第14話:古き祈りの街(前編)
渓谷の底に、街が沈んでいた。
断崖に貼りつくように石造りの家が積み上がり、狭い石段が迷路みたいに折れ曲がって続いている。谷を横切って渡されたロープに洗濯物が揺れて、朝日を透かした布が色とりどりの旗のように見えた。
その街に一歩踏み入れた途端、腕の中で予言書が冷えた。
(……あれ)
旅に出てからずっと、頁の奥に微かな温もりがあった。それが、ない。開いてみても、指先に返ってくるのはただの革の感触だけだ。
「兄さん?」
セリナが僕の手元を覗き込む。
「予言書の反応が、完全に途絶えてる。……ここまでの旅で、兄さんのルート選択の精度は異常に高かった。あれは予言書の微弱な反応に、兄さんが無意識で従って――」
言いかけて、セリナが口を噤んだ。
続きは、聞きたくなかった。自分の足で選んできたつもりの道が、まとめて書き換えられてしまう気がした。
「今日は私の指示に従って。私の記録で補うから」
声は強い。強いのに、言い終える寸前でセリナが小さく息を呑んだのが分かった。予言書が黙ったこの街では、セリナの言葉が唯一の予言になる。その重さを背負わせているのは、僕だ。
「お、静かでいいじゃねえか。俺はもともとこっち側の人間だからな」
フィンが軽口を叩く。笑ったまま、目だけが一瞬、遠くへ行った。何か言いたげに見えたけれど、追いつく前にいつもの顔へ戻っていた。
歩き出すと、崖を這う細い水路の音が足元から立ちのぼってくる。鍛冶屋の槌、子供の声、それが谷の壁に何度も跳ね返って重なった。静かなのに、寂しくない。
(そうか。こいつはずっと、温かかったんだ。「直感」で選んだつもりの分かれ道も、全部――)
顛末しか示さないと思っていた予言書が、声のない声で道を指していた。その事実に胸を殴られながら、それでも同じ胸の底で、別のものがほどけていく。
ここでは、僕の「普通」が全員の「普通」だ。肩にずっと乗っていた何かが、ひとつ軽くなった。
すれ違いざま、走ってきた少年が急に足を止めた。十歳くらいだろうか。首から木札を提げている。見回り役らしい。
「ねえ、それなに?」
腕の中の予言書を、まっすぐ指さしてくる。
「あ……えっと、これは、本で」
「本くらい知ってるよ。なんの本?」
詰まった。
未来を先回りして教えてくれる本――そう言えば済むはずだった。なのに、その言葉を目の前の少年へ向けるのが、なぜか違う気がした。家を出てからずっと、こいつは「あって当たり前のもの」として腕の中にあった。当たり前すぎて、どう説明するかなんて、考えたこともない。
「えっと、未来の……いろんなことが、書いてある本」
「ふうん」
少年の目は、もう僕を離れていた。崖の上で、別の子が手を振っている。
「ティナが呼んでる。じゃあね、おにいちゃん」
それだけ残して、石段を跳ねるように下りていく。後ろ姿は、すぐに見えなくなった。
予言書を見下ろす。何度も指でなぞった、革の表紙。
これがどういうものなのか、僕は本当に分かっていたんだろうか。
◇
広場の隅に立てた黒板に、白い文字が並んでいた。
『今日の天気 昼まで晴れ 午後から風強し 薬草採りは午前がよい』
書いているのは、顔じゅうに深い皺を刻んだ老婆だった。チョークを握る手は節くれ立っているのに、字は驚くほど力強い。
「あんたたち、よそ者だね。どこから来なさった」
僕たちに気づいた老婆が話しかけてきた。
「ええ、旅の者です。水を一杯、恵んでもらえませんか」
フィンが丁寧に腰を折る。老婆は笑って、井戸端を顎で示した。
「水ならタダさ。かわりに、外の話を聞かせておくれ」
釣瓶の水は、指が痺れるほど冷たかった。喉を通っていくあいだ、しばらく誰も口をきかない。空になった柄杓の底に、朝の光が溜まっていた。
