第6話:旅立ちの空の下で (2)
平行線は、昼にもう一度話しても変わらなかった。
だから決めた。夜が更けてから、灯りを落とした部屋で古い革鞄を引っ張り出す。説得は無理だ。なら、もう一度面と向かって反対される前に出る。それしかない――というより、もう一度反対されたら、揺らぐのは僕の決意のほうだった。
鞄を開ける。手が止まった。
干し肉のはずが、油紙の包みがぎっしり詰まっている。香草の匂い。治療院の保管庫でしか見ない、手の込んだ品だ。机の上には広域地図が畳んで置かれていた。土地の起伏まで写し取った精巧なやつ。傍らに製図用のペンまで添えてある。
(……まあ、有難く使わせてもらおう)
そう思ってから、もう一つ気づいた。
一人分だ。ぴったり一人分の量。荷の重みも、ひとりで担げるよう調整されている。
(あいつ、止めながら、こっちの手筈も整えてたのか)
止めるか、行かせるか。たぶんセリナ自身も決めかねたまま、両方を用意していた。
僕は保存食を詰め、地図を差し込み、最後に革装丁の本を鞄の底へ押し込む。昨日「終わりの顛末」と「備え」を示した予言書。これだけは僕の荷物だ。
窓辺の椅子に毛布が掛かっていた。テーブルには空の茶杯。誰かがここに長く座っていた痕跡だ。見送る覚悟を、一晩かけて決めようとして――決めきれなかったから、両方の準備を残して帰ったのだろう。
◇
夜明け前の道を、朝靄が覆っていた。
村の出口へ続く一本道。誰にも見つからないうちに出る。それだけを考えて歩く。
道の先に、白い湯気。
簡易テーブルが据えられていた。湯気の立つ茶杯を傾けているのは、旅装の大荷物を足元に積んだセリナだった。
「おはよう。早起きね。一杯どう?」
「……これから旅立つ人間に勧めるものじゃないだろ」
穏やかな声。けれど茶杯を持つ指先が、微かに震えていた。テーブルの脚が地面に深く食い込んでいる。随分前からここにいた証拠だ。たぶん、夜の早いうちから。
「誰にも見つからないうちに出る」。ついさっきまで、僕は本気でそう思って歩いていた。馬鹿みたいだ。僕が鞄を開けるより前に、この人はもう、道の先で湯を沸かしていたのに。
指摘はしなかった。言えば、この「平気な顔」が崩れる。
(止めるために来たのか、行かせるために来たのか。……たぶんあいつ自身も、まだ決めきれてない)
セリナはもう「行くな」とは言わなかった。代わりに二枚の紙を差し出す。
「プランA、兄さんの単独行。三日後の生存の見込み……15%」
受け取った。几帳面な文字。死因の欄に「毒草の誤食、または野犬」。折り目が何重にもついている。何度も広げて、何度も書き直した痕だ。
「プランB。私が同行した場合。生存の見込み、98%」
こちらは折り目がほとんどない。一度で書き上げたということだ。
セリナは茶杯を置いた。両手が空になる。指先がテーブルの縁を掴んでいた。
「私は、行かせたくなかった。今もそう思ってる」
声が、低い。いつもの数字を並べる高さから一段落ちて、掠れていた。
「でも兄さんは行く。それは、もう動かないんでしょう」
「……うん」
「だったら、私が止めるためじゃなく、生かすために動く。それが私の選び方」
譲歩じゃなかった。選び直しだ。彼女の中の「止める」が、「同行で守る」に置き換わった瞬間だった。
「どっちの未来を選ぶ? 予言じゃなく、兄さんが決めて」
15%と98%。数字だけ見れば答えは決まっている。けど問題はそこじゃない。セリナは荷物を隠すことも、道に立ちはだかることもできた。なのに「選ばせて」くれている。
「……プランBで」
「契約成立」
声はいつもの調子に戻っていた。けれど荷物を持ち上げる手が、一拍だけ止まる。空いた手が、肩紐の結び目をもう一度確かめていた。安堵なのか不安なのか、たぶん本人にも分からない手つきだ。
