第3話:管理された日常 (3)
畑に鍬を打ち込んだ。土がほろりと割れて、次の一振りへ腕を上げ――そこで、止まる。
音が、ない。
さっきまで街道の向こうで啼いていた鶏が、ぴたりと黙っている。牛を追う声も、風車の軸の軋みも、いつの間にか消えていた。残っているのは、乾いた土を踏む足音だけ。揃った歩調が、村の中へ入ってこようとしている。
護り手だ。昨日は村の脇を素通りしていった一団が、今日は違う。
先頭の青年に、まず目を奪われた。午後の陽が、鎧の紋章を白く弾いている。端正な横顔、据わった眼差し。その掌には器がひとつ。真鍮に似た表面が、不規則に明滅を繰り返していた。
「……歪み、か?」
低い呟きを、風が運んでくる。ヴィンセント――巡回隊を率いる若い隊長だと、畑の端で村人が囁いた。
彼は器を片手に、村の中を歩き出す。すれ違う者に声をかけ、予言書の不調はないかと尋ねていく。丁寧で、けれど断る余地のない口調。器の明滅が僕の方角を向くたび、光が一段強くなる――ように見えた。
握った鍬の柄が、じっとりと湿っていた。幼い頃、一族の手で治療院に預けられた。両親がどこへ消えたのかは知らない。知っているのはただ、僕の予言書が不吉な顛末ばかり示す「変わった書」だということ。それを護り手に知られたら――先が、続かない。
聞き込みの合間、後ろにいた部下がヴィンセントの耳元へ身を寄せた。風の向きが幸いして、その声が僕の畝まで届く。
「他の集落でも、同種の歪みが」
ヴィンセントの返事は一拍だけ遅れた。
「……記録しろ。判断は本部に上げる」
抑えた声。抑えているのが分かる。分かるから、かえって重い。
他の集落でも、同じ。彼らはもう、その答えを半分は握っている。
(気のせいだ。気のせいだと、思いたい)
だが切り捨てる度胸は、今の僕になかった。手が勝手に懐へ伸びる。布越しに、予言書の角が指へ触れた。今朝セリナが挿し込んだ行動指針の紙が、そこにある。見た目だけなら、記述のある書に見えるはずだ。はずだ、と何度も繰り返さないと落ち着かない程度には、心許ない。
そして、聞き込みの流れが僕の前に来た。五歩。三歩。器の光が呼吸のように膨らむ。目の前。
「失礼。この辺りで、予言書の不調を感じた住民はいないだろうか」
僕は口を開きかけた。不調どころか、そもそも僕の書は――
「先日の通り雨の件でしたら」
割り込んだのは、セリナだった。
いつの間に隣に立ったのか。畑仕事の手を止めて駆けつけたはずが、息ひとつ乱れていない。声に揺れもない。
「広場の告示の板に、水染みが出ていて。読みにくいと住民から声が上がっています。修繕の管轄は、護り手の方でしょうか?」
具体的で、実務的で、放っておけない案件。数も確率も、ひとつも使っていない。ただ問題の焦点を、そっくり別の場所へずらした。セリナの管理の力が、今この場では二人の命綱になっている。ヴィンセントの視線が板の方へ傾く。
その直前、彼が一瞬だけ僕を見た。
器越しではない。自分の目で、まっすぐに。
標的を見定める目では、なかった。何かを確かめようとする――あるいは、確かめたくないものを見てしまった、そんな目。
一拍の間。
「……報告は有り難い。確認しよう」
それだけ言って、ヴィンセントは告示の板へ歩いていった。
(あの目は、何だ)
怒ってはいなかった。僕を探していたわけでもない。職務で来ているはずの人の目に、あの一瞬だけ、別の何かが差した気がした。言葉にならない。ならないまま、小骨のように喉へ引っかかって抜けない。
板を検めたヴィンセントは、村長らしき老人を呼び止めた。すぐ側を通った僕とセリナの耳に、短く声が届く。
「本部からの判断書状が、遠からず届く。私は補足確認のため、追って再訪する」
村長は、言われた意味を掴みかねる顔で頷いた。「判断」の中身は伏せられたまま、「動いている」気配だけが、その場に置き去りにされる。
「――兄さん」
護り手の背中が、告示の板の向こうに消えた途端、セリナの声が変わった。
「お願い、兄さん。あの人たちが帰るまで、ここから動かないで」
数値がない。統計がない。声だけが、剥き出しのまま震えていた。
さっきの冷静さは、全部作り物だった。恐怖を丸ごと飲み込んで、一度きり吐き出した勝負。それが終わった瞬間に、飲み込んだものが残らず戻ってきている。爪の端をこする指先が、小刻みに揺れていた。
(僕の方が、年上なのに)
情けなさが、胸の底でどろりと重くなる。あの男の前で、正直に答えかけたのは僕だ。セリナが毎朝、眠い目をこすって書いてくれる行動指針を、僕の一言で無に帰すところだった。守られてばかりの自分が、ここにいる。
やがて、呼吸が落ち着いていく。震えていた指が、手帳を探り始めた。
「……行動指針を更新するわ。護り手の巡回する時刻と、通る道筋を書き留めて……次に来た時の手を、組み立てないと」
管理の言葉が戻ってきた。鎧を着直すように、計画で自分を覆っていく。
僕は黙って見ていた。いつもの調子が戻ったことに、安堵がある。その安堵が、少し嫌だった。彼女を立ち直らせたのは僕じゃない。僕はただ、ここに突っ立っていただけだ。
そのとき、懐が微かに温んだ。
布越しの指先に、予言書の熱がひとつ触れて――次の瞬間には、もう消えている。気のせいだろう。きっと、そうだ。
護り手の足音は、遠ざかっていく。畑の向こうでは、村人が何事もなかったように鍬を振るっていた。彼らにとって巡回は「加護の一環」でしかないのだろう。
(僕がこの村にいること自体が、誰かを危うくしている)
その危うさが最初に届く場所は、今まさに手帳を開いている少女の横顔だ。
――けれど、それだけだろうか。
「他の集落でも、同種の歪みが」。「判断書状が、遠からず届く」。二つの言葉が、頭の中で重なっていく。僕ひとりの話で済むなら、ここまで人を寄越したりはしない。
胸の不安の輪郭が、少し広がった。
僕個人の危うさだけじゃない。
村そのものが、何かに数えられ始めている。




