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第7話:自由な少年 (1)

街門をくぐった瞬間、香辛料と汗と獣脂が同時に鼻を殴った。


交易街カナン。丘の上から眺めていたときは、ただ大きな街だと思っていた。中に入ると、想像の倍うるさい。石畳を荷車が削る。天幕の下で肉が焼ける。値切る声と怒鳴る声が、頭の上でぶつかって落ちてくる。村で一番大きな音といえば治療院の扉の軋みだった――そう思い出して、少し笑ってしまった。


歩き出してすぐ、人混みの上で声が跳ねた。


「おい、泥棒だ!」


太った商人が路地から転がり出てくる。


「待てー!」


いた。屋根の上。


影が一つ、瓦を蹴って庇から庇へ跳んでいく。猫みたいな足取りだ。追手の怒鳴り声なんか、はなから耳に入っていない。少年だ。笑っている。心の底から愉快そうに。


「……なんか、楽しそうな場所に来ちゃったな」


「財布の紐、締め直して」


セリナの声が一拍遅れた。


「……いえ。財布は私が預かるわ」


差し出した布袋を、セリナが引き取る。僕の視線は屋根の上に残ったままだった。あの少年は、たぶん予言書なんか持っていない。持っていないのに、あんなふうに笑える。


それが何を意味するのか、まだ分からない。


「兄さん、右を見て歩いて。左の屋台は油が跳ねる」


「いや普通、前を見ろって言うだろ」


「兄さんの場合、前を見ても別のものに気を取られるでしょう」


否定できなかった。


半刻もしないうちに、セリナは宿を取り、水と干し肉を補充し、近づくべきでない区画まで把握し終えた。管理、と呼ぶには惜しい。この街では、生きるための技だ。


「この人混みでの迷子確率は八割。ちなみに兄さんが財布を落とす確率は九割二分」


「……根拠は?」


「過去五回の外出で四回落としてるもの。母数が少ないから精度は低いけど、傾向としては十分よ」


「低いなら言うなよ」


「傾向としては十分、と言ったの。聞いてた?」


返す言葉がなかった。財布は街に着いた直後に没収されたきり、まだ僕の手には戻っていない。


ただ、宿帳に名を記す段で、セリナの羽ペンが止まった。


「所属」の欄。村にいた頃なら「治療院」と書けばよかった。今の僕たちには、書ける肩書がない。


セリナは唇を結んだまま、空欄で帳面を返した。宿の主人は気にも留めない。素性の知れない旅人なんて、この街では珍しくもないのだろう。


宿代を渡したあと、セリナは掌の中で財布の重みを一度だけ確かめた。唇がまた薄くなった。それだけで、何も言わなかった。


(この人たちは、明日の天気も知らないまま商品を並べている。知らないことを、怖がっていない)


困難な行く末ばかり見せてくる書を抱えた僕と、予言なしで生きる人々。似ているようで、決定的に違う。彼らは知らない。僕は、知らされすぎた。たったそれだけの差が、こんなにも見える景色を変えてしまう。





セリナが露店の主人と値切りを始めた。声の温度からして、圧勝だ。放っておいても大丈夫――いや、放っておかれるのは僕のほうか。


「私が戻るまで、ここを動かないで。動いたら統計に加える」


「何の統計だよ」


「兄さんの信用度。今のところ三割八分」


低すぎる。が、やっぱり否定はできない。


人の隙間から、色とりどりの天幕が覗く。果物を山にした露店、革を広げた敷物、炭を売る行商。どれも予言書の指示じゃない。自分の目で値を決めて、自分の声で売っている。当たり前のはずなのに、なぜか目が離せなかった。


通りの向こうで荷車が軋むのを、耳が先に拾った。


馬が段差を踏み損ねたらしい。積み上げた木箱が傾ぐ。その時――綱の結び目に、目がいった。


なぜそこを見たのか、自分でも分からない。ただ、結び目がずれているのが見えた。気づいたときには、もう足が動いていた。


荷車の脇に、赤毛の少年がいた。露店の林檎を指先で転がして、荷車には目もくれていない。


腕を掴む。引く。


木箱が二つ、まとめて落ちた。石畳を叩く音。腹の底に響く。


「――っ!?」


少年は尻餅をついて、目を丸くして僕を見上げた。そばかす。古びた外套。怒っているのか驚いているのか、判じかねる顔。


「いきなり引っこ抜くやつがあるか?」


「いや、危なかったから」


「だからって腕がもげるかと思ったぞ」


「もげてないだろ」


「結果論だろそれ!」


助けられた直後とは思えない勢いで、少年は立ち上がって外套の砂を払った。文句だけは一丁前だ。


「……で、なんで分かった?」


「何が」


「箱が落ちるって。普通、あのタイミングじゃ気づかないだろ」


少年の目が変わった。口元は笑ったまま、視線だけが探るように尖る。


さっきまで、ただ陽気なだけの子だと思っていた。違う。笑いながら、こっちをちゃんと値踏みしている。


「綱が……緩んでるのが、見えて」


「見えた? あの距離で?」


「……自分でもよく分からない」


少年はしばらく僕を見て、それから、ふっと口の端を上げた。


「普通の予言書持ちなら、もっと偉そうに理由つけるぜ」


予言書持ち。僕の歩き方か、それとも別の何かで見抜いたのか。問い返す前に、少年は落ちた木箱のそばに転がった林檎を拾い上げていた。


「礼だよ」


林檎が飛んできた。反射で受け取る。手のひらに、赤。さっき露店で転がしていたのと、同じような、違うような。


「それ、元は……」


「気にすんな。宙に浮いてたものは、誰のものでもない」


理屈になっていない。けれど少年はもう背を向けていた。軽い足取りで人波に紛れる。外套の裾がひらりと翻って――一瞬で、どこにも見えなくなった。街の喧騒が、少年のいた隙間をすぐに埋めた。


手の中で林檎を転がす。赤くて、少しだけ温い。


なぜ、あの綱に目がいったんだろう。予言書じゃない。僕の目が勝手にあそこを見ていた。


ろくに何も書かれていない予言書を持つ僕が自分の目で見て、自分の足で動いた。それが何を意味するのか、まだ分からない。ただ、手のひらの林檎だけが妙に確かだった。


「兄さん」


背後から、聞き慣れた声。セリナだ。値切りは終わったらしく、両手に包みを抱えて、眉をわずかに上げてこっちを見ている。


視線が僕の手の中の林檎に落ちた。


「……また何か拾ったの?」


「人を道端の猫みたいに言うなよ」


「猫は林檎を拾わないわ」


「じゃあ僕は猫以下ってこと?」


「猫は勝手にどこかへ行かないもの。兄さんより上よ」


声は平坦だった。でも、目の隅にほんの少しだけ、安堵が滲んでいた。


(あの少年。予言書持ちの歩き方を、見分けていた。予言書のない世界で生きてきた人間の目だ)


林檎を一口かじる。甘い。少しだけ、酸っぱい。


名前も聞いていない。聞く暇もなかった。それなのに、また会う気がした。根拠はない。ただ、そんな気がした。


予言書は何も言わない。懐の中で、ただ黙っている。


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