合わせなかった。
「犯罪を見過ごすのか! これが人の道か!」
怒鳴ったのは、通りすがりの警備兵ガストン。全身鎧に身を包んだ壮年の大男で、正義感がそのまま鎧を着て歩いているような人物だった。村長に詰め寄り、剣の柄を握りしめている。目が本気だ。犯罪を見過ごせないという警備兵の誇りが、鎧の隙間からにじみ出ていた。
「貴公ら、恥を知れ!」
言うたびに、ガストンは拳で胸当てを、どん、と叩く。まるでそこに正義の在処があるみたいに。
村人の何人かが、ちらりと顔を見合わせた。それからまた、何事もなかったように井戸端へ戻っていく。
「俺が正義を執行する! パン屋はどこだ!」
「落ち着けよオッサン。ここじゃこれが祭りみたいなもんなんだろ」
フィンが軽口を叩きながら、村人の顔を一人ずつ確かめていた。口元は笑っているのに、目はちっとも笑っていない。
「兄さん。この村の過去三十年、予言に逆らった事例は十二件。うち十一件で、予言より悪い結果が出てる」
いつの間にか、セリナは村の記録を調べ上げていた。目がすっかり学者のそれになっている。
「止めた場合の悪影響は、放置した場合と比べて二倍強。放置して好い結果が出た割合は、九割弱。静観一択よ」
(二倍強。しかも放置のほうが好い結果。……犯罪だぞ? でも、二倍強?)
「……でもさ」気づいたら、口に出していた。「数字がどうでも、あの人が止めようとしてるのは本物の犯罪だろ。それを『放っとけ』って、僕たちが言うのか」
「言うわ」セリナは即答した。「悪化した十一件には、取り返しのつかないのも混じってる。兄さんの『気持ち』で、十二件目を作るの?」
返す言葉に詰まった。気持ちはガストン寄りだ。でも、セリナの言い分も間違ってはいない。
どちらも正しくて、どちらも何かを、こぼしている。
◇
正午。鐘が鳴るのと同時に、少年が店から飛び出した。
「わーい! 焼きたてだー!」
パンを両手に抱えて駆けていく。追いかけるパン屋の親父は、なぜかにやにやしていた。
「逃がすかァ!」
ガストンが突進した。鎧の金属音を鳴らして少年に飛びかかり――空振り。勢い余って、道端の空樽に頭から突っ込んだ。
そこから始まったのは、出来の悪い冗談みたいな連鎖だった。
転がった樽が、昼寝中の野良犬の尻尾を踏む。跳ね起きた犬が吠える。驚いた猫が木から飛び降りる。猫をよけた荷馬車が急停止して、荷台の水樽が落ちて割れた。ぶちまけられた水が――ちょうど燃え広がりかけていた民家のボヤを、狙いすましたみたいに消し止めた。
「因果の分岐が七段階……いえ、八段階目に入ったわ」
セリナの、手帳を走らせる手が震えている。興奮だ。目がきらきらしている。
「一体どういう仕組みなのかしら。報告書が三巻は書けるわね」
一方、宙を舞ったガストンの大剣は、茂みに突き刺さっていた。悲鳴を上げて飛び出したのは、畑を荒らしていた巨大な猪。剣が偶然、その足を縫い止めていた。
フィンはその間、ガストンが民家へ突っ込みかけるたび、さりげなく進路を逸らしてやっていた。「偶然だよ偶然」と笑うが、あの身のこなしは、どう見ても素人のものじゃない。
(止めなくて、よかった……のか? いや、本当にこれでいいのか、僕たち)
◇
すべて終わってみれば、大団円だった。火事は防がれ、害獣は捕まり、少年は「伝説の俊足」ともてはやされている。
ガストンだけが、泥まみれで、誰にも感謝されていなかった。
「……なぜだ。なぜ、盗人が感謝されているのだ」
村人たちは少年を肩車して笑っていた。ガストンは祝いの輪の外だ。泥にめり込んだ大剣を、両手で引き抜こうとしている。
