第8話:自由な少年 (2)
宿の食堂で安い麦粥をすすっていたら、声が降ってきた。
「よう、林檎の兄ちゃん」
昼間の赤毛が、いつの間にか向かいの椅子に座っている。フィンと名乗った。名乗ったと思ったら、もう僕の懐に手が伸びていた。
セリナの指がその手首に食い込む。フィンは抵抗しない。掴まれた手を眺めて、口笛でも吹きそうな顔をしている。
「力、強いね」
「褒め言葉として受け取らない」
セリナが手を離した。フィンは指の跡を擦りもせず、椅子の背にもたれる。懐の熱は、まだ引かない。あの指先が近づいた時からずっとだ。緊張のせいだろう。
「別に盗ろうとしたわけじゃないさ。ちょっと気になっただけ」
「気になるだけで人の懐に手を伸ばすのは、泥棒の所作よ」
「手厳しいねえ。――なあ兄ちゃん、お前の予言書さ」
セリナの視線が刺さった。答えるな、と言っている。
「村にいた時はちゃんと書いてあったんだろ? 今はどうなんだよ」
「……顛末の断片くらいで、新しいことは何も。村を出てからずっとそうだ」
「へえ。外だと変わるんだ」
「セリナの分も――」
脛を蹴られた。
「ごめん」
「謝るくらいなら黙ってて」
フィンはもう拾っている。「二人とも何も読めない書か。面白いな、あんたら」
面白い。この少年はいつもそう言う。
布袋がひとつ、卓に置かれた。「昼の礼。干し果物。嬢ちゃんも食べなよ」
「見返りの条件が読めないものは受け取らない」
「条件なんかないよ」
「条件がないこと自体が怪しいの」
フィンは呆れたように肩をすくめた。けれど目の端だけが、セリナの鋭さを面白そうに測っている。
給仕を呼ぶ手つきに迷いがない。「おばちゃん、いつもの。あと麦酒じゃなくて果実水、こっちの二人にもね」
「……常連なのか」
「まあね。この宿は安いわりに虫が少ない。裏通りの角を二つ曲がった先にもう一軒あるけど、そっちは相場の割にひどいよ」
旅人の口から出る情報の粒度ではなかった。
「全部覚えてるのか」
「全部じゃないよ。死にたくないところだけ」
軽い。声も、笑い方も。なのにその一言だけが、卓の上にぽつりと残った。
フィンが頬杖をつく。表情から軽薄さが一枚、落ちた。
「俺は持ってないよ。予言書」
二度目に聞く、同じ言葉。けれど繰り返しの軽さが、今度は違って聞こえる。何度も同じことを言って、引っかからないふりが上手くなった人間の声だ。
「……へえ」
「へえ、で済ますんだ」
「他に何て言えばいいか、分からない」
「普通は『可哀想』か『珍しい』だけどね」
「可哀想かどうかは、僕が決めることじゃないだろ」
フィンが黙った。一拍だけ。それから、力の抜けた笑い方をする。
「変なやつ」
セリナが小さく息を吐いた。「それは知ってる」
「予言書の外で動けるやつが、外の世界でどうなるのか」
フィンが僕を見た。真っ直ぐに。
「ちょっと見てみたいんだ」
恩でも義理でもない。ただの興味。それが、妙に心地よかった。
◇
宿の部屋。壁際に寝台がふたつ。蝋燭の灯りの下で、セリナが明日の行動指針を書いている。
三通り。フィンが来る場合。来ない場合。排除する場合。
「あんな手合いと関わると、ロクなことにならない」
釘を刺す声。ペンは紙から離れない。
「でも、楽しそうだった」
言ってから、しまった、と思った。
ペンが止まる。先端が紙に押しつけられたまま、小さな染みを作っていく。
「……兄さんが楽しそうなら、まあ、いいけど」
許可じゃない。置いていかれることが怖い少女の、噛みしめるような譲歩だった。
「でも財布の紐は私が握るからね」
「もう握ってるだろ」
「念押しよ」
声の角が、少しだけ取れた。
寝息が聞こえ始めてから、枕元を見た。行動指針の隅に、小さな表がある。
