第13話:恋と演算の最適解 (2)
「待って。計算が合わないの」
花嫁衣装の裾をひるがえして、セリナが片手を挙げた。借り物の白い衣装が朝の陽を透かし、輪郭だけが淡く光る。壇上の神父役――真鍮仕掛けの人形が、油を差し忘れた首をぎこちなく傾けた。
広場がざわめく。すでに数組が誓いを終えた後で、列の最後尾に残っていたのがセリナとロミオの番だった。礼装のロミオときたら、死刑台へ引き立てられる罪人みたいな顔をしている。
「ロミオ。貴方と私の、幸福の度合いを計算したわ」
セリナが巻物を広げる。上から下まで、びっしりと数の並び。……いつの間に計算したんだ、あいつ。
「結果は65点。可もなく不可もなく、数年後に仮面夫婦になる確率が87%。率直に言って、最善の道ではないの」
客席の隅で、僕は膝の上の拳を握り直した。隣に座ったフィンが、肘で脇腹を小突いてくる。
「止めるか? 『ちょっと待った』を叫ぶなら今だぜ」
「茶化すなよ……」
「茶化してないさ。お前の顔、さっきからずっと、しかめっ面だぜ」
壇上のロミオは、返す言葉を探しあぐねて口の端を歪めていた。
「で、でも、予言は絶対だ……! 『ロミオは今日、運命の伴侶と契りを結ぶ』と書かれている!」
「ええ、書いてあるわ」
セリナが予言書の一節に指を置いた。
「でも、名前までは指定していないの」
広場から音が引いた。
「『運命の伴侶』が誰かは、予言書が決めることじゃない。貴方が誰を伴侶と選ぶかで、この記述の意味は変わるのよ」
屁理屈だ。文脈からすれば、指定された相手はセリナ自身――そう読むのが素直だろう。それでも彼女は眉ひとつ動かさず先を続けた。
「私がこの引き合わせに選ばれたのは、貴方の決意を固めるためのきっかけに過ぎないの。――あちらの花屋の女性となら、幸福の度合いは98点よ」
客席の隅で、栗毛の少女が息を詰めた。花を束ねていた手が止まって、細かく震えている。ロミオの視線が、吸い寄せられるようにそちらへ滑った。
……これは、フィンの受け売りそのものじゃないか。予言に逆らうな、利用しろ――あの夜の言葉を、セリナは自分の手つきで組み替えている。
「それに」
セリナの声が、ほんのわずか揺れた。
「65点の幸福を受け入れるくらいなら、私は98点を目指すわ。……兄さんとの旅の方が、よほど有意義だもの」
言い終えた瞬間、セリナ自身が固まった。頬に、うっすらと朱が差す。
「……合理的な判断よ、兄さん。それだけ」
取り繕うように足した言葉が、いつもより半拍だけ速い。
(98点……って、僕との旅が?)
深読みしたい僕がいて、するなと止める僕もいる。この感情に名前をつけるのを、僕はまだ先延ばしにしている。
「98点ねえ」
フィンがわざとらしく顎を撫でた。
「残りの2点は何だろうな、エル?」
ご丁寧にウインクまで添えてくる。フィンのこういうところは、本当に勘弁してほしい。
「黙りなさい」
壇上から声が飛んできた。花嫁衣装のまま仁王立ちのセリナが、フィンだけを狙い澄まして睨んでいる。
ロミオが、震える声で呟いた。
「でも……僕が選んだら、予言に背くことになる……」
気づいたら、僕は腰を上げていた。
「行けよ、ロミオ!」
声が広場に響いた。自分でも驚くほど大きい。
「予言がなんだ! 自分の好きにしろよ!」
ロミオの目が見開かれた。客席のジュリエットは、花束を胸に抱えたまま唇を噛んでいる。
ロミオが壇上から一歩を踏み出し、そのまま駆けた。まっすぐ、花屋の少女のもとへ。
「ジュリエット! 僕の運命は――君だ!」
一瞬の静寂。
それから、嵐みたいな歓声が広場を丸ごと呑み込んだ。
「なんて情熱的な!」
「予言を超えた愛! これもまた運命じゃないか!」
街の人々はあっさりと祝福へ回った。予言婚の街のくせに、予言の外へこぼれた恋を笑って祝える。この柔らかさは、僕の村にもなかったものだ。
◇
騒ぎが落ち着いてから、僕たちは石橋のたもとで報酬を受け取った。ロミオが包んでくれた手切れ金の為替証文を、セリナは表情も変えずに懐へ滑り込ませる。
「よかったのか?」
「報酬は頂いたし、私の値打ちも確かめられたわ」
セリナは遠ざかる広場を見ていた。花嫁衣装はもう返した。いつもの旅装に戻った横顔が、一拍分だけ黙ってから言葉を継ぐ。
「65点の結婚より、兄さんとの98点の旅を選んだだけよ。合理的でしょう?」
「はいはい、合理的合理的」フィンが肩をすくめる。「で、残りの2点は永遠の謎ってわけだ」
「次にその話を持ち出したら、水路に落とすわよ」
剣呑な予告とは裏腹に、その横顔はほんの少し寂しげで、それでいて満足げだった。僕の半歩うしろを歩きながら、セリナは胸元のペンダント――祖母の形見だと聞いた――を指先でそっと包んでいる。水路で櫂が水を掬う音が、ひたり、ひたり、と二人の沈黙を埋めていった。
夕焼けが水路を金色へ流していく。三人で石畳を踏む。
ふと振り返ると、広場の「運命の歯車」がゆっくりと回っていた。真鍮の歯に夕陽が乗って、その色が一瞬、懐の古びた予言書の革表紙とそっくり同じに見えた。
懐の予言書が、じんわりと温かい。旅に出てからずっとそうだ。道が分かれるたびに、この微かな温もりが、僕の「なんとなく」の背中をそっと押してくれる。
僕はそれを、仲間がいる安心感だと思っている。
まだ。
中央への道は、まだ折り返してすらいない。それでも――旅で通り過ぎた街と、街と、街とが、僕の中の「中央に着いたら持っていきたいもの」を少しずつ増やしていく。その手応えだけは、確かにあった。
頁を閉じようとして、指が止まった。頁の隅の小さな黒い染みが、村を出た頃より広がっている。夕暮れの残り光では、影なのか汚れなのか、見分けもつかない。
……まあ、もともと古い本だ。
◇
護り手の詰所。窓のない一室に、蝋燭の灯がひとつ揺れている。
ヴィンセントの手元に、報告が一枚あった。歓楽都市の筋から上がったものらしい。星読みの道具を懐に抱えた、三人連れの旅人。賭場で、あり得ない勝ち方をした――紙にはそう記されている。
彼はしばらく、それを見ていた。
やがて、その一枚を上へ回す文箱には入れず、机の抽斗を引いて、静かに仕舞った。