僕は近づきかけて、足を止めた。手を出せば、また何かの因果を壊してしまう気がしたのだ。
フィンが、すっと横を通り過ぎた。何も言わずに剣の柄へ手をかける。二人ぶんの力で、剣はようやく泥から離れた。
ガストンは剣を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「……私は、間違っていたのか」
「間違ってはない」
僕がそう返しても、彼は刃についた泥を払うだけだった。
「なら、なぜ誰も、要らなかったという顔をする」
答えは、出せなかった。
(……正しさって、こんなにも場所で変わるものなのか。だとしたら、僕が信じてる「正しさ」だって、どこかじゃ的外れなのかもしれない)
「この予言を書いてる存在は、よっぽど性格が悪いか、あるいは喜劇作家の才能を持ってるわね」
セリナがぽつりと言った。軽口のようだったが、その目は告示板の文字をじっと見据えたままだ。冗談を言うときにしては、声が一段だけ低かった。
告示板が、書き換わる。
『明日の予言――警備兵ガストン、雇い主より解雇の報せを受け取る』
その直後、飛脚が駆け込んできた。解雇の手紙を握って。
「ウオオオオオッ!!」
ガストンの絶叫が、のどかな村に響き渡った。
僕たちは、そっと村を出ることにした。去り際、フィンが告示板を一度だけ見上げて、小さく息を吐いた。それから、ガストンのそばに銅貨を一枚、置いていった。
「まあ、飯くらいは食えよ」
軽い声だった。けれど、正しくても報われないことを知っている人間の、声だった。
◇
その夜。焚き火を囲みながら、僕は口に出した。
「あの村のやり方って、正しいのかな」
答えがほしかったわけじゃない。ただ、声にしないと、頭の中がぐるぐる回って止まらなかった。
「全体で見れば、理に適ってるわよ。火事は防がれて、害獣も捕まった。結果だけなら百点」
セリナが即答する。いつもの調子だ。
でも、一拍置いて。
「……でも、ガストンさんの気持ちは、統計には載らないわね」
その言葉が、どうしても僕たちの村に重なった。加護圏外化の書状も、きっと同じ種類の「全体で見れば理に適う」で書かれていたのだ。そこで統計に載らなかったのは、マーサさんの「これも導きだよ」だった。
セリナが手帳を閉じた。いつもなら、翌日の段取りを書き込む時間だ。なのに今夜は何も書かず、膝を抱えて火を見ている。
「"全体で見れば"ってのはな。……こぼれ落ちた奴を、勘定に入れずに済ませる。そのための言葉でもあるのさ」
フィンがぽつりと言った。炎を見つめる目が、ほんの一瞬だけ遠くなる。自分に言い聞かせるような口ぶりだった。
沈黙。虫の声。薪の爆ぜる音。
フィンがセリナのほうをちらりと見て、何も言わずに薪を一本くべた。火が少しだけ明るくなる。
薪が、もう一本足された。
ふと、セリナがもう一度だけ手帳を開いた。残り火に照らされて、手元だけがぼんやり見える。ペン先が、何かを書きかけて――線を引いて消し、少しずらして、また書いた。僕の位置からは、それが数字でないことしか分からなかった。
僕は見ていた。けれど、動かなかった。声もかけなかった。
遠くで、ガストンの泣き声がまだ聞こえている気がした。
◇
翌朝、村の出口の分かれ道に、道標が立っていた。腕木に彫られた文字を、朝露が光らせている。――恋人たちの都アムール。予言の導く佳き縁は、この先に。
「……縁結びまで、予言が決めるのね」
セリナが道標を二度読みして、眉を寄せた。フィンが荷を担ぎ直し、にやりと笑う。
「こういう看板の街は、たいてい面白いぜ」