「左(エル判断)→正解/根拠:轍の深さ?」「右(エル判断)→正解/根拠:不明」
僕の選択の記録だ。細かい分かれ道まで拾い上げて、何を見て決めたかまで書こうとしている。管理とは違う。数字にすることでしか安心できないセリナが、僕自身にも説明できない判断の理由を、外側から突き止めようとしていた。
(セリナは、掴めないものが怖いんだ。顛末しか示さない僕の予言書も、きっとそうだったんだろう。それでも傍にいてくれたのは――)
考えるのをやめた。言葉にすると、何かが変わってしまう。
◇
翌朝。セリナが机に銅貨を並べていく。一枚、二枚。並べ終えて、もう一度数え直した。
「宿代と補給で、これだけ減った」
苛立ちはない。悔しさだ。管理の穴を自分で見つけた時の、あの顔。爪の端を無意識にこすっている。
「予言書の行動指針がない旅は、迂回のやり直しが見えない分、余裕がもっと要る。その余裕を、計算に入れていなかった」
「次の街までなら、何とかなるんじゃないか」
「"次の街まで"で終わる発想が甘いのよ、兄さん」
言い返せなかった。地図の上ですら、中央は遥かに遠い。村を出てまだ一つ目の街に着いただけ。この先は何ヶ月単位の旅になる。マーサさんや子供たちが移住の手続きを進めていく、その間じゅう、僕はずっと道の途中にいるはずだった。焦りと呼ぶには漠然としていたが、確かに腹の底にあった。
東門へ向かう道で、見覚えのある赤毛が目に入った。門柱の脇でフィンが荷を括り直している。背嚢は小さいが、紐の結び方に手慣れた動きがあった。
「おや、奇遇だねぇ」
「……出るのか」
「長居すると面倒が増えるたちでさ」
僕たちのために待っていたわけではない。自分の用でカナンを出るところだった。それが分かって、少し楽になる。
荷から折りたたんだ紙片を抜いて、フィンが差し出した。「昨日の飯の分だ。東門は朝のうちが空いてる。正規の街道沿いは宿場の相場が高めだから、一本外の道を使った方がいい」
借りを、情報で返す。等価で、それ以上でなく。
「その金じゃ、次の街で細るぞ」
セリナの肩がわずかに強張った。図星を突かれた顔だ。
「俺もルミナに用がある。隣の中継地で、金策の口もあるんだ。同じ方向だから、損はないと思うけどね」
善意ではない。同じ方向へ行く者同士の、実利。
セリナが一歩前に出た。
「条件を出す。同行はルミナまで。情報と道案内に限る。荷物には触れない。勝手に消えたら、それで終わり」
「了解了解。厳しいねえ、嬢ちゃん」
二人の視線が、僕に集まる。
予言書は沈黙している。新しい記述は、何も浮かばない。けれど書かれていないからこそ、余白がある。誰かの知恵が入り込む隙間が。
「……ルミナまでだぞ」
言った瞬間、懐の予言書がほんのり温かい。決心した安堵だろう、と思った。自分で選んだことで身体が楽になる、それだけのこと。
(初めてだな。セリナの計画を、僕が変えるのは)
◇
三人で門をくぐった。
フィンが迷いなく脇道へ折れる。二つ目の角で、僕の足が止まった。理由はあとから来た。右の道の地面が、妙に気になる。轍に混じって、靴底の跡が多い。商人の荷車だけなら、こんなに踏み固められない。
「こっちにしないか」
フィンが眉を上げた。けれど何も聞かず、僕が指した方へ曲がる。
百歩も歩かないうちに、右の道から人だかりの声が聞こえてきた。通行の検めだ。あのまま進んでいたら、半刻は足止めを食らっていた。
セリナが手帳を開いて、何か書き足す。
まだ仲間というには軽い。でも通りすがりで済ますには、もう少し近い。
朝の風が街道の砂埃を巻き上げた。予言書は相変わらず何も新しいことを示さなかったけれど、懐の温もりだけが、妙に確かだった。




