第12話:恋と演算の最適解 (1)
歯車が軋みを一つ吐いて、大きな文字盤がカラカラと回った。止まった針の先に、見覚えのある名前が浮かび上がる。読んだ瞬間、僕は目を疑った。
「本日の最良の巡り合わせ――旅の天才少女セリナ、名家の嫡男ロミオ」
……セリナが、結婚。
待て。話が早すぎないか。
この街――恋人たちの都アムールに足を踏み入れたのは、ほんの半刻前のことだ。水路に花灯篭が揺れ、石橋のアーチ越しに夕陽が金色を撒いていた。花の香りと焼き菓子の甘い匂いが交互に鼻をくすぐり、どこからか弦楽器の旋律が流れてくる。すれ違う人々はみな手を繋いで、お似合いの二人組ばかりだった。
美しい街だ。連れのいない人間には、少しだけ居心地が悪いことを除けば。
角という角に、木枠の案内板が立っていた。花で縁取られた板に、名前がびっしり並んでいる。「本日の佳き相性」――男女の名の脇に相性の割合が刻まれ、その下に、想い人と巡り合う道筋が細かな矢印で示されていた。今の刻限はどの広場、次は水路のどの橋、と。誰と誰がどこで出会うべきかまで、街ぐるみで割り振られているらしい。
端の一組だけ、名前の下半分が雨だれに滲んで読めなくなっていた。上から書き足した筆跡が、元の掠れをうまくなぞりきれずに浮いている。誰かが書いて、消えて、また書いた痕だ。
名前の多さに僕が気圧されている隣で、セリナはもう板を読み終えかけていた。視線が上から下へ滑り落ちていく。唇がかすかに動くのは、頭の中で相性の数字を勝手に並べ替えているからだ。見入っているのとは違う。目に入った数を、反射で片づけているだけ。とても、興味を持った人間の顔ではなかった。
(この街、セリナに似てるな)
人の気持ちより先に、答えの形を探しにいくところが。そっくりだ。
そう思った矢先、セリナが小さく鼻を鳴らした。
「雑ね。変数の取り方が浅いわ」
板を睨んで、眉を寄せている。ついさっき自分が同じ手つきで読んでいたことは、きれいに棚へ上げたらしい。……この既視感はなんだろう。
その案内板の親玉が、広場の中央に据えられていた。「運命の歯車」――三階建てほどもある機械仕掛けだ。真鍮の歯車が幾重にも噛み合い、ガシャリ、ガシャリと唸りながら告示の文字を書き換えていく。毎朝これが引き合わせを発表するのだと、通りすがりの花売りが教えてくれた。離縁の時期も、次の相手すら決めてしまうという。しかも市民はそれを、人生の行事として楽しんでいるのだ。
(花と音楽でくるんでるけど、要するに恋愛が丸ごと差配されてるってことだよな、これ)
その違和感を噛みしめていた矢先に、よりにもよってセリナの名が出た。
広場がどよめき、拍手が沸く。
「おめでとう! 異国の少女と名家の貴公子! なんて風雅な巡り合わせだ!」
「おーおー、お熱いことで」
フィンが口笛を吹いた。腕を組んで、にやにや笑っている。ただ、その目は冷やかしの相手――僕の顔だけを見ていた。
セリナはといえば、表向きはいつも通りだ。記録手帳をめくって、もう何かを弾いている。
「ロミオ家といえば有名な資産家だわ。旅費の三年分は確保できる。悪くないでしょう」
「いや、普通に悪いだろ!」
「何が? 合理的な判断よ、兄さん」
声は涼しい。けれど、その目がちらりと僕をうかがったのを、僕は見逃さなかった。何かを確かめるような、ほんの一瞬の視線。
「結婚の成功率は相互理解度に依存するわ。初対面での成功率は……」
そこで、言葉が途切れた。僕を見る。それから、手帳へ視線を戻す。
「……まあ、数字で割り切れないこともあるでしょうけど」
言い慣れない台詞だったらしい。手帳をめくる指が、半拍だけ遅れた。
(……なんで僕は、こんなに胸がざわついてるんだ)
名前のつかない何かが、胸の底で渦を巻いている。怒りとも悲しみとも違う。ただ、落ち着かない。
◇
巡る順路まで、予言で決められていた。花弁の散る水路沿いの小径、石橋を渡った先の茶店、花畑を見下ろす丘の展望台。セリナとロミオが辿る場所は、もう全部決まっている。
僕とフィンは、その後ろを茂み伝いにこそこそ付いていった。
(なんで僕らはこんな茂みに隠れて……いや、護衛だ。護衛として見守っているだけ)
「護衛ねえ」茂みの隙間からフィンが顔を突き出す。「護衛が顔真っ赤にして、何を見張ってんだか」
「赤くない。日焼けだ」
「今日、曇ってるぞ」
返す言葉がなかった。こういう時だけ勘がいいのが腹立たしい。
ロミオは温厚そうな青年だった。名家の息子らしい品があって、セリナにも丁寧に接している。嫌な奴なら話は簡単だったのに、と少し思ってしまう。
ただ、彼の視線には癖があった。
茶店で焼き菓子を前にしても、ロミオの目はしきりに通りの向こうへ流れていく。小さな花屋の店先に立つ、栗毛の娘――質素な身なりだが、花を束ねる手つきだけが妙にやさしい――を、何度も、何度も見ていた。
セリナがそれを見落とすはずもない。
「彼の視線が花屋へ向かう頻度は、一分あたり4.7回。私へ向かう頻度は0.3回。結論は出たわね」
声は完璧に涼しかった。なのに、手帳に書きつける指先は所在なげな様子だった。
「選ばれなかった」ことが応えたわけじゃない。たぶん問題は、自分がどう感じているのかを数字に落とせないことだ。それはあいつには、地図のない道を歩くようなものなのかもしれない。
――なんて、分析している場合か。僕だって似たようなものなのに。
茶店の脇で、老夫婦が祭りの飾りを眺めていた。僕がぼんやり腰を下ろすと、老人のほうが話しかけてきた。
「若いの、祭りは楽しんでるかね」
「ええ、まあ……」
「昔はな、予言婚てやつを恨んだもんだ。なんで見も知らぬ女と添わなきゃならんのか、とな」
隣で老婦人が笑う。老人は照れくさそうに頭を掻いた。
「だが長く連れ添ううちに、思うようになった。こいつでよかった、と。決まったあとをどう生きるか、それだけさ」
(決まったあとを、どう生きるか……僕は、何を選びたいんだろう)
答えは出ない。ただ、懐の予言書がほんのり温かかった。旅に出てからずっとそうだ。道が分かれるたび、この小さな温もりが、僕の「なんとなく」を後ろから支えてくれる。
僕はそれを、仲間がいる安心感なんだろうと思っていた。
茂みの向こうで、セリナが手帳を閉じた。ロミオの視線の先にいる花屋の娘を、じっと見ている。
何を考えているんだろう。
隣でフィンが小枝を折りながら、ぽつりと言った。
「ま、見てな。あの嬢ちゃんは賢い。自分の答えは、自分で出すさ」
明日は結婚の儀式だという。この街では、引き合わせの翌日にはもう誓いを立てるらしい。
花灯篭の光にセリナの横顔が揺れた。手帳を胸に抱えたまま、彼女は花屋の娘とロミオを、代わる代わる見ている。その瞳に浮かんでいたのは、計算でも分析でもなく――僕にはうまく読み取れない、何かだった。




