第4話:管理された日常 (4)
ヴィンセントが去って二日。護り手の使者は、本人の姿もないまま戻ってきた。書状を抱えた者が一人、その後ろに移住手配班が八人。慣れた足取りで広場の真ん中まで進んで、それぞれ台帳と帳面を開く。村人が呼び集められたのは、そのすぐ後だった。
僕はセリナと並んで、人垣の少し後ろに立っていた。
「予言精度低下に伴う、加護圏外化勧告」
村長の手が震えている。読み上げる声も。
要するに、こういうことらしい。今日この時より、この村は予言書の管轄から外される。住民は十日以内に、近隣の管轄圏内集落へ移ることが強く推奨される。圏外化以降に発生する事象について、本部は責任を負わない。抗議の余地を残さない、冷たい実務の言葉だった。
風が広場の砂を一筋なでていった。どこかで鶏が鳴いて、すぐに黙る。それきり、何もない。聞いている村人の顔から、表情が抜けていた。マーサは普段どおり、腰の手拭いで額を拭く。トムは唇を結び、リーナの母は前掛けを両手で握っている。誰も声を上げない。書状の文字より、その沈黙のほうが重かった。
読み終わるのを待たずに、手配班が動きだした。
「ご家族の構成は」「移住先は西の麦穂村が割り当てです」「出立は十日後、家財の運搬順は明朝に通達」――感情を挟まない声が、書状の余韻に重なって進んでいく。一枚が読まれた直後にもう、十日後の段取りが組まれている。
(早すぎる)
僕はまず、そこに怯えた。抗議は、間に合わないように設計されている。
村人の反応は、静かだった。トムが「西なら親戚がいる、悪くはない」と頷く。リーナの母が「家財はどれを持っていけるかしら」と現実の相談を始める。中年の男が一人、独り言で「まだ暮らせるんだがなあ……うちの井戸も涸れてないのに」と漏らして、すぐに「まあ、中央が言うんだから何かあるんだろう」と自分で打ち消した。
疑問を持っても、自分で消す。長い年月の癖だ。
台帳を読み上げていた班員が、マーサのところで一拍止まった。
「ご高齢の方々は、移住先の受け入れ枠と渡航能力の都合上、自発的残留とさせていただきます。本部の特例措置です」
事務的な声だった。文言は丁寧で、中身は「置いていく」と書いてある。
マーサは皺だらけの手を組み直して、ゆっくり頷いた。
「ああ、そうかい。私はここに残れるってことだね。それも助かるよ」
笑っていた。怒りも悲しみもない。
「私らはずっと加護のおかげで生きてきたんだ。中央が決めたことなら、それが最善だろうさ。残されるのも、これも導きの一つだろうよ」
気づいたら、人垣を縫って歩いていた。マーサの前まで来て、足が止まる。喉の奥がつかえて、それでも言葉を押し出した。
「マーサさん、それ……本当に納得してるのか?」
マーサは皺の手で、僕の肩を軽く叩いて笑う。
「エルちゃん、迷ったら予言を見なさいって、ずっと言ってきただろう。今もそれは変わらないんだよ」
(怒っていない。怒れないんだ。怒り方を、もう忘れてる)
別の方角から、泣き声が上がった。
「えっ、ぼくと姉ちゃん別の村なの?」「ロウ、もう会えないの?」「ぼくのいぬはどうなるの。連れてっていい?」
割り当てを聞いた子供たちが、一斉に親にすがりついている。一人の少女が「やだ、引っ越したくない、ここにいたい」としゃくりあげた。抱きしめた若い母親が、なだめる声の裏で、自分も唇を噛んでいる。
大人たちの返事は、判で押したように同じだった。
「我慢しなさい」「予言がそう言うなら、仕方ないんだよ」
僕は子供たちを見ていた。「予言を守れない子」と笑われて育った僕には、あの「やだ」が痛いほど分かる。ただ僕は、それを笑いにして飲み込む術を、いつのまにか覚えてしまった。
子供たちは、まだ覚えていない。
隣でセリナが手帳を開いていた。書状の文言を書き写して、自分と師匠の移住手続きを整理している。いつもの段取りの構えだ。
ペンが一度だけ止まった。
また、子供の泣き声。背中に刺さる。書き写す字が、少しだけ乱れた。
「兄さん、落ち着いて。今は何も言わないで」
何を言われたいのか、たぶん本人にも分かっていない声だった。
僕は黙っていた。声を上げそうになるたび、呑み込む。叫んだところで、手配班の段取りも、村人の諦めも、止められはしない。それは分かる。分かるけれど――
マーサさんは「導き」だと笑った。子供たちは「やだ」と泣いた。大人は「仕方ない」と頷いた。みんな違う温度で、同じ場所にいる。
――そして僕だけが、何も言えずに立っている。
それを、書状一枚と十日の出立で全部「終わり」にする。これが、本当に「最善」なのか。
散会の声がかかった。手配班が次の世帯へ動く。村人はそれぞれの家路へ分かれていった。
僕とセリナは、公会堂の前に張り出された書状の写しの前に立っていた。
「……これ、本当に村のためなのかな」
「兄さん」
「マーサさんを残して、子供たちを散り散りにして、十日で終わらせて。それを『最善』って、ここに書いてある」
セリナは答えなかった。しばらく黙って、書状の文字を目で追っている。
「……今、答えられない」
低い声だった。理屈が前に出ようとして、何かがそれを邪魔している。そんな声だった。
◇
家に帰って戸を閉めた途端、身体が急に重くなった。
灯りもつけないまま、習慣で予言書を開く。いつもと同じだ。白紙の頁か、あっても僕に都合の悪い顛末がいくつか。今日もどうせ、そんなところだろう。
頁をめくった。
顛末も、新しい記述も、まだ何も浮かんでいない。ただ――頁の隅の小さな黒い染みが、昨日より少し広がっている気がした。
気のせいだ、と思う。
でも、違和感だけが残った。村の加護も、僕の書も、何かが少しずつ闇に呑まれていっている。そんな感触だ。書を閉じて懐に戻し、夕暮れの窓辺に立つ。
予言にあった夕焼けの色とは、少し違った。くすんだ色だった。
(マーサさんも、子供たちも、置いてかれていく。みすみす終わらせるのか。みんな、本当にそれでいいのか)
決意ではなかった。違和感だった。
それでも、僕の中で初めて言葉になった。
――まだ終わっていないはずだ。
通りの向こう、治療院の窓が灯っている。セリナが移住手続きを書いている灯りだ。書きながら、彼女もどこかで止まっているのだろう。書きかけの線が、何度も増えていく。そんな夜になりそうだった。




