第5話:旅立ちの空の下で (1)
『村の灯が、一つ、また一つと消える』
夜明け前の薄闇に、予言書はそう記していた。
『閉じた門。雪が積もる前に、門の取手は外される』
『南の道を、戻らない荷車が三台』
息が、止まった。
日付はない。手順もない。ただ「そうなる」だけが、断片で並んでいる。不吉な顛末を一行で示すのは、いつもの僕の予言書だ。けれど、これは違う。一行じゃない。書き手はこの村のこれからを、断片で見渡している。
(これは個人の顛末じゃない。村の顛末だ)
昨夜の自分の言葉を、まだ耳の奥で転がしていた。――みすみす終わらせるのか。眠りは浅かった。何度も寝返りを打って、東の空が白む頃には、どうせ眠れないのだと諦めた。何を確かめたいのかも分からないまま、習慣で頁を開いた。その先に、これがあった。
頁を捲ろうとした手が震えていた。
その下に続いていたのは、几帳面に整列した一覧だった。
保存食の種類と量。火打ち石。替えの靴紐。方位磁石。傷口に当てる強い酒。雨除けの外套。ルートの所要日数まで、添えてある。
旅支度だ。
末尾に目が走る。荷物の羅列が続いて、最後の一行。
『セリナ・レイフォード』
干し肉と替えの靴紐と同じ列に、妹分の名前が荷物として並んでいる。普段なら笑った。今日は笑えなかった。
最後の行の下、頁の隅。小さな黒い染みが、昨日より少しだけ広がっている気がして、見ない振りをして書を閉じた。
(予言書はいつも「困難の顛末」しか教えてくれなかった。命令じゃなく、ただ「こうなる」だけ。だったら、今度も同じだ)
終わりの顛末が先にあって、その後に備えが並ぶ。「旅に行け」とは、どこにも書かれていない。書は何も命じていない。
それでも、意味は明白だった。
――この終わりに抗いたいなら、これだけは備えろ。
決めるのは、僕だ。
◇
午後になった。窓の光が斜めに伸びる頃まで、僕はただ机の前に座っていた。
「諦めるのが村のためか?」
昨日の自分の問いを、何度もなぞり直していた。
中央が決めたことだ、と村人は言った。マーサも頷いた。けれど、中央自身が正しく判断できているのか。他の集落でも同種の歪みが――ヴィンセントの部下は、そう言っていた。中央だって、揺れている。
そこに、僕の予言書が村の終わりを示している。誰かに見せたところで、「だから言っただろう」で終わるだろう。
判断書状を出したのは、中央だ。覆せるとしたら、出した側にしか覆せない。少なくとも――なぜ僕の村が切られたのか。その理由を確かめられるのは、書状を書いた誰かのいる場所だけだ。
(自分が動くしかない、ってことか)
大義じゃなかった。マーサが「導きだ」と笑った顔。子供たちが「やだ」と泣いた声。大人たちが「仕方ない」と頷いた背中。あの三つの温度差を、書状一枚で「最善」と切り上げるのが、本当に正しいのか。確かめないと、僕は立っていられない。
「中央に行って、確かめてみたい」
声に出すと、思っていたより小さかった。
(僕は予定通りに動けない子供だ。ずっと、そうだった。でも――予定通りに「諦める」のだけは、それだけは、できない気がする)
◇
夕刻、治療院の戸を叩いた。
セリナは薬棚の前で、移住先の物資の見積もりを手帳に書きつけていた。傍らの作業台に、彼女自身の予言書が開いたまま置いてある。今日写しておくべき指針は、もう写し終えたらしい。僕の足音に振り向いて、すぐにペンを置いた。何かを察した目だった。
「中央に、行ってみる」
ペンが、机から転げ落ちた。
「ダメ」
一拍も、置かなかった。それから早口になる。
「危ないわ。他の集落も歪みが出ているなら、街道沿いも安全とは限らない。荷馬車の往来だって減るかもしれない。野宿になる夜もある。兄さんは予定通りに動けないのに、計算外が積み重なれば致命傷になる。中央まで一人で行くなんて――」
早口。不安なときの、セリナの癖だ。
「分かってる。でも、行かないと村は本当に終わるんだ」
懐から書を取り出して、セリナの前で開いた。旅支度の方じゃなく、まず終わりの顛末の頁を。
セリナの目が、文字を追う。一行ずつ、ゆっくりと。やがて、指先が小さく震え始めた。
数値も統計も、出てこない。それが、僕には何より怖かった。
「……これは、いつ起きるって書いてあるの」
「分からない。日付はない」
「だったら、今動かなきゃいけないとは限らない。中央が判断書状を出した直後よ。状況の進行を見てから――」
「見てるあいだに、村の灯は一つずつ消えるんだ」
「消えるって決まってないでしょう。日付はないって、兄さんが今言ったばかり」
返す言葉に、詰まった。確かに、僕がそう言った。
セリナが一歩、踏み込んでくる。その目が、初めて理屈の外に出た。
「兄さん、予定通りに動けないでしょう。朝の支度ひとつ、私がいないと十日で九回は脱線する人よ。その人が中央まで一人で行くって、それ――選ぶって言わないわ。無謀って言うの」
胸の真ん中を、まっすぐ突かれた。
その通りだった。言い返す言葉を探して、見つからない。僕はずっと、予定通りに動けない子供だった。彼女の言う通りで、たぶん中央までの道のどこかで、僕は本当に足を滑らせる。
「……お前の言う通りだ。僕は一人だと、たぶん危ない」
「なら」
「でも、ここで状況を見てるあいだに村が終わったら、僕はきっと、それを『正しい判断だった』って思い込んで生きていく。それだけは、嫌なんだ」
セリナが息を呑んだ。
彼女の手帳を、そっと押さえた。
「僕とお前、村を守りたい気持ちは、たぶん同じだ。ただ、守り方が違う」
セリナは口を開いて、閉じた。もう一度開いて、また閉じる。
長い沈黙が落ちた。
「……今日は帰って。明日、もう一度話そう」
頷いて、書を懐に戻す。戸口で振り返ると、セリナはまだ机の前に立っていた。手帳の最初の頁に、何かを書きつけている。書いて、線を引いて消す。また書いて、また消す。
一度、二度、三度。四度目で、手が止まった。
「兄さんを止める」と、最初の一行だけは読めた。その下は、何度書き直しても、続きにならないようだった。
戸を閉めながら、僕はもう一つ気づいていた。
明日もう一度話したところで、たぶん、この平行線は変わらない。