僕は黙って、セリナの荷物に手を伸ばした。
「重いだろ、それ」
「重量の配分は計算済みよ。余計なことしないで」
「はいはい」
◇
境界標に近づくにつれ、東の空が白んでいった。
腰ほどの石柱を通り過ぎる。途端、セリナが手にしていた予言書の文字が、紙に吸い込まれるように薄れた。一行、また一行。墨を水で洗い流すのに似ていた。
セリナは表情を変えなかった。静かに書を閉じ、鞄に仕舞い、代わりに方位磁石を取り出す。方位を確かめる仕草は涼しい。けれど磁石を持たないほうの手は、胸元のペンダントを握っていた。
僕も自分の予言書を開く。旅支度のリストが、まだ残っていた。村の外でも、こいつは動き続けている。頁の隅に、小さな黒い染み。指で擦ったが取れない。まあ、もともと古い本だ。
書を閉じて、前を向いた。
不安より先に来たのは、開放感だった。けれどその裏に、置いてきたものの重さが一滴だけ落ちる。マーサの「これも導きだろうよ」と笑った顔。「やだ」と泣いた子供たちの声。
(セリナの書は止まった。僕の書だけが動いている。これは、村に戻るためにも、先に進むしかないってことだ)
懐の予言書がほんのり温かい。歩いた体温だろう。きっとそうだ。
◇
三日目の昼過ぎ、道が二つに割れた。
右は広く、轍も新しい。左は細く、草が縁から伸びかけている。
「右ね。轍が新しいし、人が通った道のほうが安全よ」
筋の通った判断だ。普段なら僕も同じことを言う。
けど、足が止まっていた。
左の道から、湿った土の匂いがした。雨上がりの畑みたいな、重くて冷たい匂い。それが右のほうへ薄く流れてきている。
「……左にしよう」
「理由は」
「匂い」
セリナの目が細くなった。「なんとなく」の次に嫌いな回答を出した自覚はある。
「右の道の先、土が湿りすぎてる気がする。下のほうから来てるだろ。斜面の水が抜けきってない」
言っておいて、根拠は薄い。ただ体が右に行きたがらない。懐の予言書がある左胸のあたりが、ほんのり温い。
セリナは地図を三秒ほど睨んでから、黙って左へ足を向けた。
細道を二十歩進んだ時、背後で重い音がした。振り返る。右の道の先の斜面が崩れていた。土と石が道を塞いでいる。荷車なら完全に足止めだ。
「不確定要素の精度が高すぎるの、あまり好きじゃないわ」
「褒めてる?」
「保留」
そう言いながら、セリナは小さな手帳を取り出して何かを書き付けた。
「なんだよそれ」
「兄さんに見せるものじゃないの」
その短い拒否のほうが、僕の判断そのものよりも妙な感触として残った。
夜、焚き火の前でセリナがぽつりと呟いた。
「マーサさん、移住の手続き始めたかな」
僕は答えなかった。二人とも言葉を継がない。けれど置いてきた村は、確かにまだ背後に立っていた。
五日目の昼下がり、ようやく丘の稜線まで辿り着いた。
風が乾いている。眼下を覗き込んで、息を呑んだ。
地平線の手前に、石造りの建物が連なっていた。煙突から幾筋もの煙。村で一番大きな集まりですら、この街の市場の一画にも満たないだろう。
「あれが地図の街か」
「ええ。今日中には着くわ」
セリナの声に、ようやく安堵が混じった。地図と現実が一致する場所に、初めて辿り着いたのだ。
その時、蹄の音が坂の下から湧いた。街道を騎馬が二騎、砂埃を曳いて街の方へ駆け下りていく。旗はない。けれど鞍の脇で揺れる外套に、見覚えのある紋章が覗いた。――護り手だ。僕たちが来た方角から。
「……偶然よ」
セリナが先に言った。数字を添えないその言い方が、かえって耳に残った。
僕は荷を背負い直した。あの街で待っているものの中に、あの二騎が入っていないことを祈りながら、坂を下り始めた。