「ここは『難聴地域』って呼ばれてる。地形のせいで、中央からの更新波がろくに届かないのさ」
老婆が空を見上げる。
「予言がアテにならないから、自分で空を読む。膝の痛みで雨を当てる。外れたら外れたで、みんなで笑って濡れた服を乾かす。それだけの話さ」
見れば、あちこちで隣り合った者どうしが声をかけ合いながら荷を運んでいる。予言が「誰が何をするか」を決めてくれないから、みんな自分の頭で考えて動く。そのぶん、礼を言う声がやたらと飛び交っていた。
子供たちが駆け回りながら「今日なにする?」と言い合っている。
(今日なにする、か。……そうだ。予言がなければ、自分で決めるものなんだ。当たり前のはずなのに、どうしてこんなに新しく聞こえるんだろう)
「無駄のなさで言えば、予言がある街のほうが三割は上よ」
セリナが呟いた。一拍おいて、
「……でも、この街の人たち、よく笑うわね」
いつもの分析の声とは、どこか違った。ぽつりとこぼれた、ただの感想みたいだった。
手帳を開いたまま、セリナは何も書かずに住民の笑顔を見ている。ペンを持った手が、止まったままだ。
「予言書が役に立たないのって、不便じゃないんですか」
僕が尋ねると、老婆は首を横に振った。
「不便さ。だからこそ助け合う。予言が『こいつを助けろ』と言うから助けるんじゃない。助けたいから助ける。それが人間ってもんだろう」
その言葉を、僕は胸で受けた。痛いくらいに。
(マーサさんは「これも導きだ」と笑って、村に残った。子供たちは「やだ」って泣いて、散り散りになった。あの村の人たちが、もしここへ辿り着けていたら――「自分で決めて、助け合う」やり方を、少しずつでも覚えられたんだろうか)
◇
夕刻、老婆の家に招かれた。マルタというらしい。この街の長老だと、水を汲んでくれた娘が教えてくれた。
「あんたの抱えてるそれ、古い時代の匂いがするねえ」
マルタが僕の予言書に目を留める。書そのものというより、僕が「ほとんど何も書かれていない書」を抱えている、その事実を見透かすような目つきだった。
「昔、この街にも予言を信じない連中が何人か流れてきた。けど、あんたは違うね。信じないんじゃなくて、信じられないんだろう。――それは、罪じゃないよ」
(信じられないのは、罪じゃない。……そんなこと、誰にも言われたことがなかった)
セリナは「大丈夫、私が埋めるから」と言ってくれた。フィンは「知らなくたって生きていける」と笑ってくれた。でも、この人は――「それでいい」と言った。
なんだろう、この、喉の奥がつかえるような感じは。
マルタが卓に粗布を広げ、革袋から石片を取り出した。十二枚。表には星座とも紋章ともつかない刻みが入り、裏はのっぺりと磨かれている。
三度、裏返す。掌に載せて天へ掲げ、低い声で祈りの文句を唱えてから、布の上へ散らした。散らばった石の位置――どの刻みが上を向いたか、隣り合う石の間合いと角度を、皺だらけの指がゆっくり辿っていく。
その指の動きは、祈りに見えた。神秘めいているのに、どこか懐かしい。
「あんたの行く先に、『静かなる剣』が待っているよ」
マルタが告げる。
「試練さ。けど、斬り捨てるための剣じゃない。その剣は、あんたを測ろうとしている。量りにかけられたとき、あんたが何を差し出すか――問われるのは、そこだよ」
石片を追うマルタの手つきを、セリナがじっと見ていた。石の配置と結論のあいだに、何か統計めいたものを見取っている目だ。けれど、口には出さない。ここを分析の卓にしてはいけない。そう決めた横顔だった。
気づけばセリナは、胸元のペンダントを握りしめていた。祖母の形見だ。理由は分からなかった。




